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2019.12.31

ドレミの歌の謎

 合唱やピアノを初めて、ソルフェージュのような練習も必要かなと思い、そういえば、『サウンド・オブ・ミュージック』の『ドレミの歌』というのも、一種のソルフェージュだったなと思い出し、譜面をあらためて見ると、なんとも奇妙な感じがした。謎、とでもいうのだろうか。いろいろ思うことがあった。まずもって、これは、けっこう変な歌なんじゃないだろうか?
 最初に、ネットで拾った楽譜を貼っておく。実は、この楽譜はちょっと疑わしい。

Doremi

 いくつか疑問を書いていこう。

1 正しいメロディは何?
 14小節目、"That will bring us"のところのメロディだが、この譜だと、ドシラファとなっている。日本で子供向けに使われている楽譜の多くもそうなっているようだが、ここは、オリジナル譜では、シシ♭ラファとなっているようだ。というか、純正のオリジナルが確認できないのだが、信頼できそうなピアノ譜で音を取ってみると、シシ♭ラファという3音の半音階になっている。
 実際のアンドリュースの歌はどうか映画で聴いてみても、この3音の半音階になっているようだ。
 ペギー葉山版はどうかなのだが、ドシラファとなり、3音の半音階は避けられているようだ。
 このあたりの真相が知りたいのだが、調べてもわからなかった。

2 なかで転調している
 これは子供の頃から疑問だったのだが、ドレミの歌、しかも、入門のソルフェージュ的な歌なのだから、変化記号(♯と♭)は避けたほうがよいのじゃないか、と思っていた。実際、ドミミ・ミソソ・レファファのところには変化記号はない。
 変化記号を避けたほうがいいんじゃないかというのは、ソルフェージュとして難しくなるからでもある。
 で、あらためて変化記号のあたりを見ていると、これ、スケール(音階)が転調している。9-10小節がハ長調スケール、11-12小節がニ長調スケール、13小節がホ長調スケールである。なぜ、こうなっているのだろうか? もちろん、歌は自由に作曲していいのだが、この転調はソルフェージュ的な意味があるのだろうか?
 しかも、13小節がニ長調スケールというのは疑わしい。というのは14小節を加えると短調のスケールなのである。
 つまり、ハ長調、ニ長調、ホ短調と転調している。
 そして、これに3音の半音階が続く。

3 三度並行の呪い?
 1小節から4小節、それと、5小節から8小節が、三度で並行しているかに見えるが、つまり、同じメロディかのように見えるが、単純にずらしたというわけでもない。これはソルフェージュ的な意味があるのだろうか?
  他にも、次の項目のように三度が意識されている。

4 「ドはドーナッツのド」じゃない
 原曲の問題ではなく、日本語版の歌詞で気がついたのだが、「ドはドーナッツのド」というとき、最初のドはいいけど、最後の「ド」は「ミ」なので、ソルフェージュ的にはまずいんじゃないだろうか。

 ドはドーナツのミ
 レはレモンのファ
 ミはみんなのソ
 ファはファイトのラ
 ソは青いソラ (ここはソラであっている!)
 ラはラッパのシ

としたほうがよいように思う、というか、ここも三度が意識されている。

5 原曲は変ロ長調
 オリジナル・スコアがわからないが、いくつかソースにあたってみると、また映画を聴いても、変ロ長調の移動ドになっている。
 絶対音感の人には、かなり奇妙な歌じゃないかな。

 

 以上、『ドレミの歌』を腐したいわけでも、批判したいわけでもなく、これって、ソルフェージュに使えるものなのか、使うならどう使うべきか、なぜ、こういう作曲にんっているのか、という疑問に思ったので、記してみた。

 それではまた、来年。

 

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2019.12.30

[書評] ぼくたちの離婚 (稲田豊史)

 年の終わりに、昔のブログでよく流行っていたように、今年読んで感銘を受けた本リストでも作ろうかと思ったが、なんとなく、機会を逸した。ただ、『ぼくたちの離婚 (稲田豊史)』は、奇妙に心に残った。
 どういう本かというと、対談をベースにしたルポ本ではある。テーマは、離婚経験のある男性から見た、離婚の経緯や顛末である。徹頭徹尾、男側から見て、女側の言い分は聞かない。端から、公正さは狙っていない。男は離婚を、そしてつまるところ、女との結婚生活をどう見つめて、破綻したかということだ。そして、ルポにブレはない。が、同じく離婚経験者である著者は、なんとも言えない、インサイトというか受け止めを持って、離婚を語る男を見つめている。その視線も面白い。
 で、つまるところなんなのか?
 奇っ怪な世界なのだ。女というのはこんな奇っ怪な存在なのか? もちろん、そんなことはない。まして差別につながるようなことが言いたいわけではけしてない。読み進めていくにつれ、男の奇っ怪さも浮かび上がってくる。
 なんだろ、この奇っ怪さは、と思うのだが、これは、私のような乏しい恋愛経験からも頷けてしまうものがある。恋人と思っていた人間が、なんとも不可解で理解できない何かの存在なのだ。そして、その関係のなかで、傷つく。公平に言えば双方が悪いのだろうが。
 で、この本がどう自分の心に残ったのか?
 奇妙な、「癒やし」を与えてくれたのである。癒やしというのとも少し違うかもしれない。ただ、心に抱えていた暗く重たいものを降ろした感じはした。
 恋愛の渦中の他者というものの奇っ怪さと、当然、自分に反映される奇っ怪さが、なんというのか、絶望的なまでに救いようがなく、そうなんだよ、恋愛の失敗って、どうやっても救われるようなものじゃなかったんだ、と腑に落ちるというような。
 だいたいが、恋愛が深まる、あるいは結婚生活における男女の親密性というは、奇っ怪にして不気味なものがある。むしろ、なんでここまでわけのわからない他者と結婚生活なんか続けていられるのだろうか、そのほうが不思議なくらいだ。
 別の言い方をすれば、ここで描かれる男女を、クズというのは容易いが、人間というのは、恋愛や結婚において、こういう救いようのない存在なんじゃないだろうか。
 それにしても、奇っ怪さの極まる挿話などもあり、村上春樹の中期短編小説、例えば、『回転木馬のデッド・ヒート』の『レーダーホーゼン』とか連想させるものもある。
 人間って救われないなあ、恋愛・結婚って、うまくいっているほうが不思議なものなんだよなと思わせる、なんだろ、極上の一品で、しかも、心の安らぎがありました。

  

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2019.12.25

メリー・クリスマス 2019年

 メリー・クリスマス!
 と、言われても、自分はクリスチャンでもないし、言う相手もクリスチャンでもあるまい、ということで、メリー・クリスマスも廃れてきた。それにつられたわけでもなく、自分のクリスマスも変わってきた。一人の寂しい、なつかしい聖夜であった。子離れなどで家族がクリスマス・イブだからと集うこともなくなり、また当日の朝も若草物語のようなシーンはない。振り返れば、クリスマスが楽しいのは、子供が幼いときであり、子供が4人もいた自分の人生には、もうクリスマスは十分であった。今年は体調も芳しくなく、教会にも行かなかったが、この数年はずっと通っていたし、子供や妻を連れていくこともあった。
 まったく、クリスマス気分がなかったわけでもなく、アドベントにはシュトーレンも買い、パネトーネも買い、紅茶のあてとした。20年聴いているクリスマスソングもネットに移してあるので、グーグルさんに一声かければ流れてくる。聴いてもいた。そういえば、クリスマスらしいディナーは前倒しでやったのだが、長男の作るあんこう鍋であった。

 


 さて、イブの夕暮れ、一人、ピアノの練習をしていた。曲はレディオヘッドのクリープである。知らない曲である。弾いていて運指ができてもさっぱりわからないので、グーグルさんに流してもらうと、なかなかによい曲であった。子供が青年期に近づくにつれ、若い曲も耳にするようになり、エドシーランだのズトマヨだのも聞くのだが、レディオヘッドは知らなかった。この曲のレッスンが終われば、次はニルヴァーナだが、そのあたりの音楽シーンも僕は知らない。
 一人のディナー。まあ、子供の一人くらいは帰るだろう。夕飯に何を作るかと考え、肉じゃがを作った。クリスマス・イブに肉じゃがはないだろというのが自分でもおかしかった。でも、肉じゃがをメインに、白菜のアンチョビソース炒め、高野豆腐、ご飯に味噌汁という献立にした。家族がぼそぼそと帰宅して勝手に食べられるように、プレートに分けた。
 さて、あまりに寂しいので、俺妹で黒猫がクリスマス・イブを呪う回を見た。リア充に呪いあれ、ということだ。自分の人生はどっかでリア充に切り替わったわけだが、こうしてまた一人になると、そんな人生も嘘だったように思える。

But I'm a creep
I'm a weirdo
What the hell am I doing here?
I don't belong here

 

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2019.12.11

読書のために小旅行を

 年を取ったせいか、あるいは現代的なメデイアや情報の影響なのか、なかなか長時間集中して本を読むということがなくなった。読書が減ったということはない。アマウント(量)としては読んでいる。だが、どうも情報として読んでいる気がする。小説なども、ラノベなのは10冊以上通して読んでいけるが、そういう読みやすい作品ではないとなると、難しい。つまり、『失われた時を求めて』をどう読むか?ということで、この2か月間、これを読むためにちょっとした小旅行をした。自宅から3時間くらいのところで、ビジネスホテルのような空調が効いて完全に一人でいられる密室にこもって読んだのである。読めるものだった。読書のために小旅行というのはけっこういいものだなと思った。
 自宅の自室やリビングで落ち着いて本が読めないというものでもないはずだが、現実的には難しい。なにが難しいかというと、気をそらすものが多いせいだろう。メデイアとか家族とか。思い返せば、独身時代は1週間くらい休みをとって一人旅をし、宿でひたすら本を読んでいたように思う。パウロが流れ着いたマルタ島で使徒行伝を読んだりもした。
 フランス人はヴァカンスのために生きているなどと揶揄もされるが、ヴァカンス先で本を読む人も多いようだ。実際のところ、読書というのもヴァカンスの重要な要素なのだろう。読書と旅というのはよい組み合わせかもしれない。
 そういえば、ドミニク・オーリー(Dominique Aury)は、『失われた時を求めて』を3セット持っていて、1セットを自宅に、1セットを母の家に、1セットを田舎の家にと置いたそうだ。現代なら、キンドルに入れておける、と言いたいところだが、全訳はまだキンドル化されていない。フランス語版で著作権の切れたのはキンドルに入れてある。200円くらいだったか。

 

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2019.12.10

ドイツの戦争責任についての雑感

 日本共産党委員長の志位和夫さんが、共同の記事『独首相アウシュビッツで過去謝罪「この責任に終わりはない」』を引用して、8日に次のようにTweetしていた。

加害国として「この責任に終わりはない」とのべる独首相。
加害国として「性奴隷という言葉を使うな」と被害国を恫喝する安倍首相。
この落差を、対米英開戦78周年の日に痛感する。加害国が、戦争責任・植民地責任に向き合う姿勢をとり続けてこそ、本当の和解が訪れる。
午前10:17 · 2019年12月8日·Twitter Web Client

 『加害国として「この責任に終わりはない」とのべる独首相』の『加害国として』という部分だが、共同の報道にそのような内容が含まれているのだろうか、と気になった。該当の報道は次のようになっていた。

【ベルリン共同】ドイツのメルケル首相は6日、第2次大戦中にナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の舞台となったポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所跡を初めて訪れた。加害国の首脳として犠牲者を追悼し「虐殺を行ったのはドイツ人だった。この責任に終わりはない」と演説、過去を謝罪した。
 在任中にアウシュビッツを訪れたドイツ(西ドイツを含む)首相としてはシュミット氏らに続き3人目で、収容所跡の維持や管理を担うポーランドの財団の招きに応じた。アウシュビッツは来年1月、ソ連軍による解放から75年の節目を迎える。

 形式的にではあるは、『加害国として』という文言ではなく、『加害国の首脳として』であった。些細な差のようにも思えるが、『加害国として』となると、ドイツ国家としてということになる。後者であれば、メルケル首相がドイツ人を代表して個人的な思いを述べたと受け取れないこともない。
 広義には、ドイツは国家としてどのように戦争責任に向き合っているか、という問題になる。そして戦争責任の責任の実体は、謝罪の文言もだが、具体的な戦後補償のありかたとなる。
 前提となるは、1956年の連邦補償法だろう。ナチスが行った迫害に対する被害者の個人請求を定めたものである。ドイツ国家が加害国として被害国に向き合ったものではない。とはいえ、一括協定になるのだが、その対象国は国民のための賠償請求権を放棄している。
 ドイツが当時、国家としての体面が取れなかったのは理由がある。分断国家では講和条約が締結できず、1953年のロンドン債務協定により、戦争相手国(被害国)との賠償問題は統一国家樹立後の平和条約が締結されるまで保留された。
 統一後はどうか。ここが難しい。Wikipediaの『第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償』を借りるとこう。

最終規定条約による賠償問題の「解決」
 1990年9月12日のドイツ最終規定条約により、ドイツの戦争状態は正式に終了した。この条約には賠償について言及された点は存在していないが[54]、締結に際して連邦政府は「賠償問題は時代遅れになった」とはっきり説明し[55]、もはや賠償問題は提起されないという立場をとっている[56]。
 この最終規定条約はロンドン債務協定で規定された「平和条約」であるとドイツ連邦共和国政府はみなしていないが[54]、賠償問題をも含む戦争から生じた法律的問題の最終的解決を含むものとしている[57]。ドイツ政府は、賠償問題が終結したことの理由として、50年に及ぶ諸外国との信頼協力関係の構築、そしてデモンタージュや生産物の接収、対外資産の没収等による支払額が、ポツダム会談での見込み額100億ライヒスマルクを遥かに超えていることと西欧12カ国による包括的な補償協定により、給付移転がすでに行われていることを根拠としている[57]。最終規定条約は全欧安全保障協力会議の参加国によって11月11日に承認され、ドイツはこの参加国に対しても賠償問題は終結したとしている[57]。
 このため統一後のドイツは、「ドイツの戦後問題」が最終的に解決され、「賠償問題はその根拠を失った」[57]として、法的な立場からの賠償を認めていない[58]。しかし、アメリカ政府が2000年に賠償請求の問題は未解決であるという見解を示したように、他国からは異論もある[59]。

 Wikipediaなのでこの記述にどれだけ信憑性があるかわからないが(参照された文献を読むことは可能だが)、1つ示唆的なことがある。先日のギリシアとの問題である。朝日新聞『ギリシャ首相、ナチス占領の賠償金に期待 独首相と会談』より。

 ギリシャで7月に就任したミツォタキス首相が29日、ベルリンを訪問してメルケル独首相と初めて会談した。ギリシャはドイツに対し、第2次大戦中のナチス・ドイツの占領下で受けた損害に対する巨額の賠償金を求めている。ミツォタキス氏は、経済危機からの脱却に必要なドイツからの投資を求める一方、国内でくすぶる「戦後補償問題」の進展にも期待感を示した。
 ミツォタキス氏は会談後の記者会見で、賠償金請求問題について「難しい問題だが、解決が両国関係の深化にとって重要だと信じている」と述べた。ただ、会談でこの問題を協議したかは明らかにしなかった。
 ドイツは、ギリシャと1960年代までに補償協定を結んでおり「解決済み」の立場だ。しかしギリシャ国内では「歴史問題」として残っており、チプラス前政権下の今年4月、ギリシャ議会はドイツに賠償金を求めることを可決。当時ミツォタキス氏が党首だった最大野党「新民主主義党」も賛成した。同国議会は、賠償金の額は3千億ユーロ(約35兆円)以上になると試算している。

 朝日新聞記事では「1960年代までに補償協定を結んでおり」とあるが、西ドイツの連邦補償法を指していると思われる。とすると、統一ドイツとして、被害国と公式な平和条約が締結されているかは判然としない。ドイツとしては自国の最終規定条約をそうみなしているに過ぎない。
 詳細な点や正確な議論がよくわからないが、概ね、ドイツは、戦争の加害国として被害国に十分に責任を取っているとは言えないのではないだろうか。
 複雑な背景は、2つあるだろう。1つはすでに述べたように、長く分断国家であったことだ(東ドイツとソ連の関係も複雑)。もう1つは、あまり言及されていないかもしれないが、ナチスのドイツは戦後、国家として解体され、消滅したことだ。ナチスの国家は正式に消滅しているので、現在のドイツが継承国家としての地位を持つか不明である。
 ナチス政府は建前は民主主義的に成立していて、最終はヒトラーから後継指名を受けた海軍総司令官カール・デーニッツ元帥による通称、デーニッツ政府(Regierung Dönitz)となった。だが、連合国はデーニッツ政府を承認せず(デーニッツは捕虜)、国防司令部ヨードル大将が降伏文書に署名した。軍の降伏であり、政府は関与していない。余談だが、日本の降伏では軍と政府が関与している(日本国家は消滅していない)。
 1945年6月5日のベルリン宣言で連合国がドイツの主権を掌握したことで、当時のドイツ国家(政府)は消滅した。つまり、ドイツ国は、「1871年1月18日から1945年6月5日」ということで歴史の彼方に消えた。現行のドイツはドイツ連邦共和国という別の国である。
 こうした歴史背景を見ると、現在のドイツは加害国としては戦争責任を負えないのではないだろうか。
 他方、日本は第二次世界大戦で国家消滅していないので、加害国としては戦争責任を負うことができる。日本共産党委員長の志位和夫さんは、ドイツを引き合いにせず、日本国の戦争責任を問うほうがよかったのではないだろうか。あるいは、今後のドイツの賠償問題の動向を見てから言及しても遅くはなかったかもしれない。

 

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2019.12.09

WTO、運命の日は12月10日

 ろくでもない事態になることがわかっていて、どうにもならない、というのが現実というものだろうし、歴史の真なる姿というものはそういうものなのかもしれない、と呑気なこと言ってられない事態になった。12月10日がやってくる。WTO(世界貿易機関;World Trade Organization)が国家間の紛争解決で機能不全になる。ごく簡単に言うと、WTOが明日死ぬ。日本時間だと明後日だろうか。残念だったなあ。
 ニュースを確認にしておく。NHKニュース『WTO 紛争解決で初の機能不全に 委員選任 米の反対で難航』より。

 WTO=世界貿易機関は10日、貿易紛争の解決が1995年の設立以来初めて、機能不全に陥る見通しとなりました。アメリカの反対で、紛争解決にあたる委員が選任できないためで、貿易をめぐる各国の対立は一層激しくなりそうです。
(中略)
 貿易をめぐる対立が加盟国どうしの協議で解決できない場合、まず1審にあたる小委員会で審理されますが、結論に異議が出された場合は、最高裁判所にあたる上級委員会が法的拘束力のある最終的な判断を下します。
 上級委員会の裁判官にあたる委員の定数は7人ですが、任期が切れたあと、欠員が埋まらず、最低限必要とされる3人の委員で紛争解決の審理を続けてきました。
 しかし、10日にはさらに2人の任期が切れて委員は1人だけになり、必要な人員が確保できなくなります。
 この結果、WTOは1995年の設立以来初めて、上級委員会の機能が停止する見通しとなりました。

 NHKの報道には含まれていないが、10日、上級委員会のウジャル・バティア委員長(インド)とトーマス・グラハム委員(米国)の任期が切れる。
 どうなるのか?
 例えば、日本は韓国による福島産の水産物の輸入禁止は不当としてWTOに提訴し、一審では主張が認められたが、上級委員会の最終判決で敗訴した。今後、この上級委員会がなくなる。この問題で言えば、日本がもう少し時間伸ばしでもできれば、日本の勝利だった。あれ? なんか問題なのか、それ。
 韓国関連で言えば、先日韓国は土壇場でGSOMIA破棄を停止し、また日本による韓国向け輸出管理措置の見直しについてもWTOへの提訴手続きを一時停止した。が、こじれ、その後どうなるかで、まあ提訴しても、もう一審で終わるしかない。たぶん、日本が勝つのではないだろうか。ということなのか、そういう可能性も韓国は読まなくならなくなったようだ。
 珍妙な例を引いたが、上級委員会の機能が停止しても、無問題なんじゃない?という視点があることに気がついてほしかった。
 では、それでいいのか? 
 よくはないだろう。現状、一審案件の約7割が上級委員会に上訴されているくらいで、二審制であることに意味がある。とはいえ、すでに、上級委員はもとの7人から3人まで削られていて先のような奇妙な決定を出すに至った(本来なら一審の事実認定を踏まえて二審が行われる)。しかも、鈍い。悪くいえば、すでに死んでいたのが、これからきちんと死ぬということだろう。
 この事態を引き起こしたのは言うまでもなく米国であり、米国の思惑は、言うまでもなく、中国への不満である。米国は上級委員会が中国びいきのように捉えていた。
 どうしたらいいか?
 WTO改革をするしかないだろう。制度を変えるほうがいい。二審へのフィードバックは必要だろう。いずにれせよ、これで米国をまた国際的な枠組みに取り込むほうがいい。日本としては米国に追従しないためにも、WTOのような国際機関を錦の御旗にするほが面目がいいには違いない。
 が、米国の取り込みは実際には無理だろう。それが現在世界の状況認識でもある。日本も実際にはそれほど困ることもないのではないか。
 臨時体制にするかという提案もあるようだが、死ぬに任せるしかないだろう。そもそも、WTOの歴史的な役割も終えたのかもしれない。

 

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2019.12.08

2つの魔笛

 最近、映像コンテンツではあるが、2つの現代的な魔笛を見た。最近といっても、1つは2017年10月のMETのものだ。もう1つは、今年のグラインドボーン音楽祭のである。

ジュリー・テイモアの魔笛
 METの魔笛の演出は、ミュージカル『ライオンキング』を担当したジュリー・テイモアである。以前見たMETの『メリー・ウイドウ』の演出がスーザン・ストローマンでブロードウェイ的にで面白かったが、ジュリー・テイモアも期待通りだった。『のだめカンタービレ』の別巻で魔笛を扱っていて、そこでこの作品ならでは演出の妙がうまく表現されていたが、今回のMET演出でそれを思い出した。
 加えて、歌舞伎だったし、小林幸子だった。ニホニズムというほどのことはないだろうし、Star Warsなんかもそうだが、歌舞伎の影響は普通にあるのだろう。ただ、さすがにベタな隈取にドラゴンボール的な見得を切るタノミーノはいい意味で笑えた。足りないのは六方を踏むくらいか。そういえば、タミーノはもともと「富野」らしいから日本的でもよいだろう。ヴェルバのパパゲーノ役のは意外とオリジナルを受け止めていたようにも思った。
 METの魔笛には、DVD化されてる1991年版のほかに、1967年のシャガールがあるのだが、こちらは見たことがない。見たいものだなと思っている。魔笛というのは、こうした視覚アート的な楽しさやコメディの楽しさに満ちている。
 テイモアのバージョンなら一層、子供が見ても純粋に楽しめるのではないか。ああ、モノスタトスはちょっとやりすぎかな。
 歌で言えば、MET初らしいゴルダ・シュルツのパミーナにも安定感があった。このあたり、METは外さない。オケ指揮は当然、ジェイムズ・レヴァインであり、弦がとても澄んで聞こえた。
 あと、自分でも意外だったけど、ドイツ語がけっこう聞き取れて嬉しかった。

アンドレ・バーブの魔笛
 今年のグラインドボーン音楽祭の魔笛は話題だったが、話題というとどうしても批評的に語られがちで、そうした批評から抜けおちるものは多い。のだめカンタービレでも清良が「このオペラ、女に対してホントひどい」と言っているが、ファンタジーとしてつい許しちゃうしMETもその方向に舵を切っているが、ゴーギャンの絵画を美術館から追放するとまでいかなくても、魔笛とか、あれとか、いやあれはあれでいいか、いずれにせよ、魔笛の女性蔑視は当時の時代的なもので済ませていいのか、深く考えるとよくわからない。というあたり、今回のは踏み込んでいるらしいと聞いたものの、むしろ「批評から抜けおちるもの」に期待した。ただ、全体としてはあまり期待しなかった。METにかなうわけもないなというか。ところが、これはかなりすごい作品だった。PC的な部分やエンディング、あれ、新国立劇場と東京文化会館共同の『トゥーランドット』ほどのひねりでもないく、むしろ、まあこんなアイロニーかなという感じではあった。
 設定は、チューリヒ歌劇場の『ナブッコ』もそうだったが、近代に置き直していた。夜の女王はホテルの経営者で、女性参政権運動のアクティヴィスト。ザラストロは、ホテルのシェフとしてホテルを牛耳っている。モノスタトスはホテルのボイラーマン。タミーノは幻視がちなホテルの泊まり客で、パパゲーノは行商人だろうかビヨン・ブーグが演じていたが、これが最高だった。現代のオペラ歌手はここまでの演技を求められるのだろうか。
 演技といえば、夜の女王を演じたキャロライン・ウェッターグリーンの歌はすごかった。O zitt're nicht !は、ああいう歌い方あるんだろうかと驚いた。

 オペラというのは、上演自体が、現代解釈となる時代になったので、その古典的な意味合いを変えることができる。それが楽しいともいえるが、リングなんかもそうだが、どこに原点があるのかというのがわかりにくいようにも思う。METもそのあたりのバランスを取ろうとしているのだろう。
 個人的には、魔笛は1991年のMETに原点感がある。

 

 

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2019.12.07

『誰も寝てはならぬ(Nessun dorma)』の試訳

 最近、歌に凝っていてテノールを試みているが、その音域で、Nessun dormaが歌えそうな気分になってきたので、意味の確認のために試訳してみた。

 わからないところがいくつかある。
 冒頭の、Nessunは、Nessunoの別の形、というのは、イタリア語講座を受講しているときに、ネイティブから聞いた。
 "noi dovrem, ahimè, morir, morir !"のところの、dovremは、dovremmoだろうと思う。
 "il mio bacio scioglierà il silenzio che ti fa mia."だが、che は、il mio bacioを受けているのではないか。
 といったふうな疑問を抱えつつ。

誰も寝てはならぬ(Nessun dorma)

Nessun dorma !
Nessun dorma !
Tu pure, o Principessa,
nella tua fredda stanza
guardi le stelle
che tremano d'amore e di speranza...

誰も寝てはいけない!
誰も寝てはいけない!
お前さえも、お姫様、
冷えた部屋のなかで
星々を見なさい
それは愛と希望で震えている

Ma il mio mistero è chiuso in me,
il nome mio nessun saprà !
No, no, sulla tua bocca lo dirò,
quando la luce splenderà!
Ed il mio bacio scioglierà
il silenzio che ti fa mia.

しかし私の秘密は私の中に閉じている
私の名前は誰も知ることがないだろう
いや、お前の口の上に私はそれを語るだろう
その光が輝くだろうときに
そして私の口が沈黙を解くとき
それでお前は私のものとなる

[coro]
Il nome suo nessun saprà...
E noi dovrem, ahimè, morir, morir!

彼の名前は誰も知ることがないだろう
そして私たちは、ああ、死ななければならないだろう

Dilegua, o notte !
Tramontate, stelle !
Tramontate, stelle !
All'alba vincerò !
Vincerò !
Vincerò !

消え去れ、夜よ
沈め、星よ
夜明けには私が勝つだろう
私が勝つだろう
私が勝つだろう

 

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スコット・ジョプリン(Scott Joplin)のこと

 先月あたりからまたピアノの練習を始めた。以前もやっていた。そのときは、ピアノを弾くというのは、組織的な指の運動なのだから、行動分析学的にイルカに芸でも教えるように運指をインストラクトしていけば弾けるようになるのではないか、と、やってみてそれなりにできた。が、弾かないでいると忘れた。そもそもが、この方法だと、曲を一つ一つ分解しているので、音楽っぽくない。やはり、ピアノというのはそれなりに練習体系があるのだろううんぬんとかやっているうちに、課題曲に「メープルリーフ」というのが出てきた。一通り滑らかな運指をやったあとの課題なのか、音のジャンプやシンコペーションのタイミングが難しい。だから運指の練習曲なんだろうと思っていたが、あれ、この曲聞いたことある。「メープルリーフ」?
 というわけで、「メープルリーフ」でぐぐってみると、それらしき情報は出てこない。そりゃ、「楓の葉」というだけのことだからな。Wikipediaを引いてみてもさして情報はなし、おっと、日本語のWikipedia見てるんじゃねーよ。と英語にあたると、英語のほうのMusicに「"Maple Leaf Rag", a ragtime piece by Scott Joplin」とある。で、「メープルリーフ」というのは、"Maple Leaf Rag"のことかと見ていくと、こっちから日本語のWikipediaの項目がある。が、大した内容はなし。で、ここから英語の項目に移ると、しっかり記述がある。
 気になったのは、"The ragtime revival of the 1970s brought it back to mainstream public notice once again." である。70年代というと、僕が洋楽ばっか聞いていた中学生のころだ。70年のビルボードにも上がっている。僕が聞いたのもその頃だったのではないか。と、連想していて思い当たるのは、映画『スティング』(The Sting)である。1973年の公開だった。僕も高校生のときに見ている。この映画の主題歌、「ジ・エンターテイナー」(The Entertainer)が、「メープルリーフ」と同じく、スコット・ジョプリン(Scott Joplin)だった。へーと思った。古い曲だったのか。それっぽく当時に作ったのだと思っていた。かくして、お恥ずかしながら、スコット・ジョプリンについて知らなかった。いや、カルチャーラジオ・芸術その魅力で『アメリカン・ミュージックの系譜』全13回を聞いたのであったはずだが、失念していた。見直していくと、『スコット・ジョプリン 真実のラグタイム』という書籍を発見。機会があったら読んでみよう。
 日本語のWikipediaでも「スコット・ジョプリン」の項目は充実している。ので、ここに再録的な情報を書くこともないだろう。偉大な作曲家でもあり、時代の偉人でもあることはすぐにわかる。
 スコット・ジョプリンにはオペラ "Treemonisha" 、"Reflection Rag"もあるらしい。YouTubeに断片があるが、いつか聞いてみたい。

  

 

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2019.12.06

「桜を見る会」を見るに

 「桜を見る会」問題にまるで関心がわかない。またくだらないことやって国会を浪費しているなあと思うが、国民から選ばれた代議士がやっているのだから、くだらないと思わない国民もそれなりに多いのだろう。そうした国民の政治意識も民主主義というのは汲み取っていかないといけない。私としては、そういうものだろうと思うに留めるべきだ。
 それでも、「桜を見る会」がなぜ問題なのかというのが、いま一つわからない。Huffpostに『「桜を見る会」が5分で分かる。安倍首相の関与、破棄された招待名簿など5つのポイント』(中崎太郎記)という記事があったので、目を通す。項目に自分のリアクションを添えてみる。

ポイント1:招待に安倍首相の関与は?
 →関与はあっただろう。
ポイント2:前夜祭の費用は誰が負担?
 →論点が理解できず。
ポイント3:不適切な人物が招待された?
 →論点が理解できず。
ポイント4:名簿・公文書の管理。政府「シュレッダーで廃棄」
 →Huffpostは「問題の名簿は内閣府が作成、管理する公文書」としているが疑問。
ポイント5:今後の展開は?
 →「問題の争点は多岐にわたっている」が論点は見えない。

 やはり私にはわからない。他方、iRonnaの『「桜を見る会」7つの疑惑、モリカケ化が止まらない』(田中秀臣記)の記事のほうが自分には説得的だった。
 加えて、3つのことを思う。

① この問題のどこが法に触れるのかそこだけ絞ってもらいたい。
② この問題は自民党政権が抱える問題の縮図だ・本質だ、というが、それは私たちの社会が抱えている問題と相似なのではないか。公費的な集金が私的な集団で使われるというのは、町内会でも学校行事でもやってみれば、誰も思い当たることではないか。
③ 個人的な印象では「桜を見る会」に安倍政権の非があると思う。が、その非の最大値を想定しても、国政にほぼ影響ないのではないか? つまり、こんなの些末な問題ではないのだろうか。

 特に、ひっかかるのは、こんな問題、些末なことだなと思う。
 では、些末でない問題はなんだろうか?
 国家安全保障とエネルギー問題である。これがこけると国家がこける。先のiRonnaでも《このようにいろいろ列挙したが、一つ言えるのは、無責任な「疑惑」自体こそシュレッダーにかけるべきである。経済や安全保障といった重要問題で、与野党の本格的な攻防を見てみたい、いつもそう願っている。》と結んでいたが同意見である。
 具体的な論点としては、日米軍事同盟と原発の位置づけを野党連合はどうするのか?
 で、ああ、なるほどと思った。
 この手の問題で、野党がまとまらないのが現状の政治の風景である。しかし、野党がまとまらないことには現与党政権が倒せない。なので、まとまる話題がほしいのではないか。それが「桜を見る会」のような話題なのではないか。
 と、思っていると、NHKのニュースで、「立憲民主党の枝野代表は、赤松・衆議院副議長と会談し、野党勢力の結集を目指して、国会で会派をともにする国民民主党と社民党の党首に、6日にも、党の合流に向けた協議を呼びかける考えを伝えました」というのをやっていた。『立民 枝野代表 国民・社民党首に合流に向けた協議呼びかけへ』より。

立憲民主党と国民民主党には、次の衆議院選挙に備えて1つにまとまるべきだとして、早期の合流を求める意見があるほか、立憲民主党内には「合流する場合でも、党名や政策を変えるべきではない」という声も出ています。

 つまり問題は立憲民主党の支持者にある、ということなのではないか。
 まあ、「桜を見る会」の追求も国民がやりたければやればいいのだろうし、その結果、現内閣が倒れることもないとはいえない。それはそれとして、国家安全保障とエネルギー問題について具体的なビジョンの作り込みも野党は進めておくといいと思う。前回と似たような政権交代を避けるためにも。

 

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2019.12.05

『失われた時を求めて』翻訳という日本文化

 よく「日本すげー(すごい)」という話題がネットにあがる。いろいろすごいものがあるというのだ。そうしたなかで、おそらくあまり挙げられてないんじゃないかと思うが、私が密かに日本すげーと思っているのは、『失われた時を求めて』翻訳という日本文化である。フランス語圏を除いてこれほどプルーストが研究され翻訳され読まれている国はないのではないか。
 そうしたなか、岩波文庫の吉川一義訳が11月15日に14巻で完結した。即重版になったというのも、すごいことだ。最初の巻が2010年11月16日なので訳業に9年を要したことになる。もちろん、これが最初の翻訳ではない。

 


 日本で『失われた時を求めて』の全訳が現れたのは、1953年3月から1955年10月の新潮社の共訳である。これが1958年に新潮文庫13巻に収められ、ほぼそのまま1974年に再刊された。1970年代の国際的なフランスブームで語られたプルーストは日本ではこの共訳と一部、次に述べる井上訳がもとになっていた。
 井上究一郎訳が筑摩書房から出版され始めたのが1973年。1988年に完結。プルースト学的には1987年のプレイヤッド新版がぎりぎり参照されている。1992年にちくま文庫に入った。井上訳やプルーストの文体をその長さの面でも日本語に移し取ろうとしているところに特徴がある。
 井上訳の完結を追うように、1992年に鈴木道彦が全2巻の抄訳本を集英社から出す。これがけっこう評判となった。とりあえずこれで『失われた時を求めて』を読んだことにする風潮もあったようだ。これはもとから鈴木の本意でもあったと言っていいだろう。難攻不落の名著にするのではなく、普通の小説として読んでほしいという願いもあったからだ。作中の重要なシーンを訳しその間をあらすじで追うという仕立てになっている。2002年には全3巻として文庫版になっている。
 その後、1996年から鈴木道彦の全訳が刊行が始まり、2001年に完了。2006年から翌年にかけて集英社文庫に入った。狡噛慎也が読んでいたのがこの最初の巻である。
 大体定評のある2つの新訳があれば翻訳書は安定するのではないだろうか。そう思っていたのは私だけでないだろうが、2010年9月になって、光文社古典新訳文庫から高遠弘美訳が出現した。現在も完了していない。高遠訳の背景には、1986年代に発見された原稿を基にした2008年の訳書『消え去ったアルベルチーヌ』がある。この延長として全訳に向かった。この訳書の位置づけは難しい。

 


 高遠訳の出現とほぼ同時期の11月に吉川一義訳が現れ、先行して今回完結した。現状、もっとも完成された訳業なのでこれが現状のスタンダードとなるだろう。
 なお、この間の2015年、芳川泰久の訳と抜粋をもとに作家・角田光代が日本語らしくリライトした 『失われた時を求めて 全一冊』が新潮社から出る。全体の十分の一の量になっている。現代作家の文体なので読みやすいことと、鈴木抄訳とは異なり、全体像を紹介するというより、アルベルチーヌ物語といったまとめ方になっている。芳川泰久はこの作業の後、同年、新潮選書として『謎とき「失われた時を求めて」』を出している。

 


 さて、今、プルーストをどう読むか?
 結論は単純で、吉川訳が第一候補となるだろう。上述の経緯もあるが、注が詳しく、また、各巻巻末に事実上の見出しまとめがある。現代人は、見出し中心に読書する傾向があるので、見出し的なものがあると随分と読みやすくなる。
 抄訳あるいは、十分の一訳はどうかというと、実際、自分も読んでみたが、よいのではないかと思う。
 『失われた時を求めて』にはいろいろな読み方があり、高遠は予断なく読み進めてほしいとしているし、それもわかるが、全体を俯瞰してから、読むということでもよいのではないか。その意味で、漫画的な趣向でもよいだろう。

 


 もう一点、『失われた時を求めて』読解の難しさは、プルーストの死後刊行で決定校がない第6篇『消え去ったアルベルチーヌ』から最終部分だろう。『失われた時を求めて』は未完作品ではないが、決定校がないことから全体像の捉え方は難しい。
 最後になるが、そもそも『失われた時を求めて』は面白いのか?
 これは、『失われた時を求めて』という魅力の圏内に捉えれるかという問題でもある。どこで捉えられるかというと、読書体験を通して、世界や人生についてのある感覚が変容することではないか。小説読むことで自分の感性が変わっていくというのは、体験してみると、奇妙極まりものだった。
 もちろん、多様な読み方が可能な小説だが、一つの焦点には、スノビズム批判もある。スノビズムのデコンストラクションとも言えるかもしれない。その点、『失われた時を求めて』が文学的なスノビズムで読まれてしまうとすれば、アイロニカルすぎる。むしろ、この小説はとんでもなくスキャンダラスな小説でもあり、おそらく現代ですら、スキャンダラスな危険性を持ち続けているところに魅力がある。

 

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2019.12.04

掛け算順序問題を考えたら意外な結論になった

 ネットでは定期的に「掛け算の正しい順序」という、まあ、へんてこな議論が話題になる。割り算には順序があるが、スカラーの乗算は順序を入れ替えても同じなので、小学校の算数とかで、掛け算の順序で正しいものがあるというのも奇っ怪な話ではあるが、ようは、掛け算の順序というより、文章題から掛け算でどう立式するのが正しいのかという話のようでもある。が、まあ、それにしても掛け算の正しい順序なんてないだろと思っていたのが、ふと、手元のレシートを見て、少し考えた。135円の和菓子を2つ買ったのである。私が誰と食べたか、一人で二つ食べたかはここでは問題外とする。

Kakezan
 これだが、文章題とすると、こうなるだろうか?

1個135円の和菓子を2つ買ったら、いくらですか?

 で、どう立式するだろうか。問題文順に、135 × 2 とするだろうか。掛け算に正しい順序があると言っている人は、これで満足するだろうか?
 で、このレシート見ると、こう書いてある。

2個 × 単135

 正しい掛け算の順序があるという主張の人たちだと、このレシートの立式は間違いか?
 で、実は、それよりこのレシートで、「単」とあるところに関心が向いた。「単」というのは、単位、つまり、ユニットである。で、単位(ユニット)というのだが、単位名が存在する。それは、こうだろう。

 円/個

 つまり、このレシートの立式は、こういう意味である。単位を見やすさの便宜として[ ]で囲むと。

 2 個 × [円/個] 135

 となる。
 単位部分を整理すると、

 個 × 円  / 個

 だから、これは、「円」になる。実際、「いくらですか?」は、円の単位を求めている。
 逆に、

 [円/個] 135 × 2 個

 なら、単位部分を整理すると、

 (円  / 個)× 個 

 で、やはり、「円」になる。
 つまり、やはり、どっちでも同じ。単位を考えても同じ。
 とま、屁理屈議論のように見えるかもしれないが、この手の文章題を考えさせるときは、単位の考え方が重要になる。
 で、単位というのは、[円/個] というように、ある対象に対して、という考えかたなので、割り算の考えかただ。
 というふうに考えると、小学校で、単位を含む掛け算の文章題を出すときは、

 割り算を最初に教えておいたほうがいい

 ということになるだろう。
 まあ、実際には、そうもいかないだろうが。

追記 レシートの「単」は「単価」とのご指摘を受けた。話は単位で通ると思われるので、このままとした。

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2019.12.03

[アニメ] 俺の妹がこんなに可愛いわけがない

 アニメ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を見た。実は、以前も2話くらい見て、関心ねーと放置していたのだった。まずもって、妹ものに私は関心ないし、2010年のアニメということもあって、絵が古い感じがして苦手だった。それに最初は、花澤香菜さんも早見沙織さんもそれほど活躍してないし。
 で、とくに理由もないのだが、見始めた。あれ? これは、そーとーに面白い作品なのではないかと思っているうちに、するすると4話くらい見て、うーん、これだとコンプリートしそうだなと思い、その先の様子をざっと見るに、2期ある。ラノベ原作で2期だと、完結部分はラノベで読むしかないだだろうなと思いつつ、全体構成を見ると、奇妙なことに気がつく。
 1期のエンドが、Good End で、アニメのオリジナルっぽい。で、これには別途、True Endがある。じゃあ、その後者のほうでと見ていく。面白い。
 まあ、あれだ、ゲームのように分岐になっているのだろう。実際そうだったが。
 2期はというと、これも、これもテレビ未放映、3話がある。もちろん、そっちも続けて見た。
 やったなあ。やっちまった。これはすごいと思った。
 それから戻って、Good End を見た。つまらん。

 以下、ネタバレ含む。

 放映後回でインセスト・タブーにがんがん打ち込んできたのは、想定外だった。いや、ぶっちぎれよ、と思っていたので、満足だった。
 自分には、インセスト・タブーに魅了される心性はまったくわからない。まず、自分に異性兄弟がなかった。実妹がなくてもロリ傾向とかある人もいるが、それも自分にはない。末子に娘がいるが、子どもたちの関係にもそれっぽいものはない。とはいえ、ニーベルングの指環やゲースロ、吉本隆明の共同幻想論を持ち出すまでもなく、ここが人類にとって急所であることはわかる。
 個人的にインセストには魅了されないが、そうした幻想を描く、妹エロゲーがあることも知っている。で、このアニメもそういう作品なのかというと、明確に違う。インセストに魅了されることが目的ではない。うえに、タブーは一般常識的に織り込まれている。
 にもかかわらず、義妹エンドとかに逃げずに、兄妹婚へぶっちぎったのは、なんだろう、作品的にすげー快感だった。もちろん、さすがに完全に振り切るわけもいかず、兄妹婚はモラトリアム化されるとして逃げてはいる。だが、成人してインセスト関係を持つことにはなるだろう。
 そもそも、なぜ同性愛婚はOKの世の中になったのに、兄妹婚はいけないのだろうか。原理的に考えるなら、それの禁忌も外されるべきだろう。兄妹婚で生まれた子供も社会的に受け入れていくべきだろう。では、さらなるインセストはというと、それも原理的には許容されるべきものなのではないか。
 そうしたインセストへの抵抗は、幼馴染の田村麻奈実との決裂でよく描いていた。あれは本当によかった。
 では、普通に恋人関係との対応ではどうか。ここは、黒猫がよく描いていた。花澤さんの演技が最高だった。個人的には、いわゆる頃猫エンドを期待したいし、分岐として、『俺の後輩がこんなに可愛いわけがない』も読んだ。読者ニーズとしてあっていいが、このエンドは、率直にいって、つまらなかった。恋愛の情感がインセストの情愛に負けていくという心性には、インセスト自体の怪しい魅力以上のものがあることを再確認した。
 他に、後輩ラブ的な話もあったが、作品の本質からすれば、それらの恋愛的な情感は雑音に近いのではないか。
 それにしても、これだけインセストにぶっちぎった作品であり、エロ要素もあるにも関わらず、実際の性愛を引き寄せる力はなかったことも考えさせられた。
 現実の世界で、人の心性をインセストから引き離すには、具体的なエロスの関係なのではないだろうか。親愛とか愛情とか、そういう情感はつまるところインセストに落下するだろうし、しかたがないことだ。もっと強烈なエロスが、インセスト・タブーを再構成できるだろう。
 結局のところ、黒猫の敗北というか、予想された敗北も、黒猫が桐乃に寄せる同性愛的な愛情だったのだろう。
 むしろ、桐乃自身のなかに、インセストを超えたエロスの方向があり、それがこの時点の心性では、エロゲーに暗示されていたのだろう。
 だいぶ、はしょって書いたが、やってくれたなあこの作品と思った。
 アニメは原作をカバーしているが、原作にはまた違った魅力もあるだろうとは思うが。声優の演技は逆にそこにはない。

 

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2019.12.02

[書評] 妻のトリセツ(黒川伊保子)

 そういえば、『妻のトリセツ』という本を読んだ。特にブログに記すような内容でもないが、逆に言えば、まさにブログのネタになるような話題でもあるかもしれない。
 どういう本かというと、釣りはこう。

 いつも不機嫌、理由もなく怒り出す、突然10年前のことを蒸し返す、など、耐え難い妻の言動…。(中略)
 脳科学をベースに男女脳の違いからくる夫婦のすれ違いを紐解き、奥様の考えていることや行動の理由をズバリと解析。それに対してどのような言動をとれば、奥様にとって最愛の夫でい続けることができるのかという具体的な作戦を提示する、夫のための奥様攻略本。世の中の「奥様が怖い」と思っているすべての夫が、家庭におだやかな愛を取り戻すための実用書である。

 私も妻帯者であるが、幸いにして、そういうニーズはない。ではなぜこんな本を読んだのか? こんな本というのは、率直に言って、「脳科学をベースに男女脳の違いからくる夫婦のすれ違い」という時点でニセ科学と言っていい内容であるし、読後、まあ、それを再確認したのだが。
 読んだのは、売れているみたいだし、なんとなく関心があったからだ。もうちょっと言うと、自分も老年期と言えそうな年齢になり、子供も次第に成人になり、家族ってどういうものなんだろうか普通は、と思うのだが、その「普通」という感覚がよくわからないのだ。
 でも、それなりに世間を見渡すに、本書が売れそうなニーズが見えないでもない。
 あと、もう一つ、アニメのパラレルワールドではないが、別の人生だったら、自分はどうだろうか? ありそうなのは、独身で子供もなく老人化している自分であるが、他に若い日の恋愛の延長で結婚とかしていたら、それはそれなりに不幸であっただろうし、まさに、「いつも不機嫌、理由もなく怒り出す」女性と人生を過ごしていたかもしれない。
 読んだ。どうだったか?
 書き下ろしというより、出版社の規格で実質ライターさんが書いたものらしく、構成がよくできているし、読みやすい。そしてなにより、面白かった。科学的な根拠とやらや疑わしいが、「取説」というだけのことはあるなと思った。
 私は「恋愛工学」とかまったく知らないが、既婚者の妻の取り扱いもだが、未婚者の男性にとって女性の実践的な対応のヒントはいろいろあるなと思った。というか、それなりに、反省するところはあった。どこがと書くのは避けたいものがあるが。
 それと、あーなるほどなあと思ったことがあった。「名もなき家事」という概念である。
 世の中、30代以下だろうか、若い世代の日本人はけっこう男女平等意識が行き届いていて、家事なんかもそれなりに夫婦で分け持っているようだが、それでも、そういう目に見える家事のほかに、本書は「目に見えない家事」があるというのだが、ああ、これはまさにそうだろう。ごく簡単な例でいえば、備品管理だろうか。洗剤がもうすぐ切れそうだなとか。子供が散らかした衣服を定位置に戻すとか。昭和の言葉で言えば、「気働き」にも近いかもしれないが、家事というのは、けっこう見えない部分で成り立っている。ところが、いわゆる夫婦で分担する家事というのは、見える部分の負担になる。この負担はけっこう大きいし、率直なところ、夫は気が付かないだろう。洗剤が切れて困っているならコンビニで買えばいいじゃないか、くらいしか思ってない男性は多いだろう。これは、妻は切れて当然だろうなと。
 著者の主張といては、夫婦関係で改善できる部分は改善して仲良く夫婦老年期を迎えるといいというコンセプトなんだが、大局的に見て、そうとも言えるし、そうでもないかもしれないというのはある。
 まあ、そういう生き方に関わる部分とかとは実際には関係ない書籍ではあるが、人生の大事というのは些事から成り立っているとも言えるので、まあ、なんとも。

 

 

 

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2019.12.01

12月に入って

 12月に入って、ああもうすぐクリスマスかあ、と思には思うのだが、今ひとつ気分は乗らない。街中もさほどクリスマスという雰囲気でもない。まだクリスマスが近いわけでもないせいもあるのだろうが。
 クリスマスに乗らない気分というのは、子供が大きくなったせいもある。子供が小さいとクリスマスはけっこうなイベントだ。そういえば、12月に入ってクリスマスかあ、という思いには、クリスマス・カレンダーがある。子供にチョコ入りのあれを買って与えたものだった。子供も高校生くらいまでは、あれがないと寂しいみたいで、しかも、チョコもおいしいほうがいいのでそれなりのを買っていたものだった。
 シュトーレンとパネトーネはどうか。いやこれもさすがに飽きた。というか、シュトーレンは特に、ちゃんとしたものを食べたいなら、きちんと作れるお店に秋口くらいに注文を入れとかないと。それを逸すると、できあいのもものになり、これは違うなあとか不平感が残る。その分、パネトーネは規格があるみたいで、名前があるのなら、できあいのでいいように思うが、やはり飽きたかと思っていたら、いつの間にか、台に置いてあった。いただく。食べればそなれりに、クリスマスが近い気分にはなるものだ。
 ちなみに、Bauduccoはブラジル産だが、しっとりして食感も香りもいいと思う。薄く切って。カスタードクリームを添えなくてもいいと思う。

 

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