ビザンチン絵画からルネサンス絵画へ
ビザンチン絵画からルネサンス絵画について簡単なメモを作ったので、ブログにも残しておく。
ビザンチン芸術は、黄金を散りばめた絢爛豪華なモザイクや、神秘性を感じさせるイコンなど、その美術的な価値は確定している、と言っていい反面、近代絵画的な視点から見ると、作者の個性が感じられず、また、芸術の対象も限定かつ様式化されていて、近代の芸術を芸術たらしめる自由も感じられない。
このことは、一面において事実であり、この事実を切り取り、他方、ルネサンス芸術に見られる芸術家の個性や対象の豊かさと対比する議論もまた多く見られる。だが、この対比そのものが間違いではないだろうか?
例えば、ビザンチン絵画とルネサンス絵画というのは、実は滑らか連続を形成しているのであり、むしろルネサンス芸術を足らしめる要因は、ビザンチン絵画の内在性の発展ということはないだろうか?
ビザンチン絵画とルネサンス絵画を滑らかな流れで見るなら、その中間的な領域こそが示される必要があるだろう。それは、ビザンチン帝国最後の王朝、パライオロゴス(Παλαιολόγος)王朝時代(1261-1453)であろう。なお、日本では、王朝名はパライオロゴスまたはパラエオロゴスとも呼ばれる。
パライオロゴス朝の芸術は、ルネサンス芸術との親和性から、パライオロゴス朝ルネサンスとも呼ばれる。絵画面での代表的な作品は、コーラ修道院壁画である。
同壁画について、井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(1998年 中央公論社)は次のように言及している。
(前略)まったくの小国家に転落したパライオロゴス王朝において、ビザンツ美術を代表する素晴らしい作品が生まれたことは驚きである。
ほぼ同じころに、ルネサンス絵画フィレンツェ派の祖であるジョットは、パドヴァのスクロヴェーニ(アレーナ)礼拝堂のフレスコ画を描いている。両者はとてもよく似ている。かつてはコーラ修道院の壁画を描いたのはイタリアの画家だと考えられたこともあった。しかしそれがビザンツ人の手によるものであることは今日確認されている。むしろ逆に、ビザンツ絵画の影響がイタリア・ルネサンスにおよんだと考えるべきであろう。
パライオロゴス王朝の絵画がイタリア・ルネサンス絵画の起源であるとする説は定説ではないが、有力な視点として考慮すべきではないだろうか。
また、おそらくパライオロゴス王朝の絵画から影響を受けたであろう、ジョットの師匠とされるチマブーエとこの無名のビザンチン画家とは同時代であり、大きな様式的な差異もないだろう。さらに言えば、ジョットとして名前が記される画家も実際には、その名の集団といってもよく、そうした画家のありかたにもおいても、ビザンチン絵画からルネサンス絵画への滑らかな連続が想定される。
| 固定リンク
コメント