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2019.11.12

京急「踏切の600m手前から信号見えず」って大ニュースだろ?

 年を取ったせいか、大抵のニュースに驚かない。あるいは、驚くべきニュースなら、ニュースのほうで、事実より驚きを伝えてくれるので、まあ、そのお作法に則って驚いていればいいのだが、さらっとびっくりするようなニュースがあった。京急「踏切の600m手前から信号見えず」というのだ。おい、それは、驚くべき大ニュースだろ?

京急「踏切の600m手前から信号見えず」当初の説明と異なる
2019年11月12日 5時37分
 ことし9月、横浜市で起きた京急線の脱線事故で、踏切内の異常を知らせる信号機について、当初、会社が説明していた踏切の600m手前からは運転士が目視で確認できないことが分かりました。京急は再発防止策として信号機の設置場所などを見直す方針です。
(中略)
 京急は当初、踏切の600m手前から運転士が目視する事ができると説明していましたが、その後の会社の調査で、この地点からはカーブなどがあって目視で確認できないことが分かりました。
 このため会社は再発防止策として、運転士が600m地点でも確認できるよう、信号機の設置場所などを見直す方針です。

 え?!
 ちょっと言葉が出ないぞ。それって、踏切に自動車が立ち往生したら、高確率でああいう事件になっても不思議ではありませんねえ、まあ、びっくりせず、お茶でも、といったお話なんだろうか?
 違法性はないのか? というのも気になったが。

 この信号機について会社側は、時速120キロで走行する快特電車が停止するのに必要とされる距離、およそ520mからは少なくとも確認できるとしていて、国の省令や社内規程に違反はしていないとしています。
 京急はNHKの取材に対し「現在、対策は検討中なのでコメントは差し控える」としています。

 うーむ、どこで、600mが520mになったんだ?

 そもそも信号機などの鉄道施設は、国土交通省の「省令」に基づいて設置されています。
 このうち「鉄道運転規則」という省令の中で、在来線は “非常ブレーキをかけてから600m以内に停止しなければならない” とされていました。
 この「鉄道運転規則」は、鉄道車両のブレーキの性能が向上したことなどにより平成14年に廃止され、新しい省令には具体的な数値などは記載されていません。
 ただ、強制力を持たない形で省令の解釈を具体的に記した、「解釈基準」と呼ばれるものには、「列車の制動距離は600m以下を標準とすること」という記述があり、今も業界の「慣例」として残っています。

 うわーなんだろ、これ。
 ちょっとびっくりしてどう反応していいかわからないけど、なんだかそもそもいろいろだめ過ぎなんじゃないだろうか?
 幸い、死者を多く出す大事故にはならなかったけど、潜在的にこういう事態が放置されているというのは、どうかと思う。
 ところで、この大ニュース、共同でも報道していた。ざっと見たところ、NHKと共同しか出していない。どっちかがスクープしたのだろうか? 誰が見つけたんだろうか? NHKが早そうなんだが。
 そして、京急側は最初からこのことを知っていたんだろうな。なんか、闇が深い。

 

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2019.11.11

ビザンチン絵画からルネサンス絵画へ

  ビザンチン絵画からルネサンス絵画について簡単なメモを作ったので、ブログにも残しておく。



 ビザンチン芸術は、黄金を散りばめた絢爛豪華なモザイクや、神秘性を感じさせるイコンなど、その美術的な価値は確定している、と言っていい反面、近代絵画的な視点から見ると、作者の個性が感じられず、また、芸術の対象も限定かつ様式化されていて、近代の芸術を芸術たらしめる自由も感じられない。
 このことは、一面において事実であり、この事実を切り取り、他方、ルネサンス芸術に見られる芸術家の個性や対象の豊かさと対比する議論もまた多く見られる。だが、この対比そのものが間違いではないだろうか?
 例えば、ビザンチン絵画とルネサンス絵画というのは、実は滑らか連続を形成しているのであり、むしろルネサンス芸術を足らしめる要因は、ビザンチン絵画の内在性の発展ということはないだろうか?
 ビザンチン絵画とルネサンス絵画を滑らかな流れで見るなら、その中間的な領域こそが示される必要があるだろう。それは、ビザンチン帝国最後の王朝、パライオロゴス(Παλαιολόγος)王朝時代(1261-1453)であろう。なお、日本では、王朝名はパライオロゴスまたはパラエオロゴスとも呼ばれる。
 パライオロゴス朝の芸術は、ルネサンス芸術との親和性から、パライオロゴス朝ルネサンスとも呼ばれる。絵画面での代表的な作品は、コーラ修道院壁画である。

Bizan  

 同壁画について、井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(1998年 中央公論社)は次のように言及している。

 (前略)まったくの小国家に転落したパライオロゴス王朝において、ビザンツ美術を代表する素晴らしい作品が生まれたことは驚きである。
 ほぼ同じころに、ルネサンス絵画フィレンツェ派の祖であるジョットは、パドヴァのスクロヴェーニ(アレーナ)礼拝堂のフレスコ画を描いている。両者はとてもよく似ている。かつてはコーラ修道院の壁画を描いたのはイタリアの画家だと考えられたこともあった。しかしそれがビザンツ人の手によるものであることは今日確認されている。むしろ逆に、ビザンツ絵画の影響がイタリア・ルネサンスにおよんだと考えるべきであろう。

 

 パライオロゴス王朝の絵画がイタリア・ルネサンス絵画の起源であるとする説は定説ではないが、有力な視点として考慮すべきではないだろうか。
 また、おそらくパライオロゴス王朝の絵画から影響を受けたであろう、ジョットの師匠とされるチマブーエとこの無名のビザンチン画家とは同時代であり、大きな様式的な差異もないだろう。さらに言えば、ジョットとして名前が記される画家も実際には、その名の集団といってもよく、そうした画家のありかたにもおいても、ビザンチン絵画からルネサンス絵画への滑らかな連続が想定される。

 

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2019.11.10

11月上旬の昭和記念公園散歩

 私は騒がしいものが好きではない。天皇陛下即位パレードである「祝賀御列の儀」で沸き立つ都心もできたら避けたい。が、よい天気である。散歩日和だ。さてどこに行くか。令和の天皇の時代となると、昭和という時代は、ちょうど昭和な私が明治時代を思うようなものだろうか、とふと考え、そうだ、昭和記念公園にでも行くか。と行ってみた。まだ、紅葉には少し早いだろうが、たしか、2日から黄葉紅葉まつりなるものもやっているそうだから、少しは見られるだろう。ただ、あそこも混んでないかなと懸念はした。
 たしかに、いつもより、人出は多いようには思えた。歩いていて人にぶつかるほどではない。集まっている客の三分の一くらいは、ノンジャパニーズではないだろうか。スカーフをした若い女性と付きそうよるな男性のグループがいて、どこから来たのときいてみたら、インドネシアとのことだった。観光?と聞くと、Workingとのことだ。なんの仕事かまでは聞かなかった。楽しんでね。
 日本庭園に寄ってみた。今年から夜はライトアップするらしいので、あちこち電線やしかけがあってうるさい感じがした。

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 お茶をいただく。お菓子もお薄もおいしいのだが、同時に出さないでほしいなと少し思う。見ていると、お客さんによっては、分けて出しているみたいなので、混雑具合によるのだろう。というか、以前は分けて出たか。まあ、茶席でもないしな。
 この公園ができたのは、1983年。ちょうど大学院を出た年で、できたころ行ったことがある。あちこちまで造成の途中だった。赤土とブルトーざーと土管といった風景だったように思う。それが、今ではイノシシも出るという。明治神宮もただの畑だったらしいが、自然なんて半世紀もあればできちゃうものだな。
 それ以前は米軍基地だった。私は5歳の誕生日、中武デパートの最上階のレストランから、この基地の飛行機を見た記憶がある。

 

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2019.11.09

漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』と日赤のコラボポスターについて

 日本赤十字社が献血PRとして作成した、漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボポスターがネットで話題というか、問題として議論を呼んでいた。ここでは、そうした議論を整理する意図はない。ただ、いちブロガーとして個人的見解を述べておこうと思う。
 話題の発端は、次のTweetのようだ。該当ポスターが結果的にここに含まれている。

 ここで述べられていることを仮訳する。

私は日本赤十字社の仕事に感服したね。これになぜ、がっかりしたかというと、日本では、過度に性的に表現された宇崎ちゃんを使ってキャンペーンをしていたことだ。こうしたものは時と場合を選ぶ。ここじゃない。

 実は、私もほぼ同意見である。
 UnseenJapanさんは、このTweetに関連して、この手のフェティッシュな表現自体に反対してるのではなく、あくまで、こうしたものの公示は時と場所を選ぶ、と補足している。
 UnseenJapanさんは、さらに日本における公衆での性的表現のありかたについても言及しているが、そのあたりは私の考えとは異なる。
 私が、このポスターを好ましくないと考えるのは、非常に単純な理由からである。内閣府男女共同参画局が平成15年に発表した『男女共同参画の視点からの公的広報の手引』「5-1 女性を飾り物として使っていませんか?」の以下の指針に反するからである。

 単に目を引くためや親しみやすさを持たせるために、内容とは関係なく女性の姿や身体の一部をポスターなどで使う場合がありますが、それでは伝えるべき内容が十分に反映された表現とは言えません。
 安易に女性をアイキャッチャーとして起用せず、訴求内容と訴求対象に合った、より効果的な表現方法を工夫しましょう。

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 内容と無関係に、女性の水着姿や、身体の一部などを使うと、「性的側面を強調している」と受け取られるおそれがあります。しかも、本来の伝えたい内容が不明確な広報になっています。

 今回の日赤のポスターはまさにこの点で好ましくない例になっていると私は思う。
 しかも、「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか~?」というのも、日赤の献血PRに採用するには好ましくないだろう。
 以上が私の意見である。
 一点、補足しておきたい。
 今回の日赤ポスターは公的広報に相当するか?
 私は、相当すると捉えている。日赤の献血事業は公的な事業であると考える。国の支援なくしては成り立たない事業でもあるからだ。
 このことは、逆に、公的セクターではない事業者がこの漫画のコマを採用してもなんら問題はないとも考える。
 (なお、日本のジャーナリズムが機能しているのなら、日赤がこの献血PRを依頼した広告店が、公的広報手引きをどのように理解していたかを突き詰めるべきだろう?)

 

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2019.11.08

ドレフュス事件すごろく

 ドレフュス事件(L'affaire Dreyfus)は、高校で世界史を勉強する人なら必須項目ではあるし、現代的な意味も大きい。自由を標榜する社会での民族差別による陰謀といったあたりの話題にも関係する。印象に過ぎないが、この事件についてなんらか語ることができるかというあたりが、教養人・知識人というものの境界を作っているようにも感じられる。
 同時代的に当然といえば当然だが、この事件の社会的な影響を含むプルースト『失われた時を求めて』を読むと、そうした世界史的、あるいは社会的な意味合いに加え、社交界的な、大衆社会的な意味合いに独自の感触があることに気がつく。そうしたなかで、私はドレフュス事件すごろく(Jeu de l'oie de l'affaire Dreyfus)を知った。Wikipediaにも掲載されているので私が無知であった。とはいえ、あらためてこれはいったい何なのだろうかと考えさせられた。

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 ドレフュス事件すごろくとは何か?といえば、どう考えても、一義的には、すごろくであり、ボードゲームである。つまり、娯楽である。正確には、娯楽の形式で皮肉に創作したポスターでもある。それでも(そのままゲームをするのではないとしても)、ドレフュス事件というもの自体が、当時の社交界の娯楽になっていたとは言えるだろう。
 内容は、当時のナショナルな動向や社交界的な世界への皮肉であり、批判、批評であることは明白だ。このことがよくわかるのは、四隅の象徴である。左下から逆「の」順に、①さいころ振り(運命)、②マスク(外面)の掃き掃除、③軍帽の重みを測る、④引きちぎった人権宣言書、が配置されている。
 ゲームの中央、ゴールに裸の女性として描かれているのは、la "vérité"(真実)である。また、表題のような"Règle de jeu" は、ゲームの規則、つまり遊び方である。マスは62個ある。
 ここからわかるのは、このポスターがどちらかと言えばドレフェス擁護派から作られたということだろう。当時、ドレフェス擁護派を意味する、"dreyfusarde"という用語も生まれた。
 ところで、これが時事への批判であるとして、誰もが知っていた当時のすごろくをベースにしているのは明らかで、これもすぐにわかる、というか、 先にすでに書いていた"Jeu de l'oie"である。そのまま訳せば、「ガチョウのゲーム」である。

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 「ガチョウのゲーム」とは、いうまでもなく、すごろくだが、これがいつからあるのか、なぜガチョウなのか、というあたりが気になる。すぐにわかったのだが、Wikipediaの日本語の項目があった。読むと、内容は多少混乱しているが、概ね妥当なところが書かれているようだ。

1597年6月にジョン・ウォルフェは、このゲームがロンドンを発祥とする物である事を証明した。鵞鳥のゲームが、近代における多くのヨーロッパの商業的なボードゲーム競技のプロトタイプに違いないと考えられている。このゲームは、ヨーロッパで最も遊ばれる物であり、家庭での娯楽として見られる物でもある。

 遊び方は、ようするに、すごろくである、

盤面は、連続した数字(通常は63)が付けられたマスで構成され、スタート地点が一番外側になるように普通はらせん状に描かれている。各々のプレイヤーの駒は、1つか2つのサイコロを投げた目の数によって動く。鵞鳥が描かれた一連のマスが、盤面の隅から隅まで散らされている。

 なぜ、ガチョウなのか。なぜ、「ガチョウのゲーム(Jeu de l'oie)」なのか? なぜそれが政治・社会批判に連想さるのか? なにかごく当たり前のことが自分にはわからない。と、連想を広げていくと、国際関係論に関心をもつ人なら、思い当たることがある。”Jeu de l'oie”は、フランスの国際関係の専門誌である。2009年にリールの政治学研究所の学生によって創刊された。命名にドレフュス事件の連想があるかはわからない。
 言葉の連想を広げると、現実にガチョウを使う残酷な遊びも欧州各国にあるが、欧州史におけるガチョウの象徴というのはなんだろうか?とも考えていく。
 そうして引き当たるのは、英語に関心を持つ人なら常識の部類に入る、Mother Gooseだろう。このあたりで、ああ、そうかと思い当たる。Mother Gooseは、英国文化のように見えるし、実際そうなのが、起源的には、「マ・メール・ロワ(Ma Mère l'Oye)」である。もとはフランス語だ。ジョゼフ=モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)のMa Mère l'Oyeは私が好きな曲だ。眠れる森の美女のパヴァーヌ(Pavane de la belle au bois dormant)は、シャルル・ペロー(Charles Perrault)の童話「眠れる森の美女」(1697年)からで、そもそもこの物語が、『マ・メール・ロワ』からであった。ここでの「ガチョウのお母さん」は、日本語的には、ガチョウおばさん、で、物語を語るおばさんの愛称だろう。
 童話から連想すると、おそらくイソップ童話の「ガチョウと黄金の卵」に行き当たる。このゲームも単純にそうしたものの連想かもしれない。なにか、すごく単純なことを見落としているような気がするが。

 

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2019.11.07

なぜ、"How do you do?" と言うのか? (あるいは言わないのか?)

 なぜ、"How do you do?" と言うのか? あるいは言わないのか? 
 「言わない」ほうについては、ネットを引くといろいろ情報が出てくるようだ。「ようだ」というのは、この件について、どの情報が情報と言いうるかよくわからないからである。とはいえ、概ね、現代英語では、"How do you do?"とは言わないと言っていいだろう。それはなぜか? というと、古めかしい英語表現だから、というのがとりあえずの答えになる。日本語なら、「お目にかかり幸甚でござる」とまではいかないか(ちなみに、こんな古語はないだろうけど)。
 いずれにせよ、古臭い印象は与えるだろう。上流階級の挨拶を模したジョークになってしまうかもしれない。
 普通なら、”Nice to meet you.”、”I’m happy to meet you.”、少し固くても、"Pleased to meet you."あたりだろうか。
 とはいえ、である。
 "How do you do?"と言っちゃいけないというわけではないし、上流階級的な響きがあるにせよ、この表現は正しい英語であることは間違いない。しかも、"How do you do ma'am? Camilla greets Queen with curtsy."というのは、「自然」な表現だろう。
 では、なぜ、"How do you do?" と言うのか? これにきちんとした答えは、なかなか得られないのではないだろうか。ネットをざっと見てもなさそうに思えた。ありますかね?
 で、私のような昭和の人間は、英会話で、"How do you do?" を習った。一応と言うべきかも知れないが。で、なぜそう言うのか説明はなかった。挨拶言葉で、慣用表現だから、なぜとか考えるんじゃねー、ということなのだろう。
 それでも、日本語の「はじめまして」なら、「初めまして」ということで、古臭いにせよ、初めてお目にかかりますという意味は連想される。
 そうして、"How do you do?"を考えると、これ、普通に正しい文法で、普通の英単語で、しかも、普通の文法で書かれているのだから、慣用表現としてではなく、普通に訳せるわけである。むしろ、普通に訳してみて、そこから慣用表現へ橋渡して考えるべきだろう。日本語の「さよなら」も、「左様ならば」で、「そのようであるならば、またの機会に」といったふうに考察できる。
 では、"How do you do?"を普通に訳してみよう。

 "How do you do?"
 どのようにあなたはするのか?

How do you do?
Well, just other people do.

 これは、どう考えても、変?
 というわけで、私は半世紀疑問に思っていたのだが、『ロマン語』(W.D.エルコック)を読んでいたら、理由が書いてあった。

英語は中身においてゲルマン語であるが、古フランス語を非常に強く暗示する言い回しを多く持っている。最も普通の挨拶、How do you do? はアングロサクソン語の立場から判断すれば、聊か奇妙であり、How do you fare? の上に重ねられた古フランス語 Comment le faites vous ? の翻訳らしい。動詞 fare の”行く”はフランス語の faire ”する”と混同されたため do に置き代えられたのである。

John Orr, The impact of French upon English
A. A. Phins, French influence in English phrasing

 なお、引用部のfareの動詞のところだが、ドイツ語勉強した人なら自明だが、ドイツ語の動詞 fahren に関連する言葉である。

 

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2019.11.06

カール大帝は何語をしゃべっていたか?

 以前、『英語の現在完了は、なぜ、「have + 過去分詞」なのか?』という記事を書いたことがある。そのなかで、こう触れた。

カロリング朝ルネサンスというなら、その中心は、「カール大帝」である。で、「シャルルマーニュ」である。え? どっち?
 さすがに、Charles the Greatはなしだが、Karl der Großeなのか、Charlemagneなのか?
 当然、どっちも違って、ラテン語で、Carolus Magnusとしたいところだし、公式にはそれでいいのだろうが、さて、彼自身はどう捉えていたか?
 というか、カール大帝は、何語を喋っていたのか?
 ここで、歴史好きなら知っているだろうが、カール大帝の母は誰かわかっていない。母語、mother tongueは?
 だが、おそらく、ここは、カール大帝の母の言葉ではなく、彼の教育係の言葉だろうし、それはラテン語だろうが、日常会話はどうだったかというと、俗ラテン語ではないだろうか?

 ずっと気になっていたが、『ロマン語』(W.D.エルコック)を読んでいたら、ヒントが書いてあった。アインハルト『カルルスの生涯』に言及して、その引用から。

 大帝は饒舌多弁で、言いたいことは何でも明快に表し得た。母語のみに満足せず、諸国語の習得に専念し、なかでもラテン語を懸命に学び、ラテン語と母語とを常に話すほどになった。

 この母語とは何か? というと、同書の文脈から、ゲルマン語である。つまり、カール大帝の母語は、ゲルマン語だったのだろう。ついでに、ここでいうラテン語は、俗ラテン(ロマン語)かあるいは、きちんとした文法体型を持つラテン語か、というと、後者のようだが、同書では、こう言及がある。「トゥルー公会議」に言及して。

 これは文語ロマン語の誕生の決定的な時期を記すものである。しかしこの証言を正確にはどう解釈すべきだろうか。ロマン語を一言語として認めた直接の結果として、ラテン語が復活したと普通には解釈されている。しかしこの問題をよく考えて見ると、何か別の観点を暗示してみたくなる。フランス語が文学的に優位に立った真の原因は、ラテン語の復興そのものにあるというよりむしろ、カルル大帝の帝国におけるロマン語とゲルマン語の二言語併用にあったように思われる。この帝国におけるラテン語の復興は、平行して起こったもう一つの成果だった。最初のゲルマン人、つまり、サリ・フランク支族は、唯一の文学語である中世ラテン語の継続的使用に直接の脅威を及ぼさないで消えた。メロヴィンガ王朝時代を通じて写字生は、ラテン語で書き続けていた。そのラテン語はゲルマン語法を含み、民衆的ロマン語法に益々近づいていた。

 読み間違いがあるかもしれないが、帝国時代は俗ラテン語(ロマン語)は使われていたのだろう。カール大帝自身の母語はゲルマン語であるとし、彼のラテン語は学習された古典的なラテン語を範としても、実際には俗ラテン語に隣接していたのだろう。口語であればなおのことそうだろう。

 

 

 

 

 

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2019.11.05

15年ぶりくらいにワイングラスを買った

 先日、愛用していたワイングラスが割れた。15年は使っていたものだった。当時沖縄暮らしでなかなかいいワインが現地で買えず、オーストラリアから空輸したり(箱で買うと補助金のバックがあったりした)、本土のヴィノスやまざきのワイン頒布会を楽しみにしていたりしたが、そのとき店のプレゼントでもらったものだ。底面の部分に自分の名前を入れてもらった。
 陶器もガラスも割れるものは割れるとわかっていても、割れてしまうと残念な気持ちにはなった。と、ふと思い出したが、ロイヤルコペンハーゲンのカップはなかなか割れないがあれも割れたらちょっと残念な気持ちになるだろう。
 ワインが趣味のような生活をしていたが、その間、難病もあって寛解期の維持にはお酒をやめたほうがいいだろうということで断酒した。その後、少しならいいかと飲むと発作が出た。もう酒に縁のない人生だと決めたのだが、昨年あたりから、ワインを少し飲む。フランス料理を食べていて、さすがにワインがないと様にならない。グラス半分くらいならいいだろうということにした。
 実質、そんなにワインも飲まない。少ないのだから、いいワインをと思っていたが、この間、子どもが3人成人した。子どもと酒を酌み交わすというのを人生の喜びにしている人もいるが、私はそうでもない。ただ、成人した子どもに飲ませるワインとなると、量もはけるのでそう高級ともいかない。というあたりで、世の中のワイン事象が変わったことに気がつく。妻がセブンイレブンのワインをひょこっと買ってくるのだが、これが意外においしいのである。いくら?と聞くと800円くらい。500円くらいのワインでもそれなりにおいしい。先日は、だめだったら煮詰めてブフ・ブルギニョンにしようと思って、イオンで350円というのを買ってみたが、飲めるのだった。昔だったら、このレベルで1500円はしたんじゃないか。
 ワインが安くなったのだな。なんとなく思うのだが、製造管理にIT(情報技術)が生かされている面も大きいのではないか。発酵管理とかがかなり自動化されているのではないか。いずれにせよ、それほど高級なワインでなくてもいい時代になったのだなと思う。これなら、コップで飲むのがいいかもしれない。ギリシア旅行ではミネラルウォーターよりワインが安くてアルミカップで飲んでたこともあったな。
 さて、グラスだ。コップはさすがにおいしくない。酒だのお茶だのというのは気取るつもりもないのだが、それなりの器でないとおいしくはないものだ。グラスかあ。名前入りのグラスはもう一つがあるが、妻と揃いというのが(めおとグラスとかではないが)愛用の理由でもあったな。グラスを新しく買うか。アマゾンあたりで。
 物色すると、人気商品でお勧めに、「RIEDEL リーデル 赤ワイン グラス ペアセット オヴァチュア レッドワイン 350ml」というのがあった。それほど大ぶりでもない。割れたら割れたでいいが、ドイツ製で、意外と頑丈そうだ。どうせ高価なワインを飲むわけでもない。ぽちり。
 これが意外によかった。赤ワイン用を買ったのだが、飲みやすいし、香りも楽しめる。白ワイン用やスパークリング用も欲しくなったな。
 それほどアフィリエイト記事を書きたいわけでもないし、そもそも、そんなこともなく売れているようだ。廉価のワインが普及すれば廉価のそこそこ使えるグラスも普及するのだろう。こんなところもに世の中の変化というか進歩といっていいんだろう、あるものだなと思った。

 

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2019.11.04

東大博物館で『貝の建築学』を見た

 いい日和だったので、小石川植物園を散歩し、東京大学総合研究博物館小石川分館/建築ミュージアムに寄ったところ、特別展示『貝の建築学』というのをやっていた。ようするに貝殻の展示ということなのだが、「建築」という視点で貝の構造を見るというのも、面白い体験だった。

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 なぜ、建築ミュージアムで貝殻?
 理由は、「貝はみずから貝殻を形成してその中で暮らしており、貝殻は貝の建築物とみなすことができます」ということで、それだけ聞くと洒落のようだが、百聞は一見に如かず、見ればなるほどと思う。重要なのは、貝殻の断面が見られることだ。というか、私は、貝殻の断面なるものを見たことがなかった。中はただの渦巻きになっているのだろうくらいの想像で、それ以上の関心を持っていなかった。見ると、それは神秘的なと言いたくなるほど美しいものだった。なるほど、これは、建築物(アーキテクチャ)と言えそうである。

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 特殊な技術で断面が見られるように裁断したらしい。説明を聴いたが忘れた。
 加えて。貝が建築物(アーキテクチャ)というのは、自然がもたらすこうした造形を実際の建造物の設計のヒントとしたいらしい。これも言われてみれば、ガウディの建造物やシュタイナーの建造物なども貝を連想させる。
 常設展示も興味深かった。ついでに東大博物館の本館も行ってみるかと思ったら、なにやら休館中らしい。

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 最初のほうで説明しておけばよかったが、建造ミュージアムは、明治9年に建築された東京医学校をここに移築したものだ。建造物は、明治初年の木造擬洋風建築特有の特徴があり、それ自体も興味深い。

 

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2019.11.03

犬とすれ違う

 それは正しいことでも悪いことでもないのだろう。早朝、まだ人が多くないころ、私は散歩がてら朝食を買いに細めの歩道を歩きながらコンビニに向かうときだった。
 向かいに犬を連れて散歩している、40代くらいだろうか男の人がいた。こちらに向かって歩いている。細めの歩道なので、犬を連れてゆったりという幅である。このまま進むと、そう、物理的にこのまま進むと、私はその人と犬の中間にあたり、引き綱に絡まることになる。いや、物理的にそうなることはないだろう。対人行為である。向こうの出方というのもあるだろう。いやいや単純に、これは、誰かが道を譲るということになるのだろうな、と思った。
 で、思ったのだった。この状況で、誰がどう道を譲るのだろう?
 瞬時にいくつか解答パターンが思い浮かんだが、この状況でどうなるのかということの知的関心に私はとらわれた。どうなるんだろう? 例えば、私がこのまま物理的的に直進したとしたら?
 当然、相手が私も直進歩行に気がつく。よしよしと思うが私はそうした思いが気取られないようにぼんやりとしているかのように歩き、頃合いで相手をさっと見ると、彼は道を譲った。礼儀正しい人なのだろう。ただ、その譲り方が少し奇妙だった。彼は犬のほうに体を寄せたが、犬は物理的に闊歩しているのである。この状況は、彼が犬に礼儀正しく行動したと解釈もできないではない。いや、もちろん、そんなことはない。考えすぎだ。犬には人間の礼儀が通じないから、人間が動いたというだけなのだろう?
 ここで、私は、ふと、あれ?と思ったのだ。
 私はその犬に配慮すべきなのだろうか?
 市民のあり方としては、彼は犬を寄せるべきなのではないか? 
 いや、寄せた犬のほうに他者が通ると犬が向かいの人に接する可能性がある。だから、ここは人が身を寄せるというのは正しい行動だろう。
 だが? 原理はそうだとして、この状況では、彼の身の寄せ方は私への配慮とういより、犬への配慮のように見える。この場合は、犬とともに彼が身を寄せる。そして、そのことを犬に教えるようにするべきなのではないか? まあ、それが正しいとか正義とかは思わないのが、そういう可能性を彼は考えるべきというくらいはいえるのではないか?
 それと、彼が寄せた方向は車道側ではなかった。私が視覚障害者なら危険なことになりうるなあ。
 で、私はどうする?
 ぼんやりげなふりの私は、相手が身を寄せたことに対応して、少し反対側の歩道側に寄せる。少し。つまり、このままいくと、肩くらいはぶつかるくらい。まあ、直前になったら、私は車道に気をつけてもう少し肩をそらそうと思う。
 歴史はどう動いたか?
 彼はもう少し犬側に体を寄せた。犬も闊歩の方向を変えて主人と同じように寄せた。犬だって賢いからな。
 という状況を見て、私は軽い会釈をして肩に触れることもなく、すれ違った。

 

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2019.11.02

平櫛田中彫刻美術館に行ってきた

 いい秋の日和なので、『女子高生の無駄づかい』の聖地巡礼に行って来た。前回の八坂駅から同じく西武多摩湖線の一橋学園駅駅である。

Jishomuda 

 おお友よ、このような話ではない!
 平櫛田中彫刻美術館に行ってきたのだ。平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は、明治5年(1872年)、岡山県後月郡西江原村(現・井原市西江原町)に生まれた彫刻家である。同時代の著名な彫刻家(かつ文人)といえば、高村光太郎が連想されるが、彼は明治16年の生まれなので、平櫛のほうが10歳ほど年上、というと、かなり古い人のような印象があるが、印象としては逆で、 高村光太郎が亡くなったのは私が生まれる前年の昭和31年だが、平櫛が亡くなったのは昭和54年。1979年、私が大学生のころ。彼は107歳のセンチュリアンで当時の男性長寿日本一でもあった。
 平櫛田中彫刻美術館は彼の終の棲家を残したものだ。玉川上水の緑地近く、武蔵野の木々の美しいところだ。この地域のことは、村上春樹や椎名誠とも関連して、cakes『番外編・国分寺書店にオババがいた時代』 にも書いたが、私の高校生時代の思い出がつまっている。
 平櫛田中という名前は、日本マクドナルド創業の藤田田のように奇妙な印象を与えるが、彼はもともと田中家に生まれ、平櫛家に養子となった。とはいえ、長じるまで田中姓を呼称していたので、彫刻家として大成してこの名としたのだろう。
 平櫛は高村光太郎のような近代西洋的な芸術としての彫刻家の文脈にあったわけではない。最初は人形師となり木彫りの修行をした。が、上京後、高村光雲の門下生となり、公募展で認められ、美術界の文脈に乗っていく。美術家の理念としては、岡倉天心に傾倒した。東京藝術大学の六角堂に岡倉天心像があるが、平櫛の作である。他、臨済宗僧・西山禾山の影響を受け、東洋風味の作品も多い。代表作としては、戦時をまたぎ、20年をかけて完成した「鏡獅子」があり、この美術館で鑑賞できる。モデルは6代目尾上菊五郎で美術館では、菊五郎のモデル写真を含め、その製造過程の展示も見ることができる。
 戦後、昭和37年(1962年)に文化勲章受章を受け、昭和40年に東京藝大名誉教授となった。
 今回作品を見て私が思ったことは、意外に近代的なデフォルメがなされていることだった。ジャコメッティにも近いのではないだろうか、と。平櫛は依頼された肖像の彫刻や仏像などもあり、写実あるいは日本伝統彫刻の流れにあると思っていたのだが、改めて向き合うとそうした意外性を感じた。
 実はこの日、平櫛田中彫刻美術館に赴いたのは、春秋年二回の茶席に参加したいためでもあった。平櫛の家の秋の美しさが感慨深い一服だった。

Hirakushi 

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2019.11.01

納豆作法

 物心つく頃から納豆は食べていたので、特に違和感なく納豆を食べることができる。が、それほど好きということはなかった。結婚後沖縄暮らしが長くなり、当時(25年ほど前になるか)、沖縄では東京と比較すればだが納豆がそれほどには普及してないこともあり、久しく食べないでいたら、嫌いになった。なんでこんな臭くて粘る、気持ちの悪いものを食べていたのだろうと思うほどだった。が、東京に戻り5年も経つと、納豆が懐かしくなり、その後ぽつぽつと食べるうちに以前のように納豆が食べられるようになり、そして、自分でも驚いたのだが、納豆が好きになった。好きになったなと思ったのは、納豆の味にうるさくなっていたのだ。この納豆はおいしい、この納豆はおいしくないと感じるのだ。ただ、タレについてこだわる人もいるが私はタレはさして気にしない。これはどうしたことか。納豆でなにがうまいと感じるのか?というと、燻蒸というほどではないが、火の香りと、豆の香り、納豆菌の香りなどが独自に統合されたある香りがポイントのようだ。そういえば、イタリアのスローフード協会の人だったか、納豆にカカオに似た香りがあるとコメントしていたが、それに近い云々。
 そして、そう頻繁にでもないが、納豆を食べるようになり、そしてもう一つ思うことがある。どういう所作で食べるべきか?
 たいていの納豆は、発泡スチロールのようなパックに入っている。開くと、ポリラップのような薄い正方形のフィルムがある。これは当然、納豆の粘りが付いているのだが、これをどう剥がすのか? 静かにゆっくりと上手に剥がすと、このフィルムに納豆が付かない。そして、剥がして、べたべた面を内側に長方形に折ると、もはやべたべたではなくなる。という行動を自然にするようになった。
 この過程に付随して、パックの蓋を静かに破るようにした。これに長方形に追ったフィルムと出し終えたタレと辛子の袋を重ねる。これらはもはやべたべたしない。
 この動作を繰り返しているうちに様式化し、どこかしら、茶道の帛紗捌きのように感じられてきた。
 で、思ったのだ?
 納豆作法というのがあってしかるべきなのではないか?
 そう考えると、納豆を混ぜる所作も茶筅の扱いに似てないでもない。
 食べ終えた納豆のパックもきれいに水を貼ってしばらくして流せば、ベタベタが残らない。
 『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』とも違って、納豆のあるべき食べ方の所作というのがありそうに思うのだ。茶道のような、納豆道というか。

 

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