[書評] 『音楽家プルースト ――『失われた時を求めて』に音楽を聴く』(ナティエ 著/斉木眞一 訳)音楽之友社 (2001/04/01)
数年前から毎年、一年かけてなにか知的に大きな対象に取り組むという、個人プロジェクトを立ててて実行している。二年ほど前は、プルースト『失われた時を求めて』を通読することだった。見事に挫折した。この挫折はけっこう自分にきつく、昨年は新規のプロジェクトが立てられないほどだった。というか、何か立てたように思ったが忘れている。今年は、イタリア語に取り組むことだった。こちらは、ネイティブの講座に出席し、Pimsleurの教材なども使い、概ね初級は終えたといおう意味で、すでに実行できたと思う。
そうしてみると、やはり、プルースト『失われた時を求めて』の通読非達成は痛い。このまま一生、通読することもなく、人生終わるだろうか。ロマン・ロラン『ジャンクリストフ』は諦めても、どうでもいいやと思いつつあるが。
そうした中、好機があって、プルースト『失われた時を求めて』の読破を兼ねて、ゼミを受講することにした。そうした過程で読んだ参考書に『音楽家プルースト ――『失われた時を求めて』に音楽を聴く』があり、ざっとゼミ用のレポートも書いたので、それをアレンジしてブログにも載せておく。
なお、同書のオリジナルは、『Proust Musicien』 (Jean Jacques Nattiez)1984/12/01、と古く、プルースト研究的には、今日的な意味はない。が、通読して悪いものでもない。示唆的な部分は多い。
本書の背景
『失われた時を求めて』第五篇『囚われの女Ⅱ』の重要なテーマに、『ヴァントゥイユの七重奏曲』がある。この点については、サミュエル・ベケットは1931年の『プルースト』で、次のように重要性を指摘している(対象書引用より)。
プルーストの作品に出てくる音楽、とりわけヴァントゥイユの<ソナタ>と<七重奏曲>の意味については、一冊の書物を書くことさえできるだろう。この方面でプルーストの証明にショーペンハウアーの影響があることは疑いようがない。[…]プルーストの作品では音楽は触媒の働きをしている
『囚われの女Ⅱ』ではプルーストの音楽観のみならず、『失われた時を求めて』全巻と音楽および芸術についての総合が語られている。そこで『ヴァントゥイユの七重奏曲』に関連して、プルーストの音楽観そのものを扱った本書、『音楽家プルースト』を参考図書として読んでみた。
なお、本書の「音楽家」の原語 Musicien は広義に音楽に素養がある人も含まれ、この用法として表題に使われている。
本書の目的
本書には2つの目的がある。一つは、『失われた時を求めて』をテーマとしてプルーストと音楽の関係をその進展の相において分析すること。二つ目は、著者が樹立しようとしている「音楽記号学」の事例研究である。
前者においては、サミュエル・ベケットが示唆したようにショーペンハウアーの音楽観の影響を明らかにしている。ショーペンハウアーにとっては音楽は哲学のあるべき理想のモデルであり、プルーストは音楽を文学の理想的で実現不可能なモデルとして捉えた。つまり、音楽それ自体の本質的な価値を示そうとした。
本書の手法
本書は、『失われた時を求めて』で暗示されている音楽の実際の音の姿である「小楽節」を扱う研究を超え、音楽として記号的に示されている事柄を作品の進展のなかで過程・生成的に捉えようとする。次の9の段階を見ている。
①最初の演奏とヴェルデュラン家のアンダンテ
②ヴェルデュラン家におけるその他のピアノ演奏、
③オデットのピアノ演奏、
④ヴェルデュラン家のでの<ソナタ>、
⑤サン=トゥーヴェルト家の<ソナタ>、
⑥オデットから語り手への<ソナタ>の継承、
⑦ヴァントゥイユとヴァーグナーの対比、
⑧<七重奏曲>、
⑨自動ピアノの演奏。
この過程を通して、今回の読書範囲での七重奏曲がその総合となる。
また、同書は、この過程を、スワンとオデット、また、「私」とアルベルチーヌとの関係における心情の変化に対応していることを指摘している。
なお、基本的にプルーストは、芸術の探求を3つの段階で捉えていることも指摘されている。
①「私」及び作中者が芸術を理解できないことの表面、
②これを謎として受け止めて探求、
③記憶と内省から本質を見出す。
本書から得た示唆
- プルーストとワーグナーの関わり。特に『パルジファル』。しかし、その受容の深化は、①ドビュッシー、②ワーグナー、③ベートーヴェンの段階として捉えられている。
- ショーペンハウアー哲学との関わり。
- なぜ七重奏曲なのか?という問い。すべての楽器群を指すと本書は捉えている。
- 七重奏曲について吉川氏が詳細な研究を行っていたこと。私は、セザール・フランクとの関連に関心を持った。