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2019.10.31

[書評] 『音楽家プルースト ――『失われた時を求めて』に音楽を聴く』(ナティエ 著/斉木眞一 訳)音楽之友社 (2001/04/01)

 数年前から毎年、一年かけてなにか知的に大きな対象に取り組むという、個人プロジェクトを立ててて実行している。二年ほど前は、プルースト『失われた時を求めて』を通読することだった。見事に挫折した。この挫折はけっこう自分にきつく、昨年は新規のプロジェクトが立てられないほどだった。というか、何か立てたように思ったが忘れている。今年は、イタリア語に取り組むことだった。こちらは、ネイティブの講座に出席し、Pimsleurの教材なども使い、概ね初級は終えたといおう意味で、すでに実行できたと思う。
 そうしてみると、やはり、プルースト『失われた時を求めて』の通読非達成は痛い。このまま一生、通読することもなく、人生終わるだろうか。ロマン・ロラン『ジャンクリストフ』は諦めても、どうでもいいやと思いつつあるが。
 そうした中、好機があって、プルースト『失われた時を求めて』の読破を兼ねて、ゼミを受講することにした。そうした過程で読んだ参考書に『音楽家プルースト ――『失われた時を求めて』に音楽を聴く』があり、ざっとゼミ用のレポートも書いたので、それをアレンジしてブログにも載せておく。
 なお、同書のオリジナルは、『Proust Musicien』 (Jean Jacques Nattiez)1984/12/01、と古く、プルースト研究的には、今日的な意味はない。が、通読して悪いものでもない。示唆的な部分は多い。

 


本書の背景
 『失われた時を求めて』第五篇『囚われの女Ⅱ』の重要なテーマに、『ヴァントゥイユの七重奏曲』がある。この点については、サミュエル・ベケットは1931年の『プルースト』で、次のように重要性を指摘している(対象書引用より)。

プルーストの作品に出てくる音楽、とりわけヴァントゥイユの<ソナタ>と<七重奏曲>の意味については、一冊の書物を書くことさえできるだろう。この方面でプルーストの証明にショーペンハウアーの影響があることは疑いようがない。[…]プルーストの作品では音楽は触媒の働きをしている

 『囚われの女Ⅱ』ではプルーストの音楽観のみならず、『失われた時を求めて』全巻と音楽および芸術についての総合が語られている。そこで『ヴァントゥイユの七重奏曲』に関連して、プルーストの音楽観そのものを扱った本書、『音楽家プルースト』を参考図書として読んでみた。
 なお、本書の「音楽家」の原語 Musicien は広義に音楽に素養がある人も含まれ、この用法として表題に使われている。

本書の目的
 本書には2つの目的がある。一つは、『失われた時を求めて』をテーマとしてプルーストと音楽の関係をその進展の相において分析すること。二つ目は、著者が樹立しようとしている「音楽記号学」の事例研究である。
 前者においては、サミュエル・ベケットが示唆したようにショーペンハウアーの音楽観の影響を明らかにしている。ショーペンハウアーにとっては音楽は哲学のあるべき理想のモデルであり、プルーストは音楽を文学の理想的で実現不可能なモデルとして捉えた。つまり、音楽それ自体の本質的な価値を示そうとした。

本書の手法
 本書は、『失われた時を求めて』で暗示されている音楽の実際の音の姿である「小楽節」を扱う研究を超え、音楽として記号的に示されている事柄を作品の進展のなかで過程・生成的に捉えようとする。次の9の段階を見ている。

①最初の演奏とヴェルデュラン家のアンダンテ
②ヴェルデュラン家におけるその他のピアノ演奏、
③オデットのピアノ演奏、
④ヴェルデュラン家のでの<ソナタ>、
⑤サン=トゥーヴェルト家の<ソナタ>、
⑥オデットから語り手への<ソナタ>の継承、
⑦ヴァントゥイユとヴァーグナーの対比、
⑧<七重奏曲>、
⑨自動ピアノの演奏。

 この過程を通して、今回の読書範囲での七重奏曲がその総合となる。
 また、同書は、この過程を、スワンとオデット、また、「私」とアルベルチーヌとの関係における心情の変化に対応していることを指摘している。
 なお、基本的にプルーストは、芸術の探求を3つの段階で捉えていることも指摘されている。

①「私」及び作中者が芸術を理解できないことの表面、
②これを謎として受け止めて探求、
③記憶と内省から本質を見出す。

本書から得た示唆

  • プルーストとワーグナーの関わり。特に『パルジファル』。しかし、その受容の深化は、①ドビュッシー、②ワーグナー、③ベートーヴェンの段階として捉えられている。
  • ショーペンハウアー哲学との関わり。
  • なぜ七重奏曲なのか?という問い。すべての楽器群を指すと本書は捉えている。
  • 七重奏曲について吉川氏が詳細な研究を行っていたこと。私は、セザール・フランクとの関連に関心を持った。

 

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2019.10.30

[ドラマ] レジデント 型破りな天才研修医

 最近楽しみに見ている洋ドラは、『レジデント 型破りな天才研修医』である。米国ではシーズン3になっているようだ。私は Huluのシーズン2を見ている。このシーズン2は2クールあって、現在その18回あたり。邦題からもわかるように、医療ドラマものである。
 面白いか? 面白い。私には面白い。お勧めするか? さほどしない。というのは、なんだろ、医療ドラマ自体、人を選ぶというのもあるし、特撮を使っているのだうが、けっこうスプラッタなので、そもそもそれがだめという人もいるだろう。ただ、さほどお勧めはしないというのは、通俗的なドラマだからだ。それほど尖った部分はない。特段に新しいテーマでもない。それでも、一昔前の『Dr.HOUSE』に比べると、新しさはある。画面に動きがある。通俗的とはいっても、ストーリーは、毎回小完結ものだが、複数のストーリーが噛み合っていて、伏線もあり、飽きない。というか、その飽きさせない感じも通俗的ではあるが。
 医療面でも面白い。シーズン2になって、それはねーだろという話も増えてきたが、米国の医療の現場感はある。日本の医療と差も考えさせられる。米国がいいわけでも、日本がいいわけでもないが。
 なにが面白いか? ふつうにドラマなので、人間模様が面白い。邦題にもあるが、レジデントの人生がよく描かれている。通俗ドラマなので、悪役も出てくる、というか、悪役が単純すぎるが。米国ドラマの呪いというか、スターウォーズもこてこてだったが、父と子の和解なんていうのも盛り込まれている。恋愛は、あるある。
 主要キャラクターも、それほど深みのある演出でもないが、みなさん演技はさすがだ。俳優に見入ってしまう。主人公のコンラッドを演じるマット・ズークリーは、なんだろ、かっこいいというのでもないが、あれは、ある種の女性には、相当にやばいだろうなあ。『ギルモア・ガールズ』のローガン君もおっさんになったな。42歳だもなあ。ちなみに、『グッド・ワイフ』のほうは見てないが。
 マット・ズークリーは北欧系が入っているのだろなとググってみると、父方はウクライナらしい。大学教授だ。へえ。というか、おぼっちゃま感は地だな。

  

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2019.10.29

英語の現在進行形がどこから生まれたのかわからない

 ずっと疑問に思っていることがある。英語の現在進行形がどこから生まれたのかわからないことだ。いや、そういうとバカみたいで、定説については(おそらく定説だろう)一応知っている。確認として、私も大学院で師事した中尾俊夫先生編の『歴史的にさぐる現代の英文法 』には、「起源説としていくつかの説が行われているが次の3つの解釈がもっとも妥当だと思われる」として3説載っている。同書はもうかなり古いが、現代でもそれほど外してもいなのではないか。いわゆる、①OEのbēon+on+ing、②OEのbēon+-ende、③両者の折衷。
 いずれもOE起源、つまり、英語の単独起源で捉えている。
 だが、同書でこう触れているのが重要である。

 OEから1500年ごろまでは進行形になりうる動詞は大変厳格に制限されていた。

 批判的に言うなら、それは例えば、ロマンス語の過去で、具体的にはフランス語ならêtreとavoirを使い分けるのにも似ているが、その限定性からすれば、文法というよりも、慣用語法ではないだろうか。つまり、文法と言えないのではないか。同書はさらにこう言及して終わってしまう。

 他動詞にも拡大されるようになったのは15世紀以降のことである。16世紀からは制限も緩まり徐々に拡大していった。

 という転機こそが、そもそも、英語の現在進行形という文法の事実上の起源であり、なぜそのような変化がそこで発生したのかを説明しないと、学問的な説明にはなっていないのではないかと思う。
 というか、それ以前に、なぜ、英語のなかで単独で説明を試みるのか疑問に思える。転機は、時代的には明らかにアングロ・ノルマン語との関連があるはずだ。
 ところが、アングロ・ノルマン語には現在進行形という表現はない。
 類似で、しかも構造的に告示しているのは、イタリア語の stare + gerundio である。もしかして、イタリア語の影響なのではないか?
 英語の現在進行形が英語に浸潤していく時代は、ルネサンス文学として、俗ラテン語ともイタリア語とも分別付きづらい「ラテン語文学」が翻訳された時期で、そうした翻訳文体がそのまま英語文法に定着してしまったということはないのだろうか?

 

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2019.10.28

ルーマニア語の起源は何か?

 今季のアニメで一番面白いのは、当然、いろんな意見はあるだろうが(実際には2クールとか)、『ヴィンランド・サガ』としてもそう異論があるわけでもないだろう。このなかで、現在の章立てでは、事実上の主人公のアシェラッドという興味深い人物が描かれているが、若干ネタバレになるが、デーン人と思いきやウェールズの元王女の母リディアの子どもで、ルキウス・アルトリウス・カストゥス (Lucius Artorius Castus)の正統という幻想を抱いている。つまり、ローマへの帰順の感覚である。ウェールズにそういう心情が重ねられるものか私はよくわからない。
 で、このルキウス・アルトリウス・カストゥスだが、アーサー王のモデルともされている(余談だが、アーサー王は男だからね)。というあたりで、奇妙なのは、アーサー王伝説はむしろ、反ローマ的な英国起源幻想として創作されたものではないかと思う点だ。つまり、ケルトなるのもの「幻想」というか。
 それもさておき、アルトリウスの事績はダルマチアに残る。ローマ兵なのだから当然といえば当然のようだが、このさらに東方までローマの版図として、ダキアがある。これは、後にローマ起源の幻想からルーマニアとなる。実際、ルーマニア語はロマンス語なので、ローマ帰順の感覚と結びつきやすい。
 だが、そうなのか?
 そうなのかというのは、こうしたローマ帰順の幻想の歴史の意味は何かということと、具体的にルーマニアって何?ということだ。
 個別のルーマニア語って何と考えると、ロマンス語なのだから、ダキアの歴史から関連つけて自明のようだが、どうやらそうでもないらしい。
 比較的地味なロマンス語解説書とも言える(失礼、ラテン語がきちんと中心に据えてある点は画期的)『ロマンス語概論』を読んでいくと、第10章が「ルーマニア語の起源について」という考察で、これが、微妙にスリリングな話だった。まず、現在のルーマニア語とダキアとの関連は、よくわからないとしている点である。ルーマニア語の起源は論争の的であり、決定的な定説がないらしい。なぜそうなるかというと、ダキアの歴史からの継続なのか、別から流入したのかという点で論争があるからだ。当然、ナショナリズムの幻想が関連してくる。というあたりで、冒頭のアシェラッドを連想したのだが。
 筆者の考えは、ロマンス語の枠で捉えながらも、アルバニア語、ブルガリア語との混合と見ている。時代も10世紀を想定している。妥当な説のようだが、そういう捉え方でロマンス語というなら、英語すらもロマンス語になってしまうのではないだろうか?
 この議論の過程で参考に出てくるのが、ポルトガル語はカタルーニャ語と同一の祖であったという「常識」である。知らなかった。むしろ、カスティーリャ語(スペイン語)がそれを地理的に分断しているらしい。

 

 

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2019.10.27

スタンダールの墓碑銘の間違い

 スタンダールの墓碑銘は、有名である。『生きた 書いた 愛した』である。マイペディアにも「墓碑銘〈生きた,書いた,愛した〉は有名」とある。
 ところが、Wikipediaには、こう書いてある。

墓碑銘は「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」である。

 順序が違いますね。マイペディアは「生きた・書いた・愛した」の順で、Wikipediaでは「書いた・愛した・生きた」の順。
 どっちが本物かな?
 写真を見れば、一目瞭然。

Stendhal_tombe_cimetiere_montmartre

ARRIGO BEYLE
MILANESE
SCRISSE
AMÒ
VISSE

 直訳すると、「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」。
 つまり、Wikipediaが正しく、マイペディアが間違い。

なーんてな!

 正解は、マイペディアのほう。フランスのモンマルトルにあるスタンダールの墓碑銘の実物が誤植なのでした。
 って、ことがありうるだろうか?
 ちなみに、フランス語のWikipediaを見ると、写真通り。英語のWikipediaにはそもそも言及なし。イタリア語のWikipediaはというと、こう。

Poi, la sepoltura nel cimitero di Montmartre, con l'epitaffio (in italiano) voluto dallo stesso Stendhal: «Arrigo Beyle / Milanese / Scrisse / Amò / Visse / Ann. LIX. M. II/ Morì il XXIII Marzo MDCCCXLII».

 語順的には、フランス語Wikipediaと同じ。つまり、日本版Wikipediaとも同じ。じゃあ、マイペディアが正しいという根拠は何か?
 その前に、そもそもこのスタンダールの墓碑銘だが、「VENI VIDI VICI」のようにラテン語のように見えるけど、イタリア語Wikipediaを見てわかるように、イタリア語。
 スタンダールは、自分の墓碑銘をイタリア語にしていた。しかも、ミラノ人だと言っているのである。え? フランス人じゃないの。主要作、『赤と黒』『パルムの僧院』だってフランス語。そもそも、本名Henri Beyleでグルノーブル生れ。フランス人じゃん。
 ところが、自身はイタリア人というか、ミラノ人だと思っていた。少なくとも、ミラノ人として死にたかった。だから、墓碑銘もイタリア語で書いた。
 おっと、それが失敗のもとだった。
 イタリア語がわからないフランス人が、墓碑銘を誤植してしまった!
 と、なぜ言えるのか?
 『イタリア詩歌』にそう書いてあったのだ。

 そうです。墓碑銘は一般に流布している方が正しいのであって、モンマルトルの墓碑に刻まれている銘は間違っているのです。
 前者、すなわち日本でもよく知られている方の銘は、末尾に動詞amoreの遠過去形amòが来ていますので、6音節からなる末尾第一音節強制詩行となり、全体は《強弱》リズムで統一されています。一方、実際の墓碑に刻まれた銘の場合、そうしたリズムの統一が失われている上に、2番目の動詞amòの強音節と3番目の動詞visseのそれとが隣接する形になります。音声の数は5ついう計算になります。当然、5音節詩行は形成されません。

 これで完璧な説明と言えるかというと、考証学的にはどうかとは思う。ついでに、ここでは「イタリア人ならば、ほとんど本能的にこれではおかしいと気付いたはずだからです」とあるけど、イタリア語Wikipediaにはそうした注記はなかった。

 

 

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2019.10.26

日仏会館講座『世界のなかのフランス史』に行ってきた

 日仏会館講座『世界のなかのフランス史』に行ってきた。午後2時から5時半までの長丁場で、椅子も固く、会場も寒かったが、内容は充実して退屈を感じることもなかった。
 テーマは、2017年にパトリック・ブシュロン(Patrick Boucheron)、コレージュ・ド・フランス(Collège de France)教授が4人の仲間と編集し、出版した"France la de mondiale Histoire"の意義とその社会的な反応、さらに歴史学とは何かという大きな視点まで含めた議論である。同書は、フランスで10万部を超えるベストセラーとなり、同時期の選挙の動向とも関連した一種の社会現象ともなるほか、史学者を多く交えた大きな議論となった。おそらく日本ではあまり知られていない印象はあるが。フランスではすでにペーパーバック版が出て、改定も含まれている。

 

 議論の中心的な話題は、従来のフランスのナショナル・ヒストリーとして語られる歴史、つまり、フランスの国民アイデンティティの物語に大して、それを解体する試みとして受け止めるかという点であった。
 当然ながら、ブシュロン教授自身が登壇する予定だったが、体調の理由から欠席。その他、東大などで予定されていた講演会なども中止された。が、この日仏会館講座『世界のなかのフランス史』は氏の文書メッセージを読み上げた後、4人のパネルと司会で実施された。なお、司会は 高澤紀恵(法政大学、日仏会館学術委員、近世フランス社会史)、講師は、 三浦信孝 (中央大学名誉教授、日仏会館副理事長)、成田龍一(日本女子大学、日本近現代史)、岸本美緒(お茶の水大学名誉教授、中国明清史)、平野千果子(武蔵大学、フランス植民地史)である。
 今回、ブシュロン教授欠席でも講座が実施されたのは、講師らがこの日に備え、今年の春先から4回に渡り、準備の学習討論会を重ねており、その成果の発表でも充実した内容になるものと想定されたことだった。実際、そのとおりであったと感じられた。
 論点は多岐に渡った(『日本国紀』などの対照もあり)が、スキーマティックに理解する上で役立つのは、成田氏の次の戦後史学世代論であった。日本とも対比されている。

戦後史学世代 フランス 日本
第1世代 フェルナン・ブローデル 石母田正
第2世代 ピエール・ノラ 網野善彦/安丸良夫
第3世代 パトリック・ブシュロン  ?

 史学書的には、ブローデルでは『地中海』、ピエール・ノラ論文集『記憶の場』であり、特に、『記憶の場』が議論の対比の焦点となった。
 ブシュロン編の同書自身の内容についての具体的な言及は、主に平野氏からなされた。

  


 さて、以上のように見ると、学術的な側面が強調されるが、同書は、年号を章立てにしたコラム集でもあり、裏付けとなる史観に現在性はあるものの、出版物としての基本的な骨格は一般書である。その意味では、同じくベストセラーとなったロラン・ドゥッチの『パリ歴史散歩 メトロにのって』に近い。
 年号項目の例として平野氏が揚げた以下の項目なども印象深い。

1940 自由フランスは赤道アフリカに生まれた
1940 ラスコー洞窟は、対独敗北で発見された

 背後にはヴィシー政権の存在が意識されている。

 同書の日本語訳の予定についての言及はなかった。おそらく翻訳はされないのではないだろうか。英語版の翻訳はすでに出ているので、仏語オリジナルより読みやすいのではないかと考え、私はこちらを購入した。同書には英語圏の読者を対象とした、論文に近い序説が追加されている。

 

 

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2019.10.25

湯たんぽ遍歴

 また、湯たんぽを買った。またまた、というべきかもしれない。歴史を振り返ってみよう。最初に、湯たんぽ、ありき。まあ、それはいいや。僕が子供の頃だ。半世紀も前のこと。古代といってもいい。近代はというと、fashy(ファシー)だ。日本人からの印象だと水枕という感じか。ゴムのようでふにゃっとしている。でも、ゴム臭くないので(ポリウレタンのコンドームもゴム臭くない)、ゴムではないだろう。素材は何でできているんだろう。ドイツで普及しているという。たぶん、なんかエコロジーな素材なんだろう。触っても自然な感じがする。夏の水枕にはそのまま使えないこともない。が、ふつうカバーをする。ファシーの楽しいところは、カバーである。 というか、カバーに凝る。

 


 ファシーは2リットルだと、夜にお湯を入れて、朝までほんのり暖かい。湯温度は55〜50℃くらい。湯たんぽ全体に言えるが低温やけどしないように。
 次の世代は、「レンジでゆたぽん」とかいうやつ。お湯は入れない。すでになんか、ゲルというのだろうか、ぶにょぶにょしたものが入っている。これを電子レンジでチンするとあたたまる。便利? 便利かもしれない。愛用している人も多い。ただ、なんだろ、あまり使わなかった。ファシーに戻ったのである。荘園を脱走した農奴もまた故郷に帰ってきたというか。

 


 第三世代、というか、最近試しているのが、「充電式 ゆたんぽ」というやつ。電子レンジ湯たんぽと似たようなゲルが入っているのだが、これに電熱線が通っていて過程電源で温める。15分くらいでできる。「充電」というが、これ、充電器が入っているわけではない。最初に電熱器の原理で温めるというだけだ。もちろんというべきか中国製である。この手のものはだめなんだよなと思いつつ、使ってみると、よいのである。何がよいのか?

  Screenshot-20191107-at-65132-am

 充電うんたらはどうということはない。電子レンジ湯たんぽと同じだと言っていい。よいのは、カバーである。なるほど、この手があったかと思った。カバーの上下の厚みが違うのである。
 普通湯たんぽというのは、湯を入れたら、低温やけどしないようにカバーに入れる。ファシーだとカバーがファッショナブルで楽しいが、ようするに原理は普通のカバーだ。だが、このカバーは厚みがあるほうを上にしておくと、下が毛布と布団とかだと、それだけで保熱性が高い。使うとき、最初は、厚いほうを上にしておく、朝ひっくりかえすと薄いほうは十分暖かい。厚みの差で保熱や温度調節ができる。これって中国人の知恵? あと、この充電湯たんぽ、手が入る。寒いところに座っているとき、膝にのっけて、手を入れると手が暖かい。中国ではそうやって使っているのだろうか?
 まあ、湯たんぽカバーの上下の厚みを変えるというのは、なかなかいいアイデアだなと思った。

 

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2019.10.22

即位礼正殿の儀のこと

 朝、NHKの番組表を見ると、ほとんど終日、即位礼正殿の儀の番組なので呆れた。平成の時もそうだったろうかと思い出そうしたが、記憶が今ひとつ曖昧だった。30年前と違いは、いろいろあるだろうが、そうだな、ネットの反応、特にSNSの反応というのも大きな違いなるにだろうと思った。
 ネットを覗くと案の定、関心を持つ人は多そうだった。天皇を好意的に受け止める人がこうも増えたものかと思い、こうした傾向は日本ナショナリズムの一つの達成でもあるのだろうなと他人事のように思い、なんの気なしに私もつぶやいた。

皇室が偉いというのは、国民国家意識が芽生えた江戸時代にできたもんだと思う。

 それが、プチ炎上した。というか、罵倒を数多くいただいた。概ね、間違っている、歴史も知らないのか?、古典を読め、バカじゃね、といった類で、簡素なものだった。まあ、Twitterにありがちなことだし、その人たちに、①朱瞬水から水戸学の流れ、②対抗キリシタンと平田篤胤の流れ、といった背景の話をしても、あまり意味はないだろうとも思った。そもそもそれらの文脈自体を知らないのではないだろうか。無知と言われて、お前らのほうが無知だと言い返したいわけではない。単純に、江戸時代という時代に国家国民意識の思想が形成され、それが皇室に結びついていく過程に、その人々は関心ないだろう。明治の近代化で日本人は江戸の思想史のある部分を忘却しているのだ。
 皇室への敬意は、もちろん、江戸時代以前からある。徒然草の有名なくだり、「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ。 帝の御位はいともかしこし」といったようにだ。が、兼好法師のこの言葉も、すでに承久の乱(武家政権が上皇を配流した)を踏まえてのことで、もはや「いともかしこし」と敬するだけの時代を表している。
 そもそも古代天皇制というのは、斎宮制度と一体のもので(おそらく天武時代に同時に創作されたのだろう)が、斎宮が南北朝までに次第に消えてしまった。天皇制というのは、南北朝以降、古代のそれとは異質なものとなった。
 そうして、橋爪大三郎の東工大講議「尊皇攘夷とはなにか 山崎闇齊学派と水戸学」でこう触れているように、天皇家は江戸幕府のなかで一定の枠に収まった。

 当時の天皇家は、山城の国の一領主。法的に幕府の支配下に置かれていた点は、浅野家の赤穂藩と変わりません。

 それが江戸時代に変容していく。橋爪はこう続ける。

もし、天皇を絶対視し、その確認不能な「意志」を自らの志として行動する人間が出現したら? 赤穂義士の場合と同じで、それを肯定するほかないでしょう。幕末には、薩長や水戸藩ばかりか、幕府も会津も、国中が尊皇を旗印にするようになります。そういう雰囲気が、攘夷の主張(外国に侵略されるのは、政治的な正統性が誤っているからだ)と結びついた結果、尊皇攘夷思想→倒幕運動が成功したのです。

 この系統を生み出したのだが、先の、①朱瞬水からから水戸学の流れ、で、そのなかで、「異形の王権」ともいえる後醍醐天皇象が再・創作され、正閏論になり、明治時代から現在の「万世一系」論にまで影響する。実際の現在の天皇家は北朝とも言えるのに。
 先の続きでいえば、②対抗キリシタンと平田篤胤の流れ、というのも、ナショナリズムに収斂していくのだが、ここでは朱子学とは異なり、キリシタン排除のエートスがある。そうした異なるものを排除するエートスが、今日また新しい形を取りつつあるのではないかとも思った。彼らはキリスト教も嫌いだし。
 いずれにせよ、即位儀礼をメディアで傍観しながら、ここまで日本国民を巻き込み、戦後の日本国憲法に沿わせていく大きな流れを生み出したのは、明仁陛下であったなと感慨深く思った。天皇位の業績とはこのような形で結実したのだろう。ものすごいものだなと率直に思った。(どうでもいいが、徳仁陛下の首が曲がって見えるのは少し気になった。安倍首相も首が曲がっている。ご苦労が首に来ているのだろうか。)
 天皇家は変容していく。密教の儀礼は消えた。明治天皇がしたように即位儀礼で地球儀を跨ぐことも、もうない。ナショナリズムは憲法の箍で比較的に美しく皇室への敬意と結びつき、日本人に日本人であることのアイデンティティのようなものすら与える。日本が、三島由紀夫の恐れた凡庸なる東洋の島ではなくなっていくのでもないだろう。三島が生きていたら94歳。今日の日をどう見たか、わからないが。

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2019.10.21

血液クレンジングとリスク・コミュニケーション

 ネットで、「血液クレンジング」が話題になっていた。血液を一旦抜き、処理し、再び体内へ戻すという治療法である。血液を濾過するという医療はあるが、話題になっているのは、オゾンを加えて戻すというもので、アンチエイジングを狙っている。老化防止や疲労回復、がんやHIVなどの病気にも効果があるとうたっているのだが、話題になったのは芸能人や、インフルエンサー(影響力のある人)が体験して、広めようとしていることだ。端的に偽医学と言ってよく、こんなものを社会に広めるというのは間違っているので、ネットでも反論から攻撃が頻繁に見られた。
 健康にまつわる偽医学は多いのだが、この「血液クレンジング」は高額だし、効果もないどころか、身体を害する可能性もある。しかも、医療機関がそれを行っているということで、いろいろ問題が多い。批判も当然だろう。
 ただ、ネットでは批判から、これも当然というべきか、攻撃に転化する。
 「血液クレンジング」は効果はなく高額なのでいずれ消えていくだろうと思うが、偽医学や間違った医学知識のようなものはネットに多い。正しい情報で対抗すべきだろうとは思うが、これをコミュニケーションとして見たとき、効率的なのだろうかと疑問に思えた。特に、リスク・コミュニケーションと見たとき、どうなのか?
 リスク・コミュニケーションについては、経産省に専用のホームページがある。そこで、リスク・コミュニケーションとは、という項目を見ると、こうある。

 安全など事業活動にかかわるリスクは、少ないことが望ましいのですが、リスクをゼロにすることはできません。このため、上手にリスクとつきあっていくことが重要になります。特に、多種多様な化学物質を扱っている事業者は、そうした化学物質の環境リスクを踏まえて適正な管理を行うことが重要です。
 そのためには事業者が地域の行政や住民と情報を共有し、リスクに関するコミュニケーションを行うことが必要になってきます。これがリスクコミュニケーションです。

 ここでは、「血液クレンジング」といった偽医学・医療は含まれていないと見ていいだろう。そもそも経産省なので、厚労省に関わる部分は出てこない。というか、そもそもリスク・コミュニケーションで、こうした偽医学・偽医療を扱うべきではないのか?
 リスク・コミュニケーションを包括的に扱うことで定評のある”Risk Governance: Coping with Uncertainty in a Complex World”では、リスク・コミュニケーションの第一歩を正しい知識の伝達として捉えていた。

 

 正しい知識を伝達することで、社会のリスクを減らすというものである。「血液クレンジング」などの偽医療への批判はこれに含まれるだろう。だが、同書では、そうした手法が効果的ではないどころか、反発を受けるとしている。
 次は啓蒙の一貫ではあるが、説得という手法が取られた。ただ知識を伝えるのではなく、伝えるべき相手を考慮して、受け入れやすい知識にするというものである。これも、概ね失敗した。そもそも受け入れ側に、受け入れがたい利害の背景などがあった。
 そこで第3の展開として、信頼関係が問われるということになった。いかに信頼関係を構築するかということだ。
 そこで、もういちど「血液クレンジング」に振り返ると、著名人やインフルエンサーのほうが、これに騙される人と信頼関係を築いていることがわかる。効果的なリスク・コミュニケーションは彼らのほうが取っていたという矛盾したことになっている。
 とはいえ、リスクを招きかねない状態に対するリスク・コミュニケーションとしては信頼を基本としていくしかないのだが、SNSでどのようにそれが促進できるのだろうか? 
 できないから、今日の事態になっているとも言えるのだろう。というか、SNSではない、情報と信頼の関係をどう築いたらいいのかという問題なのだろう。

 

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2019.10.20

神代植物公園に行ってきた

 10月20日。そういえば、と思い、神代植物公園に行ってきた。8日から来月10日まで秋のバラフェスタも開催している。
 神代植物公園には学生時代よくひとりで行ったものだ。200円だったように思う。閑散として人の気配のないフランス式沈床庭園のバラ園が好きだった。滅んだ王朝の王の霊にでもなったような孤独な気分で、小高いテラスから薔薇を見ていたものだった。
 気がつくと、何年行ってないだろう。東京に戻ってから、いつでも行けると思っていたし、何度か行ったような気分でいたが、冷静に考えると、行っていない。25年は行ってない。
 行ってみた。入園料は500円。ここだけインフレしたかのようだ。
 バラ園はあまり変わらないように思えた。

Roze1

 が、ところどころ、間違い探しのように違う気もする。よく思い出せない。昔はもっと多種類の薔薇が密生していたように思うのだが、現在は、季節もあるのだろうが、どちらかというとまばら。というか、ある程度見栄えのする薔薇を鑑賞用にまとめて植えているようだった。比較的頻繁に植え替えしているのではないだろうか。
 そして、見たい薔薇はあった。懐かしかった。

Rose2

Rose3
Bon anniversaire, L'impératrice Émérite Michiko !

 薔薇を見ながら、この四半世紀にできた新しい品種もあることに気がつく。というか、かつて見た薔薇や好きだった薔薇はどことなく、レトロな趣だ。こういうものにも流行というか時代の変化はあるのだろう。
 バラ園以外にもフェスタということで、薔薇の展示がいろいろあった。薔薇の盆栽というのがあるのも知った。面白く、そしてやはり奇妙なものだとも思った。薔薇の一輪挿しもあった。なるほど、薔薇で一輪挿しか、と関心するほど、清楚で美しかった。
 大温室開館は随分とゴージャスになったように思った。以前もここで見事なベゴニアを見たように思うが、現在はさらに見事なものになっていた。
 深大寺に抜けると秋祭りだった。

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2019.10.19

ファイナルふろしき袋

 コンビニやスーパーでちょいと物を買うとき、ビニール袋に入れてもらうのが嫌で、マイバッグを持ち歩いていたものだが、なんとなく忘れることが多くなっていた。マイバッグを片付けるのが、なんとなくめんどうなのだ。
 この状況をどうしたものかと考えて、そうだなあ、ふろしきが使えるんじゃないか思っていた。
 そんなおり、街をぶらついていると、50センチ四方の化繊のふろしきを見かけ、買った。これでなんかマイバッグの代わりになるのではないかとふと思ったのだった。
 ふろしきにはいろいろな使い方がある。先日も、ふろしき展なるものを見て、実演コーナーで試してもみた。利用法の本もあるし、まあ、ネットにもその手の情報はある。だが、どうも、いまいち。
 なので、自分で簡易なふろしき袋ができないか、パズルを解くように考えていて、できた。

 こんな簡易な方法、きっと誰かがすでに考えているに違いないから、発明を主張しないが、ざっと見たところでは見当たらない。ので、とりあえず、「ファイルふろしき袋」ということで、ご紹介。

ファイナル風呂敷

① 50〜70センチ四方くらいのサイズのふろしきがよいと思う

 

② 山の形に折おる

 半分に三角形に折る。四隅の2つの端が上に来る。山の形にする(谷折り)。

③ 山の裾の二点を適当に結ぶ
 あんまり先っぽを結ぶわけではない。どのあたりがいいかは、出来上がってやりなおして勘でいいと思う。

Fro1

④ 山の形を開き、内側にひっくりかえす
 これで袋の構造になるのでした。というか、用途に合わせてこの袋の具合を調節する。
 縛った2部分は、袋の内側に来ます。

⑤ かつての山の2つの先っぽを縛って、取っ手用の輪っかにする

Fro2  
 これだけ。

 写真が少なくてわかりづらいかとは思うが、やってみたらわかると思う。
 一度できれば、すごく簡単なのもわかるだろう。
 使い終わったら、元のふろしき。当然、普通にふろしきとして利用できる。
 
 ご注意:この袋構造はゆるいので中の物が取り出しやすいが落ちやすい。それがいやならきっちりふろしきで包むといい。

 もっと親切にイラストで解説できる人が別途ブログ記事とか紹介記事とかにしていい。
 便利だったら、オリジナリティの主張はしないけど、このブログで読んだとリンクでも貼ってくださいな。


追記
 「山折り」の表現が間違っていたので訂正しました。

 

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2019.10.16

『ゲーム・オブ・スローンズ』を見終えた

 15日に、huluで『ゲーム・オブ・スローンズ』の最終章が公開になっていた。スターチャネルではもう放映も終わり、他メディアにもあるとは思うが、いずれhuluででやるだろうし、Amazon Primeでもやるだろうと思って、あまりペイチャネルを増やしたくもないこともあり、待っていた。2日で見終えた。
 ネタバレ情報は意図的に無視していたので、新鮮な気持ちで見られた。とはいえ、エンディングに納得しないという噂は耳にしていた。
 で、どうだったか。
 よかったんじゃないだろうか。納得できるエンディングだったと思う。
 以下、ネタバレはなしだが、最終章の山場は、当然、ホワイト・ウォーカーとサーセイになり、これもまた当然のこと、大戦闘シーンになる。映像的には、2つの大戦闘をどう描くかにかかっている。
 で、この2つだが、一つは原作タイトルの『氷と炎の歌』だし、もう一つはまさに『ゲーム・オブ・スローンズ』である。
 その意味で、この2つの局面を最終章でどう統合するかというのが、物語に求められたことであり、まあ、これでいいんじゃないかとエンディングだった。別の言い方をすれば、2つのエンディングにさまざまなエンディングが上手に統合されていた。
 感動したか?
 感動というより、自分が老いたように思えた。私はゲースロの初期のファンではないが、この長い物語に人生の一部をつぎ込んできたようには感じている。出演者もそれぞれに成長や老いがあって、そこも興味深かった。
 ある意味、この作品を見るということは、人生のいくばくかを犠牲にするようなところがあるだろう。その点で、万人に勧められる作品とは言えないんじゃないか。
 文学的、あるいは、哲学的な問いかけはあったかというと、あったとは思うが、あくまで映像作品としての面白さに隠れた印象はある。深淵な問いでなければ、女というものをよく描いた作品でもあったように思った。
 いずれにせよ、『ゲーム・オブ・スローンズ』は終わった。関連作品が続くかもしれないが、大きな物語は終わった。ああ、終わったんだなとしみじみ思う。

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2019.10.14

[映画] 日日是好日

 映画『日日是好日』を見た。森下典子原作のほうは、既読。以前ブログにも書いたので、いつだったかと見ると、記事は2005年であった。2002年の作品で、そのころ読んだのだろう。15年以上も昔になるのか。彼女は私より一つ年上なので、63歳。おばあちゃんという
年でもないが、若い人からは随分と年上に見られることだろう。
 映画のほうは、その、茶道のインスピレーションについて原作をなぞっているともいえるが、まずもって、黒木華演じる主人公の年齢が違う。1993年に20歳くらいであったかとそこから、2018年で25年、といったところかと書いてみて、そういえば、原作でも森下は25年目にして師匠となったのだったように記憶している(原作は私の書架に埋もれて不明)。
 映画としてはどうか。普通によい映画、という以上によい映画であったように思う。ただ、いわゆる映画的な映画とも違うだろう。よく茶道というものを描いていた。が、映画らしいともいえる。師匠役の樹木希林の演技が見事だった。彼女は茶の心得があるのだろうか。
 そういえば、なぜこの映画を今頃見たかというと、少し茶を始めたというか、始めようとしているからでもあった。そういう視点から見て、楽しい映画でもあった。
 というわけで、原作も、映画も、あまりかまえずにお勧めしたい。茶道というものに、自然に触れるよい機縁になるかもしれず、誰にとっても、茶が人生にいろいろ与えてくれることになるかもしれない。

  

 

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2019.10.13

多摩川氾濫のこと

 台風19号が関東を過ぎ去った。事前に江戸川区を中心に多数の避難勧告が出ていて、これは首都圏にはかなり厳しい台風になるのだろうなという予想はついた。が、他方、渦中では身近な者にしか語らなかったが、接近につれて細かく気象データを観察しつつ、河川地域や水はけのよい地域であれば、それほどの被害はでないのではないかとも想定していた。そう思ったのは、沖縄での台風経験がものすごいものだったこともある。とはいえ、都下には意外に廃屋が多いので、そうした家屋が倒壊してその周辺に被害をもたらすのではないかと懸念してはいた。それと、こういうときに限って、地震が来るものだよと思ったら、まじで来てびっくりした。幸い大きな地震ではなかった。
 多摩川は氾濫するだろうと思った。実は先日、等々力渓谷から多摩川縁に出て、二子玉川まで散歩したのだが、このあたりはやばそうだと目星つけていたので驚いた。私は治水に詳しいわけではないが、1974年(昭和49年)の8月31日から9月1日、台風16号のもたらす雨で多摩川が氾濫し狛江市で堤防が決壊。民家が19戸が船のように流されていくようすをテレビで見ていた。高校生だった。
 私は多摩川が好きで、折に触れていろいろ散歩するのだが、そのおりごとに、あの氾濫の光景を思い出す。こんなのどかな河川敷が満杯になり、濁流となり、民家を押し流すのだよなと思うのである。
 高校生は62歳になった。45年前か。あれをリアルタイムで見たというのはけっこう強烈な体験で、しかも、その後の多摩川のリアルがそれに反するようなのんきな光景なので、このコントラストが脳裏に奇妙なスパークをもたらす。
 自分はいつの間にか老いた。半世紀前の記憶をけっこう生々しく思い出すこともできる。懐かしいといえば懐かしいが、おぞましい光景も多い。
 1974年の狛江の水害は映像記憶といては残っている。そういえば、1983年(昭和58年)の日本海中部地震の津波の映像も記憶にある。1993年(平成5年)には奥尻島地震と津波。
 直接見たわけではないが、生きているといろんなものを見るようになるものだと思う。

 

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2019.10.12

また、小型Bluetoothスピーカーを買った

 先日、Echoの子スピーカーとして小型Bluetoothスピーカーを買った。それなりに便利だったので、スマホでも使っていたのだが、Echoとスマホとばってんしてくることもあり、いちいち接続するのも面倒なので、スマホ用にほぼスレープとして小型Bluetoothスピーカーを買った。主に、車のなかで使っている。
 買ったのは、「【旅行用EVAケース付き】EWA A106 ポータブル ミニ ワイヤレス Bluetooth スピーカー 【超小型/コンパクト/パッシブラジエータ搭載/強化された低音/車載、風呂用 / メーカー1年保証付き / 多言語取扱説明書】(ブラック)」という、長ったらしい名前がついた多分中華製のやつ。今見たら、Amazon Choiceが付いていて、僕が買ったときより、500円くらい安くなっている。うーむ、なんだろ。

 
 まあ、期待以上の音ではなかったけど、期待したくらいの音は出た。低音がもっと出るのかと思ったが、低音が突出することなく、むしろ、音域全体でバランスがいいので、オペラのアリアとかちょっと車のなかで聞くのには向いている。
 バッテリー容量が700mAhあるのも決めた理由だが、1A以上の電源で充電するなとも注意書きがあった。高速充電はできないのだろう。
 というあたりで、5V充電がめんどくさい時代になった。というわけで、先日、「RAVPower USB充電器 3ポート 30W 【最大出力5V/2.4A/急速充電/折畳式プラグ/小型軽量/PSE認証済】 iPhone/iPad/Android USB機器各種対応 RP-PC094 (ホワイト)」というのを買った。電流を最適化してくれるのだそうだ。実際そうなっているのかは知らない。

 

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2019.10.11

アジア経済研究所図書館に行ってきた

 アジア経済研究所図書館に行ってきた。海浜幕張駅から歩いて10分ほどのところである。アジア、アフリカ、東欧など、開発途上地域の経済、政治、社会を中心とした学術的文献、基礎資料、新聞・雑誌を所蔵する専門図書館なので、いわゆる一般的な図書館ではない。現地語の文献も多いが(中国や韓国など)、英文献も多い。
 高度に専門的な図書館なのだが、一般開放している。入館手続きをすれば入館できる。余談だが、外国語大学の図書館も一般開放していて、入館手続きをすれば入館できる。
 カフェテリアも併設されていて、昼時はランチもある。コーヒーは100円で、喫茶は朝の10時くらいからやっている(平日のみ)。
 書籍・資料の大半は開架なので、気になる分野の書籍をざっと見たあと、館内でくつろいだがのだが、美しい図書館だった。大きな吹き抜けがあり、それだけで現代アートの空間のようでもあり、沈黙と書籍の美しさに小一時間ほど見とれてしまった。率直にいって、資料自体に関心がなくても、訪問にするに値する図書館であった。東洋文庫のような美しさとも違った、独自の美を感じさせる空間だった。

Img_20191011111556
(写真は館外からガラス越しに撮影したもの)

 

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2019.10.10

歌いたい

 年を取ると声は潰れる。というか、だめになる。しかたがないことだ。声帯というのは肉体であり、いくら頑張っても、肉体は老化する。声もだめになる。でも、歌いたいかなと思った。そうして世界を眺めると、70歳を超えて、はつらつと歌っている人が見えてくる。もちろん、歌手としてはやっていけない。でも、声にはそれなりに張りがある。
 僕も諦めなくてもいいんじゃないか。下手でもいいだろう。そう迷惑をかけるものでもないだろうし、と思うことにした。
 で、歌い始めた。
 やはり声は出ない。どこかで慣れてくるだろうか。無理はしない。
 楽譜が読めない。いや、中学生ごろからギターはやっていたので、楽譜が読めないわけではないが、ソルフェージュ的に楽譜で歌うことはできない。これはなんとかなるものだろうか?
 他方、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語の歌の歌詞はそれなりにわかるようになった。これは意外に楽しい。
 まあ、もう少しやってみたいと思っている。

 

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2019.10.09

[書評] バンクシー 壊れかけた世界に愛を(吉荒夕記)

 英国時間で3日、サザビーズで『Devolved Parliament(退化した議会)』と題されたバンクシーの絵画が約990万ポンド(約13億円)で落札されたことが国際的なニュースになった。一つには、ストリート・アーティスト作品としては過去最高額だったことだが、もう一つには、描かれている内容、つまり、チンパンジーが議員として出席している英議会のようすが、現在の英国議会の本質をよく表しているという、皮肉な批評にもなっている点だ。
 ただ、この作品自体にそれほど芸術性があるのかというと、すでに芸術的な評価が安定しつつあるバンクシー作品だが、私にはあまりピンとはこない。浅薄な批評だなという思いが先立つ。だが、私は同時に、この作品が2009年のものであることを知っている。10年前である。この年に開催されたブリストル市立博物館・美術館で行われた展覧会に公開されものだ。その展覧会の様子は、本書、『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』に、詳しく描かれている。

 

 この作品は、この10年間の英国議会を描いたものだ。そして単に英国議会だけではなく、この間の先進諸国における議会の堕落をも描いてきた。つまり、すでに歴史の証言でもあり、その評価なのだと捉えるなら、驚く落札額ではないだろう。
 本書は、ブリストル市立博物館・美術館で行われた展覧会の説明を含め、バンクシーの登場から、主要な事件と作品をわかりやすく解説した、入門・解説的な書籍である。著者は現代のストリート・アートも体系的に捉えている専門家なので、その点でも安心して読める。バンクシーとは何者か? なぜ話題なのか? 知りたければ、本書を読めばいい。私もそうした思いで読んだ。
 バンクシーの芸術活動で、本書が重視している視点は、「美術館とは何か?」という本質的な問いかけである。芸術は美術館で展示されるべきものなのか。美術館に展示されなければ、あたかも表現の不自由だとも言うのだろうか。そうした疑問に答えていくというのも、バンクシーの活動の意味である。
 そして、それがバンクシーというラベルから離れて、一般的に美術と市民の関係において、あるいは、バンクシーが本質的に問いかけてきた地点において、日本の社会に問いかけることはなんだろうか? そう考えたときに、ある絶望的な不在のようなものも感じさせられる。

 I don’t do proper gallery shows. I have a much more direct communication with the public.
--- Banksy

 

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2019.10.08

[書評] ダンプリングの歴史

 私は食べ物の歴史について読むのが好きである。できれば、素材の伝搬とか、特定のお酒とかではなく、庶民が普通に食べているものが、どういう歴史的な経緯で形成されたかが知りたい。そういう観点で、『ダンプリングの歴史』というのだから、読むしかないではないか。

 

 で、どうだったか。期待通りに面白いというのと、期待が外れてプンスカの二面である。プンスカについては、率直に言って、個人的なことなので、本書は普通に面白い本だとしてもいいとは思う。ではなぜ、私はそれでもプンスカなのか?
 その前に、ダンプリングとは何か?
 本書には、簡素で確固たる基盤を持つ定義がない。あえてないとしたのだろうとも思う。一般的には、本書を引用するとこうだ。

 『オックスフォード英語辞典』で「ダンプリング」を引くと、「生地を丸めた味のよい小さな団子状のもの」としか載っておらず、ほかの形のものは省かれ、具を入れた形のものには言及されていない。一方、ダンプリングの調理法として「ゆでたり、揚げたり、焼いたりする」という記述もある。

 本書はこうした曖昧さを突いて、「具を入れてないものも、具を入れているものも両方含む」と定義しなおしている。
 つまり、餃子もあり、なのだ。
 肉まんもあり。ラビオリもあり。
 日本について言及もあるが、これは、きびだんごなど団子。
 プンスカなのは、ここだ。「すいとん」がないのだ。「そばがき」もない。「ほうとう」もダンプリングとしたい。あと日本から入れておきたいダンプリングがあるとすれば、サーターアンダギーである。
 まあ、筆者が英国人なのだから、しかたないとしても、せめて、翻訳者や編集者が日本のダンプリングについて補足できなかったのだろうか? 
 とはいえ、ドーナッツはどうなっつ? ダジャレはどうでもいいが、やはり、具を入れるとダンプリングとしてはちょっと史的研究が曖昧になるのではないか。
 というか、本書は、ダンプリングの歴史とはしているが、実質的な歴史研究は含まれていない。地域のダンプリングの差や各国のダンプリングの個別史を扱っている。
 と、自分に引きつてダンプリングにこだわるのは、ダンプリングというのは、そもそもがでん粉を丸めて加熱して食えるようにしたという貧しい食事という原点を明確にしてほしいというのがあるからだ。
 そういえば、タピオカもダンプリングと言ってもよいのではないか。

 

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2019.10.07

"フランスの高校生"は日本をどう見たか?

 今年の4月下旬のこと、パリ北部サン・ドニ地区『ポール・エリュアール高校』の二年生13人が山梨県富士吉田市の富士北稜高校の日本研修プログラムに参加した。同市のホームページでは、こう説明されている。

 現在、本市では、フランス共和国との人的・経済的・文化的な相互交流や日本人オリンピアンなどとの交流を図り、地域の活性化と観光振興などを推進するため、ホストタウン交流計画に基づき、地域一体で各種交流事業を積極的に展開しています。
 こうした中、フランス共和国パリ北部のサン・ドニ地区にある『ポール・エリュアール高校』の生徒が海外での体験を有益なものとするため、地元の富士北稜高校との交流を図ることで、お互いの文化を経験する機会となりました。

 日本側から見ると、そう見えるだろうし、たぶん、ちょっと意地悪な言い方になるが、富士吉田市としては「地域の活性化と観光振興などを推進する」というクリシェくらいしか考えていなかったかもしれない。いや、それはないか。
 研修は成功だった。大成功だったと言ってもいいかもしれない。山梨県の滞在の後、東京都立六郷工科高校も訪問している。今後、二校は姉妹校締結するらしい。この訪問も成功だった。
 その滞在の様子は、放送大学の特番『フランス高校生のニッポン体験~移民の街から”コンニチハ”~』で放映された。紹介はYouTubeにもある。
 で、私はその番組を見たのだった。というか、それでこの国際交流を知った。もちろん、いい話なのだが、フランス側から見ると、日本側から見る、ありがちな国際交流とは違う側面もあった。番組でも解説はされていた。
 まず、サン・ドニ地区(Saint-Denis)ということで、ああ、そうかと思った。映画『最強のふたり』の風景にもなったところである。郊外(banlieue)である。パリ同時多発テロ事件の場所でもある。
 そうした、フランスの問題が煮詰まったような地域で、自己アイデンティティの確立の難しい移民子孫の高校生が、素で日本人の普通の高校生に触れたらどうなるか? 日本人はある意味、すなおに、フランス人だと認め、そして、普通に友好の関係を築いてくれた。エリュアール校の高校生も、日本の生活の、あまりに規則的な慣例に当初は辟易としたようだが、しだいに、一緒にお掃除しましょう、和気あいあいとなっていったようだ。もちろん、映像はどのようにも作りうるが、その、ある、奇妙な感動は伝えていた。
 ああ、これが日本の、本当の底力というものじゃないだろうか。これについては、日本すげーって言っていいんじゃないだろうか。というか、それを彼らは受け止めてくれたんじゃないだろうか。
 そう思った。
 余談だが、Lycée Paul Eluardという高校の名前の由来は、ポール・エリュアール(Paul Éluard)かなと疑問に思って、彼の出身を調べたら、サン・ドニだった。 

 

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2019.10.06

ハドレー・キャントリルの研究から思ったこと…

 ちょっとした偶然から、ハドレー・キャントリルの『火星からの侵略―パニックの心理学的研究』の、正確には、一部分であり英文だったが、読んで思うことがあった。邦訳も、2017年のようであり、ある意味、現代に読み返される書籍なのだろう。

 

 どんな本か?
 芸のないブロガーのように、いやいや、そのまま芸のないブロガーなのだが、出版社の釣り文句をコピペる。まあ、端的でわかりやすいからだが。

 一九三八年のハロウィーンの晩に、名優オーソン・ウェルズはマーキュリー劇場というラジオ番組で、H・G・ウェルズの空想小説『宇宙戦争』を基にラジオドラマを実にありありと、いかにも現実の出来事のように放送した。その結果、少なくとも百万人の米国人が恐怖に駆られ、数千人がパニックに陥った。本書で報告する研究は、この放送直後に開始されて、何が集団行動の主な心理的理由と考えられるかを探るために、人々の反応について調査した。……(本書序文より)
 地震、テロ事件など大規模災害では、流言飛語をどのようにコントロールするかがつねに大きな課題となる。パニック発生時のコミュニケーションや集団行動に興味のある人々にとって、本書は今も価値がある。
 現在は、核弾頭を積んだ大陸間ミサイルが存在し、その巨大な破壊力に対して、火星人の侵略よりも遙かに強い妄想が人々に生じる可能性がある。またヨーロッパへの難民流入への極端な報道により、人々に行き過ぎた不安とパニックを引き起こす下地は今なお存在している。
 80年前の歴史上有名なこの事件について書かれた本書は、現代にも起こりうる、パニック状況における伝染性のある恐怖の人間心理を詳細に分析したものといえよう。

 釣り文句なのでしかたがないが、「核弾頭を積んだ大陸間ミサイルが存在し」というあたりは現在のNPTを想定すると、さすがに時代遅れは感じる。が、「火星人の侵略よりも遙かに強い妄想が人々に生じる可能性がある」というあたりの問題はなお、現代的な問題ではあるだろう。
 オリジナルは、1940年の『The Invasion from Mars, a Study in the Psychology of Panic』で、このキャントリルの分析の焦点は、奇っ怪なニュースをマスメディアで聴いたとき、人々はどういう行動を取るか、だった。特に、それが事実であるか虚偽であるかを知るために、どのように他ソースに当たるか/当たらないか、ということにあった。
 2つ思ったのだった。福島原発事故以降、「火星人の侵略よりも遙かに強い妄想」、あるいは「信念」を抱いているかに見える人々は、どのようにしてそれに至ったのだろうか、というような、社会学的な研究はないのだろうか?ということだ。
 もちろん、そもそもにして、これが「妄想」「信念」というのは間違いだという批判も、特にネットではあるだろう。もう少し、議論しやすい次元で言うなら、先日の韓国与党「共に民主党」が公開した、日本の放射性物質地図だが、これについては、日本のもとソースとされた側からも否定されており、ほぼ「妄想」「信念」といったものに近くなっている。こうした現象がなぜ現代でも生じるのだろうか?
 もう一つは、オリジナルの1940年についてである。第二次世界大戦以前で、ラジオというマスメディアと真実がどういう関係にあったのだろうかという疑問だ。事件の元になったCBSのハロウィン娯楽番組だが、娯楽という意味が現代とは違っていたのではないか。連想したのは、米国のキリスト教普及とその系統のラジオ局やラジオ番組である。考えてみると、私が青年期によく聴いていたFENも米軍の一種の洗脳的な番組でもあった。ラジオの語りが、ある種の真実の言葉を作る文化があったのではないか。ぶっちゃけていうと、米国のやや非現実的なキリスト教右派の存在は、火星人の侵略言説と同じ地平にあるのではないか?
 ちょっと話が錯綜してしまったが、私が思ったのは、フェイクニュースを信じたりして妄想を抱くという点ではない。ハドレー・キャントリル自身が着目したように、人はどのようにして情報を探索して、それが正しいという信念を形成するかという社会学的な傾向である。

 

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2019.10.05

[映画] くちびるに歌を

 映画『くちびるに歌を』を見た。これもまったくの偶然である。「くちびるに歌を」という歌が関連した映画かと勘違いして見たのだった。
 普通にいい映画だった。感動もした。すぐれた作品だと思う。ただ、
 これは、昭和の作品ではないかと奇妙な倒錯感があった。もちろん、新垣結衣が出てくるので近年の作品であることはわかるし、スマホだって出てくる。
 あと、この映像感は見覚えがあるなと思ったら、『ソラニン』や『アオハライド』の監督・三木孝浩だった。
 なんだろうか。さすがに、平和とか、あまりに記号的に左翼の好きそうな推しポイントはないのがせめてもの救いだが、人間の苦悩と人間愛、これにカトリック教会が出てこなければ、創価学会の映画としても通りそうな、あるいは、文部省推薦だろうか、文部省だな、文科省ではなく。
 と、どうも書いていると、ディスっているみたいになってくるのだが、よい映画だったのだ。
 高校生たちの演技も、新垣結衣の演技も、そして、五島列島の風景も美しかった。生活感もあった。
 映像のディテールもまるで、映画のお手本というか、教科書のようにきちんとできていた。
 で、なんだろうか? 自分はなにか不満なのだろうか。不満というなら、どういう映画として見たかったのだろうか。
 そういえば、合唱をテーマにした映画としてもとてもよかった。つまり、歌もよかった。
 たぶん、映画としての完成度が高すぎることの、必然的な限界のようなものがあるんじゃないだろうか。多層性や多義性のようなものがどうしても刈り込まれてしまう。
 気が向いたら原作も読んでみたい。


 

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2019.10.04

NHKの語学番組が面白そうになってきた

 語学が趣味である。としか言えそうにない。大してできないから。他に趣味らしきものはないから。で、趣味というのは、金をかけるのも楽しいが、かけなくてもできる趣味もある。語学はというと、微妙。いくらでもかけられるが、かけなくても、できる。無料もあり。あ、NHKの受信料を払っていればだが。それと、それぞれテキストがあってもいいとも思う。特にラジオ系は。
 話は、NHKの語学番組が面白そうになってきた、ということ。
 何年前からだろうか、NHKの語学番組がダメになってきた。特に、テレビのが。特に、英語以外が。いや、英語もそうか。こんなんで語学習得できるわけねーだろという、うっすーいバラエティ番組番組になってきたのだ、それがどんどんと。まだ4年くらい前なら、それなりにフランス語の動詞活用とかラップにするとか工夫してたのに。旅するうんたら、なんだよ。
 で、だ、この、ふざけた語学バラエティ番組が、なんかふっきった。語学なんか気にしないで、だらだら見て、無問題。

旅するドイツ語
 俳優・佐藤めぐみさんが、ドイツのパンを求めてという、まいどのだるい企画なのだが、場所が、え?である。ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルト(黒い森)だ。それは、ちょっと面白いんじゃなかろか。
 ミュンヘン、ハンブルク、ケルン、ベルリン……とかではなさそう。というか、そういうのもういいや感、ある。
 できたら、アルザス国境まで足を伸ばして、びっみょーな問題を扱ってほしい!

 

 

旅するフランス語
 ヴァレリーノの柄本弾さんがフランス南西部の旅。というと、これもまただるい企画か。で、どこへ、トゥールーズ。まあ、ありがち。と、思ったら、バスクへも。バスク、いいなあ。ここでも、びっみょーな問題を扱ってほしい!

 

 

旅するイタリア語
 俳優の小関裕太さんがシチリア島。ありがちと思いきや、そうでもないんじゃないか。シチリア島だけでイタリア語の語学番組ってよいのでは。ぜひ、イタリア語の標準的ではない部分に、がっつり触れてほしい。ノルマンとかギリシアに関わる歴史なんかもあればなおよし。

 

 

するスペイン語
 ミュージシャンのシシド・カフカさんがアルゼンチン。お、それだけでかなり、グッドじゃまいか。スペイン語って、スペインの言葉であるけど、スペインに限定されない、なんだろ、国際語でもあるし、南米では独自の言語でもある。

 

 

アラビア・シャベリーヤ
 いつからアラビア語が旅するのシリーズに入ったのか知らないが、今回は、俳優の金子貴俊さんが、モロッコ。モロッコ、こりゃまった、面白いところを突いてきたなあ。なんでモロッコと思ったら、実質は花沢ウライヤさんでした。

 

 

ボキャブライダー on TV
 これ見てます。英語の勉強というより、あまりのばかばかしさに笑えるので。よくこんな変な番組作ったものだ。

世界へ発信SNS英語塾
 普通に英語の勉強になりますね。

攻略ABCニュース英語
 3月末で番組終了と聞いて、がっかりしたが、リニューしてまったく同じのやっている。これも、普通に英語の勉強になる。

CNNスチューデントニュース
 英語の勉強というより、米人高校生がなにを教えられているかという点で面白い。というか、日本人の国際常識、大丈夫なのかと感じることとしばしば。というわけで、この番組は英語で見る必要はないと思う。

 

実践ビジネス英語
 杉田敏先生がとにかくすごい。レベル的には、C1くらいだろうと思う。ビジネス英語としては易しい部類だろう。たまにやってやめて、また再開するかと思う。

 

 

高校生からはじめる「現代英語」
 この二年半ほど高校生の娘とやっている。毎月、2冊買っている。
 娘にどう英語を教えるかなと悩んで、いい教材ないかと探し、試して気に入った。表題からわかるように、レベルはそんなに高くないが、意外な知識が身につくので気に入っている。癖のない、普通の現代米語に触れられるのもいい。日本の英語教材って、奇妙な癖がついたものが多く困るなあと思っている。

 

 

まいにちフランス語
 入門編は再放送だし、まあ、普通の入門編。やや現代フランス語的な言い回しが多いくらい。
 で、今回すごいのは、応用編だ。清岡智比古先生が応用編?とちょっと驚いたが、内容がさらに。簡単にいうと、フランコフォンの世界を描いている。もちろん、基本の朗読は、アニメ声のレナ・ジュンタさんなのだけど。
 フランスという言語の持つ、帝国主義の残滓というか、その発展というか、私たちがついおフランスとして考える部分じゃない部分が、とても重要に思える。

 

 

まいにちイタリア語
 入門編は、すみません、たるすぎ。応用編は、条件法と接続法に特化。テキストはざっと今月分予習したが、たるかったら、やめるかも。

 

 

そんなに語学ができるかーい
 録画は基本。ラジオ系は一週間分ストリーミングできる。これを使うといい。
 で、ええとですね、テレビの旅するシリーズでは、思いっきり、語学を忘れるといいです。だらっと見るだけでいい。環境映像でもいい。普通に旅番組として面白いです。
 NHKのテレビ英語のミニ番組は貯めといて、適当にまとめて見るといいです。貯まりすぎたら古い録画消して捨てるといい。河の流れのように。ほいで、結局見ないなら、録画自体やめる。
 ラジオの語学講座だけど、テキストを買ったほうがいい。そして、テキストが届いた時点で、一ヶ月分、まとめて予習やっておくといい。どれも1時間くらいじゃなかろか。というか、それ以上の負担があるならよしたほうがいい。別の言い方すると、「まいにち」ってあるけど、毎日は経験的にも無理。といいつつ、Duolingoは毎日やっているが、これも、せいぜい10分。
 あと、がっつり体系的に初歩レベルの語学を学ぶなら、放送大学の教材がいい。BSで見る分には無料。テキストも販売されているが、テキストより講義のほうがかなり濃い。ちなみに、私は、『初歩のイタリア語』を学んでいる。

 

語学を学ぶということ
 たぶん、語学というのは、二週間とか一ヶ月、三ヶ月、半年と、没入したようにするほうが学習効率がよいんじゃないかと思う。で、問題は、それ以降。続けていないと、めきめきと衰える。どっかにひっかかりを持っていたほうがいい、という点で、NHKのたるい語学番組はその役目で使うといい。
 そういえば、亡き三笠宮様も言語が趣味だったらしく、NHKのラジオ講座を各国語学んでいたらしい。

 

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2019.10.03

〈物語シリーズ〉という物語

 先日ネットで「アニメ〈物語〉シリーズ10周年」という話題を見かけた。私がこの物語をアニメで見たのは、近年のことなので、10年前のことは知らない。調べると、2009年7月に始まり、最初のクールの12話はその9月から10月に終わった。これで10年というのもうなづける。と、ブログの記事を書いてみたいと思ったのは、この物語の複雑さについてである。
 私がこのアニメを知ったのは、たまたま「ひたぎエンド」の一部分を見たことだ。アニメ表現のある種の異常さ、物語の異常さ、キャラクターの異常さ、そうした異常なるなにかが、どうしてできたのだろうかと疑問に思ったのである。
 そしてこの物語を知りたいと思った。が、まず最初に当惑したのが、物語の始まりがどこにあるのかわからないことだった。そんなことはない、アニメの最初は10年前だろうということはわかる。これが、『化物語』である。ヒロインである戦場ヶ原ひたぎが登場し、彼女を巡るかのように物語は進む、か、にも見える。が、このアニメの冒頭に短く前史が織り込まれている。物語としては、『化物語』は続編である。
 で、その前史が『傷物語』であり、ここで、主人公がなぜこの物語の阿良々木暦なのかが語れる。そして、二人のヒロイン、羽川翼と忍野忍が登場する。『傷物語』のアニメは、劇場版の三部作として2016年から公開された。作画は同じシャフトによるもので声優も同じだが、絵のタッチは山本タカトを連想させるものになっている。
 原作の出版順序も、『化物語』から『傷物語』と、物語内部の時間が逆になっている。おそらく、〈物語シリーズ〉は、『化物語』で終わるかもしれない作品だったのだろうし、そもそもが、〈物語シリーズ〉という総称も当初は想定されていなかったのだろう。ただ、その時点で、『傷物語』の設定は存在していただろう。
 〈物語シリーズ〉は、日本の古典の、『日本霊異記』に始まる奇譚の系譜に連なるとしてもいいような位置にある。だが、存外にオカルト的なあるいは民俗学的な志向が強いわけではない。村上春樹文学の特徴であるコンテンポラリーなシュールレアリスムに近い。つまり、表現手法として評価していい。
 そこには、普通の青春物語の核が存在する。暦という男子と二人の恋人である女子、翼とひたぎの関係である。暦と翼は幼馴染ではないが(その親密性は後に育との関係で問い直される)、それに近い親密性があり、暦とひたぎは性を意識した個人の恋愛の親密性である。2つの親密性の相克は、男子の普遍的な問題でもある。そしてその普遍性の意味合いは恐ろしく深い。男子の内面に潜むアニマ的な要素も関連する。これが作品では、忍野忍に投影されている。
 この相克は、これも単純な言い方だが、エディプス問題だとも言える。が、この作品で興味深いのは、いわゆるエディプスの構図ではなく、ひたぎという女子が女性になることの意味として問われていることだ。
 ここで、暦という男子は、もうひとりの、時間シフトした男性との重なりで描かれる。貝木泥舟という中年男だ。40歳には届いていないのではないか。彼は30代の前半に14歳の少女だったひたぎと関係を持っている。
 〈物語シリーズ〉の魅惑は、こうした年齢差と性の魅惑の問題を多層的に描くことだ。貝木とひたぎの関係は、暦と千石撫子の関係に重ねられる。さらに、さらに貝木は神原遠江との関係を背負っている。こうした年齢差の性の、倒錯とも違うが錯綜の幻惑感は、源氏物語によく似ている。
 〈物語シリーズ〉の核は、暦とひたぎの恋愛の関係が成立させるための、撫子と貝木の物語で一つの頂点を迎える。おそらくそこで物語の全体が、いわゆるファーストシーズンとその派生で終わってよかったのかもしれないが、そこから、忍野扇という女子が登場しセカンドシーズンが始まり、『続・終物語』にまで続く。扇は、ユングのいうアニマにとても近いものとして描かれている。男性の内部の女性性の、ある虚無的な極点でもある。
 この、いかにもさらなる物語の展開のなかで、『傷物語』以前の、神原遠江の物語が重低音のように重ねられる。セカンドシーズンで斧乃木余接というキュートな死体が現れるがこれは神原遠江のもうひとつの影(ひとつは駿河)とも言えるだろう。
 と、書いてみて、何を言っているのだ?ということは理解できる。錯綜した物語の、表層的な構造と表層的な記号的を前提にしすぎている。ただ、アニメとして安直にも見ることができる作品でありながら、奇妙に深い構造を有しているこの、倒錯的な魅惑というのもこの作品の特徴だろう。私もcakesの連載のようにもっと詳しく語るべきかもしれない。
 さて、原作の連続はあるものの、概ね、〈物語シリーズ〉というアニメは終わった。個人的には、『結物語』の劇場版があればみたいとは思う。ただ、無理だろう。終わったのだ。
 こんな記事を書いたのは、その終わりの感覚を書き残しておきたかったからだ。
 このアニメも10年になるんで、オンデマンドではファーストシーズンが消えつつある。劇場版もオンデマンドにはない。なかなか、このアニメの全貌にアクセスしにくい時代になってきた、ということの感慨もある。ただ、幸い、シャフトの作画から距離をおいた大暮維人のコミック版が開始され、読みやすい。まだ巻が進んでいないが、大暮の描く扇も見てみたい。

 

 

 

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2019.10.02

[アニメ] 僕だけがいない街

 アニメの『僕だけがいない街』という作品は、有名だったので知っていた。映画もNetflixのドラマもある。アニメを見たのは偶然である。面白かった。一気に見たと言いたいところだが、クライマックスの2話は、頭を冷やすために、日を分けた。
 この物語については、多くの人が知っているだろう。メディアのバージョンによってけっこう違いもあるようだ。原作のコミックとノイタミナのアニメとの詳しい差については依然私は知らない。
 物語の骨格は、シュタゲのように、時間と世界線の交錯であり、お約束通り、現在の悲劇を回避するために、主人公は過去にリープする。が、こうした設定はそれほどこの作品の本質とはいえないだろう。アニメ作品を優れたものにしているのは、私には2点あった。
 一つは、昭和の最後の北海道の日常の描写と小学六年生という年代の心の描き方である。美しかった。どこまでがリアルなのかという感触は土地勘のない私にはわからないが、子供の日常というもの、北海道の自然、そして女性気質のようなものを丁寧に描いているように思えた。
 もう一つは、ネタバレに関連するが、謎解きの工夫に説得力があった。簡単に言えば、いわゆるネタバレ的なものは物語のはじめのほうでだいたい想像がつくし、作品はむしろそれを前提にしているのだろう。裏返された推理小説のようでもあった。そのせいか、通俗作品らしい雰囲気にある作品に通俗性と異なる微妙な差異をもたらしていた。人の心をよく描いていたと単純に言っていいだろう。
 ネタバレはしないが、この物語を終えたあと、『Think Clearly』にも指摘されていたような、あり得たかもしれない不幸というものに思いを巡らせた。私たちの日常は、けっこう見えない奈落に縁取られているが、気が付かないものだ。
 そして、私たちの日常には、まれに非日常的な要素が差し込む。なのに、それがまるで前世からの約束のように自然に思える。そうした奇妙ともいえる感覚がこのエンタメの物語の核なのだろう。そこがとても丁寧に上手に扱っているものだと、感心した。

 

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2019.10.01

今日消費税が10%になった

 今日消費税が10%になった。どんな感じだったか。率直にいうと、変な感じだった。変というのは、軽減税率とポイント還元の感覚である。具体的に言うと、コンビニで食品を含めてちょっとしたいつもの買い物をしたら、以前より、少しだが、安かったのである。
 もちろん、不思議ではない。食品は軽減税率ということで8%のまま。それにポイント還元がつくのだから、安くなるわけだ。が、増税なのに、安いというのは、奇妙な感じがした。これならいいんじゃないかというと、概ね、よくはないだろうとは思うが、反面、これならしかたないかとも思った。
 しかたないというのは、こうしたややこしい消費税の仕組みを取り入れるというのは、もう単純な会計はできないということで、インヴォイス制度の流れを作ったということだ。ついでに歳入庁もできるといいと思うが。
 本質論的に言うなら、といかめしく言うのだが、消費税という仕組み自体は悪いものではない。逆進性があると批判されるが、低所得層にその分、補填をすれば済むことだ。いちおう今回の増税でも、かなり底辺層だが補填はされているらしい。十分かどうかは、まあ、十分とは言えないんじゃないか。
 もちろん、今回の消費税は、よくはない。理由は、消費活動を抑制するからだ。消費というのは、裏面生産だから、生産性を抑制することにもなる。ただ、これも、デフレ期には問題ということ。でだ、そう、まだデフレを脱しているとも言えないから、極めて、よくない政策である。
 もう一つは、消費税というのは、地方税であるべきだが、国税として固定化してしまいそうだということ。このあたりは、野党からも見直し案は出てこないように思う。というか、野党や概ね、反アベ、くらいし言ってってない感じだ。でも、かつての民主党政権で、野田ちゃんが消費税イケイケだったが、自民党から野党に政権交代しても、また野田ちゃんみたいになるんじゃないだろうか。
 税について、さらにいうと、日本の場合、二重課税が隠れているものが多い。
 消費税で政権が乗り切れるかというと、無理だろうなと思うし、政治の主体が消えると日本はろくでもない時代に戻る。
 ただ、先日の台風余波の千葉県停電のように、よからぬ大事態でいっきに日本経済が沈没というのもありそうな予感がする。
 予感ということで、適当に言えば、パンデミックだろうか。不安を煽りたくはないが、日本社会はその危機感を失っている感じがする。

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