地球温暖化問題と気候正義
国連の「気候行動サミット」での16歳の環境活動家グレタ・トゥンべリさんの演説が話題だった。内容については、彼女が、科学に耳を傾けてくださいというのは、よく了解できたが、微妙な違和感のようなものが残った。それはなんだったか、いろいろ自分なりに思いをめぐらして、思うことがあった。地球温暖化問題と気候正義である。
地球温暖化問題については、自分なりに考えてきたが、気候正義ということについてはあまり考えてこなかった。グレタさんが訴えたことは、地球温暖化問題と気候正義の2つの側面があり、後者について、自分はどう対応していいか、よくわからないということに直面した。
気候正義とは、Climate Justiceの訳語で、それをうたったNGO FoE Japanによると、こうだ。
Climate Justice (気候の公平性)とは、先進国に暮らす人々が化石燃料を大量消費してきたことで引き起こした気候変動への責任を果たし、すべての人々の暮らしと生態系の尊さを重視した取り組みを行う事によって、化石燃料をこれまであまり使ってこなかった途上国の方が被害を被っている不公平さを正していこうという考え方です。
また、こうも主張している。
世界の中で世界人口の10%に当たる裕福な人々が、個人消費による温室効果ガスの半分を排出しています。
ここでは、暗黙理に、非先進諸国と、世界的に見た絶対的な意味での(日本でよく話題にされるジニ係数で示されるような相対的な意味ではなく)貧困層が重ね合わせられている。
まず、そこにひっかかりを覚える。
『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』が示すように分断は事実に即していない。現在世界では、総人口の85%が以前に「先進国」とされた枠に入り、「途上国」という枠に入るのは、6%である。当然、すぐにわかることだが、これは、定義の問題でもある。ただ、議論を端折るなら、おそらく気候正義で問われるのは、高度な先進国と、中程度の先進国の差異であり、気候正義によって平滑化されるのは、高度な先進国による温暖化ガスの抑制ということになるだろう。それは、もちろん、それで正義(公平)という点で有意義ではあるだろう。が、心にひっかかるのは、地球温暖化というのは、まさに地球レベルの問題であり、そうした正義(公平性)よりも、全体での温暖化ガスの削減ではないだろうか? 極論すると、この正義はどこかで、抑制される別の倫理的な地点を持つのではないだろうか?
この先の話で、話を端折るなら、日本が貢献できることは、先進国のなかでも群を抜くエネルギー効率の良さであり、それをどう世界に普及させるかという問題だろう。そして、そこで弊害となるのは、日本が世界に直面するとき、国家の政府間の問題となり、対象国家の政治制度の効率が実際には問われてしまうことだ。
実は、気候正義については、私はまったくの無知ということはなかった。というか、そこが焦点となりうるのだろうかと曖昧な立場にいたのだが、加えて、グレタさんの提言で気付かされたことがある。日本ではそれほど注目されていなかったようにも思うが、グレタさんは、気候正義を根拠に、あの国連演説後に温暖化対策を求める法的な申し立てを行っていたことだ。
子どもの権利条約(the Convention on the Rights of the Child)の個人通報制度を基礎に、「子どもは肉体的かつ精神的に気候危機による脅威に最もさらされやすく、大人より長期にわたり大きな負担がかかる」として、申し立てを行ったのである。対象国は、アルゼンチン、トルコ、ドイツ、ブラジル、フランスの5つの国である。日本は含まれていないので、日本での報道が薄かったのかもしれない。この申し立てだが、そこでは16人が代表となり、子どもの苦痛に値段はつけられないので金銭的な補償は求めないが、対象国に政策の変化を求めた。なお、日本が含まれないのは、国連子どもの権利委員会に個人が申し立てできる個人通報制度がないためである。
アクティビティストの行動として理解できるし、子供が政治活動することにも反対ではないが、積極的に子どもの権利を認めようとしている国がそれゆえに、非難されるというのは、世界全体の温暖化問題に取り組む上で効果的なのか疑問に思えた。率直なところ、温暖化にもっとも寄与し、かつ子どもの権利に大きな問題を抱えている中国が(例)、おそらく非先進国として免れてしまうというのは、どうなのだろう。中国をために非難したいわけではない、できるだけ多くの国々を地球環境問題に取り組ませるのに、こうした手法は効果的なのだろうか疑問に思えたのである。
もう一点、気になることがあった。グレタさんの指摘にある、「集団的な絶滅が始まりつつあるのに、あなたたちが話すことができるのはお金や終わりなき経済成長というおとぎ話だけだ」という問題である。この点については、ディーゼルの排ガス不正を組織的に行っていたベンツなどには当てはまるが、他方、アルノー会長がこの件で言及したように、この数十年の経済成長で世界中で多くの人々が貧困から抜け出して健康問題が改善された実態もある。おそらく、環境問題と経済成長は関連がありながらも対立する話題ではない。
要するにどういうことなのか?
私は、地球温暖化問題と気候正義は分けて考えるべきだと思う。また、気候正義は経済成長に敵対するものである必要はないと思う。
そして、個人的な印象なのだが、科学と子どもという、疑い入れないような正義が掲げられたとき、その正義に寄りすがる混乱した各種概念については、明晰に切り分けていく必要があるように思う。
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