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2019.09.02

[書評] 生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

 『生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む』(参照)は読んでみてから気がついたが、宣伝に力を入れているようだ。というか、各種の興味から読める、間口の広い本だとも言えるだろう。特に生物学の基礎知識がなくても読めるようには思う。が、本書の中心課題は、収斂進化論であり、サイモン・コンウェイ=モリス『進化の運命-孤独な宇宙の必然としての人間』(参照)が既読でないと、その文脈を理解するのが難しいかもしれない。振り返るとサイモン・コンウェイ=モリスの同書は翻訳が出たときに読んだが、当時の日本のネットの世界では収斂進化論はタブーとまではいえないが、どこかしら罵倒の対象のようにも思えた。彼が有神論的なせいものあるのだろうか。そんなこんなで、私も同書の書評もなんとなく書かずじまいだったなとも思い出す。

  

 とはいえ、そのあたりの概要も、本書では簡素に解説されているし、よく話題にのぼるスティーヴン・ジェイ・グールドの議論なども対比させられている。
 基本のテーマは、収斂進化論は正しいのか?と言ってもよいだろう。しかし、この問いが自明に含むのは、簡単な成否で議論できないことだ。つまり、収斂進化は実際に起きている。だがどう、それを捉えたらよいのか。
 本書を読んで、なるほどと思ったのは、個々の実験の話は既知であっても、それらの知見を進化論を実験するというスキームで考えたことがなかった、そのスキームの話題性である。
 具体的には、第三部「顕微鏡下の進化」で説明される、レンスキーによる大腸菌の超長期進化実験(LTEE)である。ここからの議論は、生物学の話題としてはかなり面白い。単純に(大枠の議論を抜きにして)、そこが本書の価値だとも言えるだろう。
 が、もとの収斂進化論について、これで何が言えるのか、という議論に引き戻ると、やはり、率直なところわからない。もともと問題設定が曖昧すぎることもある。つまるところ、本書の、実質的な結語は、ほぼ何も語っていないに等しい。「収斂進化はふつう、数かぎりある最適解と、遺伝子、発達、生態の共通点が、適応を同じ方向に導いた結果として起こる。けれども、生物学的可能性の世界は広大だ。自然淘汰や遺伝、発達の制約を受けてなお、実現しうる進化の最終産物が、以前として多岐にわたることもある。だからこそ進化はしばしば独自路線をひた走るのだ」(p356)
 そして、その最終的な問いにはこう。「私たちがいまここにいるのは運命? まさか。」「歴史の流れが違っていたら、たくさんの人型のドッペルゲンガーが進化して、繁栄していた可能性もある」「そんな世界もありえたのだ」
 だが、それは、収斂進化論の対論にはならないだろう。宇宙の無限にも近い可能性と時間は、すでに人類がこの宇宙において、その選択のひとつの結果として「知性」を獲得できているのから、なんどもこの程度の知性レベルには到達可能なのように宇宙が仕組まれていると考えるほうが合理的だろう。

 

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