登戸殺傷事件容疑者の14歳の写真報道は適切だろうか?
5月28日に川崎市登戸駅近くでスクールバスを待つ小学6年生の女子と39歳の男性が51歳の男に刺され、殺害された。他、18人が重軽傷者となった。この登戸殺傷事件の容疑者は、2日、殺人と殺人未遂などの疑いで書類送検された。
容疑者はすでに自殺していることもあり、警察は遺品の捜査や親族への聞き取りなどを進めたが、動機の解明には至らず、これで捜査は終結した。
書類送検後はどうなるか? 通常の刑事事件では、警察の捜査後、容疑者は検察に送られ、検察が起訴すると裁判となる。が、容疑者が死亡している場合、捜査書類は検察に送られはするものの、本人の死亡により裁判は成立しない。よって、不起訴となる。
容疑者は永遠に容疑者のままとなり、事件の「なぜ」は公式には永遠に封じられたと言っていいだろう。
釈然としない気持ちだけが残る。
今後、時期を見て追悼の報道などはなされるだろうが、事件を解明する報道はなくなるだろう。おそらく、容疑者の写真を見ることも事実上、これで最後だろう。
そして、その最後として見る、この51歳の容疑者の写真は、14歳のものである。あるいは、15歳かもしれない。
中学校の卒業アルバムから取られたもので、51歳の写真は報道されない。せめて成人後の写真でもあれば、51歳の相貌に近いだろうが、それもなかったのだろう。
あるいは、成人後の写真があっても、報道に使ってよい許可されたものではなかった。
社会的に見るなら、この51歳の容疑者には、成人後の顔というものがなかった。それに見合うように、この51歳の男の心を知る人は誰もいなかった。言葉も残さなかった。
親族や、近所の人ならその顔で誰かわかったかもしれないが、それも数人というほどで、特徴的に記憶されるものでもないだろう。
やはり、この男には顔がない。
そして、私たちの社会は、彼が少年だったときの顔を、51歳の男に貼り付けた。
奇妙に思う。14歳、あるいは15歳。中学三年生の少年の顔は、37年後の殺人の容疑として公にさらされたのである。
そんなことをしていいものだろうか?
中学三年生の彼には、なんの罪もなかった。
そして、その顔は義務教育の卒業写真である。つまり、義務教育の顔写真は、容疑者の写真として警察で撮影される写真に準じているということだ。いつから、日本社会はこんな牢獄のようなものになったのだろうか?
51歳の容疑者には、顔がなかった。報道はそれでよかったのではないか。名前と年齢だけでよかったのでは。未成人時の写真は要らない。
だが、報道は、そして私たちは、まるで墓でも掘るように、過去の顔を掘り出して、罪に結びつけずにはいられない。そうした欲望を持っている。しかも、この欲望は正義のようなフリをしている。でもこの正義には、どこかしら狂気が混じっていると思う。
そしてその得体のしれない狂気という点で、顔を隠した私たちはこの容疑者と結ばれている。
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