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2019.09.18

三人称単数の they が Webster 辞書に登録される

 今朝、CNNニュースを見ていたら、『Merriam-Webster 辞書にノンバイナリー代名詞の「they」を追加する』という記事があった。この動向については、すでに数年前からあるので、ようやく辞書に定着するのだなというのが、まずまずの感想だった。ただ、いろいろ考えさせられるものはあった。いくつかわけて書いておこう。

「ノンバイナリー」って何?
 英語の nonbinary ということは、コンピュータ用語ふうに捉えるなら、バイナリー(二進法)ではない、ということだが、ここでは、男と女の2つだけではないという意味だ。すでにWikipediaには、"Non-binary gender"(二進法的ではない性)という項目があり、日本語のリンク先もあり、見ると、「Xジェンダー」となっていた。
 ようするに、男でも女でもない人もいるのだから、そこを区別するような代名詞ではない、新しい代名詞が必要になったということだ。
 ちなみに、"Gender binary"という項目もあり、その日本語は「性別二元制」となっていた。こうした内容に関心あるひとは、Wikipediaの説明はやや心もとないが、それらを頼りに調べるといいだろう。

Merriam-Webster辞書の意味合いは?
 まず、Merriam-Webster(メリアム・ウェブスター)辞書とは何かだが、これは歴史的にウェブスター辞書と呼ばれている辞書のことである。歴史的なウェブスター辞書は米国においてあまりに権威があり、一般名詞のようにもなり、また、著作権のごたごたがあって、現在の名前になった。このあたりは、非公開の自著にも書いたが。
 で、ウェブスター辞書というのが米国社会にどういう意味があるかなのだが、規範性のない英語を米語足らしめているのが、この辞書なのである。なにしろ、米国スペリングを定着させたものもこの辞書である。加えて、ウェブスターは百科事典的な要素も強い。
 日本人の英語学関連では、オックスフォード辞書系が重視されがちであり、また学習辞書でもロングマンなどが人気だが、これらも英国拠点のPearson Educationで、いずれにせよ、日本の英語界というか、その分野というか、英語を英国英語と米国英語を統合して扱うという前提がなんとなくある。
 これに対して、ウェブスター辞書は米国民にとって辞書としての拠り所的な意味合いがあり、そこに、このノンバイナリー they が登録されたというのは、実質、米語が変わったという意味に等しい。実際、州によっては運転免許証申請などでこの they が公式に使えるようだ。
 余談だが、私は、日頃まず、Merriam-Websterを使うようになった。米国発音がわかりやすいし、その他の記述も簡明であり、英国英語を無理に包括しようとしないところが使いやすいからだ。

実際どう記載されたか
 こういう記載になった。theyの4番目の項目として追加されている。

4 —used to refer to a single person whose gender identity is nonbinary (see NONBINARY sense c)
I knew certain things about … the person I was interviewing.… They had adopted their gender-neutral name a few years ago, when they began to consciously identify as nonbinary — that is, neither male nor female. They were in their late 20s, working as an event planner, applying to graduate school.
— Amy Harmon

3人称単数の they なら動詞も3単現で受けるのか?
 新しい、they が代名詞として単数を受けるなら、動詞も3単現のように受けるかというと、そうではなさそうだ。They is a teacher.のようにはならない。
 単数なのに、be動詞が are で受けるのは変か?というと、you にも単数と複数があるが、どっちも動詞は複数として受けている。ので、それに似た用例として文法的には扱うのだろう。

この they には歴史もある
 CNNやその他の関連ニュースを読むと、このこの they にはそれなりの歴史もあるといった説明がついている。かなり昔の用例もあるにはあるが、とりあえず近い起源としては、1950年代らしい。
 ちなみに、私が大学で学んでいた1980年代前半では、She/he という言い方をよく使っていた。が、これは、性的なアイデンティティというより、代名詞として人がどっちかわからないという意味合いもあった。

他の言語ではどうなんだろう?
 あとは私の感想である。
 こうしたノンバイナリーの代名詞といった考え方は、他の言語、特にロマンス系の言語ではどうなんだろう? 自分がそれなりにわかる言語でいうなら、フランス語とイタリア語ではどうか。まず、ありえないんじゃないだろうか? 
 フランス語では、「私は生徒です」というときですら、女性は、"Je suis étudiante."というように女性形を使う。ただ、こうしたロマンス語の場合は、机や椅子ですら、言語上の性別をもっていて、代名詞はそれに対応する。
 つまり、英語の場合、代名詞は、人間と非人間を区別するから、性別が人間の側に入ってしまうが、ロマンス語では、性別は名詞全体に及び、人間と非人間の区別はない。ちなみに、日本語も人間と非人間を区別する。正確にいうと、日本語は生物と非生物を区別する。「本がある」「猫がいる」といったように。
 余談だが、イタリア語の場合、敬称二人称には、Lei を使う。いちおう表記上は大文字のLを使うが、文法的には、女性の三人称と同じである。慣れるまでにけっこう困惑した。フランス語にはこうした用法はないので、どこからこんな用法が出てきたのだろうかと疑問に思っている。

 

 

 

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2019.09.17

9月5日の京急踏切事故のこと

 5日の京急踏切事故はツイッターなどはもう話題を見かけなくなったなと、Diplomatのその関連の英文記事を読みながら思った。NHKのニュースなどで取り上げられることも、もうなくなった。
 事故は、神奈川新町1号踏切で発生した京急電車とトラックの衝突である。トラック運転手が死亡し、乗客30人以上が負傷した。大事故ではあったが、死者は67歳のトラック運転者のみであった。
 事故の真相は未だによくわかっていないようだ。というか、そう単純に解明されるものでもなさそうだ。
 当初ツイッターでは、ありがちな話題の展開ではあるが、誰が悪いかが焦点になった。真相がわからなければ、誰が悪いかなど、なんとも言えないが、それでも大雑把に言って、トラック運転者の運転に問題があったことは明らかだろう。
 Diplomatの記事では、事故を背景から捉えていた。特に、大都市・東京が他の国の大都市と比べて格段に踏切が多いことを指摘していた。踏切が多ければ、文記事事故は起きやすくなる。ほほと思った。そうした指摘は日本であるのかと探る。
 と、日経に『京急事故 踏切の危険性を探る』という記事があり、読むに、Diplomat記事はこの記事のパクリとまでは言えないが、かなり参考にした記事だったことがうかがえた。要点は、「首都圏は世界的な踏切の密集地帯で、東京23区には約600カ所とパリの90倍もの踏切があります。事故件数が通常の踏切の約4倍とされる「開かずの踏切」も多く残ります。踏切の安全対策がのぞまれます」ということだ。国交省でも問題視しているが、早急の解決策はない。
 踏切といった背景にまで視座に入れてもしかたがないが、その手前くらいの背景として、京急側の鉄道システムとして、こうした事故は防げなかったのか? 今回の事故で、踏切の障害物検知装置は正常に作動したらしい。すると、踏切から340メートルの地点の発光信号機が点滅する。運転士は踏切から600メートル離れた位置で目視し、ここでブレーキをかければ、踏切までに止まるはずらしい。とするなら、電車の運転士に問題があったのだろうか。私にはこの詳細と技術がわからない。
 他方、そもそも目視に頼らず、ATS(Automatic Train Stop device:自動列車停止装置)やATC(Automatic Train. Control device:自動列車制御装置)を装備すべきだったのではないだろうか。いずれにしても、具体的にこの事故との関連で何が言えるかとなると、やはり私にはよくわからない。
 ただ、個人的に心に引っかかっているのは、運転手の心理である。そもそも、このトラックが通常の走行ルートからなぜ外れたのもわからないが、さらに立ち往生したとき彼は何を思ったのだろう? ただパニック状態で電車と衝突したのだろうか。あるいは、トラックがもう動かせないと諦め、沈みゆく船のキャプテンのように、逃げ出すことをせず、そこでお詫びに死のうと決意したということはないだろうか? 

 

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2019.09.16

サウジ石油施設攻撃について

 14日、サウジアラビア東部にあるサウジアラビア国営石油会社サウジアラムコの石油施設の2カ所がされた。この事態は日本でもすぐに報道されたが、その後の経過や意味、解説について、週末と連休を挟んでいるせいか、国内の報道は薄い。NHKでも断片的であり、何より報道ソースをCNNやロイターに頼っている。他、大手新聞社の報道も薄い。共同もロイターを孫引きでしか伝えていない。この状態はすでに日本の報道の危機とも言えるだろう。現状、日本国内での実質的な報道は、海外報道社の日本語版によるものか、あるいはヤフーブログで識者とされるブロガーのコメントが目立つくらいだ。が、ブログという建前からは通常のブログ同様、恣意的なものにならざるを得ない。私の記事もそうした恣意的なものではあるが、今後さらに懸念される事態にもなりうるので言及しておきたい。
 一番の懸念は、端的に、戦争である。米国とサウジアラビアが組んでイランと戦争を起こす懸念である(イラクも微妙に関連している)。トランプ米大統領のツイッターを追っている人なら知っていると思うが、"we know the culprit, are locked and loaded depending on verification(私たちは、検証に基づいて、犯人を知っているし、銃には弾が充填されている)"として、犯人としてイラクをほのめかし、"locked and loaded"として武力行使をほのめかしている。もっとも現状はまだほのめかしによる牽制であるが、イラン側でも戦争の用意はできているという声明も出ている。
 二番目の懸念は、原油市場の動向である。高騰も懸念されはする。ただし、今回の攻撃の規模は小さく、完全な回復までには数週間を要するとしても、世界の石油市場に大きな影響は与えない。それでも石油施設の脆弱性が顕になったことから、リスクのプレミアムで原油価格が上昇してくる。ただし、その結果は必ずしも世界経済への悪影響ばかりとも言い切れない面もあるだろう。
 現状では、戦争が迫っているというほどでもなく、原油市場が大きく荒れるという予想も弱いので、日本の報道社のように、それなりに安閑としていてもいいのかもしれない。
 さて、これはどのような事件だったのか。詳細はどうなっているか?
 残念ながら、攻撃実態については、国際的にも明らかにされていない。米国とサウジアラビアが情報を十分に開示していないせいだ。ゆえに、その理由はなぜなのかが問われてくる。なお、これに若干イラクも関連している。
 まず、前提として疑問を呈しておくべきことは、今回の攻撃の背景にイランがいるかについだ。意外にも、ポンペオ米国務長官ですら、イエメンからの攻撃だという証拠はない言明している。が、イランの仕業だともしている。余談だが、これもツイッターでの発言がもとになっている。ツイッターが報道を出し抜く構造は定着している。いずれにせよ、米国としては、今回の事件の背後にイランがいると断定しないことに含みを持たせている。また、このため、日本の報道社ではNHKも含めて親イラン的な論者を抱えていることから、この部分での解説が弱い(米国非難の基調が日本人受けするせいもある)。だが、特にNHKは、今後の事態の推移の可能性を踏まえ、イラン側に親和的な傾向の自覚をもち、それ以外の論者とのバランスをとっていったほうがよいように思われる。
 次の疑問は、なぜサウジアラムコの石油施設がそんなに脆弱だったのか?である。攻撃は予想されていなかったのか? そもそもサウジアラビアの防空警戒態勢は発動しなかったのだろうか? これには関連する疑問が続く。攻撃はドローンと言われているが、実際の兵器はなんだったのか。すでに、攻撃に失敗した兵器はサウジアラビアに回収されているので、研究はされている。ここで余談だが、サウジアラビアは近年、対イラン政策でイスラエルと実質に同盟にも近い連携をしていていて、こうした技術解明には米国に加えイスラエルも噛んでいる。さらに余談になるが、サウジアラビアは国内の弾圧のための情報システムをイスラエルにアウトソーシングしているようでもある。それ自体が深刻な問題でもある。
 3番目の疑問は、攻撃のタイミングの意味合いは何か?だ。フーシ派が攻撃の新能力を急いで誇示したかったという考えは稚拙すぎるだろう。普通に考えれば、イランから米国へのメッセージだと見てよく、タイミング的にはボルトン補佐官の解任に関連しそうだ。が、そこからどういうメッセージを読んでよいかは、いまひとつ、よくわからない。加えて、もう一つのメッセージの対象は、EUと日本だろう。EUと日本が、戦争を回避するために米国から距離を取ればイランにメリットとなる。特に戦争を嫌う日本の国民性はイランが上手に活用できる。
 陰謀論めくがもう一つ気になっていることがある。この脆弱性はサウジアラビアと米国の罠なのではないだろうか? 米国が本格的に戦争に突入するためには、真珠湾攻撃のような事態を演出する必要がある。ただし、それならまさに青天の霹靂ではいと効果は薄いだろう。とはいえ、今回の事態で、この間、実現が取り沙汰されている米国とイランの直接首脳会談をトランプ大統領側から体よく否定することはできた。

 

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2019.09.15

必要と願望と期待の違い

 先日、このブログで『Think clearly』を勧めた。最近読んだ本ではとても有益だった。ただ、この本は、自己啓発書の一種なので、それをそのまま勧めるというものでもないなあ。私のお勧めをそのまま受け止める人に、お勧めするくらいかと思った。
 そして、2度目を読み終えた。さらにいろいろ考えさせられた。なかでも、必要と願望と期待の違いである。なるほどなと思ったのである。ちなみに、本書では「必然」とあるが、「必要」でいいだろう。
 何かが必要だということ(必要)。何かをしたいと思うこと(願望)。何かを期待すること(期待)。これらは似ている。が、違う。そして、その違いに私は気が付かなかったりする。
 具体的な例として、TOEICで900点を取る、というのを考える。
 「TOEICで900点を取らねばならない」というなら、必要だ。就職とか昇進とか、留学とかまあ、なにかでその点が条件となるなら、必要という感じになる。が、そうでもなければ、必要というわけでもない。
 意外に、人生、必要というのは少ない。そして、必要というのは、どっちかというと、手間と金をかければなんとかなるので、一種の野暮用みたいなものだ。
 「TOEICで900点を取りたい」となると、願望だ。願望を持ってもいいが、試験当日、下痢をするかもしれない。その他、いろいろそれを阻むなんかがあるかもしれない。ようは、願望は、達成するかどうかは、偶然要素が大きい。
 「頑張ればTOEICで900点が取れる」というのは期待だ。同書では、自分の期待は20%引いておくといいと。まあ、700点くらいか、という話でもないが、過度な期待はただ、失望をもたらすだけだ。
 まあ、必要と願望と期待の違いはそんなものだ。
 これは、考えてみると、TOEICの点の例より、はるかに日常の広範囲に及ぶ。昼飯なに喰うかとかでも、必要と願望と期待の違いは起きる。
 そう考えてみると、なんだろうか、ああ、なるほど、Think clearly、つまり、「すっきりと考える」という感じになった。
 Think clearlyというと、いかに明晰に考えるか、というふうになりがちだが、実際の私たちの思考は、願望や期待や感情でごちゃごちゃしながら進んでいる。だったら、それはそういうものだと割り切って、現実との対応を考えたほうがいい。

 

 

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2019.09.14

千葉県の広域停電と過疎地域

 台風15号の影響による千葉県での広域停電の状況を報道社による地図で見ていくと、概ね、台風の軌跡をなぞっていることがわかるが、過疎地域を浮かび上がらせたような印象もあったので、過疎について考えるきっかけにもなった。
 千葉県での停電復旧が遅れている理由は、想定外の被害であっ たということだろう。地形が複雑なことや樹木倒壊による交通の遮断なども復旧の妨げになっている。過疎そのものが影響したとは言えないだろう。だが、過疎地域の災害対策はどのようにあるべきかは今後も問われるだろう。過疎であれ、人が居住する地域であれば、水道と電気のサービスは欠かせない。が、その災害時のレジリエンスをサービスに含めたとき、公費とのバランスは問われてしまうし、なにより、地方自治体に十分な資金はないだろう。この問題に簡易な解答はないように思われる。
 関連して関東地域での過疎の状態を見ておこう。平成28年の総務省『過疎関係市町村都道府県別分布図』より。

Screenshot-20190914-at-111323

 過疎の定義(過疎地域自立促進特別措置法)といった詳しい説明は抜きにしても、南房総が過疎地域であることは見て取れる。そして、この地域に人が多数住んでいない場合、どのように都市部との交通や生活物資、災害時対応のロジスティクスは問われる。というか、今回の災害で問われることになった。おそらく地方自治体では税収などの面で対応はすでに限界にあるのではないか。
 県側の平成30年の人口密度の発表では次のようになっている。
Ch30
 白塗りの部分が過疎に近い。が、過疎とまでは言えないが網点の地域でも1km平方に1000人未満で、どちらかというと閑散とした地域という印象はある。これが平成15年だとこう。
Ch15
 15年も昔の状態だが、この間、人口縮小の日本でこの地域だけ大きな人口増加があったとも思えないので、実態は現状とあまり変わらないのではないだろうか。その上でこの地図を見てわかるのは、まず、市町村統合前であること。千葉県側というより国の施策ではあるが、この間にだいぶ、市町村統合を行った。これは地域の公共サービスを強化する意味合いもあっただろう。
 次にわかるのは、実質色塗り以外は、1km平方に1000人未満であること。やや語弊のある言い方になるが、濃い色が付いて色分けされている部分が首都圏に含まれる千葉県であり、薄く表示されているところが閑散とした千葉県である。印象では、同じ県でありながら、異なる地域が合体しているようにも見える。ただ、この件については、東京都も同じで、先の関東の過疎地図でもわかるが奥多摩は過疎地域である。だいたい、拝島より西は同じ東京都とは思えないほど閑散としている印象がある。余談だが、田無市が改名して西東京市となったが、あのあたりが、東京というときの西の地域なのだろう。
 千葉県に比べると、埼玉県のほうが閑散としていてもその落差は少ないように見えるし、その状況は茨城県から栃木県に連続しているようにも思う。また、西伊豆が房総のように例外的な過疎地域ではあるが、太平洋側は概ねなだらかに連続している。
 というところで日本全体を見ると、次のようになっている。

Screenshot-20190914-at-111408

 この日本の過疎の状況を見て、そんなことは知っていたさという人が多いだろうが、それでも改めて見直すといろいろ考えさせられる。北方領土のように政治の話題にすると熱心な議論がわきたつが、それがなければ北海道はほぼ全域が過疎地域になりつつある。この国土をどう維持していったらいいのだろうか。四国と山陰、九州と紀州も似たような状況にある。言葉狩りで消えてしまった「裏日本」もこの地図からは見て取れる。
 千葉県での市町村統合を見たが、同様に今後は日本全体で、県の再統合が必要になるだろう。大阪「都」が話題になるが、日本の課題としては、県以下の行政区のようなものも必要になるだろう。国会議員の割当は人口比へと向かっているが、それ以前の地方自治体の統合が重要なのではないか。
 そしてなにより、今回の千葉県の広域停電でも想起されたがこうした地域での自然災害とその復旧はどうあるべきなのか、単に公共投資の問題に還元するのではなく、なんらか、日本のグランドデザインが必要になるようにも思う。すでにあるのかもしれないが、私は知らない。そして、なんとなく思うのだが、この状況はおそらく放置され、災害ごとにメディアの映像で賑わい、一過的に忘れられていくのではないだろうか。

 

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2019.09.13

アレクサの子が便利 小型Bluetoothスピーカー

 すでに別記事で書いたが、私は、グーグルホームとアレクサ2台、都合3台のAIスピーカーを使っている。もともとこの手の玩具が好きなせいもあるし、それなりに使い分けはしている。グーグルホームは最初から使っていたし、聞き取り能力と応答が簡素なので、普通にAIスピーカーとして使っている。アレクサの1台はエコーショーで、つまり、基本時計である。オーナーは妻である。もう1台はエコードットでAIスピーカーというよりは、Fire TVの補助や何気ない音楽、それとアクティビティをカスタマイズしていろいろ使っている。Kindleの朗読も気に入っている。というわけで、それなりの使い分けである。が、エコードットが便利なのだが、これが室内でポータブルだともっと便利かなと思うようになった。
 キッチンで作業しているときや、エコーから少し離れているとき、あるいは、あまり部屋に響くほどでもない音量で朗読をさせるときなど、ポータブな、さらに小型のエコーがあるといいなと思う。そうだ。それだ。専属のブルートゥーススピーカーがあったらいいだろう。と思いついた。アレクサの子というか、エコーの子を作るわけである。
 で、これにした。

Screenshot-20190914-at-122016  

 デザイン的にもエコーの子という感じがする。かわいい。バッテリーの保ちは公称4時間らしい。もうちょっとほしいところだが、サイズがでかくなるとかわいくない。音は、まず意外に出る。音質は、悪くないといったころか。通信規格はBluetooth 4.2でやや古い。電力消費と飛ぶ距離はそれほど期待できないが、使ってみて、さほど問題ない。早速、キッチンで使ってみたが、いい感じである。朗読もソファーの横から聞こえるとなにか落ち着く。音というのは、意外と身近にあるとよいものだなと気がつく。ポケットに入れて部屋をうろうろしても問題ない。防水は期待できないが、水をかけなければいいだろうし、防水を考えるならビニール袋に入れてばいい。
 最初からエコーの子に専属的に設定しているので、操作はやたらと簡単。最初にエコーで音を流して、これでいいかという状態で、この子エコーの電源を押す。そもそも電源ボタンしか付いてない。すると、音がこっちに切り替わる。残念ながら、操作はエコー本体で行う。
 アレクサやエコーの外部スピーカーというと、もっと良質な音のスピーカーと考えがちだが、こういうのも悪くないなと思った。というか、この手のAIスピーカーはAC電源に固定されていて使いにくいから、他はポータブルな子にしたほうが便利だ。

 

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2019.09.12

自民党の自民党による自民党のための第4次安倍再改造内閣

 第4次安倍再改造内閣が発足した。印象は、自民党の自民党による自民党のための第4次安倍再改造内閣である。
 ブログには書かなかったのだが、ある程度予想はしていた。残念ながら、麻生太郎副総理兼財務大臣(78)は残るだろう、と。財務省の権力が外れるはずもないし、消費税の失態のスケープゴートとしても麻生さんは最後のご奉公である。
 個人的に気になっていたのは、菅義偉官房長官(70)である。存外に内閣を去るんじゃないかという、なんとなくの懸念があった。が、残った。私は65歳以上の政治家は引退すべきだと思うが、現在の日本を支えているのは、悪役を買って出た菅さんだろうなとも思っている。私はダークヒーローが好きだ。
 他に残るだろうなと予想していたは、河野太郎(56)と茂木敏充(63)。そして外交と軍事は安定させるのが内閣の基本であり、二人は有能である。とすると、河野さんが外務大臣の継続だろうか、と。結果は、河野防衛大臣と茂木外務大臣となった。
 予想外とも言えないが、多少へーと思ったのは、加藤勝信厚生労働大臣(63)である。横滑りで戻した。「ポスト安倍」候補ということか。ということで、河野さん、茂木さんと「ポスト安倍」で並ぶわけだ。これに年代的に岸田文雄政務調査会長(62)が並ぶ。
 ははーん、なるほどね。ポスト安倍を競わせておけば、安倍さんもレームダックになりにくいか。というか、キーワードはレームダックだろうな。
 そう言えば、自民党の派閥のバランスはどうかなと見ると、前回の内閣改造と比べるといずれも横ばいか微減。ようするに自民党一強とか、長期政権といっても、安倍さんの派閥的な党内基盤が強いわけでもない。そう考えてみると、自民党役員も二階俊博幹事長(80)を筆頭に再任が3人で、代わり映えしない。自民党って自民党のことしか考えてないなあ。というか、さすがに80歳という御仁はどうかと思うぞ。
 というわけで、これは、もう実際には安倍内閣のレームダックを先取りした風景であり、自民党の自民党による自民党のための第4次安倍再改造内閣という印象になった。
 内閣ポスト19中、17も入れ替え、初入閣も13人というのも、そうしてみると、その印象に整合的だ。公明党も入っているが、ようするに自民党に大臣経験をばらまいておく。女性が申し訳程度に2人というのも頷ける。マスコミネタの話題の役者も入れておく。共産党の口調を真似るわけでもないが、国民不在の内閣だし、何をしたい内閣というわけですらないのだろう。
 では、レームダックの図を描いてみようか。安倍総理の自民党総裁としての任期は、2年後、2021年9月まで。そして衆議院議員任期満了は、その年の10月。ポスト安倍の自民党総裁が就任1か月で衆院解散というのもちと考えにくいから、その前に、安倍内閣がある時に禅定するか、禅定のシナリオを固めてから粛々とスケジュールを動かすか、レイムダックでどん詰まるか。
 現時点の印象でいうなら、どん詰まりになるだろう。東京オリンピックの後の祭りと消費税のボディブローが効いてくる。中国経済の失速や米国やEUの混迷などで世界もぐだぐだになるだろう。
 すると、昭和や平成が蘇ったような「ポスト安倍」の乱戦か、野党の台頭か。いや、野党の台頭はなさそうに思える。
 暗いなあ。
 でも、暗いほうがいいのかもしれない。「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」というものだ。

 

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2019.09.11

ジョン・ボルトン大統領補佐官解任について

 米時間で10日、ドナルド・トランプ米大統領は国家安全保障問題担当のジョン・ボルトン大統領補佐官の解任をツイッターで発表した。解任の理由は、ボルトン補佐官の考えに反対したためとのこと。他方、ボルトン補佐官は、自ら辞職したとして解任を、これもツイッターで否定した。おそらく真相は、辞任のほうだろうが、トランプ大統領の堪忍袋の緒が切れたといっても正しいだろう。二人の仲は険悪であり、その状態で国家安全保障が維持できるわけもなかった。
 この「解任」をどのように考えるか? 前提として、米国の国家安全保障政策は全世界に影響を与えるし、特に日本では北朝鮮政策に関連してくるので、考える重要性がある。
 簡単に思い至るのは、トランプ米大統領の気まぐれである。というのも、この「解任」はトランプ政権で3人目になる。2017年2月にマイケル・フリン元陸軍中将、2018年4月にH・R・マクマスター将軍に次ぐ。普通に考えれば、トランプ大統領に定まった国家安全保障の理念はなく、こいつは気に食わないとか、状況でころっと意見を変えるといったものだろう。ただ、逆もある。なにかトランプ大統領に強固な国家安全保障政策の理念があって、それをひたすら求めるがゆえに人選びも厳しい。まあ、それはないだろう。やはり、単にわがままさんというくらいだろう。であれば、世界の状況も危ういということになる。
 が、概ね、日本のリベラル派と限らず、世界のリベラル派としては、タカ派のトランプ大統領が嫌いでも、ウルトラ・タカ派でネオコンのボルトン大統領補佐官はもっと嫌いだということで、五十歩百歩ではあれ、よかったことと受け止めているのでないだろうか。
 この文脈ですぐに連想されるのは、6月20日のことだ。米軍機がイランを空爆しようと準備を整えたが、直前、10分前とも言われているが、トランプ大統領が中止した。この背景にはおそらく、空爆を支持したボルトン補佐官との対立があっただろう。
 直前であれ空爆を回避したトランプ大統領は、あたかも戦争を回避したかのようにも受け止められた。が、この空爆は、米軍の無人偵察機を撃墜したイランに対する報復攻撃としての、ゲーム理論でいうしっぺ返し(Tit for tat)であれば、米国の対イラン政策のメッセージを伝えるものもにもなりえた。正確なしっぺ返しは戦闘の激化を抑制しうる。
 イランが問題を抱えているのは、事実といっていい。 欧州連合(EU)の対シリア制裁に違反したとして、英領ジブラルタル沖で拿捕され、8月18日に解放されていたイランのタンカーだが、イランのアナウンスを裏切り、シリア沖で見つかった。シリアに向かっていた。イランはシリア支援をしていたのだ。これを予見し暴いたのも、ボルトン大統領補佐官である。逆に言えば、今後はこうした暴露はなくなるかもしれない。
 ボルトン大統領補佐官はネオコン、ウルトラ・タカ派とされているが、非核化の原則を維持するという点では一貫している。昨年5月も、北朝鮮の非核化政策を「リビア方式」とすべきだとした。が、これをトランプ大統領は否定した。この時点でも二人に軋轢があった。「リビア方式」という用語が適切ではないかもしれないが、核化を志向する北朝鮮の独裁者・金正恩は、ボルトン大統領補佐官を名指しで嫌悪した。トランプ大統領は交渉のネタにするかのように、これをなだめた形にした。だが、この件の政策も大筋でボルトン大統領補佐官が正しい。北朝鮮の核は「完全かつ検証可能で付可逆的な」状態に持ち込むべきである。というか、それが世界の、可能な非核化である。もちろん、ファンタジーめいた非核化のストリーもあるし、それに取り憑かれたかのような国家もある。
 トランプ大統領は、ドラマに出てきそうなビジネスマンらしい、原則を無視したかのようなスタンドプレーの交渉で自身をアピールしたいのだろうが、原則に立ち返ると結果と呼べるものは出ていない。8日には、米国がテロ組織として長く敵対していたタリバンとの秘密会合が中止となったとトランプ米大統領はツイッターでアナウンスしたが、そもそもこうしたスタンドプレー的な秘密会合もボルトン大統領補佐官は反対していたようだ。
 もちろん、ボルトン大統領補佐官が必要なのではない。米国の国家安全保障政策がどのようになるかが重要なのだ。
 トランプ大統領はボルトン大統領補佐官を「解任」することで、それを明確にしているだろうか? 見栄えのよい、ご都合主義の混乱があるだけなのではないか? 前任大統領のように。

 

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2019.09.10

台風15号と南房総

 台風15号が千葉県、特に南房総に大きな被害をもたらした。NHKのニュース『台風15号 市民の声「水がない。千葉の実情伝わっていない」』(2019年9月10日 16時44分)が、住民の声を伝えている。

 10日、気温が30度を超える中、女性はSNSにメッセージを書きました。「コンビニも今日はみんなやってないので、食料もないです」「いま出先で飲み水がなくなったので熱中症になりそう」この投稿のあと、自分が勤める隣の市の会社に出向き、同僚から炭酸入りの飲料水を分けてもらったと言います。
 女性は今、千葉県の被害の実情が伝わっていないのでないかと、不安を感じています。
 「避難所は台風が過ぎ去った後に閉鎖してしまいました。お年寄りは、ご自宅に帰ったと思いますが停電、断水してるため暑い部屋で水も浴びられず、使えない冷蔵庫に入った食料を食べるしかないと思います。千葉県南部で誰か倒れても、誰も気づいてくれないんじゃないか。被害の実情が伝わらなければ支援も届きません。ほんとに助けてほしいです」

 報道を通じている知る災害のようすからすると、政府レベルでの対策が必要であるように思われる。
 類似の災害として連想されるのは、国が対策本部を設けた平成26年豪雪、特に、ほぼ県全域が孤立した山梨県の事例である。今回の千葉県では、当時の山梨県ほどには孤立していないようだが、水や食料の供給に大きな問題が出てくる。
 平成26年山梨県豪雪で問われたのは、エネルギーの補給であった。災害時には、目先の問題としては、水、食料、寝泊まりなどに目が行くが、その基盤にあるのがエネルギーの補給である。今後、国は地域が取り残された場合のエネルギー補給の総合的な対策が必要になるだろう。
 もう一つの類似点は、十分に被害が予想されていなかったことだ。しかたないことかもしれない。台風なれしているのは、沖縄くらいであろう。ちなみに、沖縄では台風の速度が遅い。
 私は沖縄で8年暮らし、その間ほぼ毎年、台風の停電を経験した。最長では、72時間、足掛け4日の停電があった。さすがに4日目になると、タイムスリップしような感覚に襲われた。すっぽりと台風の目に包まれるという、ワンダーな体験もした。
 当然、沖縄ではこうした事態も平常なほど、台風慣れしている。慣れすぎて、台風になるとドライブに出る若者がいるくらいだ。やめとけ。
 南千葉というか房総半島南部では、ここまでの台風の経験がこの数年なかったとも言えるだろうか。昨年の台風24号も大きかったし、千葉県には主に農作物に被害を出した。風速40メートルはあったようだ。今回は50メートル。昨年の台風で持ち堪えたことが被害を大きくしたのかもしれない。
 南房総での被害のようすの写真を見ると、今年2月の連休の白浜の小旅行が思い出される。千葉県北部では雪となった。白浜のほうは雨だったが、この季節の南房総が好きな私としても異様なほどの寒さだった。道の駅などには昼間は車の客でそれなりに賑わっていたが、夜間は食事をする場所もほとんどないほど、寂れた印象だった。南房総は、リゾート地としては潜在性が高いのに、実際は随分寂れてるものだと思った。昭和を思わせる古い家並みもよく見かけた。あれがこの台風で一変したのかと思うとやるせない感じがする。

Bousou 

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2019.09.09

2019年新国立劇場オペラ『トゥーランドット』

 二年くらい前だっただろうか。オペラ好きの妻から、新国立劇場オペラ『トゥーランドット』を見に行きたいと誘われたような記憶があり、それで心に引っかかっていた。受験生二人から解放された心の緩みのようなものあった時期だったように思う。まあ、『トゥーランドット』なら頭空っぽでも見られるが、ちょっとめんどくさいなという感じでやり過ごしてしまい、最後の受験生にまた追われている。
 これが、NHK『プレミアムシアター』でやっていた。台風の余波で閉じ込める、ある微妙な退屈もあって、見た。2時間半くらいだったか。メットのだと3時間くらいあったように思うので、どこか端折っていたのかもしれないがわからなかった。
 まあ、よかった。トゥーランドットのイレーネ・テオリンはけっこうなお年だと思うがさすにワーグナー歌劇こなすだけのドラマッチクな歌いは見事だった。カラフのテオドール・イリンカイもよかったが、この人、イタリア人じゃないよな、と、発音はイタリア語のようなそうでもないようなという感じなので、調べたら、ルーマニア人だった。とすると、まあ、概ねイタリア語は方言のようなものかもしれない。個人的には、リューの中村恵理の歌が美しかった。一番きれいなイタリア語に感じられた。とはいうものの、オペラ全体でイタリア語はよくわからなかった。もうちょっとわかるんじゃないかと期待していたのだが、残念。合唱もよかった。演奏もよかった。日本もけっこうなオペラ大国になった感じがした。ただ、聞き慣れたメット・ヴァージョンと自然に比べてしまう。
 今回の新国立劇場『トゥーランドット』のウリでは、アレックス・オリエの演出も大きい。舞台や衣装も斬新だ。モダン解釈というのとも違うが、抽象的な、色調が統制された静謐な空間になっている。ブレードランナー的な感じかな。そして、前評判にあったエンディングについても、それなりに知ってはいた。
 ネタバレにならないようにしたい。エンディングはさすがに首を傾げた。見終えてから、妻と顔を見合わせ、「あれ、あり?」と聞いてみた。私には、よくわからなかったのだ。現代解釈のオペラは好きだし、ヴァーグナーはむしろ現代解釈が好きなくらいだが、プッチーニでヴァーグナー的な空間と、現代的な批評的な解釈ってありだろうか? それとも、むしろプッチーニの真意ってこんな感じなのか? 妻のほうは好評だったようだ。納得もしたみたいで、説明もしてもらったが、私にはよくわからない。
 我ながら、プッチーニのオペラについては、お子ちゃまテイストなのである。『アイーダ』でもメットみたいに象さんが出てくるだけで、心踊るのである。サーカスかよ。『トゥーランドット』でもメットの、中国雑技団的なピン・パン・ポンが好きなので、今回の演出は、深刻で地味だなあとか思ってしまう。
 まあとはいえ、それも楽しいといえば楽しい。

 これは、昔のメット(1987年)ので、ドミンゴがカラフ。レオーナ・ミッチェルのリューは絶唱!


 

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2019.09.08

Netflix アニメ『HERO≠MASK』

 Netflix アニメ『HERO≠MASK』が推されていたので見た。ネットでよく見かけるアニオタさんらは、深夜枠のはよく見るみたいだが、Netflixのはそれほどでもないのか、あまり話題にならない。まったくならないわけでもないが、それでも話題は少ないのではないか、ということもあって、少し書いておきたい。
 私はパートⅡになってからの通し見である。それでよかったように思う。続けてみたいという引きの強い作品なので、パートⅠでお預けはちょっとつらかったかも。ということでもわかるが、総じて面白い作品だった。ダレる感じがなかったのがよい。「本格派クライム・サスペンス・アクション」ということなので、話がダレると救われない。
 とはいうものの、というかというべきか。アクションに力点を置いているせいか、脚本の進みが遅い。ダルいというのとも違う。なんだろ、というのがこの作品の特徴かもしれない。
 話は、生命の本質を加速させる特殊なマスクで、これを顔に貼ると、誰の顔にもなり、しかも、生体能力全体が極限になる。銃で打たれてもすぐに治癒する、といったSF設定で進む。が、マスクは完成していないので、能力はあるとき尽きて急速に老化する。マスクの謎解きも話の牽引ではあるが、まあ、このくらいはネタバレでもないだろう。
 アニメとして見た場合、どうなのだろう。作画は、スタジオぴえろ。作画崩壊とはまったくない。キャラデザも悪くない。PSYCHO-PASSから茜ちゃんを除いたくらいのクオリティはある。超常的な表現も概ねMarvel程度、というか、普通に人間とCG使った、Netflix Marvelと同じレベルな感じがあり、なぜにしてアニメ?感が残る。
 人間の描き方だが、これも概ね悪くない。ただ、深みという点では、PSYCHO-PASSから槙島聖護を抜いたくらいのクオリティ。いかんな、これではディスってるみたいだ。
 Netflixなので全世界配信だし、それにむけて、いろいろチューンされた結果なのかもしれない。話も全体としてわかりづらいことはなく、キャラとかでも設定でも安定している。
 とはいえ、個々のシーンでわかりにくいなあと思ったことがあり、ええい、副音声オン!とかやってみたら、ナレーションがうるさいけど、すっげーわかりやすくなった。これでいいのかとも思ったが、副音声も悪くないんじゃないとも思った。こんどなんか別の作品をラジオドラマふうに聞いてみるか。
 あと、洋ドラにありがちな、エロさはなかったな。アニオタ向けの国産アニメのエロ方向とは別に、洋ドラ・エロもなかった。なぜだろう。この作品でエロ混ぜするとダレる感じは出てくるかもしれないが、、Netflix Marvelくらいのエロはほしいところだ。
 うーむ、ディスってないってば。

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2019.09.07

[書評] 渡部昇一『講談・英語の歴史』と『英文法を撫でる』

 二年ほど前になるが、英語のスペリングはなぜこんなに混乱しているかというテーマの本を書いた。出版とはしてない。公開もしていない。タイトルは、『英語のfriendにはなぜ i (アイ)があるのか』といったようなものにしたかった。新書一冊分くらい書き上げて、自分の考えが変わり、原稿を直すほどでもなくなり、放置した。また機会があったら、ゼロから書き直さなくてと思いつつ、月日は流れる。その渦中、英語スペリングの混乱の説明に英語史の解説章も書き、参考文献も読んだ。いろいろ思うことがあり、自分なりの見解もまとめたが、渡部昇一の『講談・英語の歴史』はさっと目を通して、放り出した。学術的な価値がないと思ったのである。59歳の私である。まだ若かったのだ。62歳になって読み返すと、これはなかなか楽しい読書であった。
 渡部昇一については、cakesという媒体で『知的生活の方法』について評論のようなものを書いたことがある。生前、お会いしたこともある。ネットの世界では、彼は右翼のように扱われていて、山本七平同様、彼らの著作を愛読書ですとでも言おうものなら、それだけでとんでもない攻撃を食らう。いやいや愛読書だからといっても心酔しているわけでもないし、批判的にも読むにはするが、いかんせん、ネットはその手の無粋なやからが多い。
 とはいえ、渡部昇一先生かあという思いは当時はあった。学術的な本でもないしと。読み返すとそこがよいのだった。『講談・英語の歴史』の序文にもあるが、先生は意図的に雑談を織り交ぜたいとしていた。教養というのは、こういう雑談なのだということでもある。読み返しながら、なるほど雑談に興じる姿が楽しい。先生には、若い頃お会いもしたのだが、授業も受ければ良かったと悔やまれた。そういえば、講談社新書『英語の歴史』の著者・中尾俊夫先生のほうは、院生のとき英語史を受講した。雑談はあまりないが学識深く、楽しい授業だった。
 ところで、いまさらなぜ英語史。しかも、『講談・英語の歴史』というと、ヴィンランド・サガの連想もある。このアニメ、なかなかにすごい。おそらく今季アニメのダントツだろうと思う。NHKやるなあ。原作も全巻持っているが、原作をより緻密に描いている。時間構成をリニアに直しているだけなく、主人公トルフィンの幼年期を丁寧に描いている。このアニメを見ながら、英語教師のみなさんとか、ネットで英語教育ぶいぶい言っている人は、これ見たほうがいいのになあと思っていた。アニメはさすがに英語史との関連は深く描いていないが、このあたりの歴史が英語の秘密の核心にもなる。
 渡部昇一先生のこの本だが、雑談もあり読みやすい。学術的に古い印象もあるが、不正確とも言えないだろう。ただ、視点がドイツ側なので、近年の英国・米国側の英語史の視点とは異なる印象もあったが、逆に英語史学がドイツ語圏に依っていることがわかって面白かった。
 で、その続編というか、『英文法を撫でる』も読んでみた。うかつだった。私は現在、英語文法史に関心を持っているのだが、渡部昇一先生が日本でのこの権威だったのだった。親しみやすい著書とその博識からその根幹部分を失念していた。本書も読みやすい。雑談はさらに多い。残念なことに、肝心の英文法史についての記述は少ない。が、英語史との関連はわかりやすく描かれている。前書とのダブリも多い。
 それにしてもまたも悔やまれる。
 先生が一般書を乱造されているとき、きちんとした英語史を書かせるべきであった。というか、それがむしろ、このPHP新書の功績とも言えるだろうが、少なくとも専門の修士ぐらいとった編集者にこのさらに一歩深い書籍を書かせてほしかった。
 言い忘れたが、二冊ともアマゾンのUnlimitedに入っている。定額読み放題だ。ざっと見るに渡部昇一先生の本が他にも見つかる。広く読まれるようにしたのは、本人の意思というより、親族の意思であろうか。それでも、先生の先生らしい部分の人柄が偲ばれる。まあ、あの歴史観にはさすがについていけないものがあるが。

  

  

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2019.09.06

Netflix 『13の理由』シーズン3

 日本のメディアではそれほど話題にはならなかったが、Netflix ドラマ『13の理由』(13 Reasons Why)は米国では社会的な話題となった。テーマは若者の自殺である。そのテーマ自体が問題だともいえるが、その描き方は対象である10代の子供に大きな影響を与えた。一部では、自殺を誘導するものだとか、自殺が増加したのではないかとも言われた。
 原作の小説が存在する。2007年に出版されたジェイ・アッシャーの作品である。10代向けの小説であり、文学的に優れているかといった対象ではないだろう。2009年に翻訳も出たが長く絶版だった。が、今年の1月、ドラマの影響もあって新装版も出た。
 物語は、主人公の高校生・男子クレイに届けられた7本のカセットテープにの再生に合わせて展開する。そこには30分13本の「理由」が録音されている。その2週間前に自殺した同級生の女子ハンナ・ベイカー自身による自殺の理由が肉声で語られる。その13の理由は、彼女の人間関係に関わる。なぜ彼女は自殺したのか。クレイに託された意味はなにか。一種の推理小説のように展開する。
 さすがに録音媒体がカセットテープというのは、古過ぎるようだが、米国ではカセットテープのリバイバルもあり、ドラマでもそこはあえてレトロが意識されている。つまり、カセットテープのメディアとしての古さを逆手に取り、現在の米国社会で、10代の女の子が自殺してしまう状況が生々しく描かれている。
 壮絶で痛ましい物語である。ハンナが自殺した理由を、それ以外の選択がなかったのように展開していくという点でも、大きな問題が潜在的に秘められている。私は、青春ラブコメ・アニメが好きというオタクといってもいいくらで、この年代の心理に共鳴してしまうほうだが、さすがにこの物語は、若い子供を持つ親としても胸かきむしられるような痛みが残った。
 が、エンディングはある意味、爽快でもあった。一つの完結がそこにはあった。まさか、シーズン2が出てくるとは、当初、想像もしなかった。が、出てきた。もはや原作はない。
 シーズン2は、シーズン1の物語を、徹底的に吟味し直して悲劇の本質を深める物語であり、より社会的な意義の深いものになった。シーズン1とは異なり、悲劇に一直線に進むと言うより、ある種の胸糞の悪さのようなものも残った。そして、それでもハンナの物語は終わった。
 が、シーズン2の最終部の30分ほどが奇妙な展開になった。取って付けたというほどの、違和感はない。こうした展開は練られていたとも思う。が、いかにもシーズン3につなげる、洋ドラあるあるの展開に、率直に言って萎えるものがあった。そこの萎え感で言うなら、もしこの作品を見る人は、最初のシーズンで完結したと思ったほうがいいかもしれない。それで過不足はない。
 そして、シーズン3につないだ。冒頭面食らう展開がある。新キャラの、ケニア人の秀才の女の子アニ・アチョラが登場する。彼女が、これまでのクレイの見てきた世界を別の視点から長め、そして、事件に深く関わっていく。
 ネタバレはしない。
 アニは、恐ろしく魅力的である。そしてその魅力は、美しいだけも、知性だけでもない、愛情深さだけでもない、悪の要素が含まれている。これまで出てきたどの女の子とも違う。魅了されることに、ある種のいごこちの悪さが残る。この、胸糞悪いというのでもないのだが、どうしようもないある嫌悪感は、シーズン3を見終えても残った。あれはなんなのだろうか? 自分自身の青春の悔いのような後味の悪さも惹きつけて、鬱を誘発しそうだ。
 シーズン3の物語全体は、ハンナの物語はすでにほぼ脱色されていながら、これまでの物語をさらに深化させている。また、なにより叙述トリックの入り組んだミステリーにも仕上がっているし、そのための、映像のナラティブとでもいうのか、非常に高度な仕上げになっている。作品のクオリティーからいっても、これだけのドラマはそうはないんじゃないか。
 ちなみに、ミステリーとして見た場合、犯人がわからないということはない。だが、事件の真相はなかなかわからない。いや、まだ真相がわかったとも言えないかもしれない。
 おすすめできるドラマではない。ただ、こんなすごい作品はそうはない。 

 

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2019.09.05

「合意なき離脱」の国内合意が取れない英国が病んでいるもの

 イギリスの動向が目まぐるしい。4日、EUからの離脱期限を来年1月末まで延期するよう求める法案が賛成327票、反対299票で下院で可決された。離脱強行派のジョンソン首相は、これに対抗し、それでは国民に信を問うとして、来月、総選挙を実施する動議を議会に提出し、採決。残念。必要な3分の2を超える支持を得られず否決。英国は日本の首相と異なり、単独で議会の解散権はもたない、というか、日本のこれも一種の解釈改憲なのでおかしいにはおかしいが。
 BBCの報道を聞いていたら、事態を不思議の国になぞらえていた。ジョンソン首相は、離脱は求めているが合意なき離脱を求めているわけではない。野党労働党コービン党首は総選挙は求めているが総選挙の動議は認めない。まあ、だが今日ではない、ということのようだが、それで労働党は動議に棄権。
 簡単にいうと、野党なのに、与党を倒して政権を取る気概はない。いや、気概の問題ではないだろう。コービン労働党党首には政権を担うリーダーシップなんかない、ということでもある。だが、最大の問題は、EU離脱の政治判断を、もはや国民に委ねることができないという事態だろう。
 「合意なき離脱」の国内合意が取れない英国が病んでいるもの、それは実体化した衆愚だろう。
 そもそもの話は、2013年に当時のキャメロン首相がEU離脱について国民投票を実施したことによる。キャメロンにしてみれば、理性的に考えれば、EU離脱なんかありえないのだから、国民投票で離脱反対を得て、政権の強化を図るつもりだったに違いない。大コケ。自身も退陣に追い込まれ、以降、迷走に次ぐ迷走。
 そもそもキャメロン首相は国民投票なんてする必要はなかった。議会はEU離脱反対だったのだから、国民の代表である議会ベースに話を進めていけば、こんな大混乱にならなかった。
 この混乱事態を笑える先進国は少ないのではないだろうか。国民の意識を統合すると、おばかな結果になる。国民から直接大統領を選び出すとおバカが立つということがある、という事例は、ああ、あれ、個別の事例の指摘はあえて避けたいが、たやすく起こりうる。
 衆愚というのは直接民主主義の危険性であり、だから、英国も日本も議会から首相を選ぶようにしている。というか、日本の場合は、独裁的な権力が生まれないように米国がこういう仕組みの憲法を定めたわけだが。それなのに。
 いずれにせよ、とりあえず、英国は総選挙という衆愚の発露を避けて、EU離脱のぐだぐだ化に戻った。ジョンソン首相の思惑のように10月15日にすっぱり離脱とはいかないということだ。ただ、EU側としてはどう受け止めるかわからない。
 離脱が迫るにつれ、ぐだぐだだけが広がっていくのもわかる。タイムズ紙の日曜版サンデー・タイムズが「イエローハンマー作戦」という秘密文書を暴露した。イエローハンマーは、スズメ目ホオジロ科の鳥類「キアオジ」である。合意なきEU離脱を行うと何が起きるかという推定が描かれている。その内容から、「混沌作戦」とも呼ばれている。さらに最悪事態のシナリオの秘密文書もあるかもしれない。何が起きるか? 庶民生活的には、三ヶ月にわたり、生鮮食料品や医薬品の流通が滞るかもしれない。経済も停滞する。
 3日の国連貿易開発会議(UNCTAD)の発表では、EUへの輸出が少なくとも年160億ドル(約1兆7千億円)減るとの試算だ。
 離脱が延期になっても、いずれ半年後くらいには、同じ事態となるだろう。国際経済への影響は避けられない。消費税を上げた日本にも影響して、これも歴史の教訓となるのではないか。まともな野党がない英国の悲劇を笑う余裕はたぶん日本にもなさそうだ。

 

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2019.09.04

登戸殺傷事件容疑者の14歳の写真報道は適切だろうか?

 5月28日に川崎市登戸駅近くでスクールバスを待つ小学6年生の女子と39歳の男性が51歳の男に刺され、殺害された。他、18人が重軽傷者となった。この登戸殺傷事件の容疑者は、2日、殺人と殺人未遂などの疑いで書類送検された。
 容疑者はすでに自殺していることもあり、警察は遺品の捜査や親族への聞き取りなどを進めたが、動機の解明には至らず、これで捜査は終結した。
 書類送検後はどうなるか? 通常の刑事事件では、警察の捜査後、容疑者は検察に送られ、検察が起訴すると裁判となる。が、容疑者が死亡している場合、捜査書類は検察に送られはするものの、本人の死亡により裁判は成立しない。よって、不起訴となる。
 容疑者は永遠に容疑者のままとなり、事件の「なぜ」は公式には永遠に封じられたと言っていいだろう。
 釈然としない気持ちだけが残る。
 今後、時期を見て追悼の報道などはなされるだろうが、事件を解明する報道はなくなるだろう。おそらく、容疑者の写真を見ることも事実上、これで最後だろう。
 そして、その最後として見る、この51歳の容疑者の写真は、14歳のものである。あるいは、15歳かもしれない。
 中学校の卒業アルバムから取られたもので、51歳の写真は報道されない。せめて成人後の写真でもあれば、51歳の相貌に近いだろうが、それもなかったのだろう。
 あるいは、成人後の写真があっても、報道に使ってよい許可されたものではなかった。
 社会的に見るなら、この51歳の容疑者には、成人後の顔というものがなかった。それに見合うように、この51歳の男の心を知る人は誰もいなかった。言葉も残さなかった。
 親族や、近所の人ならその顔で誰かわかったかもしれないが、それも数人というほどで、特徴的に記憶されるものでもないだろう。
 やはり、この男には顔がない。
 そして、私たちの社会は、彼が少年だったときの顔を、51歳の男に貼り付けた。
 奇妙に思う。14歳、あるいは15歳。中学三年生の少年の顔は、37年後の殺人の容疑として公にさらされたのである。
 そんなことをしていいものだろうか?
 中学三年生の彼には、なんの罪もなかった。
 そして、その顔は義務教育の卒業写真である。つまり、義務教育の顔写真は、容疑者の写真として警察で撮影される写真に準じているということだ。いつから、日本社会はこんな牢獄のようなものになったのだろうか?
 51歳の容疑者には、顔がなかった。報道はそれでよかったのではないか。名前と年齢だけでよかったのでは。未成人時の写真は要らない。
 だが、報道は、そして私たちは、まるで墓でも掘るように、過去の顔を掘り出して、罪に結びつけずにはいられない。そうした欲望を持っている。しかも、この欲望は正義のようなフリをしている。でもこの正義には、どこかしら狂気が混じっていると思う。
 そしてその得体のしれない狂気という点で、顔を隠した私たちはこの容疑者と結ばれている。

 

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2019.09.03

香港民主化運動の裏にあるかもしれないもの

 若者を中心とした、しかし、若者だけに限らない香港市民による民主化運動のデモの収束が見えない。私は世界が民主化されればいいと願うものなので、香港市民の民主化を求めるデモを強く支持している。少なくとも、香港返還時に英国と、そして結果的には世界と中国政府が結んだ一国二制度の契約が維持されることを願っている。
 他方、続くデモの様子を見ながら、当初は想定しなかった思いも去来する。いくつかそんな思いをブログにメモ書きしておきたい。残念ながら、話はそう思ったというくらいで、情報的な裏付けはない。強く主張したいものでも、新しい陰謀論のようなものを考え出したいわけではない。あくまで印象であり、感想である。
 まず、一部で主張されている、ということもないか、中国政府自身も報道官を通して主張している、米国、特にCIAの関与だが、私はそれはただのよくある陰謀論的妄想だろうと思う。もちろん過去にはイランコントラの例もあり、CIAが清廉潔白な組織だとも思わないが、CIAなどが香港で活動していても基本的な情報収集機関としての活動だろう。なにより、現下流布されている米国陰謀論の筋書きにそった意味では、香港の政治を米国が直接操作するメリットが米国にあるのかすら疑わしい。
 しかし、香港が市民デモで揺れていることに米国のメリットがまったくないわけではないかもしれない。いわゆる現下のCIA陰謀論者とは違った意味で、米国の関与の目的としてなんとなく思うことがある。
 現状、中国政府が米国との関係で問題としているのは、貿易摩擦である。具体的には、米国による関税の引き上げにどう対応するか(米国側としてはそれに対応した問題もある)、という枠組みで見たとき、香港の意味合いが変わる。
 基本は、香港返還時に関連して米国で制定された、米国香港政策法(United States–Hong Kong Policy Act)である。というか、むしろ、香港の一国二制度の実態は米国香港政策法だと言ってもよい(ちなみに台湾に対しては台湾関連法がある)。この法によって、香港のビザの発行や関税が取り決めされている。
 実はこれは、中国政府にとっても都合のよいループホールになっている。通常の対中国向けの関税措置がここだけ別扱いになっているからである。
 このループホールとしての香港の意味、つまり、中国政府における意味というのは、当然ながら、通常ではない手法で富が流れ込む入り口であり、また蓄財にも都合のよい環境である。おそらく香港は中国本土の権力層の資金源になっているだろう。その実態は、パナマ文書で伺える面があるとしても、よくわからないので、陰謀論のようだが、それでも中国権力層にとってのこのループホールとしての香港のメリットは確実だろう。他方ここは米国にとっても意地悪のしがいがある。
 と、考えていて奇妙なことを思いついた。
 中国の、もはや独裁的な権力を掌握しつつある習近平の金づるである。これが香港ではなかったか? 
 気になってざっとネットの情報をあたってみるが、こうした情報で確かなソースは、当然ながら得られない。それでも自分の記憶に引っかかっていたものに近い話が雑誌SAPIOの2012年8月1・8日号に掲載されていた。まあ、こんなのは右派雑誌の情報自体陰謀論に等しいかもしれないが、手頃な情報がないので、参考までに引用しておく。『中国の次期最高指導者・習近平ファミリーの総資産は420億円』より。

 習近平には姉が2人おり、長女夫妻は複数の会社を経営し、北京や深セン、香港を拠点に不動産関連を中心としたビジネスを展開。次女夫妻はカナダに居住しカナダ国籍も取得していながら、中国の国内事業に出資して巨利を得ているという。また、習近平の弟・習遠平は中国に返還される前から香港に移住しており、北京に本部を置く国際環境団体の会長に就任している。だが、それは多分に名誉職的な肩書で、その行動には謎が多い。
 彼らは「次期最高指導者」である習近平のファミリーとして、さまざまなコネクションを使いながら手広くビジネスをしていることが分かっている。これまでその実態は闇に包まれてきたが、最近、金融・経済情報専門通信社「ブルームバーグ」や香港メディアなどが報じた情報を総合すると、習近平ファミリーの総資産は少なくとも420億円を下らないことが分かってきている。

 不確かな情報だが、この次元での報道を否定するカウンターの情報も見つからなかった。
 習近平のファミリーの蓄財に香港がどれだけ関与しているかは不明だが、まったく関与ないわけもないだろうし、むしろ、こうした話からそれなりに確からしく伺えることは、習近平と限らず中国の権力層が香港政策法というループホールを使って、権力維持のための蓄財を行っていることだ。
 これを現下の香港デモと重ねると奇妙な、困惑させるような図柄が浮かび上がる。
 端的に思うのだが、香港デモの本質は、香港市民による民主化であることは疑えないとしても、このいわば動乱には、中国権力中枢の、しかも金銭に関わる権力闘争が重ねられているのではないという疑念がある。
 8月上旬の、中国権力者の密室会議である北戴河会議での実質的な問題は、中国権力層の一部の資金源を支えている香港という金の卵を産む雌鳥の扱いではなかったか。
 この図柄が奇妙なのは、香港を金の卵を産む雌鳥としている権力層の一部にとっては、香港の一国二制度の維持のほうが好ましい。それを仮に陰謀論的に翻案すら、むしろ香港の民主化デモを苦々しく思っているのは、習近平を含め、香港を蓄財拠点とする権力層ではないのか。

 

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2019.09.02

[書評] 生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

 『生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む』(参照)は読んでみてから気がついたが、宣伝に力を入れているようだ。というか、各種の興味から読める、間口の広い本だとも言えるだろう。特に生物学の基礎知識がなくても読めるようには思う。が、本書の中心課題は、収斂進化論であり、サイモン・コンウェイ=モリス『進化の運命-孤独な宇宙の必然としての人間』(参照)が既読でないと、その文脈を理解するのが難しいかもしれない。振り返るとサイモン・コンウェイ=モリスの同書は翻訳が出たときに読んだが、当時の日本のネットの世界では収斂進化論はタブーとまではいえないが、どこかしら罵倒の対象のようにも思えた。彼が有神論的なせいものあるのだろうか。そんなこんなで、私も同書の書評もなんとなく書かずじまいだったなとも思い出す。

  

 とはいえ、そのあたりの概要も、本書では簡素に解説されているし、よく話題にのぼるスティーヴン・ジェイ・グールドの議論なども対比させられている。
 基本のテーマは、収斂進化論は正しいのか?と言ってもよいだろう。しかし、この問いが自明に含むのは、簡単な成否で議論できないことだ。つまり、収斂進化は実際に起きている。だがどう、それを捉えたらよいのか。
 本書を読んで、なるほどと思ったのは、個々の実験の話は既知であっても、それらの知見を進化論を実験するというスキームで考えたことがなかった、そのスキームの話題性である。
 具体的には、第三部「顕微鏡下の進化」で説明される、レンスキーによる大腸菌の超長期進化実験(LTEE)である。ここからの議論は、生物学の話題としてはかなり面白い。単純に(大枠の議論を抜きにして)、そこが本書の価値だとも言えるだろう。
 が、もとの収斂進化論について、これで何が言えるのか、という議論に引き戻ると、やはり、率直なところわからない。もともと問題設定が曖昧すぎることもある。つまるところ、本書の、実質的な結語は、ほぼ何も語っていないに等しい。「収斂進化はふつう、数かぎりある最適解と、遺伝子、発達、生態の共通点が、適応を同じ方向に導いた結果として起こる。けれども、生物学的可能性の世界は広大だ。自然淘汰や遺伝、発達の制約を受けてなお、実現しうる進化の最終産物が、以前として多岐にわたることもある。だからこそ進化はしばしば独自路線をひた走るのだ」(p356)
 そして、その最終的な問いにはこう。「私たちがいまここにいるのは運命? まさか。」「歴史の流れが違っていたら、たくさんの人型のドッペルゲンガーが進化して、繁栄していた可能性もある」「そんな世界もありえたのだ」
 だが、それは、収斂進化論の対論にはならないだろう。宇宙の無限にも近い可能性と時間は、すでに人類がこの宇宙において、その選択のひとつの結果として「知性」を獲得できているのから、なんどもこの程度の知性レベルには到達可能なのように宇宙が仕組まれていると考えるほうが合理的だろう。

 

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2019.09.01

劇団四季 『エビータ』

 昨年亡くなった浅利慶太を追悼する公演の『エビータ』を見た。追悼公演にはこれまで『ユタと不思議な仲間たち』、『ジーザス・クライスト=スーパースター』など5作品が取り上げられている。そうしたなか、『エビータ』は浅利慶太演出のある一面の特徴がよく現れていたのかもしれない。音楽とダンス、舞台、衣装、どれもうくしいものだった。が、私には、つまるところ、この作品はなんなのだろうか?という思いも鈍く残った。
 題名のエビータは、第二次世界大戦後翌年にアルゼンチン大統領に就任したフアン・ペロン大統領の夫人である。美しい女性で、大統領の権力を後ろ盾に権力をほしいままにし、しかし、33歳で亡くなった。生まれ育ちは貧しい。
 私生児として生まれ、首都ブエノスアイレスから遠く離れた田舎町フニンで育し、十分な教育を受けることなく、15歳で家出をして上京。女給やモデルなどを経て女優となり、後に大統領となる軍人フアン・ドミンゴ・ペロン大佐を射止めた。現代的なシンデレラ物語でもある。
 ミュージカルの前半はそうしたエビータの成り上がりのようすを戯画風に描いていく。そこには、貧困と運命のつらさ、女性であることや田舎育ちの不運、などが、アルゼンチンの風土を感じさせる音楽とダンスで描かれていく。この描き方は一人の女性の普遍として見ても美しく描かれているし、ミュージカルとして演じられている女優も見ごたえがあった。
 後半は、同様に彼女の短い半生を辿る。善意と栄光と傲慢といった人間らしい側面、女性らしい側面が取り上げられていく。なるほど聖女とも悪女とも言われるのがわかる。もっとも挿話は彼女の人生にインスパイアされたもので、演劇的なフィクションである。なかでも、フィクションの軸には、チェ・ゲバラをモデルにしたチェという青年がナレーター的に登場することだ。これもゲバラの生き方とエビータの生き方を重ねる趣向がある。
 ミュージカル作品としては、アンドリュー・ロイド=ウェバー作曲、ティム・ライス作詞によるミュージカル作品で、名作としての定評が高い。四季の日本語の歌は浅利慶太自身の訳詞らしい。
 音楽は、私は存外に複雑に思えた。詞は率直なところ細部は理解できていないが、劇には調和しているので物語としては理解できる。そうした曲調と言葉のメッセージは、かなり高度なアイロニーとして感じられた。なんだろうか。お子様でも楽しめるミュージカルや、幻想的なミュージカルといったものではなく、批評的に人間に迫るという何かである。そしてそうであれば、この演出には何かが決定的に足りないのではないか、とも思えた。そこがよくわからないところでもあった。が、なんとなく、女の身体性というものがもっと逆説的に強調されてもよかったのではないか。四季の演出は、どことなく、美しい絵本のようであった。
 私はマドンナのミュージカル映画『エビータ』を見ていない。ずっと見たいと思っている。マドンナなら、どんな身体性としてあれを表現しただろうかという思いが残った。

 

 

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