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2019.08.10

孤独死の報道と教会の意義

 孤独死のニュースがよく報道されるようになった。しかも話題としてよく取り上げられるのは、50代くらい人の死。40代もある。誰にも気づかれず死後しばらくたって発見されるという。そこには腐乱した死体があり、その臭気で発見されるということもあるという。
 そうした世代の孤独死が話題になるのは、単身世帯が増えたこともあるだろう。生涯未婚率が上がっていることから察せられるように、伴侶もなく友人もないという人も増えた。そうした人がある日、ふと死んでも誰も気が付かない。それでも仕事があれば、不審な休日で一週間もすれば気づかれるだろう。Lineとかツイッターとかで日々それなりの交流のある人なら、「最近、Kさん、見かけない」というふうにも思われるだろう。そういえば、ネットの著名人(リアルでも著名というべきか)、やまもといちろうさんの逸話だが、一週間ほどネットに登場してなかったら、死んだのかという連絡が殺到したらしい。
 さて、私はというと、現状単身生活でもない。死んだらすぐに家族に察知されるだろう。ネットでは、まあ、あれ?消えたなあ、死んだ?くらいには思われるかもしれない。ちなみに、このブログだが、現状では、私が死んだら、終わり。有料で使っているので、引き落とし口座が消えたら、そのころ自然消滅するだろう。悲しいか? 死とはそんなものだろう。
 私のそう長いとも思えない未来に孤独死は来るか。私には子供が4人もいるが、さっさと自立してほしいし、すでに自立した子供や留学していた子供からは、あまり連絡はない。老いて子供の面倒にもなりたくないので、いつの時点か孤独死もあるかもしれない。現実的には妻は私より若いので、確率的には、私が先に死ぬだろうと思う。ということで微妙な安心感のようなものがあるなとも思う。とはいえ、本質的には、人は一人死ぬものだ。
 ネットをぼんやり見ていると、週刊朝日のネタで『ソロ社会を乗り切る!「孤独死を恐れない10カ条」』というのを見かけた。博報堂「ソロもんLABO」のリーダー・荒川和久さんというかたの提言である。

【孤独死を恐れない10カ条】
●最後はみんな一人。単身世帯でも引け目を感じなくていい
●遠い親戚よりも近くの他人。地域の友人を増やそう
●コミュニティーに入る。地域の店を利用し、会合にも参加する
●何でも相談。心配事は抱え込まず民生委員や役所に相談しよう
●悩むより行動。将来を見据えて不要なものは日頃から整理する
●健康が第一。かかりつけ医や介護の専門家に体調の変化を告げる
●つながる人を増やす。精神的な自立には心の依存先の分散が有効
●ネットやSNSも活用。外出しにくくなっても多数とつながれる
●有料サービスも便利。シニア向け見守り事業は選択肢がいろいろ
●託せる人を決める。最後の対応を生前依頼。企業・団体でもOK

 どう? それができたら、孤独死なんてないよなと思った。
 ようするに、孤独にならないような帰属をもて、というとことでだが、その第一歩ができるなら、そもそも昨今話題の孤独死なんてない。いや、この提言を非難したいわけではないが、がんにならない10か条だったか、つまり、健康に過ごしましょう、みたいなもので、現実的にはほとんど意味がない。
 じゃあ、どうするの?
 教会に通えばいいんじゃないの。
 私はこの春から夏、上智大学の社会人講座でイタリア語を学んでいた(余談だが、上智大学のこの仕組みは今年で全部終わる)。で、そのついでに、聖イグナチオ教会のミサに出ていた。私はカトリックの信者ではないが、キリスト教文化には馴染んでいるし、近年、カトリック教会に関心も増した。ミサは誰が参加してもいいと知っている。が、非信徒は聖体の秘蹟は受けられない。代わりに、秘蹟待ちの列に並び、司祭にその旨を告げ、祝福を受けることができる。また、非信者でも、ミサでの挨拶の輪にはいることができる。
 ミサへの参加は心休まるものだった。孤独に悩む人なら、教会に行ってみるといいのではないだろうか。もちろん、宗派によっていろいろで、熱心な勧誘を迫られることもあるだろうから、そうした恐れのようなものを感じる人なら、カトリックの大きな教会のミサがいいだろう。そういえば、その頃ツイッターではなうちゃんさんという(50代の男性らしい)が聖イグナチオの信徒になられた。私には見知らぬかたではあったが、あのミサにいるかもしれないなという親近感は湧いた。
 ここで思うのだが、別段、キリスト教でなくてもいいんじゃないか。仏教でもいいだろう。というか、宗教というのは、そもそもそういうものではないだろうか。
 そこで、ふと気がつくのだが、マスメディアは孤独死を取り上げるが、それを避けるために、宗教を信じなさい、というのは見かけないように思う。なぜだろう。
 そして仏教でもいいとはいうけど、仏教を孤独を癒やすよすがの集団として信じるというイメージがわからない。神道でもそうかなと思う。宗教は日本社会では嫌われているようにも感じる。
 宗教が忌まれるのだろうか。宗教というのは、そもそも人の輪を結ぶものではないか。現代日本で、孤独死や孤立者が問題視されるのは、そうした宗教の不在と同じ現象なのではないか?
 かつての日本はどうだっただろう。そう思い返して、「講」に思い至る。江戸時代から明治、大正、昭和、庶民生活の一部には、「講」というものがあった。神社の氏子といった地域の繋がりを超えた、つながりであった。江戸の大山講のようなものは、現代、あまり語れないように思う。
 そういえば、明治生まれの祖母から子供のころ、大数珠の話を聞いたことがある。浄土教の講だろうか、大きな数珠をもった僧侶のような人が村にやってきて、人を集い、円陣に座り、大きな数珠を並びに合わせて渡して回していくのだそうだ。念仏か念仏のような歌を歌うのだった。ちょっとネット見ると、「大珠数繰り」とか言うらしい。知恩院では行事としてあるらしい。
 祖母の「大珠数繰り」の話は、もう100年以上も前になるだろう。そのころは、日本各地を大珠数を持って、じゃあ、これみんなで回しましょう、と誘う人々がいた。そういう人が、人の孤独を救っていたのだろう。

 

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