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2019.09.01

劇団四季 『エビータ』

 昨年亡くなった浅利慶太を追悼する公演の『エビータ』を見た。追悼公演にはこれまで『ユタと不思議な仲間たち』、『ジーザス・クライスト=スーパースター』など5作品が取り上げられている。そうしたなか、『エビータ』は浅利慶太演出のある一面の特徴がよく現れていたのかもしれない。音楽とダンス、舞台、衣装、どれもうくしいものだった。が、私には、つまるところ、この作品はなんなのだろうか?という思いも鈍く残った。
 題名のエビータは、第二次世界大戦後翌年にアルゼンチン大統領に就任したフアン・ペロン大統領の夫人である。美しい女性で、大統領の権力を後ろ盾に権力をほしいままにし、しかし、33歳で亡くなった。生まれ育ちは貧しい。
 私生児として生まれ、首都ブエノスアイレスから遠く離れた田舎町フニンで育し、十分な教育を受けることなく、15歳で家出をして上京。女給やモデルなどを経て女優となり、後に大統領となる軍人フアン・ドミンゴ・ペロン大佐を射止めた。現代的なシンデレラ物語でもある。
 ミュージカルの前半はそうしたエビータの成り上がりのようすを戯画風に描いていく。そこには、貧困と運命のつらさ、女性であることや田舎育ちの不運、などが、アルゼンチンの風土を感じさせる音楽とダンスで描かれていく。この描き方は一人の女性の普遍として見ても美しく描かれているし、ミュージカルとして演じられている女優も見ごたえがあった。
 後半は、同様に彼女の短い半生を辿る。善意と栄光と傲慢といった人間らしい側面、女性らしい側面が取り上げられていく。なるほど聖女とも悪女とも言われるのがわかる。もっとも挿話は彼女の人生にインスパイアされたもので、演劇的なフィクションである。なかでも、フィクションの軸には、チェ・ゲバラをモデルにしたチェという青年がナレーター的に登場することだ。これもゲバラの生き方とエビータの生き方を重ねる趣向がある。
 ミュージカル作品としては、アンドリュー・ロイド=ウェバー作曲、ティム・ライス作詞によるミュージカル作品で、名作としての定評が高い。四季の日本語の歌は浅利慶太自身の訳詞らしい。
 音楽は、私は存外に複雑に思えた。詞は率直なところ細部は理解できていないが、劇には調和しているので物語としては理解できる。そうした曲調と言葉のメッセージは、かなり高度なアイロニーとして感じられた。なんだろうか。お子様でも楽しめるミュージカルや、幻想的なミュージカルといったものではなく、批評的に人間に迫るという何かである。そしてそうであれば、この演出には何かが決定的に足りないのではないか、とも思えた。そこがよくわからないところでもあった。が、なんとなく、女の身体性というものがもっと逆説的に強調されてもよかったのではないか。四季の演出は、どことなく、美しい絵本のようであった。
 私はマドンナのミュージカル映画『エビータ』を見ていない。ずっと見たいと思っている。マドンナなら、どんな身体性としてあれを表現しただろうかという思いが残った。

 

 

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