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2019.08.21

映像化される「私」の自己確認とでもいうか

 これってなんだかアニメみたいだなと思うことがあって心にひっかかっている。それが社会問題なのだと声を上げたいわけでもない。映像化される「私」の自己確認とでもいうか。まあ、とりあえず3つほど書いてみよう。

 

いきなりパノプティコン
 京アニ放火事件の容疑者が、街中を歩く光景をニュースとしてなんども見せられた。それほどそんな映像を見たいとも思っていないのに、見る機会は多かった。それと、「あおり運転男」の関連映像もそうだった。
 何か事件があると、その人の街中の映像がよく流れる。そりゃ、あっちこっちに監視装置があるんだから。
 監視社会というのは簡単だが、なんとも奇妙な幻想が入り交じる。あの溢れんばかりの監視装置に私も監視されている。どこにいても監視されている。そういう自分を受け入れているし、どこかしら、幻想のなかで、そういうふうに映像として自分を見ているような気がする。
 自分がいつも見られている社会の完成というのはこういうものなんだろう。そして、まあ、パノプティコンである。功利主義哲学者ベンサムが考え出した全展望監視システムだ。囚人は常に監視されているという監獄である。ミシェル・フーコーが『監獄の誕生 監視と処罰』で現代社会の監視システムとして論じて現代思想とかで話題になる、あれだ。
 フーコーの考えでは監視する・されるという、いわば権力のあり方として論じている、としていいのだろう。私が最近気になっているのは、自分がその監視装置を見ることができるという幻想で、絶えず自身を、その映像的な客体として意識しているように感じられることだ。
 社会や他者とのコミュニケーション主体である「私」というのを、監視装置に映りだされた映像と等価なものとして自然に私が受け入れている気がする。いつからか。
 何が私の心にひっかかっているのか? プライバシーがないということなのか? 微妙に違う。「私」というのは、あれじゃないんじゃないかという奇妙な抵抗の感覚であり、それでいて、他者というものは、みんなあれだという、一種の安心感だ。

 

犯罪係数があって自然
 アニメ『PSYCHO−PASS』には「犯罪係数」という概念が出てくる。人が潜在的に犯罪を犯す状態値である。計測され、それが閾値を超えると、病人として社会から強制的に排除される。これには死刑も含まれる。アニメらしいディストピアである。現実にはそんな計測はできないし、このアニメでもその計測のある種の不可能性が非常に面白いしかけになっている。
 だが、京アニ事件の容疑者やあおり運転男の映像を見ていると、その映像の左上あたりに、「犯罪係数、204」とか出てきて、なんも不思議ではない感じがする。というか、自然に出てきていいような奇妙な感じがする。「あ、こいつ、色相が濁っている」とか。
 私がちょっと妄想ぎみなのか、街中で見る人でも、なんかのアプリで犯罪係数が計測できそうな気もする。「やば、こんなところにいると、濁っちゃう」とか。
 これはどういうことなんだろう? 私の妄想や考えすぎというのはさておくとすると、こうした映像化された容疑者に、犯罪の意図なんかないんじゃないか、というある確信のようなものが自分に感じられている。なんだろ。「こいつ普通に思考していないな。ただ犯罪係数が上昇しているだけだな」みたいな。

 

自分に寄せる偽の関心
 情けないがどうもアマゾンのポチリ中毒になっている、私が。どうでもいいような物がほしいのである。幸い高価なものではない。中毒の緩和は、どうでもいいようなKindle本を買うくらいでおさまる。なんだろ、ガチャ? リアルのガチャとか福袋とかまるで関心ないけど、アマゾンではずれもありそうな物を買いたくなる。まあ、それはそれで、そんなものだとしよう。
 気になっているのは、アマゾンが、「これがおすすめ」と示してくれるものだ。あれ?と先日思ったのだ。なんか、ガンマニアの玩具みたいなものが推された。僕はガンマニアじゃないんだけどなあ、なんだろ、アマゾン、賢くないぞ、と。そこで、ちょっとぎょっとしたのだ。
 私はアマゾンに理解されたがっているのだろうか? アマゾンが私に関心を持つことを期待しているのだろうか?
 このあたりで、静かな衝撃が私の存在を覆ったのである。大げさだが。デジタル・コミュニケーション・ツールが承認欲求で成り立つというのは、そんなものか、ということでとりあえず終わるのだが、承認されたいというより、他者から興味を持たれていたいということのようだ。それは微妙に薄く、すべての情報を覆っているような気がする。難しくいうと、ハイデガー哲学でいう、世界内存在の畸形。世界内存在は、世界の内に投げ込まれた限定的な存在として自身を了解するというようなことだが、この畸形は、つねに世界から了解されることを了解するというような何かだ。実存の主体が世界の側に転倒している。まあ、哲学はどうでもいいけど。
 これは、どういうことなんだろうか。誰かが私に関心を持っているという、うっすらした期待のようなものが、ねばりつくような主苦しい空気で、すべての情報空間を覆っている気がするのだ。
 いや、それってブロガーの妄想だから。おまえが一番病んでいるだから、と言われて、特に反論する気もないが、なんだろか、なんか、誰にも通じないという絶望感の核みたいなものを私は失いつつあるんだろうか? 

 

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