記憶の風景の哀しみ
夏の日差し、木陰、草いきれ、そうした夏の風景がふっと、自分の思いを過去にタイムスリップさせる。目を閉じると、不確かなのに、昔の光景が脳裏に蘇る。今ここにいるのに、今ここにいない、という奇妙な感覚。記憶がもたらした幻影なのに、そのリアリティが時を超えて脳髄にぎゅーんとしぼるように迫ってくる。そのすべてが、ある哀しみをともなっている。僕は本当に老いたのだのだと思う。半世紀も以前の、子供だった日の光景がそれほど遠くない。
懐かしいかといえば、懐かしいのだが、懐かしいという感覚とも少し違う。懐かしさなら、私はここにいて、昔を想うということだ。それとは違う。思いが異世界のような昔の光景に連れ去られてしまう。そして、そのリアリティがリアリティのままで、空虚なのだ。
まるで、僕が死んでしまったのに、僕の記憶のなかのその光景だけが、誰かが撮った写真のように残る、というような。
それは光景だけではない。匂いもそうだし、匂いを伴った書籍であったり、ある空間の静けさであったり、病院の廊下に響く物音であったりもする。
私が生きている、あるいは、私が生きていた、という、その生の私の感覚は、それほど確かなものではない。私というのは、つまるところ、代名詞であって、この僕ではない。
これが老いていくということなんだろうか。
でも、と思う。
今、老いて眺める世界もまた、子供の頃ころに思った老いた自分の想像とそれほど違いはない。今の僕というものは、あの私という子供が思い描いた、そんな老いた人の想像とも変わりないのだ。
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