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2019.08.12

退屈に生きよう

 最近、なんとなく思っていることがある。はっきりと決断したわけではない。うまく言葉にもならない。が、とりあえず、言葉にしてみると、「退屈に生きよう」ということだ。我ながらばかげたことを言っているなとは思う。
 退屈に生きるということは、退屈を味わうことだ。あー、退屈だ。ひまー、やることない、つまんない、ということだ。
 そう、僕が若い頃、そうだった気がするのだ。
 若い頃、なんだか生き急いでいて、「君、早死するよ」とも言われたものだが、その反面、あるいはそうだったからなのか、退屈に悩んでいた。退屈にいらついていた。それでどうしただろう。なんかしていた。散歩したり、本屋行って立ち読みしたり、ゲーセン行ってピンボールしたり、わけもなく電車とかバスに乗ったり。まあ、そして得られたものは、また別の退屈だったりもした。
 いつからか、退屈を失った。仕事と子育てのせいもある。子供が小さいときなんか、自分の時間すら持てない。でも、加えて、なんか退屈しのぎをネットに求めるようになった。これは僕だけのことではないだろう。スマホ歩きとしている人は、要するに退屈しのぎなのだろうし、電車に座っている人の9割がスマホをいじっているような、インスタレーション芸術みたいな光景も「退屈への恐怖」とでも題するべきものだ。
 僕は元来スマホ歩きもしないのだが、それでもスマホいじりみたいなのは、減らして生きたと思うようになった。もう少し退屈であるべきだ。
 そして、なんだろう、あの若い人の退屈を取り戻したいような気がしている。
 若い日の友人だったか、なんで自殺しないかっていうと、死ぬまでの退屈しのぎさ、とうそぶいていたやつがいた。思うに「退屈しのぎ」という言葉すら死語になりつつあるのかもしれない。退屈しのぎは退屈の解消でもない。退屈がほどよく4割くらい残っているほうがいい。
 退屈というものは、もしそれに向き合うなら、どのくらい苦しいものだろうか。なにも、自分に苦痛を与える趣味もないが、この苦痛は自分の本性を暴き出しはする。たまに、満員電車とかで、スマホ見ている人を見る。何をしているんだろうかと。落ちゲーみたいなゲームをしてたり、漫画読んでいたり、ラインしていたり。概ね、たいしたことしているわけでもない。ただ、退屈が紛らわせるというだけだ。誇張した言い方だが、それらによって、自身がどほどか薄っペらい人間であるかを告白しているかのようだ。
 退屈しのぎをやめろと言いたいわけでもない。うまく言えないのだが、僕なんかどうせ古い人間なんだし、未来もさしてないのだから、古い退屈しのぎで我慢していて、いいんじゃないか。退屈の限界値をもう少し正確にするべきというか。
 それで、昔、スマホがない時代、自分はどうしていたかと思い出す。文庫本を持っていた。カバンに文庫本一つ入れいた。それだけが退屈しのぎだったように思う。それでいいんじゃないか。
 あと、ウォークマンはもっていたな。好きな音楽を飽きるまで聞いていた。そのあたりにも、退屈の限界があるような気がする。

 

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