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2019.08.15

韓国光復節についてのWikipediaの補足的コメント

 韓国光復節についてのWikipediaの説明をざっと読んでいて、少し奇妙な感じがした。説明に間違いがあるというのではない。抜けがあるんじゃないかという感じがしたのである。その抜けと思われる部分について、ごく些細な参考までにではあるが、補足的なコメントしておきたい。もしかすると、編集過程で意図的に削除されているのかもしれない。なお、以前にも書いたが、私はWikipediaを使った嫌がらせを受けたことからこのプロジェクトには関わりたくない。
 まず、関連部分を引用する。抜けと思われるのは、1945年8月18日のできごとである。Wikipediaのこの項目では、8月17日から9月2日までの間の話が含まれていない。なお、「連合軍軍政期 (朝鮮史)」や「朝鮮建国準備委員会」にも同様の抜けと思わる箇所がある。

朝鮮半島は韓国併合(1910年)以来、大日本帝国(朝鮮総督府)の統治下にあった。だが、1945年8月15日、連合国の発したポツダム宣言を日本が受諾して降伏することが発表されると(玉音放送)、一般の朝鮮人にとってそれは第二次世界大戦の終結のみならず、朝鮮の日本による統治からの解放(「光復」)を意味するものであることが確実となった[8]。同日、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作と、朝鮮独立回復運動家の呂運亨との会談がもたれ、日本側からの条件では日本人の安全および財産保全、朝鮮側からは政治犯釈放や食糧確保条件がだされ、行政権を朝鮮総督府から朝鮮側に委譲されることで合意が得られ、同日発足の朝鮮建国準備委員会に委譲されることとなった。翌日の8月16日、ラジオ放送で、行政権の委譲を発表、5千人程度の公然集会で、呂運亨が報告する。

朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち[9]、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。政治犯(多くが共産主義者であった)の大半が日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮半島ではその多くが8月16日と8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。朝鮮の「解放」を受け、朝鮮半島のさまざまな地域で共産主義者による人民委員会が自然発生的に結成されたとも言われている[10]。

9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った。連合国側はヤルタ会談に基づき、朝鮮半島を米英華ソ4ヶ国による信託統治下におく計画を持っていたが、結局、北緯38度線を境としたアメリカ合衆国及びソビエト連邦の南北分割占領に至り、朝鮮のその後の歴史に大きな影響を与えることになった。

 1945年8月16日に注目したい。「翌日の8月16日、ラジオ放送で、行政権の委譲を発表、5千人程度の公然集会で、呂運亨が報告する」とある。ここは史実であろう。また、Wikipediaでは、「朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち[9]、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている」というように、ここは伝聞として書かれていて記述としては史実性が弱い。
 私が奇妙な感じを受けたのは、私の記憶とのずれである。手持ちの資料と照合しようとしたが簡易に出てきたのは、小室直樹『韓国の悲劇』であった。小室の著作は大衆書であり、史実を記述しているかは疑問の余地があるが、Wikipediaに記載できる程度の典拠の書籍とはなりうるだろう。あるいは、この部分を他の資料で検証するとよいのではないか。とりあえず、同書の該当部分を引用しよう(p61)。

 連合軍は、八月十六日、総督府に機密命令を発し、しばらく総督府に朝鮮統治を続けることを命じた。また、日本の朝鮮統治機構を保全し、これを連合国に引き渡すように指令した。
 韓国は、八月十五日の解放後も、大日本帝国の植民地として統治されていたのである。

 このことは、Wikipediaに伝聞として記載されている太極旗が掲揚にも関連する。前掲書より。

(前略)太極旗の掲揚は、日帝の朝鮮支店たる総督府の許可によってなされたものであった。
 それは、朝鮮人民によって、「日章旗は、日没とともに引き下ろし、再び掲揚することを禁ず」として命じられた結果ではなかったのである。
 アメリカは、朝鮮独立の指導者たちを、まだ信用していなかったし、朝鮮人民に自治能力があるとも思っていなかった。ルーズベルトは、朝鮮を日本から取り上げた後は、しばらく、連合国による信託統治がよいだろうと思っていた。マッカーサーは、まず軍政を施くつもりであった。

 かくして、1945年8月18日に何が起きたか。前掲書より。

 八月十八日、総督府は、一方的に、呂運亨の建国準備委員会に与えた統治権を取り戻した。ひとたびは建国準備委員会の手にわたった統治機構も学校も、放送局、新聞社などの言論機関も接収してしまった。
 太極旗は下ろされた。
 韓国の空には、再び、征服者の旗である日章旗がひるがえった。
 日本の朝鮮総督府による統治権と統治機構の奪回は、建国準備委員会の委員長呂運亨とも、在野のリーダー宋鎮禹とも、一言の相談もなくなされた。まして、韓国民衆の意向など、少しも斟酌されなかった。
 この統治権の奪回は、連合軍の機密指令によるものではあった。機密であるがゆえに、韓国民衆は、それが連合国の意志によるものであるとは知らなかった。日本が勝手に権力を玩具にしたものだと思った。

 小室によるこの記述は、繰り返すが学術書ではなく、さらなる典拠も示されていない。Wikipediaがこれを採用しないのは、史実としての不確実性か、同書刊行以降の史学で否定されているためかもしれない。
 しかし、Wikipediaの記述、「9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った」は、理解しにくい。朝鮮総督府が降伏文書に調印した9月9日を記載すべきではないかと思う。前掲書も同様に9日に焦点を当てている。

 アメリカ軍が、交渉の相手として選んだのは、日本の朝鮮総督府と朝鮮軍管区軍であった。
 一九四五年九月九日、降伏の調印式において、米側代表は、沖縄第二十四軍団長ホッジ中将と、第五十七機動部隊の司令官のキンケード大将。日本側は、朝鮮総督可部大将と朝鮮軍管区軍事司令官上月中将。この四人が降伏文書に署名した。このことの重要性は強調されすぎることはない。
 (中略)
 まもなく、九月十一日から軍政が施かれることになったが、この軍政施行の正統性は、朝鮮総督府がアメリカ軍に降伏したことによって発生した。つまり、韓国の統治を、アメリカ軍は、日本軍からひきついだのであった。この間、韓国人は一切、介入していない。

 繰り返すが、小室の説明が正しいとは限らないだろうが、大局的に見て、朝鮮総督府が呂運亨の建国準備委員会に与えた統治権は、連合国にいったん回収されているという流れでよいだろう。
 また、米軍は韓国の統治権を引き継いだが、小室は言及していないのだが、米軍は実際の業務には、朝鮮総督府の遠藤政務総監以下各局長を当てており、米軍の統治の名のもとに朝鮮総督府の機構がしばらく担っていた(ベニングホフ書簡)。
 なお、韓国が米国の統治から独立したのは、3年後の李承晩による1948年8月13日の宣言なのだが、韓国では独立記念日を2日ずらして15日としている。

 

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