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2019.08.25

BBCともあろうものがなんでこんなお馬鹿なこと言っているのだろうかと思った

 人は誰でも間違いをする。勘違いもする。勘違いにはとんでもないものある。私はよく知っている。私がそうだからだ。なので、BBCのその日本語の記事を読んだときも、ああ、私もよくする、勘違いか誤記か、誤訳かと思った。でも、そうでもなさそうなのだ。BBCともあろうものがなんでこんなお馬鹿なこと言っているのだろうかと思った。そう言うと、罵倒しているみたいだが、意図としては、そうではない。なんでこんな頓珍漢ことになっているのか、驚いているし、そう思われていることに、BBCが気がつくといいのにと思っている。
 該当のニュースは、23日付けの『なぜ日本と韓国は仲たがいしているのか、韓国がGSOMIA破棄』という記事だ。記事の大筋は、そういう見方もあるかなくらいのもので、気になったのは記事の中心にはあまり関係ない。なので、重箱の隅をつつくような趣向にも見えないことはないのだが、さすがに、これはと。

長く続く確執の歴史
日本と韓国は複雑な歴史を共有している。両国は少なくとも7世紀から戦いを繰り返し、日本はたびたび朝鮮半島に侵攻している。

 日本からの朝鮮の侵攻というと文禄・慶長の役が連想される。が、これは、1592年から1598年、16世紀末の話である。「7世紀から戦いを繰り返し」というのはなんだろう?
 7世紀といえば、663年の白村江の戦いが連想されるが、あれって、「7世紀から戦いを繰り返し、日本はたびたび朝鮮半島に侵攻している」というものか? うーむ。記者、日本の歴史の基本がわかってないんじゃないだろうか。ちなみに、小室直樹は白村江の戦いの話をすると韓国人が無視するというふうに言っていたな。
 白村江の戦いから文禄・慶長の役の間での朝鮮半島との戦というと、なんだろ。13世紀の文永の役・弘安の役があるが、あれは元寇とも言われ、元が日本を攻めてきたとも言えるが、実際には、元に屈した高麗が攻めてきたわけで、BBCの言っている逆で、朝鮮側が日本に侵攻しようとして戦になったものだ。ちなみに、これも韓国人はあまり好んでいないようだ。
 あとなんだろ? 倭寇かな。このあたりになると、BBCの記者程度の教養では理解できないんじゃないか。『中世倭人伝(村井章介)』を読むといいのだが、英語版はなく、日本語をまともに読める英米人は少ないしなあ。

 

 で、ようするに、「両国は少なくとも7世紀から戦いを繰り返し、日本はたびたび朝鮮半島に侵攻している」というのはなんだろ? 「日本と韓国は複雑な歴史を共有している」とも言うが、BBC記者、韓国の歴史をそもそもどう見ているのだろう?
 わからん。
 誤訳かもしれないな。と、英文を見る。

What's the history?
The two nations share a complicated history. They have fought on and off since at least the 7th Century, and Japan has repeatedly tried to invade the peninsula since then.

 誤訳じゃないなあ。
 しみじみ、わからん。とか言っている自分に、この関連でとんでもない知識の欠落があるだろうか。
 というわけで、よくわからん私は、「BBCともあろうものがなんでこんなお馬鹿なこと言っているのだろうかと思った」というところに戻る。困った。真相はどうなんだろう?
 それにしても、この記事、日本語版もあるわけで、日本人スタッフも入っているだろうけど、私みたいに「あのぉ、この記事、変」と声を上げる日本人スタッフはいなかったのだろうか? その上で、現在のこの記事になっているのだろうか?
 まあ、こんなことを言っていると、そういうお前だって無知だとか反撃いただきそうで、それはそれはなんせ個人ブログだしと思うが、BBCは個人ブログと同じレベルでいいわけないだろうし。
 それにしても、わからんなあ。なんかそういう歴史あったか?
 で、もし、勘違いでなくて、ただの間違いでこんなこと書いているというのだったら、およそ日韓関係の記事を書くのは無理なんじゃないか。デスクも入れ替えたほうがいいのでは。

 

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2019.08.24

[アニメ] 魔法使いの嫁

 アニメ版の『魔法使いの嫁』を見た。面白いか面白くないかで言うなら面白い、感動したかというと感動もしたのだが、なにより独特の情感のある作品だった。誰もが面白い、感動するという作品でもないだろう。が、この作品はある人の命を救うかもしれないとは思った。ある人、それは、10代の女の子と言ってもいいだろう。あるいは、男の子も。

 

 あえてひどい言い方をすれば、メンヘラ女子がメンヘラ男子との付き合いを通して、共依存的なメンヘラ理解を広げてなんとか生きていく、ということを、英国とそのオカルティズム風味で描いている。いや、その風味のほうがこの作品の本質なのだという楽しみ方もあるだろう。
 話はこんな感じ。15歳の日本人少女チセ(羽鳥智世)は自暴自棄にかられ、自身を闇の世界のオークションに売り出す。すると、そこで、バッファローの頭のような骨を頭部とする怪物、魔法使いエリアス・エインズワースに500万ポンドで買い取られる。理由は、自身の弟子にしそして嫁にするというのである。もう一つの理由は、チセが抱えている魔力が異常に大きいこと、そしてそれゆえに長くは生きられないこともエリアスの思いにはある。
 かくして二人の英国の田舎暮らしが緩慢に始まり、ファンタジー物語も始まるのだが、話が進むにつれ、エリアスの暗い過去やチセの暗い過去、この世界の不条理、その象徴としてのカルタフィルスなどが描かれる。
 ファンタジーそのものを楽しむ読者・視聴者が多いだろうと思うが、私は、親から生きることを否定されたことで心を病み、死を選ぶ15歳の少女の物語の比喩として見ていた。物語でも、チセは日本で死んだことになっており、むしろ英国での物語は、彼女の死後のメタファとしてもいいだろう。
 そう語ると、いかにもチセはメンヘラなのだが、物語ではそうではない。いわゆるメンヘラとしての奇矯な様子はない。ただ、心が傷つき、生きることができない心情を静かに絶望的に抱えているだけだ。魔力が異常にあるとしても、なろう系のように、彼女の意図でチートで使うわけでもない。
 もう少し言うなら、私はこの物語で、私自身が救われるだろうかという関心があった。私も生の呪いを受けて生きていた。チセもエリアスもわかるという思いは強い。それで、救われたか? そういう感触はなかった。
 原作はラノベではないようだ。コミックを比較的忠実にアニメ化しているようだが、機会があれば原作も読んでみたい。
 アニメの物語は、2クールで大きく完結している。原作ではその後、学院版もあるが、作品のテーマの連続性があるかわからない。

 

 

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2019.08.23

[書評] 60歳からを楽しむ生き方 フランス人は「老い」を愛する (賀来弓月)

 このブログを始めたとき、45歳だった。8月15日だった。それから月日が流れ、僕は62歳になった。我ながら驚いている。40歳を超えたときも、年を取ったものだと思ったが、そこから先はあっという間であった。振り返ると、25歳から45歳というのもあっという間だった。人生というのはけっこうあっという間に過ぎてしまうものだと思う。そして、人生の残りは、もうそれほどないだろう。あれもしたい、これもしたい、という思いもあり、いつかできるとも思っていたが、たぶん、そう思っていても、できはしないだろう。
 40歳のときに難病を発症して人生絶望した。子供を4人も作ったはいいが、育て切れもせず、彼らが成人する姿も見ることもないと悲嘆したが、そうでもなく、とりあえず生きているのだから、自分も十分幸せの部類である。それでも、さすがに老いた。難病の寛解が長く続くといいのだが、そればかりは運だ。私の父親は現在の僕の年齢で人生を終えた。
 まあ、あとどれだけ生きるものか。意外と生きちゃう可能性もないではない。健康とも言えないが、統計的に見れば、大半の人が健康寿命を終えても寿命までだらだらと生きられたりする。それも、怖いなあと思う。
 というので、備えあれば憂いなしというわけでもないし、実際的にはなんの備えもしてないのだが、老いについて学ぼうと思う気持ちにはなっている。この本もそうした思いで読んだ。タイトルと著者に惹かれたからであった。

 

 で、この本、どうだったか? 変な言い方だが、普通に良い本ではあった。読みにくくはないし、十分にいろいろ書かれている。フランス語の章句も散りばめられているが、僕程度のフランス語学者でも理解できる。ただ、書名から受ける印象の啓発書的な書籍とは異なり、落ち着いたどっしりとした内容であり、読む人を選ぶかとは思った。なので、この本は特に勧めるというものでもない。そういえば、B.F.スキーの『初めて老人になるあなたへ ハーバード流知的な老い方入門』も似たような印象であった。もちろん、似たタイプの本ではなく、スキナーらしいプラクティカリティの本だが、やはり読む人を選ぶ感じはした。

 

 それはさておき、本書に戻る。
 賀来弓月氏の生き方に憧れる思いは当然あった。外交官として各国で活躍され、65歳以降だろう、退職後はフランスのカトリックの修道会が運営する老人ホームで介護のボランティアをされていた。老老介護という印象もあるし、まさにそうした様子は本書にも描かれている。それは、なんだろう、ある種、美しい世界であった。 

 自分が奉仕活動をしているというようなことは、もともと他人に吹聴すべきことではないと考えていましたし、日本においてはフランスの高齢者を取り巻く環境やカトリック女子修道会の活躍などは余り大きな興味の対象にならないかもしれない。そんな気持ちもあったせいか、私は自分のしていることを他人に口外することはありませんでした。
 しかし、私にも思いがけない出来事が起こります。76歳のとき、医師からがんと診断されたのです。病気治療のために、もうフランスには行けなくなりました。
(中略)
 そんな時に私の心の中に生まれたのは、「死ぬ前にフランスでの経験を書き遺しておきたい」という思いでした。

 著者の秘めたるカトリック信仰は本書から感じられるが、信仰そのものは本書に描かれていない。フランス人が老いの時期を大切にするという側面があるが、全体として見れば、一面だとも言える。むしろ、映画『アメリ』のようなものから伺えるものがわかりやすいかもしれない。
 ただ、この本を読みながら痛切に思ったことはある。僕も老いて孤立していくのはいけないなあということだ。当たり前すぎてばかみたいだが、大きな課題に思えた。という話を人にしたら「ネットとかを通して何かしたら?」とも言われたが、そこにためらいはある。まあ、この二年間ほど語学学校や語学講習、大学図書館に出かけていたが、秋からは大学生でもやるかなと思っている。

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2019.08.22

韓国からの日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄について

 先程、韓国で、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA:General Security of Military Information Agreement)破棄が決定された。日韓のGSOMIAは、日本と韓国の間で軍事上の機密情報の共有にあたり、第三国への漏洩を防ぐための情報包括保護協定である。これによって、両国内の軍事情報への制限も詳細に規定される。朴槿恵韓国大統領の2016年に締結されたもので、3年弱維持されたことになる。まだ日が浅いとも言える。

「ああ、またか」感
 もともと韓国はこの協定に難色を示していて、元来は、李明博韓国大統領の2012年に締結される運びであったが、締結の1時間前にまさかのドタキャンという事態になった経緯がある。ゆえに今日の決定も「ああ、またか」という印象は拭えない。当時の空気を伝える2012年7月02日の中央日報コラム『韓日情報保護協定は不倫なのか』が、面白いといっては不謹慎かもしれないがまあ面白い。

 日本に対しては外交的礼儀など無視して荒々しく出ても構わない。こう考える人たちは意外に多い。政治指導者からそうだ。金泳三(キム・ヨンサム)政権当時は大統領が「日本をしつけ直す」と豪語したことがある。外交的には到底口にすることはできない言葉だった。金大中(キム・デジュン)政権初期にはすべて終わった漁業交渉を再度行おうとし、海洋水産部長官が東京に飛んで行きもの乞いに近い「はえ縄漁業交渉」をした。これもまた外交的に納得するには難しい行動だった。このほかにも大小のトラブルは少なくない。ほとんどが純粋な外交関係よりも韓国内の政治状況が投影され広がったものだ。
(中略)
 政治争点として広がった韓日情報保護協定もそうだ。正しいならばあふれる非難を突き破って強行するか、非難されるのが恐ろしければ最初からしなければよかったのに韓国政府はどうしたのか。隠蔽しながら推進し署名式当日に取り消してしまった。よりによって第2延坪(ヨンピョン)海戦10周年記念日に安保と関連した協定をそのように処理しても良いのか。不倫でも犯して見つかりよろよろと退く姿のようではないか。卑怯だったり、無能だったり、鈍感だったり、力が抜けていたり、実務経験のない人がコントロールタワーにいたり、そうでなければこれら全部が重なったかもしれない。
(中略)
いまセヌリ党が政府に肩入れすれば、ややもすると親日と罵倒される危険もある。われわれの国民感情法ではまだ従北より親日の罪がさらに重いようだ。親日という「緋文字」が刻まれていては大統領選挙の局面を突破するのは容易でない。超敏感性引火物質の「親日フレーム」に引っかかりでもすればこれまで従北議論で得ていた反射利益をすべて返上しても足りない。
(中略)
 政界はそうだとして、国民の中には日本の食卓を蹴飛ばしたので気が晴れたと考える人たちも少なくないだろう。これが精神健康に良いのかわからないが、果たして韓国の安保に役立つかは冷静に考えてみるべき問題だ。(後略)

 引用が長くなったが、今回の韓国からのGSOMIA破棄についての、韓国側の内情は2012年の再燃と捉えてもよく、まして、青天の霹靂でもない。

日韓の安全保障上のデメリット
 日本側では現状ではあまりないだろう。
 日韓の軍事的な信頼はなくなったが、もともと日韓には軍事同盟はなく、両国とも米国を介しての軍事的な協調であり、その軸の変化はない。軍事上の情報は米国側から得られる。
 デメリットがあるとすれば、韓国が独自に知り得た情報が得られないことだ。それが日本にどれほどのデメリットとなるか。韓国の独自情報としては、北朝鮮と地理的に近いことによる動向察知が挙げられるだろう。脱北者の情報などもある。ただ、日本にとって死活問題とも言えない。
 韓国側の防衛上のデメリットも現状ではあまりないだろう。日本のほうが優れている分野もあるが(機雷探知情報など)、有事でなければ、韓国の死活問題とも言えない。むしろ、日本側の情報は韓国軍の不審な動きまで察知しているので韓国には目障りだったかもしれない。

何が問題か?
 もともとのGSOMIAは米国が主に韓国に促した経緯がある。今回の破棄についても騒ぎの時点で米国としては思いとどまるように動いていた。
 つまり、韓国は、米国のメンツを潰した。日本ではあまり報道がないが、韓国の市民運動は反日だけが活発ではなく、反米活動も盛んである。
 米国にとっては、メンツよりも深刻なのは、米国がこの地域で形成したい日米韓の軍事連携が事実上不可能になったことだ。米国のこの地域の戦略は見直しが必要になる。というか、米国は想定される事態は想定する国家なので、かなり厳しい想定も含まれてくるだろう。
 米国への影響の逆に、結果的に中国には迎合したとも言える。中国は表面上は日韓の友好を促しているが、中国側の友好というのは軍事上の密接な関係のことではありえない。
 北朝鮮としては、米国の韓国への関与が弱まることで好ましいと見ているだろう。

国際的な影響
 外交のマナー上、表立っての動きは出ないだろうが、韓国は国際的に厳しい状況に追い込まれることになるかもしれない。
 当然のことだが、GSOMIAは日韓だけ締結されているわけではない。日本は米国やNATOなど7か国、韓国は33か国とこの協定を締結している。米国は60か国以上。日本が少ないようだが、数が問題ではない。日本は主要国から軍事的に信頼されているのに、韓国だけが日本を軍事面で信頼できないという韓国の独自性は国際的な説得力を持たないし、逆の印象を撒くことになる。
 なによりも問題なのは、今回の韓国からの日韓GSOMIA破棄は、米国の意向に合わないということで、韓国は日米韓の安全保障体制から離脱する第一歩として受け止められかねない。先日、竹島海域で中露の軍事的な挑発があったが、韓国がどのくらい日米から離反しているか、また離反を推進させるために、中露と北朝鮮から、今後いろいろな形で攻勢を受けることになるだろう。

有事にはどうなるか?
 現状では日韓のGSOMIA破綻の影響は少ないが、有事には米軍の活動に支障をもたらしうる。有事には、米軍というより国連軍としての動きになり、この際、国連軍司令部は日本国内の後方司令部に依存することになるが、これが円滑に進まなくなる懸念がある。
 米国は有事シナリオを検討するので、米軍としては韓国に展開している自国兵とその家族の安全のために、38度線から遠ざかるなど韓国への関与を弱める可能性もある。

余談
 なお、有事シナリオは韓国に厳しいものになるだろうが、これも考えようで、この機に韓国が米軍への負担費用を増やすとか、米国からいろいろ軍用機などを購入するとか、米国の軍事産業としてのメリットから米国の「信頼」が期待できるのかもしれない。その経済負担に耐えらればという話でもあるが。

 

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2019.08.21

映像化される「私」の自己確認とでもいうか

 これってなんだかアニメみたいだなと思うことがあって心にひっかかっている。それが社会問題なのだと声を上げたいわけでもない。映像化される「私」の自己確認とでもいうか。まあ、とりあえず3つほど書いてみよう。

 

いきなりパノプティコン
 京アニ放火事件の容疑者が、街中を歩く光景をニュースとしてなんども見せられた。それほどそんな映像を見たいとも思っていないのに、見る機会は多かった。それと、「あおり運転男」の関連映像もそうだった。
 何か事件があると、その人の街中の映像がよく流れる。そりゃ、あっちこっちに監視装置があるんだから。
 監視社会というのは簡単だが、なんとも奇妙な幻想が入り交じる。あの溢れんばかりの監視装置に私も監視されている。どこにいても監視されている。そういう自分を受け入れているし、どこかしら、幻想のなかで、そういうふうに映像として自分を見ているような気がする。
 自分がいつも見られている社会の完成というのはこういうものなんだろう。そして、まあ、パノプティコンである。功利主義哲学者ベンサムが考え出した全展望監視システムだ。囚人は常に監視されているという監獄である。ミシェル・フーコーが『監獄の誕生 監視と処罰』で現代社会の監視システムとして論じて現代思想とかで話題になる、あれだ。
 フーコーの考えでは監視する・されるという、いわば権力のあり方として論じている、としていいのだろう。私が最近気になっているのは、自分がその監視装置を見ることができるという幻想で、絶えず自身を、その映像的な客体として意識しているように感じられることだ。
 社会や他者とのコミュニケーション主体である「私」というのを、監視装置に映りだされた映像と等価なものとして自然に私が受け入れている気がする。いつからか。
 何が私の心にひっかかっているのか? プライバシーがないということなのか? 微妙に違う。「私」というのは、あれじゃないんじゃないかという奇妙な抵抗の感覚であり、それでいて、他者というものは、みんなあれだという、一種の安心感だ。

 

犯罪係数があって自然
 アニメ『PSYCHO−PASS』には「犯罪係数」という概念が出てくる。人が潜在的に犯罪を犯す状態値である。計測され、それが閾値を超えると、病人として社会から強制的に排除される。これには死刑も含まれる。アニメらしいディストピアである。現実にはそんな計測はできないし、このアニメでもその計測のある種の不可能性が非常に面白いしかけになっている。
 だが、京アニ事件の容疑者やあおり運転男の映像を見ていると、その映像の左上あたりに、「犯罪係数、204」とか出てきて、なんも不思議ではない感じがする。というか、自然に出てきていいような奇妙な感じがする。「あ、こいつ、色相が濁っている」とか。
 私がちょっと妄想ぎみなのか、街中で見る人でも、なんかのアプリで犯罪係数が計測できそうな気もする。「やば、こんなところにいると、濁っちゃう」とか。
 これはどういうことなんだろう? 私の妄想や考えすぎというのはさておくとすると、こうした映像化された容疑者に、犯罪の意図なんかないんじゃないか、というある確信のようなものが自分に感じられている。なんだろ。「こいつ普通に思考していないな。ただ犯罪係数が上昇しているだけだな」みたいな。

 

自分に寄せる偽の関心
 情けないがどうもアマゾンのポチリ中毒になっている、私が。どうでもいいような物がほしいのである。幸い高価なものではない。中毒の緩和は、どうでもいいようなKindle本を買うくらいでおさまる。なんだろ、ガチャ? リアルのガチャとか福袋とかまるで関心ないけど、アマゾンではずれもありそうな物を買いたくなる。まあ、それはそれで、そんなものだとしよう。
 気になっているのは、アマゾンが、「これがおすすめ」と示してくれるものだ。あれ?と先日思ったのだ。なんか、ガンマニアの玩具みたいなものが推された。僕はガンマニアじゃないんだけどなあ、なんだろ、アマゾン、賢くないぞ、と。そこで、ちょっとぎょっとしたのだ。
 私はアマゾンに理解されたがっているのだろうか? アマゾンが私に関心を持つことを期待しているのだろうか?
 このあたりで、静かな衝撃が私の存在を覆ったのである。大げさだが。デジタル・コミュニケーション・ツールが承認欲求で成り立つというのは、そんなものか、ということでとりあえず終わるのだが、承認されたいというより、他者から興味を持たれていたいということのようだ。それは微妙に薄く、すべての情報を覆っているような気がする。難しくいうと、ハイデガー哲学でいう、世界内存在の畸形。世界内存在は、世界の内に投げ込まれた限定的な存在として自身を了解するというようなことだが、この畸形は、つねに世界から了解されることを了解するというような何かだ。実存の主体が世界の側に転倒している。まあ、哲学はどうでもいいけど。
 これは、どういうことなんだろうか。誰かが私に関心を持っているという、うっすらした期待のようなものが、ねばりつくような主苦しい空気で、すべての情報空間を覆っている気がするのだ。
 いや、それってブロガーの妄想だから。おまえが一番病んでいるだから、と言われて、特に反論する気もないが、なんだろか、なんか、誰にも通じないという絶望感の核みたいなものを私は失いつつあるんだろうか? 

 

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2019.08.20

最近ニュースになっていた「あおり運転男」はニュースの価値があったのだろうか?

 世間を自分の目で見て回ることには関心があるが、メディアを通して語られる世間のニュースにはあまり関心がない。さすがにそれでは生きにくいので、NHKの7時のニュースは見るようにしているが、それでも見るに耐えないニュースがけっこうある。事件被害者のプライバシーを延々とドキュメンタリー風に語るのとか。
 執拗に出てくるニュースは意識にのぼる。最近でいうと、「あおり運転男」である。具体的には、18日に逮捕された、宮崎文夫容疑者(43)である。逮捕されて一連話題が終わっているのかもしれないが、このニュースに私はほとんど関心を向けてこなかった。今に至るも、これがなんでニュースだったのかよくわからないでいた。
 振り返ってみる。現時点で探れる一番古いニュースは、これだ。

常磐道 あおり運転受けて殴られる 傷害などの疑いで捜査
2019年8月16日 16時22分
 今月10日、茨城県守谷市の常磐自動車道で、24歳の男性が「あおり運転」を受けて本線上に停車させられたうえ、降りてきた男に暴行され、けがをしました。警察は傷害などの疑いで捜査しています。
 警察によりますと、今月10日の午前6時すぎ、守谷市大柏の常磐自動車道の上り線で、24歳の男性会社員が運転する車が、白い乗用車から「あおり運転」を受けて走行を阻まれ、本線上に停車させられました。
 乗用車から30代から40代の男が降りて近づいてきて、男性は「殺すぞ」などと脅された上、窓越しに顔などを数発殴られ、けがをしたということです。
 これまでの調べで、男が乗っていた乗用車は、海外の高級メーカーのSUVと呼ばれるタイプで、横浜市内のディーラーから代車として貸し出されていた車だとみられています。
 一方、ディーラーの関係者によりますと、この乗用車は先月下旬に貸し出されましたが、3日間の期限をすぎても返却されなかったため、催促した結果、事件翌日の今月11日に男とは別の人物が返しに来たということです。
 警察はドライブレコーダーの映像を分析するなどして詳しい状況を調べるとともに、傷害や道路交通法違反の疑いで男の行方を捜査しています。

 このニュースが初出かどうかわからないが。こうして振り返ってみると、なるほどねと今ならわかる気もしてきた。
 このニュースだが、どこにニュース的な価値があるのか、まとめにあたる最初の段落だけ読むと、ただの茨城県のローカルニュースにすぎない。そもそも、このニュースの刑事的な側面は、「傷害などの疑いで捜査」というだけで、実は、あおり運転のほうは刑法上は重視されていない。傷害罪のほうは、15年以下の懲役または50万円以下の罰金ということで、懲役は長いこともあるが、罰金で見るとそれほど重い罪とも言い難い。というか、ニュースから伺い知るに、重篤なけがを負わせたようには見えない。傷害罪の量刑はけがの度合いによるので、この事例では処罰としては軽いのではないだろうか? いずれにせよ、刑法上はさほど重要なニュースとも思えない。
 だが、この初出らしいニュースを見直すと、誘導している文脈が浮かんでくる。事件に直接ない情報が入ってることに気がつく。これだ。「男が乗っていた乗用車は、海外の高級メーカーのSUVと呼ばれるタイプで、横浜市内のディーラーから代車として貸し出されていた車だ」と。
 そこがこのニュースの隠された主眼なのだろう。簡単に言えば、高級車に乗ると頭のネジが飛んでしまう危険なドライバーがいるでしょ、経験あるでしょ?ということなのだろう。
 このニュースの関連で知ったのだが、この機にドライブレコーダーの売上が増したようだ。世間的には、つまり、そういう話題だったのだろう。高級車とかであおり運転するやつをよく見かけるようになったという世間の空気だ。そのなかで、この事例が象徴的だったということだろう。
 加えて、続報を見るに、この容疑者のキャラが立っていたというのもあるだろう。文春の話では、関西の有名私大を卒業し、東証1部上場の超優良企業に就職していたという。なんだかそれっぽい小説に出てきそうだ。が、それって、すでにニュースの社会的な意義ではなく、一種のエンタテインメントだろう。このノリの上に、同棲相手やネットでの誤認騒動などもぶら下がっているのだろう。

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2019.08.19

六十肩と楊名時先生のこと

 もうすぐ62歳になる。若い頃から思うととんでもない老人である。父親はこの年齢で死んだ。もう死んでも、文句もいえないところまで来ちゃったなあ感が深い。で、六十肩になった。
 四十肩とは言う。五十肩もある。僕が初めてこれになったのは、五十歳過ぎてだろうか。あれれ、両肩が上がらない。挙げようすると痛い。ああ、これが四十肩というやつか。50歳過ぎていたから、五十肩か。
 これは数日で治った。こんなものかと思った。またなった。10年ぶりか。右肩のみ。理由もなくじわじわとなって治らない。これは一生治らないか。整形外科に行くか。と思っているうちに、じわじわ緩和した。十分ではないが、とりあえず手は上がる。ほら。お、痛え。
 この間、ああ、手も挙げられないよ。それでもゆっくり挙げようとして、適当に挙がったら回すように下ろして、そうした動作で、何かを思い出した。八段錦(はちだんきん)である。
 今から四十年くらい前、太極拳を習っていた。その準備体操みたいのに、八段錦というのがあった。気功の一種なのだろう。太極拳を限りなく簡素化したしようなもの。緩慢な動作で、おそよ身体にいいとも思えない。と、若い頃は思っていた。それに、ゆっくりと肩をあげて回して下ろすというのがある。
 太極拳は楊名時先生に学んだ。そういう会があった。先生は講習会に毎回来られるわけではなく、それ以外の回はお弟子さんが担っていた。お弟子さんの太極拳は、いわゆる太極拳である。ゆっくりときれいに動くのである。が、楊先生のそれは違った。ゆっくりではあるが、緩急があり、気がこもるところがあった。これは、健康体操とかいうものじゃなくて、マジで武術なんじゃないかと思った。先生は、いくどか、太極拳の武術の意味は教えませんと言っていた。それでいて、目の動かしたかは教えていた。というか、目の動かし方が、身体の動かし方と自然に調和するいうものではなかった。あれになんか武術的な意味があるのだろうか。
 私といえば、腰が入っていないので、先生に直してもらったことがなんどかある。たぶん、若い私は太極拳がなんもわかっていなかった。先生はしかし、きびしいわけではなかった。細かく生徒さんやお弟子さんを直しているわけでもなかった。眼光は優しいのだが、厳しさも感じられた。
 ときおり昔話をされた。山西省五台県の武家の生まれで、今では太極拳を教えているが、若い頃、政治家を志し、日本に来たのだと語っていた。調べるに、来日したのは、1943年である。戦中だったのだな。大学は京都大学である。その後帰国しなかったのは、なにか理由があるのだろうが、なぜか今にいたるまで関心を持たないようにしている。
 先生と楊露禅から楊澄甫の楊家太極拳の関係も知らない。楊澄甫がすでに武術的な要素を除いていたがそういう面を先生が独自に変えたものだろうか。
 講習は二十四式が中心なのだが、先生は八段錦を丁寧に教えていた。健康によいものだからという信念があったように思う。健康で心安く長寿に生きることがよいという信念確信に思われた。その関連か、七段を教えることはまれだった。
 思い返すにあれは、1978年だったろうか。とすれば先生は、54歳くらいだったのだろう。随分おじいさんに見えたが、今の自分のほうが年上でありそうだ。まいったな。年を取ると人は老人になるものだな。
 この年齢になって、ようやく先生の教えの意味がわかるかもしれないのだけれど。

 

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2019.08.18

8000万円の都心のマンションと4000万円の郊外の家

 ツイッターを見ていたら、8000万円の都心のマンションと4000万円の郊外の家という話があった。これらを買った人がいるとする。10年後、どうなっているか。4000万円の家の価格は半額に落ちている。2000万円だ。他方、8000万円の都心のマンションのほうは、7000万円。10年後の時点で、どっちがお得か? 8000万円の都心のマンションのほうだ。と、いうのである。
 詳細は違うかもしれないが、ざっくり見ればそういうものだろう。実際、そういうことで、都心のマンションが売れている、と言っていいだろう。
 そんな傾向が今後も続くのだろうか? 未来はわからないものだという大前提は扱いにくいのでとりあえず置くとする。たぶん、少子高齢化していく日本では都心集中が続くから、都心マンションの価格はそう崩れないのではないか。
 さて。これで話は終わりかというと、まあ、終わりでもいい。
 実際に、じゃあ、8000万円の都心のマンションが買いたいとしても、普通、その時点でそれだけの現金を持っているわけではないから、ローンを組むことになるが、それだけ大きな金額のローンが組めるだろうか。
 都心マンションの中古価格が崩れにくいなら、それを資産のように見なして、8000万円のローンが組めるだろうか? まあ、無理なんじゃないかと思う。どうだろう。
 さて、とまたここで一息つく。仮に、8000万円の都心のマンションが買えたとする。そして子供が二人居るとする。子供は、現在の都心の状況からすると、中学校から私立に通うことになるだろう。小学生から受験させる。郊外の家で高校まで公立に通った場合と比べると、けっこう子供の教育費もかさむだろう。どういうことか? 8000万円の都心のマンションの生活は教育費を中心にしてそれなりに付随する支出も増えるだろう。
 じゃあ、モブ的な市民は、4000万円の郊外の家で子供二人を公立高校に通わせるというのはどうか? 分相応でいいんじゃないか、と思えるのだが、これがまた現実的に考えると、郊外の公立高校から大学はMARCHに届かないのではないだろうか。もちろん、例外はあるとしても。
 さてさて、これはいったいどういう話なんだろうか。どういう現実なのだろうか。私がアイロニカルな話を弄んいるということでもないように思う。
 簡単に言えば、日本の社会は、都心居住者を中心に階層化されていくし、それが世代にわたって固定化されていくのだろうと思う。
 いい悪いでも、どうしたらいいというわけでもなく。
 人生というのはそういうものだ。都心のマンションであれ戸外の一戸建てであれ、離婚すればそれらの資産は整理することになる。離婚はそれほどまれなできごとでもない。また、けっこうな大病するというのも、珍しいことではない。そうなれば、ローンは返せない。それらもまた、現実だろう。
 現実の前に立ちすくんでいるのも、それはそれで人生の時間は過ぎていく。

 

 

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2019.08.17

「趣味は何?」

 「趣味は何?」と聞かれることはなくなった。交友関係が狭いこともあるが、そういう問いかけが必要な人の出会いというのがなくなったからだ。それは、さみしいことだとは思う。若い頃に、そう聞かれることがあったかというと、まあ、あった。それで、なんて答えていたか。思い出せる。読書、とか言っていたような気がする。あるいは、音楽鑑賞。思い出すと、苦笑するしかないな。そんなの趣味じゃないだろ。
 改めて自分の趣味ってなんだろと考えると、特にない。しいていうと、「言葉」だろうか。言葉への関心というのは、俗ラテン語における対格とか。いや、我ながら年をとったなと思うのは、そうした「言葉」への興味をあまり抑えなくなってしまったと自覚するときだ。もう少し若い頃は、そんなことに興味をもつ自分って、どっかおかしいだろうとそれなりに思っていて、ちょっと自制する感じもあったものだ。が、もう自制できないのだ。興味が抑えられない。つまり、こういうのも老いというものだろう。そして思うのだ。
 年取って趣味の対象が、「言葉」というのは、無難だ。これが、「少女」だったら、ちょっとやばいんじゃないか? やばくないか。いや、やばいだろ。違うな、やばいかやばくないかの境界は、対象じゃなくて、その関わり方だ。たとえ、年取って興味の対象が「少女」であっても、その関わり方がやばくなければ、そうやばいものでもないだろう。少女との関わりかたがやばいと、まずい。たとえば……
 と書きながら、うすうす自分の隠された趣味に気がつく。隠されてないか。いかんなあと思う。ふと、身も蓋もないアイロニーを思いついて、にやつくことだ。きもいな。でも、それもどうやら、私の趣味なのだ。
 幸い、それを眼前の人に語って困惑させるというほどの執着はない。世の中、身も蓋もないアイロニーを人前で開陳しないと気がすまないという人だっているのだ。その点、私はけっこうお行儀いい人間なんじゃないかな。でも、ツイッターはいいぞ。振り返ってみると、頻繁に身も蓋もないないアイロニーをつぶやいている。たとえば。

 甲子園は、炎天下苦痛を与えて、48校の敗者を生み出すしくみ。

 どう?
 大丈夫。わかっている。こんなの別に、人を困惑させるほどの、身も蓋もないアイロニーじゃない。ひねりも毒気も足りない。ちょっと、趣味がよろしくない。悪趣味という趣味ではあるが。正確に言うと、苦痛しのぎの悪たれである。
 こう延々と甲子園大会なるものが開催されているのは、自分にとって苦痛だ。なぜ? 私は、NHKのテレビ番組を録画して見るという人なのだが、これが、あれだ、甲子園大会によって、devastated という感じになる。録画壊滅。それも些細なことではあるが。さっさと終われ、甲子園大会。どこが勝とうが、沖縄県以外関心ねーから。
 と思いつつ、録画ミスされた甲子園大会の断片をちら見しつつ、この子たち、なんで炎天下で苦痛を与えられているんだろうか。運動したければエアコンの効いた体育館でフットサルでやったほうがいいぜ。とか思う。それに、君、負けるから。あー、君も君も。負ける。なんのためにこんな試合をしているかというと、負けるためにやっているんだろ。甲子園は、炎天下苦痛を与えて、48校の敗者を生み出すしくみなんだ。と。
 自分がいやになるな。どうでもいいじゃんそんなこと。
 そして、それはそれでどうでもいいやと思いつつ。そもそもコンテストというのは、100人参加したら99人の敗者を生み出すしくみだよなと思う。なんでこんなことするんだろうか。愚かしいな人間というものは、と思うが。それでも、上位6位くらいになればいいんじゃないか。まあ、このくらい負けたけど、このくらい勝ちましたという、心理的な報酬がある。その報酬感が微妙に敗者を救っているのだろう。
 そして、私は美人コンテストの二位という人のことを思い浮かべる。一位の人がいなければ、その人が一位になれたはず。勝者だ。それに美人コンテストで二位ならそれはそれですごい美人じゃないか。二位でもいいぞ。そして思うのだ。一位はどんな人だっただろうか?
 ああ、ゲスい。
 なんてゲスいことを考えるのか。ゲスいついでに言うと、美人コンテストの結果発表を見るたびに(見るのか?)、一位、間違ってんじゃね、この五位の子のほうが美人じゃね、それなら、わかるからね、五位の娘、彼女が一番美人だって。き・も・す・ぎ。
 そういえば、昔、AKBで誰が好きという大喜利にちょい参加した。もちろん、僕はAKBの女の子の区別がつかない。最近の乃木坂なんらとかなんたらなんたらとか、女の子の顔の区別がつかない。うーん、エミリア・クラークに似た子とかエマ・ワトソンとかに似た子はいないの。いねーよ。
 ということで、そのおり、「この子、かわいいんじゃね」とポイントしたのが、「板野友美」。
 そして、その、なんだろ、その場の白け感。え? え? なんかまずいこと言ったか? 私の趣味は身も蓋もないないアイロニーをつぶやくことだが、意図してやって、自分でにやつくのがいいのであって、たくまざるというのは、ちょっとな。
 まあ、そういうことだ。どういうこと? これでオチなの? まあね。

 

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2019.08.16

[書評] Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法

 もし、このブログの記事をいくつか読まれていて、まあ、このブロガーが強く推す本があれば買って読んでみようか、という人がいたら、これ。『Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法』。さらに推すと、騙されてもいいかなと思えるなら、ぜひ。
 なぜ推すかというと、ああ、これ読んでよかった。もっと若い時に読んでいたらよかったと僕は強く思ったからだ。

 

 本来なら、どういう本なのかという話をして、その話で推すというのが正しいありかたなのだが、そこがちょっと微妙な本なのだ。
 それでもまず、どういう本なのか、というと、自己啓発書の類である。副題もそれっぽく、そしてサンマーク出版らしく「最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法」としている。が、実際のこの本は、それほどでもない。また、人生が上向きになる「思考の道具箱」とかいう売り文句もあるが、それも間違いではないが、ちょっと違う。
 じゃあ、なにかというと、52個のいわば人生訓のノウハウがあるのだけど、おそらく、一読して読者の心に響くのは、そのうちの2、3個くらいかもしれない。でも、その2、3個が、かなり決定的だろうと思うのだ。そう、僕は思った。こういうタイプの本は珍しい。で、率直なところ、けっこう影響受けた。
 で、その2、3個以外はただのネタかというと、微妙な関連や、あえて言えば、矛盾もあるのだけど、読書の感触として楽しいのだ。これは、アランの『幸福論』に近い感じがする。
 とっぴな比喩でいうと、おでん鍋のような本なのである。
 酒のつまみにしてもいい、おかずにしてもいいし、ちょっと友人とだらだらとつまむのにもいいし、残り物でもおいしいしみたいな本である。まあ、そんな感じ。
 僕はたまたま書店で見かけて、ちょっと立ち読みして、ふーん、と思い、出版社見て、うへぇと思って置いたが、少し心にひ引っかかって、はずれでもいいや、えいと買って読み出しら、なかなかよかったのだった。というか、そういう本との出会いもいいんじゃないかと思った。
 あと、個人的には、この本はKindle向きじゃないかと思う。一読したら、ちょっとした合間に再読したくなる本だ。
 原書はドイツ語らしいが、国際的なベストセラーになり、英訳書もある。それとざっと比較すると、別の本かと思ったみたいな差異もなさそうだった。が、サンマーク出版らしい編集は入っている。でも、読みやすい。というか、そのくらい気楽に読めていいと思った。

 

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2019.08.15

韓国光復節についてのWikipediaの補足的コメント

 韓国光復節についてのWikipediaの説明をざっと読んでいて、少し奇妙な感じがした。説明に間違いがあるというのではない。抜けがあるんじゃないかという感じがしたのである。その抜けと思われる部分について、ごく些細な参考までにではあるが、補足的なコメントしておきたい。もしかすると、編集過程で意図的に削除されているのかもしれない。なお、以前にも書いたが、私はWikipediaを使った嫌がらせを受けたことからこのプロジェクトには関わりたくない。
 まず、関連部分を引用する。抜けと思われるのは、1945年8月18日のできごとである。Wikipediaのこの項目では、8月17日から9月2日までの間の話が含まれていない。なお、「連合軍軍政期 (朝鮮史)」や「朝鮮建国準備委員会」にも同様の抜けと思わる箇所がある。

朝鮮半島は韓国併合(1910年)以来、大日本帝国(朝鮮総督府)の統治下にあった。だが、1945年8月15日、連合国の発したポツダム宣言を日本が受諾して降伏することが発表されると(玉音放送)、一般の朝鮮人にとってそれは第二次世界大戦の終結のみならず、朝鮮の日本による統治からの解放(「光復」)を意味するものであることが確実となった[8]。同日、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作と、朝鮮独立回復運動家の呂運亨との会談がもたれ、日本側からの条件では日本人の安全および財産保全、朝鮮側からは政治犯釈放や食糧確保条件がだされ、行政権を朝鮮総督府から朝鮮側に委譲されることで合意が得られ、同日発足の朝鮮建国準備委員会に委譲されることとなった。翌日の8月16日、ラジオ放送で、行政権の委譲を発表、5千人程度の公然集会で、呂運亨が報告する。

朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち[9]、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。政治犯(多くが共産主義者であった)の大半が日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮半島ではその多くが8月16日と8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。朝鮮の「解放」を受け、朝鮮半島のさまざまな地域で共産主義者による人民委員会が自然発生的に結成されたとも言われている[10]。

9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った。連合国側はヤルタ会談に基づき、朝鮮半島を米英華ソ4ヶ国による信託統治下におく計画を持っていたが、結局、北緯38度線を境としたアメリカ合衆国及びソビエト連邦の南北分割占領に至り、朝鮮のその後の歴史に大きな影響を与えることになった。

 1945年8月16日に注目したい。「翌日の8月16日、ラジオ放送で、行政権の委譲を発表、5千人程度の公然集会で、呂運亨が報告する」とある。ここは史実であろう。また、Wikipediaでは、「朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち[9]、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている」というように、ここは伝聞として書かれていて記述としては史実性が弱い。
 私が奇妙な感じを受けたのは、私の記憶とのずれである。手持ちの資料と照合しようとしたが簡易に出てきたのは、小室直樹『韓国の悲劇』であった。小室の著作は大衆書であり、史実を記述しているかは疑問の余地があるが、Wikipediaに記載できる程度の典拠の書籍とはなりうるだろう。あるいは、この部分を他の資料で検証するとよいのではないか。とりあえず、同書の該当部分を引用しよう(p61)。

 連合軍は、八月十六日、総督府に機密命令を発し、しばらく総督府に朝鮮統治を続けることを命じた。また、日本の朝鮮統治機構を保全し、これを連合国に引き渡すように指令した。
 韓国は、八月十五日の解放後も、大日本帝国の植民地として統治されていたのである。

 このことは、Wikipediaに伝聞として記載されている太極旗が掲揚にも関連する。前掲書より。

(前略)太極旗の掲揚は、日帝の朝鮮支店たる総督府の許可によってなされたものであった。
 それは、朝鮮人民によって、「日章旗は、日没とともに引き下ろし、再び掲揚することを禁ず」として命じられた結果ではなかったのである。
 アメリカは、朝鮮独立の指導者たちを、まだ信用していなかったし、朝鮮人民に自治能力があるとも思っていなかった。ルーズベルトは、朝鮮を日本から取り上げた後は、しばらく、連合国による信託統治がよいだろうと思っていた。マッカーサーは、まず軍政を施くつもりであった。

 かくして、1945年8月18日に何が起きたか。前掲書より。

 八月十八日、総督府は、一方的に、呂運亨の建国準備委員会に与えた統治権を取り戻した。ひとたびは建国準備委員会の手にわたった統治機構も学校も、放送局、新聞社などの言論機関も接収してしまった。
 太極旗は下ろされた。
 韓国の空には、再び、征服者の旗である日章旗がひるがえった。
 日本の朝鮮総督府による統治権と統治機構の奪回は、建国準備委員会の委員長呂運亨とも、在野のリーダー宋鎮禹とも、一言の相談もなくなされた。まして、韓国民衆の意向など、少しも斟酌されなかった。
 この統治権の奪回は、連合軍の機密指令によるものではあった。機密であるがゆえに、韓国民衆は、それが連合国の意志によるものであるとは知らなかった。日本が勝手に権力を玩具にしたものだと思った。

 小室によるこの記述は、繰り返すが学術書ではなく、さらなる典拠も示されていない。Wikipediaがこれを採用しないのは、史実としての不確実性か、同書刊行以降の史学で否定されているためかもしれない。
 しかし、Wikipediaの記述、「9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った」は、理解しにくい。朝鮮総督府が降伏文書に調印した9月9日を記載すべきではないかと思う。前掲書も同様に9日に焦点を当てている。

 アメリカ軍が、交渉の相手として選んだのは、日本の朝鮮総督府と朝鮮軍管区軍であった。
 一九四五年九月九日、降伏の調印式において、米側代表は、沖縄第二十四軍団長ホッジ中将と、第五十七機動部隊の司令官のキンケード大将。日本側は、朝鮮総督可部大将と朝鮮軍管区軍事司令官上月中将。この四人が降伏文書に署名した。このことの重要性は強調されすぎることはない。
 (中略)
 まもなく、九月十一日から軍政が施かれることになったが、この軍政施行の正統性は、朝鮮総督府がアメリカ軍に降伏したことによって発生した。つまり、韓国の統治を、アメリカ軍は、日本軍からひきついだのであった。この間、韓国人は一切、介入していない。

 繰り返すが、小室の説明が正しいとは限らないだろうが、大局的に見て、朝鮮総督府が呂運亨の建国準備委員会に与えた統治権は、連合国にいったん回収されているという流れでよいだろう。
 また、米軍は韓国の統治権を引き継いだが、小室は言及していないのだが、米軍は実際の業務には、朝鮮総督府の遠藤政務総監以下各局長を当てており、米軍の統治の名のもとに朝鮮総督府の機構がしばらく担っていた(ベニングホフ書簡)。
 なお、韓国が米国の統治から独立したのは、3年後の李承晩による1948年8月13日の宣言なのだが、韓国では独立記念日を2日ずらして15日としている。

 

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2019.08.14

香港はどうなるか? 2019年夏

 香港の民主化デモの勢いが止まらず、8月12日には香港国際空港が閉鎖された。この事態はどうなるのだろうか? 少し考えてみた。

最悪の事態は天安門事件の再来
 まず、最初に考えるべきことは、最悪の事態である。これは、意外なほど明確だ。天安門事件の再来である。つまり、軍が動いて民衆を虐殺することである。
 日本を含め、世界の側としては、なによりも、この最悪事態を避けるために、尽力しなければならない。
 ということは、民主化デモを支援することと、最悪事態の回避は、状況によっては分離して考えなくてはならない局面がありうる。

レッドラインはどこにあるか?
 最悪事態である中国の軍による民衆虐殺が発動する限界としてのレッドラインはどこにあるか?
 これも意外に明確である。香港の独立である。
 問題は、「香港の独立」がこの状況で何を意味するか?ということだ。
 これは、香港特別行政区政府が市民側に立って独立を宣言することだ。
 だが、香港特別行政区政府の独立が可能か? シンガポールのように主権国家たりうるか?といえば、無理だろう。
 少なくとも、香港特別行政区政府の行政府長官が民主化デモ側につくことは、レッドラインに近づくことだ。

香港行政長官が民主化デモ側に折れるとどうなるか?
 中国軍が天安門事件のように民衆虐殺を即座に開始するのではなく、おそらく中国側の軍によるクーデターが発生するだろう。そして、新しい行政長官の下に組織的な武力による市民弾圧が始まるだろう。
 これは、今回の事態の収束シナリオとしては、けっこうオッズが高い。
 しかし、香港行政長官が民主化デモ側に折れないオッズのほうが高いだろう。その場合でも、より見えにくいかたちでクーデターが実質されるだろう。こちらがさらにオッズが高い。あるいは、ほとんど見えない形のクーデターとなるかもしれない。
 その線でいえば、香港民主化デモは、それ自体の世界史的な意味あるとしても、デモとしては今回は失墜に終わるだろう。残念ながら、いちばんありそうな予測はここになる。
 その対極の勝利ラインだが、元来の一国二制度の確認だろう。もともとここが国際的な基準なので、ここに落ち着けばよい。が、オッズはあまり高くない。

香港民主化デモへの対処を決定している中国権力の中枢は何?
 中国共産党の最高決定機関は当然、党大会である。だが、開催は5年に1度なので、その間は、党大会で選出された各年の中央委員会の全体会議である全会が実質の最高決定機関になる。
 ここに今異変がある。3回目にあたる昨年3月の三中全会以来、4回目の四中全会が開催されていない。
 おそらく、香港民主化デモは四中全会の空白に対応している。
 では、全会空白の背景で中国中枢権力はどうなっているのか?
 ここを埋めるのが、北戴河会議である。習近平主席など現役中枢と長老とされる人たちが河北省、渤海湾に面したリゾート地で行う密室会議である。これが8月初旬に実施された。
 おそらくここで、レッドラインとその近接の段階が暗黙に合意されただろう。
 できれば、権力者らも市民虐殺を避けたいと考えるだろう。理由は人道的な意味ではなく、権力者としての瑕疵となるからだ。
 なお、北戴河会議の中心の課題は、米中経済戦争だっただろう。この対処に誤り、国内経済を失速させると、党自体の正当性が危ぶまれる。

香港民主化デモの本質はなにか?
 ここで、あらためて中国共産党政府側から見た、香港民主化デモの本質を考えてみたい。それは、中国の分断の阻止であり、台湾統合が重視されるはずだ。
 極論すれば、香港の重要性は台湾にかなり劣る。
 つまり、今、中国政府に問われているのは、台湾統合(実質攻略)という大きな絵である。
 中国はこの10月1日には建国70周年を迎える。これをつつがなく遂行するのが習近平の課題でもあり、そこまでには国内問題のすべてが抑え込まれるだろう。

 

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2019.08.13

インターリングワ(Interlingua)への興味

 インターリングワ(Interlingua)という人工言語に次第に興味がわき、いろいろ調べていた。普及協会などもあり、それなりにまとまった情報もあるのだが、一人の人の観点からのまとめが知りたく、Stanley A Muaik著”Interlingua Grammar and Method Second Edition: For the Use of the International Vocabulary As an International Auxiliary Language and to Increase Your Word Power”という本を買って少し読み始めている。想像以上に面白い。

 


 インターリングワについては、日本語のWikipediaにもそれなりの情報がある。インターリングワについて一般的に知りたいというなら、それで十分かなとも思わるが、前述書を読んでみると、細かいところ、例えば、発音や、正書法、形容詞の扱い方で詳しい説明がある。
 私は若い頃、エスペラントに興味をもったことがある。大学書林の『エスペラント四週間』で学んだ。

 

 与えられたレッスンを終えてみると、さすがにこれは人工言語だなという印象と、意外に音の美しさに心惹かれた。創始者ザメンホフというのはある独自な天才だったのだろうと思う。他に、英文法学を学んだおり、イェスペルセンに傾倒したが、彼も人工言語を作っている。数学者ペアノも簡易ラテン語を作っている。ある種の言語マニアは言語を作りたくなるもので、トールキンやGOTいい例だが、ファンタジー系だとつい作ってしまう人がいる。これなども参考になるだろう。

 

 インターリングワをあらためて見直してみると、そうした人工言語とは極めて異なることがわかった。むしろそこが面白い。
 Wikipediaをそうした観点から見ると、創始者について明瞭に書かれていない。いちおう言語学者・翻訳家のアレクサンダー・ゴーデ(Alexander Gode)が出てくるが、創始者というトーンでは書かれていない。
 実際のところ、ゴーデはインターリングワを創始した意識はないようだ。彼が行ったのは、ロマンス語系の主要な言語の語彙を調査し、そこから共通性を整理したようだ。具体的には、イタリア語・スペイン語・ポルトガル語、フランス語、英語の語彙を整理し、ラテン語由来とするのに向いた祖形(プロトタイプ)を再構成し、これに簡易な文法特性からさらに再構成した。
 例えば、ラテン語の聖体賛美歌、Ave verum corpus(めでたし、真の御体)にも出てくるcorpusは、英語ではbody、イタリア語ではcorpo、スペイン語ではcuerpo、ポルトガル語ではcorpo、フランス語ではcorps。ここからインターリングワでは、まず、現状の同語源の分布を見て、ラテン語の斜格から祖形をcorporeとする。ここで私は仮に「祖系」としたが、当然ながら、歴史言語学での祖形ではない。むしろ、俗ラテン語を再度整理し直して、リンガフランカを再構成しようというわけである。
 そんなことに意味があるのか? というと、ゴーデはそうすることで、ロマンス語国民が理解しやすくなるとしている。
 だが、すぐに異論が浮かぶだろう。corporeは英語のbodyとは違い過ぎている。だが、ここで先の著者は、corporal、corporeal、corporalityといった英語語彙を示す。英語話者にとっても、corporeの知識が有益だというのだ。そこで、同書には、”to Increase Your Word Power”と副題にしているわけだ。
 これには説得力があるだろう。英語学習者も、だいたい、語彙が8000から10000になると、ラテン語由来の語源のある程度体系的な知識が要求される。
 話を戻すと、インターリングワの本質は、この有用的な祖形再構成にあり、ゴーデの言語学的な知見がここに生かされている。
 と、同時にこうした性格をこの言語が持つのであれば、時代に合わせ現代的な変化も必要となるだろう。このあたりの言語変化の取り入れも興味深いところだ。
 文法に関しては、表面的にはかなり素朴であり、人工言語らしく動詞の活用形は機械的に整理されているが、 エスペラントのような統一はしていない。-ar、-er、-irが残っている。つまり、インターリングワはほとんどイタリア語そっくりなのである。というか、イタリア語を整理すればインターリングワになりそうにも思える。前置詞と冠詞の縮約などもイタリア語に似ている。そもそも、私がインターリングワに関心をもったものも、これは、一種のイタリア語ではないかと思えたからだ。

 

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2019.08.12

退屈に生きよう

 最近、なんとなく思っていることがある。はっきりと決断したわけではない。うまく言葉にもならない。が、とりあえず、言葉にしてみると、「退屈に生きよう」ということだ。我ながらばかげたことを言っているなとは思う。
 退屈に生きるということは、退屈を味わうことだ。あー、退屈だ。ひまー、やることない、つまんない、ということだ。
 そう、僕が若い頃、そうだった気がするのだ。
 若い頃、なんだか生き急いでいて、「君、早死するよ」とも言われたものだが、その反面、あるいはそうだったからなのか、退屈に悩んでいた。退屈にいらついていた。それでどうしただろう。なんかしていた。散歩したり、本屋行って立ち読みしたり、ゲーセン行ってピンボールしたり、わけもなく電車とかバスに乗ったり。まあ、そして得られたものは、また別の退屈だったりもした。
 いつからか、退屈を失った。仕事と子育てのせいもある。子供が小さいときなんか、自分の時間すら持てない。でも、加えて、なんか退屈しのぎをネットに求めるようになった。これは僕だけのことではないだろう。スマホ歩きとしている人は、要するに退屈しのぎなのだろうし、電車に座っている人の9割がスマホをいじっているような、インスタレーション芸術みたいな光景も「退屈への恐怖」とでも題するべきものだ。
 僕は元来スマホ歩きもしないのだが、それでもスマホいじりみたいなのは、減らして生きたと思うようになった。もう少し退屈であるべきだ。
 そして、なんだろう、あの若い人の退屈を取り戻したいような気がしている。
 若い日の友人だったか、なんで自殺しないかっていうと、死ぬまでの退屈しのぎさ、とうそぶいていたやつがいた。思うに「退屈しのぎ」という言葉すら死語になりつつあるのかもしれない。退屈しのぎは退屈の解消でもない。退屈がほどよく4割くらい残っているほうがいい。
 退屈というものは、もしそれに向き合うなら、どのくらい苦しいものだろうか。なにも、自分に苦痛を与える趣味もないが、この苦痛は自分の本性を暴き出しはする。たまに、満員電車とかで、スマホ見ている人を見る。何をしているんだろうかと。落ちゲーみたいなゲームをしてたり、漫画読んでいたり、ラインしていたり。概ね、たいしたことしているわけでもない。ただ、退屈が紛らわせるというだけだ。誇張した言い方だが、それらによって、自身がどほどか薄っペらい人間であるかを告白しているかのようだ。
 退屈しのぎをやめろと言いたいわけでもない。うまく言えないのだが、僕なんかどうせ古い人間なんだし、未来もさしてないのだから、古い退屈しのぎで我慢していて、いいんじゃないか。退屈の限界値をもう少し正確にするべきというか。
 それで、昔、スマホがない時代、自分はどうしていたかと思い出す。文庫本を持っていた。カバンに文庫本一つ入れいた。それだけが退屈しのぎだったように思う。それでいいんじゃないか。
 あと、ウォークマンはもっていたな。好きな音楽を飽きるまで聞いていた。そのあたりにも、退屈の限界があるような気がする。

 

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2019.08.11

シェークスピアを学ぶ楽しみ

 昨年から、NHKラジオの『高校生からはじめる「現代英語」』というので英語を学んでいる。高校生の娘と英語を学ぶのに、なにかいい教材はないかと探してこれがいいんじゃないかと思ったのだった。そう思ったのは、まず、英語がよいこと。表題に「現代英語」を冠しているように、現代の英語が使われている。いわゆる教科書英語とか受験英語とか、あるいはなんだろうか、日本のビジネス英語のような、奇妙な不自然さはない。次に、米語発音で一貫していること。読み手の男女が惚れ惚れするような、GA(General American)の発音なので安心できる。英語学習の音声教材は、発音にバラエティを持たせたいのか、どこの英語なのかよくわからないことがある。そしてなによりのメリットは一緒に学んでいる私も楽しい。話題もいいし、説明もいい。あまり英語の教材に書かれていない英語のポイントなどもよく取り上げている。
 で、この講座なのだが、8月は趣向を変える。昨年は、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞スピーチで面白かったが、今年は、シェークスピアである。『ロミオとジュリエット』。
 なんで、『ロミオとジュリエット』が現代英語?というツッコミもあるだろうが、それはそれでどうでもいいように思う。読み上げは、いつもハンナ・グレース(Hannah Grace)さんがメイン。『花子とアン』で修和女学校教諭のスコットさんを演じていた女優さんだ。大学生時代はシェークスピアの演劇にも関わっていたらしい。その、ハムレットの朗読だが、英国風の朗読とは少し違う印象があったのと、心なしか、語末のRの響きが刈り込まれているようにも感じられたが、私の英語学の知識では、シェークスピア時代の英語はむしろ、GAに近いので、当時の朗詠もこんな感じだったんじゃないかと印象深かった。
 ちなみに、講座を聞いている娘もシェークスピアの原文に感動していた。彼女も演劇が好きなせいもあるのだろう。私といえば、大学時代の英文学でシェークスピアを学んだことを思い出していた。斎藤和明教授の授業だった。テキストはその師匠の斎藤勇である。ミルトンの失楽園の原文なども学んだ。英文学以外に神曲も学んだことが懐かしい。が、悲しいかな、ハムレットの有名な、To be or not to beを含む段落も当時は暗唱していたものだが、忘れてしまった。
 現代の大学の英文学で、シェークスピアの原文とか学ぶ機会があるのだろうか。洋ドラをみていると、シェークスピアの引用などもたまに出てくるが、それなりに米国社会などでも古典として生きているのだろう。あれはきちんと説明があれば、高校生や大学生が学んで面白いものだ。
 そういえば、私が高校生のころだったか、大学生になってからだったか、NHKでBBC生成作のドラマ風シェークスピアがあった。面白かった。が、あの英語がシェークスピアのままだったか、そこまで現代風になっていたか定かではない。確か、『夏の夜の夢』でoblivionという単語が印象深く使われていて、そのとき覚えた。以降、oblivionを忘れない。というところで、現代では、シェークスピア作品の全検索とか簡単にできるのはずだったと試してみると、『夏の夜の夢』にこの単語はなかった。『ハムレット』にはある。ハムレットだったか。

  

 

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2019.08.10

孤独死の報道と教会の意義

 孤独死のニュースがよく報道されるようになった。しかも話題としてよく取り上げられるのは、50代くらい人の死。40代もある。誰にも気づかれず死後しばらくたって発見されるという。そこには腐乱した死体があり、その臭気で発見されるということもあるという。
 そうした世代の孤独死が話題になるのは、単身世帯が増えたこともあるだろう。生涯未婚率が上がっていることから察せられるように、伴侶もなく友人もないという人も増えた。そうした人がある日、ふと死んでも誰も気が付かない。それでも仕事があれば、不審な休日で一週間もすれば気づかれるだろう。Lineとかツイッターとかで日々それなりの交流のある人なら、「最近、Kさん、見かけない」というふうにも思われるだろう。そういえば、ネットの著名人(リアルでも著名というべきか)、やまもといちろうさんの逸話だが、一週間ほどネットに登場してなかったら、死んだのかという連絡が殺到したらしい。
 さて、私はというと、現状単身生活でもない。死んだらすぐに家族に察知されるだろう。ネットでは、まあ、あれ?消えたなあ、死んだ?くらいには思われるかもしれない。ちなみに、このブログだが、現状では、私が死んだら、終わり。有料で使っているので、引き落とし口座が消えたら、そのころ自然消滅するだろう。悲しいか? 死とはそんなものだろう。
 私のそう長いとも思えない未来に孤独死は来るか。私には子供が4人もいるが、さっさと自立してほしいし、すでに自立した子供や留学していた子供からは、あまり連絡はない。老いて子供の面倒にもなりたくないので、いつの時点か孤独死もあるかもしれない。現実的には妻は私より若いので、確率的には、私が先に死ぬだろうと思う。ということで微妙な安心感のようなものがあるなとも思う。とはいえ、本質的には、人は一人死ぬものだ。
 ネットをぼんやり見ていると、週刊朝日のネタで『ソロ社会を乗り切る!「孤独死を恐れない10カ条」』というのを見かけた。博報堂「ソロもんLABO」のリーダー・荒川和久さんというかたの提言である。

【孤独死を恐れない10カ条】
●最後はみんな一人。単身世帯でも引け目を感じなくていい
●遠い親戚よりも近くの他人。地域の友人を増やそう
●コミュニティーに入る。地域の店を利用し、会合にも参加する
●何でも相談。心配事は抱え込まず民生委員や役所に相談しよう
●悩むより行動。将来を見据えて不要なものは日頃から整理する
●健康が第一。かかりつけ医や介護の専門家に体調の変化を告げる
●つながる人を増やす。精神的な自立には心の依存先の分散が有効
●ネットやSNSも活用。外出しにくくなっても多数とつながれる
●有料サービスも便利。シニア向け見守り事業は選択肢がいろいろ
●託せる人を決める。最後の対応を生前依頼。企業・団体でもOK

 どう? それができたら、孤独死なんてないよなと思った。
 ようするに、孤独にならないような帰属をもて、というとことでだが、その第一歩ができるなら、そもそも昨今話題の孤独死なんてない。いや、この提言を非難したいわけではないが、がんにならない10か条だったか、つまり、健康に過ごしましょう、みたいなもので、現実的にはほとんど意味がない。
 じゃあ、どうするの?
 教会に通えばいいんじゃないの。
 私はこの春から夏、上智大学の社会人講座でイタリア語を学んでいた(余談だが、上智大学のこの仕組みは今年で全部終わる)。で、そのついでに、聖イグナチオ教会のミサに出ていた。私はカトリックの信者ではないが、キリスト教文化には馴染んでいるし、近年、カトリック教会に関心も増した。ミサは誰が参加してもいいと知っている。が、非信徒は聖体の秘蹟は受けられない。代わりに、秘蹟待ちの列に並び、司祭にその旨を告げ、祝福を受けることができる。また、非信者でも、ミサでの挨拶の輪にはいることができる。
 ミサへの参加は心休まるものだった。孤独に悩む人なら、教会に行ってみるといいのではないだろうか。もちろん、宗派によっていろいろで、熱心な勧誘を迫られることもあるだろうから、そうした恐れのようなものを感じる人なら、カトリックの大きな教会のミサがいいだろう。そういえば、その頃ツイッターではなうちゃんさんという(50代の男性らしい)が聖イグナチオの信徒になられた。私には見知らぬかたではあったが、あのミサにいるかもしれないなという親近感は湧いた。
 ここで思うのだが、別段、キリスト教でなくてもいいんじゃないか。仏教でもいいだろう。というか、宗教というのは、そもそもそういうものではないだろうか。
 そこで、ふと気がつくのだが、マスメディアは孤独死を取り上げるが、それを避けるために、宗教を信じなさい、というのは見かけないように思う。なぜだろう。
 そして仏教でもいいとはいうけど、仏教を孤独を癒やすよすがの集団として信じるというイメージがわからない。神道でもそうかなと思う。宗教は日本社会では嫌われているようにも感じる。
 宗教が忌まれるのだろうか。宗教というのは、そもそも人の輪を結ぶものではないか。現代日本で、孤独死や孤立者が問題視されるのは、そうした宗教の不在と同じ現象なのではないか?
 かつての日本はどうだっただろう。そう思い返して、「講」に思い至る。江戸時代から明治、大正、昭和、庶民生活の一部には、「講」というものがあった。神社の氏子といった地域の繋がりを超えた、つながりであった。江戸の大山講のようなものは、現代、あまり語れないように思う。
 そういえば、明治生まれの祖母から子供のころ、大数珠の話を聞いたことがある。浄土教の講だろうか、大きな数珠をもった僧侶のような人が村にやってきて、人を集い、円陣に座り、大きな数珠を並びに合わせて渡して回していくのだそうだ。念仏か念仏のような歌を歌うのだった。ちょっとネット見ると、「大珠数繰り」とか言うらしい。知恩院では行事としてあるらしい。
 祖母の「大珠数繰り」の話は、もう100年以上も前になるだろう。そのころは、日本各地を大珠数を持って、じゃあ、これみんなで回しましょう、と誘う人々がいた。そういう人が、人の孤独を救っていたのだろう。

 

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2019.08.09

「堤不夾貴(つつみふさき)」の項目が日本語版のWikipediaになかったので

 さすがに8月に戦争を顧みるというのも飽きていたはきたが、関連する世の中の話題にそって連想することはあり、たまたまた、「堤不夾貴(つつみふさき)」の項目が、英語版とイタリア語版とロシア語版にあるのに、なぜか日本語版のWikipediaになかったことに気がついた。
 私は、以前、Wikipediaを使った嫌がらせで困惑したことがあり、このプロジェクトに関わりたくないのだが、さすがに日本語版のWikipediaに「堤不夾貴」の項目がないのも、なんだろう、奇妙な感じがする。
 奇特な人がいたら、日本語版Wikipediaになんとかするとよいのではないか。最近はgoogle翻訳も精度が上がっているが、とりあえず、参考までに、英版を以下に仮訳しておく。


堤不夾貴
堤不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日-1959年(昭和34年)7月21日)は、第二次世界大戦時の日本陸軍中将である[1]。

生涯
山梨県甲府市に生まれ、1922年に陸軍士官学校を卒業した。1931年、歩兵第10師団参謀長として満州侵略に加担し、ジャムス市に到着。その後ほどなく歩兵部隊指揮のためにこの大都市を離れた。1943年10月、第一次千島駐屯軍の指揮に到着し、1944年4月、歩兵第91師団を編成した。千島上陸作戦では北千島の防衛を指揮した。1945年8月23日、降伏文書に署名した[2]。

参照
[1] Ф. 238. Оп. 1584. Д. 175. Л. 99. Допрос командира 91 ПД Цуцуми Фусаки"
[2] "Biography of lieutnant General Fusaki Tsutsimi". generals.dk. Retrieved 25 February 2018.

 

 ちなみに、イタリア語版も仮訳しておく。

堤不夾貴
堤不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日-1959年(昭和34年)7月21日)は、第二次世界大戦期間中の日本陸軍中将である。

生涯
不夾貴は山梨県甲府市生まれた。1922年に陸軍士官学校を卒業した。1931年に大日本帝国陸軍第10歩兵師団参謀長として満州侵略に参加し、ジャムス市に到着し、その後歩兵部隊を指揮するためにその満洲の街を離れた。1943年10月、彼は第一次千島駐屯軍を指揮するために千島諸島に到着した。1944年4月、大日本帝国陸軍歩兵第91師団を編成し、司令官となった。ソ連が千島諸島の北方に侵攻した期間、この諸島の防衛を指揮した。1945年8月23日、彼の指揮の下、降伏文書に署名した。

 

 千島列島の防衛戦については、Wikipediaの「占守島の戦い」の項目にあり、堤不夾貴の活動も記載されている。
 この戦闘は、1945年の8月18日から21日にかけて、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。
 言うまでもないが、そして防衛戦ではあるが、1945年8月15日以降の日本軍の軍事活動であった。ソ連としては、北海道占領計画の端緒であっただろう。
 とすれば、堤不夾貴の戦闘の成果は、ソ連軍の侵攻を遅らせたことで、ソ連の北海道占領計画を回避させたと言えるかもしれない。

 

 

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2019.08.08

あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示雑感

 あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示を私は見ていない。私はあまりこの展示に関心がないからだ。理由は単純で、報道を通して知るだけだが、これらは、およそ芸術と呼べるようなレベルに達してない作品だと感じたからである。
 もちろん、そういう私の感性が、芸術の価値を決めるものではない。およそ、芸術というのは、個々人が「これが芸術だといえば芸術だ」といった単純なものではない。その芸術作品が複数の人々に与えるインパクトに加え、批評家による批評、キュレーターによる考察などが加わり公の議論を誘うことで、その作品が、公的に芸術であることが問われていく、というものである。そうでなければ、街のギャラリーなどで自由に展示すればいい。
 なので、あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示について、私がまず関心を向けたのは、キュレーターであり、学芸員である。日本の場合、学芸員には、養成の専門講座を設置している大学か専門学校で所定科目を履修して取得するか、文部科学省が年1回実施している学芸員資格認定試験に合格することが求められる。彼らは、この展示をどのように考えていたか? 
 もう少し過程的に言うなら、津田大介・芸術監督が企画と方向性を決め、学芸員が個々の展示作品を決める、という手順である。別の言い方をすれば、個々の作品の選別には、津田氏は直接的には関わらないはずである。
 が、報道を見ていると、津田氏の談話は見かけるのだが、個々の作品を決定した学芸員の見解が出てこない。この時点で、私には、不可解な展示ということになり、展示への関心は薄れた。それが芸術であるという公的な議論の基点がどこにもないのである。
 それでも、世間の大騒ぎを傍観しながら、なぜ、これらの個々の作品が選別されたのかという現実に多少興味が湧いた。芸術監督の津田氏が恣意的に選んでいるわけでもないはずだ。彼には、そもそも個別の作品を扱う学芸員の資格もないと思われる。
 それと、もう一つ気になっていることがあった。「表現の不自由」という表現は、昭和40年の千円札裁判を連想させる。老人力もないころの前衛芸術家赤瀬川原平が200倍に拡大模写した千円札の図像を読売アンデパンダン展に出した。この逸話がまったく語られないわけではないが、同じ名前の展示なのに、比較的に議論されるようすを見かけないのは、少し奇異にも思えた。オマージュのようなものがあってもいいのではなかっただろうか。
 いろいろ疑問あるので、少し調べてみると、簡単にわかったことがある。今回の展示の大枠は、2015年に東京・練馬区のギャラリー古藤で開催された『表現の不自由展 消されたものたち』だったようだ。同展示は、永田浩三さんや岡本有佳さんなどを共同代表とする実行委員会が街のギャラリーで開催したものだ。私的な空間での展示だったわけで、批評家もキュレーターも学芸員もない。
 どうやらこれが、そのまま、学芸員の介在もなく、私的空間からあいちトリエンナーレに左から右に移すようにもってこられたようだ。いや、正確には、『表現の不自由展、その後』として、2015年のギャラリー古藤での展示の「その後」も加えられていたようだ。そうして思うに、おそらく、その基本部分の移し替えは、津田大介・芸術監督の独断だったのではないだろうか。
 詳細はわからないが、少し調べた印象では、私的空間での展示が、適切な手順も踏まれず、公的空間に移行されたもののように思われる。もしそうなら、前提として、これはダメなんじゃないだろうか。つまり、表現の自由を問うという問題以前である。表現の自由を問うだけなら、2015年のギャラリー古藤のような私的な空間がよかった。あるいは、その経緯を写真などで解説展示すれば足りた。それなら学芸員でなく、ジャーナリストでもできる。
 なお、この展示は、脅迫などの点でも話題になった。が、それは、どのような展示でも潜在的に起こりうることなので、今回の展示とは、本質的には無関係だと私は思う。

 

追記(2019/8/9)

<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督として
北海道新聞07/08 05:00

約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。「僕はそういう(人の権利を奪う)タイプの人間ではありません。でも、そうしないと『情の時代』というテーマにこだわった内容にならないと思った。仕事は5倍くらい大変になったが、その方針のおかげで(参加作家の男女比を半々とする)ジェンダー平等も達成できました」

 どうやら、作品の選定は津田大介・芸術監督の独断だったようだ。

あいちトリエンナーレ問題 脅迫FAX犯人逮捕でも安心できない理由
更新2019/8/8 10:00 週刊朝日

津田氏はツイッターで、「表現の不自由展・その後」のコーナーの予算は420万円で、民間の方から寄付の申し入れがあり、寄付で全額まかなうことにしたと説明している。

 愛知トリエンナーレ『表現の不自由展・その後』展示予算420万円が民間の方から寄付で全額まかなわれたというのが本当なら問題ではないか。展示方向に影響するからだ。寄付は運営を信頼し全体予算に組み込むべきだっただろう。そうでなければ、その寄付額でトリエンナーレから切り離し、民間展示にすべきだろう。

 

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2019.08.07

小泉進次郎・衆院議員と滝川クリステル・キャスターの結婚、雑感、じゃない雑談

 小泉進次郎・衆院議員と滝川クリステル・キャスターの結婚を発表した。へえと思った。こりゃまった、アラフィフの美男美女が結婚。しかも、昭和言葉(でいいのか)の「できちゃった婚」である。まあ、世間の話題にはなるよな。
 小泉進次郎は若くイケメンで人気が高く、父親がカリスマ的な元首相であったことから、彼が日本の将来の首相になると期待するむきが、いや驚くんだが、そう少なくもなさそうなんだ。イケメンというだけで首相を選んでいいのか的な。しかし、そうなると、ファースト・レディーも美女だぞ。実現したら、国際メディアでちょっとした話題になるんじゃないか。とか、私もついつられて想像してしまった。まあ、ほんと、どうでもいいことなんだが。
 しかし、連想は進む。国際舞台にこのご夫妻が並ぶ図。どうなんだろとふと思った瞬間に、身長が気になった。小泉進次郎の身長は公開されていないが、172cmくらいではないか。まあ、現代的な普通の日本人。マッチョでもなさそう。滝川クリステルは160cm。これも現代的な普通の日本人。おお、意外に、これが新しい日本の普通というモデルになりそうだ。
 他方、日本人の象徴である今上陛下の身長はというと、公式データはなさそうだが、160cmないよな。雅子妃は160cmは超えている。164cmくらいではないか。平均的な日本人の身長からすると、陛下が低く、雅子妃が高いくらいか。
 そういえば、安倍首相の身長はけっこうありそうで、これは、175cm。プーチン露大統領とならぶとプーチンが小さく感じられるが、こちらは、170cm。まあ、僕と同じくらい。余談だが、昨年身長測ったら172cmに伸びていた。60歳すぎて身長って伸びるんか? どうでもいいな。
 話を進次郎さんに戻して、彼は38歳。クリステルさんは41歳。10月に41歳。初子を産むには高齢ということだが、これもいいニュースだと思う。40歳すぎて子供を持という人の励みになるのではないか。
 ということろで、進次郎さんが38歳で初子かというところで、あれ?自分も同じじゃないかと振り返ると、僕は37歳でしたね。そこから、子供4人なんで、晩婚だから子供が多く持てないというものでもないだろう。
 お二人の結婚だが、入籍はまだのようだ。が、入籍はするらしい。このまま事実婚でもいいんじゃないかとも思った。まあ、そこは本人次第ではあるが。あと、父親の経緯を見るに、早々に離婚とかもあるかもなと思ったが、それもあってもいいだろう。結婚してみて、子供が出来て、ああ、でも、結婚生活って無理というなら、それもいいんじゃないだろうか。
 まあ、この話で思ったことはそのくらいかな。そうだ。これでアラフォーの結婚がちょっと世間のトレンドになったりするんじゃないか。

 

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2019.08.06

記憶の風景の哀しみ

 夏の日差し、木陰、草いきれ、そうした夏の風景がふっと、自分の思いを過去にタイムスリップさせる。目を閉じると、不確かなのに、昔の光景が脳裏に蘇る。今ここにいるのに、今ここにいない、という奇妙な感覚。記憶がもたらした幻影なのに、そのリアリティが時を超えて脳髄にぎゅーんとしぼるように迫ってくる。そのすべてが、ある哀しみをともなっている。僕は本当に老いたのだのだと思う。半世紀も以前の、子供だった日の光景がそれほど遠くない。
 懐かしいかといえば、懐かしいのだが、懐かしいという感覚とも少し違う。懐かしさなら、私はここにいて、昔を想うということだ。それとは違う。思いが異世界のような昔の光景に連れ去られてしまう。そして、そのリアリティがリアリティのままで、空虚なのだ。
 まるで、僕が死んでしまったのに、僕の記憶のなかのその光景だけが、誰かが撮った写真のように残る、というような。
 それは光景だけではない。匂いもそうだし、匂いを伴った書籍であったり、ある空間の静けさであったり、病院の廊下に響く物音であったりもする。
 私が生きている、あるいは、私が生きていた、という、その生の私の感覚は、それほど確かなものではない。私というのは、つまるところ、代名詞であって、この僕ではない。
 これが老いていくということなんだろうか。
 でも、と思う。
 今、老いて眺める世界もまた、子供の頃ころに思った老いた自分の想像とそれほど違いはない。今の僕というものは、あの私という子供が思い描いた、そんな老いた人の想像とも変わりないのだ。

 

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2019.08.05

映画 『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』

 映画『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』を今更見たのである。驚いた。傑作だった。見ながら感動もしたが、見終えたあと、身体の芯がしびれるような感動が襲った。
 世間的には、どっちかというと、不評でもあり、まあ、見る人を選ぶのかもしれないなとも思った。
 2017年3月18日公開のアニメーション映画である。同じくアニメーションとしてはその前年話題になった『君の名は。』と比較されてしまいがちではあるだろう。私もなんとなく比較したい思いがある。私としては、アニメーション表現としては、『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』がはるかに優れていた。
 物語は、女子高生の森川ココネの、奇妙におとぎ話めいた夢から始まる。目覚めた現実は、東京でオリンピックが開催される2020年。場所は、岡山県倉敷市・児島。田舎といっていいだろう。個人経営で自動車修理業の父親と2人で暮らしている。ココネは最近、よく居眠りをする。そして、不思議な夢を見るようになった。そうしたある日、父親が警察に逮捕され、東京へ連行された。なぜ? 彼女は、父を救い出すために、幼なじみの大学生モリオと東京へ向かう。冒険である。その過程で、彼女の夢が現実と重なり侵食を始める。
 夢と現実が切り替わる物語はそれほど不思議ではないが、夢が現実を侵食を始めていく表現は、アニメーションの特徴を活かしていて、なかなかに面白かった。また、現実もただのリアリズムではなく、なぜか自動運転が実現されているSF的な設定になっているのも楽しい。
 とはいえ、こうした仕立ては、少し見る人を選ぶだろう。また、アニメの絵のタッチだが、風景はリアリズムだが、登場人物は、ジブリ映画的に線の強調されたアニメであることが際立つ。構図と躍動は美しいが。
 この先はネタバレになりかえないが、ネタバレはしない。
 物語は、ココネの母の謎に迫っていく。ココネが幼いころに死んだ母である。彼女のこの世に残した願いが、物語を大きく捻じ曲げ、脚本が破綻しているのでないかと思わせるほどの展開をひきおこす。
 この物語は、奇跡の物語である。こうした奇跡は現実にはありえない。そもそも夢と現実は侵食も交錯もしない。が、私たちが生の経験のなかで受け止めている無意識の感触には、どことなく、奇跡の期待や信頼の芯をもっているものだ。おそらく、私たちは、そこで死者の思いとつながっている。

 

 

 

 

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2019.08.04

最近、「あー、サイテー」と思った3つのこと

 最近、世の中のニュースで、「あー、サイテー」と思った3つのことがある。悲惨な事件ではないし、残酷といえる事件でもない。ただ、最初に、「あー、サイテー」と思ったのだった。
 その感覚が自分自身にも少し奇妙な感覚でもあった。「こんなやつはサイテーだ」とそれらの事の関係者を責めたいというものでもない。なんだろうか。正義をがなり立てたいというのもない。ある湖を見て、「あー、きれー」というような、ちょっと爽快な感じに近い。まあ、3つを見ていこう。

1 昭和を感じさせるサイテーな愛媛県警の尋問
 愛媛県警に誤認逮捕された女子大学生が8月1日、代理人弁護士を通じて手記を公開した。内容は、彼女が、今年1月、松山市内で発生したタクシー内の窃盗事件で誤認逮捕され、ひどい取り調べを受けたことだ。こんな感じだったという。

 取調官は、私が「本当の犯人を捕まえてください。こんなの何の解決にもならない。」と言えば、「犯人なら目の前にいるけど。」と言い、初めから私を犯人だと決めつけていました。他にも「やってないことを証明できないよね?」「タクシーに乗った記憶ないの?二重人格?」「いつ(自分がやったと)言うのか待ってるんだけど」「罪と向き合え」等、耳を疑うようなことを次から次へと言われました。
 また、自白を強要するかのような言葉を執拗(しつよう)に言われました。「就職も決まってるなら大事にしたくないよね?」「君が認めたら終わる話」「こんなに時間のかかるものじゃない」「ごめんなさいをすれば済む話」「懲役刑とか罰金刑とか人それぞれだけど早く認めたほうがいいよ」「認めないからどんどん悪い方へ行ってるよ」「今の状況は自分が認めないからこうなってるんだ」「また取り調べか、とか思ってるんだろう。認めないと終わらないよ」等、挙げればきりがありません。逮捕された後は、弁護人の助言で警察の取り調べに対しては黙秘していたのですが、「弁護士に言われたから黙秘するのではなく自らの意思で話せ」と言われました。

 私はこの事件に詳しくないし、一方だけの意見が事実だとも思わない。が、これを読んだとき、ああ、昭和の警察ってこうだったなあと懐かしく思い出した。
 昭和時代、私はある問題の被害者なのだったので、いちおう警察に聞いてもらおうとしたことがあったのだが、「被害にあうというのは、あんたにも落ち度があったんだよね、ふつう、で、何やらかしただ?」という感じで、もう一方的に加害者の尋問になり、あげく指紋を取らされた。しみじみ警察に話すんじゃなかったなと泣き寝入りした。若いせいもあって、ヤクザみたいな顔のおっさん刑事に気圧された。おかげでいいことを学んだ。警察ってこういうものなんだな。そういう経験があるので、彼女の思いがよくわかった。
 彼女のこの誤認逮捕は後に判明したが、謝罪もなかったという。

 誤認逮捕であることが分かった後、警察からは「真相の解明に必要な逮捕だった」と説明を受けましたが、到底納得できるものではありません。3D画像はきちんと解析したのか、ポリグラフ検査の結果はどうだったのかという私からの質問に対しては、はっきりした回答を得ることができませんでした。担当刑事からの直接の謝罪はいまだにありません。

 毎日新聞の報道、『誤認逮捕 取り調べに愛媛県警本部長「ただちにアウトではない」』では、こういう扱いになっている。

 愛媛県警松山東署に窃盗容疑で誤認逮捕された松山市内の20代の女性が1日に手記を発表したことを受け、県警の松下整本部長が同日夜、県警本部で報道各社の個別取材に応じた。女性が「自白強要」と訴えた取り調べについて、本部長は「ただちにアウトではない」との認識を示した。

 私は、アウトだと思うよ。
 それと、担当刑事は、彼女に直接の謝罪すべきだと思う。土下座とかいらないから、形だけでも謝罪すべきだろう。
 でも、たぶん、警察からのそんな謝罪はないんだ。
 そう思ったとき、次の瞬間、あー、サイテー、と思った。

2 お役所体質でサイテーなかんぽ不正
 かんぽの保険契約で、顧客に対して、重複した契約を結ばせたり、保険料を二重に徴収したり、無保険状態に置いたりなど、ほとんどインチキみたいなことが行われていた。こうした事例は、不正公開後に時期を見直したら、増えていたそうだ。何やってたんだ郵政のかんぽと思うが、2つ思うことがあった。
 一つは、経験談。私も二度、三度ほど、これみたいのに遭遇したことがある。結局、契約しなかったから、あれが不正だったかわからないのだが、そのとき、奇妙な印象をもった。
 かんぽから、偉そうな人と下っ端そうな人がコンビで来るのである。で、偉そうな人が、なんかちぐはぐに偉そうなのだ。顧客である私を尊重して契約を熱心に勧めているのか、下っ端さんと同様の扱いを受けて、さっさと契約しろと圧力かけられているのか、よくわからなくなった。
 ようするに、かんぽ、顧客対応の基本がまるでできてなかった。というか、その不気味さも契約しなかった理由でもある。あれはなんだったのだろうか。少なくとも、顧客のことまるで考えてないことだけはしっかり伝わった。こんな契約しちゃいけない、という、いちばん大切なことはきちんと伝わったから、それでよかったのかもしれないが。
 もう一つは、これは民営化の失敗だろうか? あるいは民営化の不徹底化によって、お役所体質が歪んだ形で残った結果だろうか、と思った。
 小泉政権による郵政の民営化では、郵便事業は政府が安定した株式を持つ株式会社とし、他方、郵貯と簡保は一般的な株式会社にして政府が株式を保有しないとした。が、鳩山政権下で、郵貯と簡保も政府が安定した株式を持つように覆された。
 もともと郵便事業は現代では誰がやっても赤字になるし、小泉改革以前もその状態だった。が、郵貯と簡保は国の縛りがなくても活躍できそうだから、これらを切り離したはずだった。が、民主党政権で、実質郵政の小泉改革は失敗し、郵貯時代に戻った。それで、この間、西川善文日本郵政社長も解任され、民間からの強いリーダーシップのある経営がなくなったようだ。この点については、詳細がわからないので、はっきりとは言えないが、完全に民間の保険事業者なら、末端がこんなに緩みきった経営にはならなかったんじゃないかと思ったのだった。
 まあ、いずにせよ、かつては郵貯の簡易保険として、国のバックにした信頼があったものが、この堕落しきった不正をほぼ組織的にやっていたというのは、サイテーというしかない気がする。唯一の救いがあるとすれば、きちんとした民間の保険会社なら、こんな詐欺みたいな不正をやっていたらビジネス続かないから、ここまでひどくないんじゃないかと思えたことだ。

3 AI時代を先取りしたサイテーなリクルート商売
 こっちのサイテーは現代的だ。人工知能(AI)なんだよ。リクルートキャリアが、就職情報サイト『リクナビ』を利用する就活生の個人情報をネタにして、その内定辞退の確率をAIで予測したデータを企業に販売していた。
 え?と思った。そんなことしてはいけないだろう、普通、と思った。まさかとも思った。しかし、報道を読み、リクルートキャリアの対応を見る読む限り、事実のようだ。ありゃあ、サイテーだ。
 誰がこんなサイテーなビジネス思いついたんだろうというか、どういう感覚していることこんな詐欺みたいなことができるんだろうと、疑問に思ってから、もういちど報道を見直したら、案の定、サービスの規約に、個人情報を分析し同社が利用するという許諾手順を踏んでいたらしい。うぁ、サイテー。そんなの就活生が理解してから登録するわけないじゃか、常識的に考えてと思ったし、実際、内閣府の外局の個人情報保護委員会も、利用目的の説明が不十分だと指摘していた。
 ふと、マイナビはどうなんだろうかと疑問に思ってネットを探ると、J-CASTニュース編集部が取材していた。それによれば、AI分析による辞退予測という商売はしているが、分析情報はエントリーシートの情報のみ、また、「受領するエントリーシートは個人を特定できない形になっており、当社と企業間にも個人情報のやりとりはありません」とのことだが、これはよくわからない。まあ、リクルートみたいなえげつないことはしてないというのだろう。
 というわけで、よくこんなサイテーなビジネスを思いついたなというのは、私の感覚が古いのであって、普通、思いつくもののようだ。ようは、理解しづらいに規約で個人情報を売買するのがいけないのか、ということか、というと、どことなく、「あー、サイテー」という感覚からずれる。たぶん、あれだ、AIって、こんなサイテー分野にどんどん活用されているんだろうなという感じだろう。

 

 さて、3事例。振り返ってみると、どれも犯罪ではない。民事に当たるかすら微妙。だけど、世の中のビジネスの実態って、こんなサイテーな感覚を基盤にしているなあとは思った。まあ、あれです、諦めに近い感じです。

 

追記

8月6日、愛媛県警の松下整本部長は、県議会のスポーツ文教警察委員会で、「事件と全く無関係の女性を逮捕してしまい、当事者の女性に誠に申し訳なく、心よりおわび申し上げる」と謝罪した。担当刑事からの謝罪はなし。

 

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2019.08.03

「俺の嫁」を描かせてみた

 7月にロサンゼルスで開催された「Anime Expo 2019」で「Waifu Vending Machine」が話題だった。人工知能が、利用者の好みに合わせて「俺の嫁」を描いてくれるシステムである。言うまでもないが、「俺の嫁」というのは、Wikipediaを借りれば、「主に男性が理想的な女性(架空のキャラクターを含む)に対して発する言葉」である。昭和言葉で言えば、タイプのアニメヒロインである。いやほんと、「タイプ」っていう言葉、こういうふうに使うと昭和言葉か。
 これがネットで使えるというので、残念なアニオタである私は、「俺の嫁」を描かせみた。使い方は、とりあえず単純で、4段階、①16種類から「最初の好み」、②「色の傾向」、③「細部」、④「ポーズ」を選ぶだけ。一分もあれば、「俺の嫁」の完成である。
 というわけでやってみた。というか、実際のところ、私はどんな「俺の嫁」が好きなんだろうという自分への関心もあった。アニメを見ながら、微妙に、ああ、これ好きだとか思っている心がある。ちなみに、私は『うる星やつら』の連載リアルタイム世代で、リアル結婚するまで自室にラムちゃんのポスターを貼っていた、この夏、62歳になる男性である。

 

1人目 アルビカピー
 まず、あまり考えず、さらっと作ってみた。最初の「俺の嫁」がこれだ。名前があったほうがいいなあ。アルビカピーとしてみた。

Img2365

 なるほど、きらいじゃないな。好きかと言われると、好きのほうだが、「俺の嫁」感に乏しい。デナーリスを和コミックで描くとこんな感じかなとも思うが、デナーリスのような躍動感が出ない。ありがちなサブキャラである。なんだろ、「誰かの嫁」?

 

2人目 伊東咲
 というわけで、次を作ってみた。名前は、伊東咲って感じ?

Img2367

 少女コミック風味が若干ある。これもきらいじゃないし、好きのほうだが、うーむ。違うなあ。髪の感じというか、ボーイッシュなのはいいが、ありがちな、優しいサブキャラ感が微妙に自分に響かない。こーゆーんじゃないというか、個性が弱いなあ。
 というあたりで、このシステムの癖がなんとなくわかる。ほっておくと凡庸な甘酸っぱい、自販機飲料みたいな「俺の嫁」ができてしまう。もう少し、私の好みを反映してもらうにはどうしたらいいんだ、はぁ、はぁ、はぁ、息が荒いよ。

 

3人目 砂喰真弓
 そして3人目がこれ。好きかというと、先の2人より引くんだが、微妙なメンヘラ感がちょっと心にうずく。ただ、少しダークな感じが出てきたみたいな期待がある。名前は、砂喰真弓って感じかな。

Img2368

4人目 雪ノ下安芸
 4人目は、ああ、やっちまった感がある。峰不二子風味が混じっているなあ。微妙に昭和っぽいかも。それと、私は、雪ノ下雪乃が好きなのだが、その好みが髪とかにちょっと出ているかな。で、名前は雪ノ下安芸。

Img2369

 というあたりで、やっぱしなんか自分の好みというのは、無意識のどこかにあるみたいだ。なんだろうか。

 

5人目 加藤慈
 5人目は、さらにやっちまった感が、ぱねえ。加藤恵じゃん、これ。ともくーん。ってか、AIで冴えない彼女ができてしまうわけ、というか、俺、加藤恵、好きだろう。ごめんなさい。名前は、加藤慈。

Img2370

 

6人目 牧瀬ジャンヌ
 やばいなあ。5人いて、「俺の嫁」感、ねーじゃないかということで、もうやめようと思いつつ、ハーフダズンはあってもいいかと思って、最後の6人目。

Img2371

 おや、これは、けっこう好きかも。誰かに似ているよなあと思うが、そこまでわかるアニオタでもない。牧瀬紅莉栖かなあ。パーツ的にはそれっぽいが、主観的にはけっこう違うんだが。
 それと、ようやく、動きそうなキャラ感が出てきた気がする。名前は、牧瀬ジャンヌ。

 

 というわけで、やってみると、いろいろ思うことがあった。
 まず、どうやら無意識に「俺の嫁」はいそうな気がするが、はっきりわからない、ということがわかった、というか、何かを求めている。キモいよ。
 次に、普通に絵師さんって大変だなとも思った。アニメ見ていると、どれも似たようなキャラだなとか思うが、意外とそうでもないなあとも。キャラをどう作っているかという推測にもなった。
 まあ、そのくらいなんだが、この「和風」感は、自分の民族意識なんかにもつながっているのかなとも、考えさせられた。

 

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2019.08.02

日韓の軋轢で、韓国はどうすればよいのか?

 日韓の軋轢で、韓国はどうすればよいのか? 残念ながら、私には、なんのアイデアもない。
 理由は簡単で、日本のリベラルな知的空気では、日韓の軋轢については、過去の経緯を見てもそうだが、日本が無限に譲歩すべきであって、韓国側がどうすべきかということは問えない、と感じているからだ。
 そして、私はその知的空気に抗う意見があるわけでもない。メリットも気力もない。しかたないなあと思うくらいだが、さて、この問題を国際的な視点から見ると、どうなるのだろうか。そんな関心で、つらつら、英米圏のメディアを見ていて、ふと、こういう考えは、日本の知的空気のなかでは、なかなか出せないかなと思う意見があった。Diplomat誌に掲載された”What's Driving Japan's Trade Restrictions on South Korea?”というコラムである。執筆者は、MITで政治学でPh.D課程にあるMina Pollmannという若い女性である。論調は、概ね、MIT政治学の気風から離れたものではないだろうとは思う。
 Diplomat誌側の編集の基調は、表題からもわかるように、日本政府側の苛立ちであり、輸出管理が事実上の規制であるという、おなじみの視点だ。またこれか、という印象だが、韓国がどうすれば日本は落ち着くのか?という問題設定があった。別の言い方をすれば、日韓の軋轢で、韓国はどうすればよいのか?とも言える。で、これは、記事の執筆者の意見ではなく、多摩大学ルール形成戦略研究所(CRS)のブラッド・グロッサーマン副所長の考えを参照したようだ。彼の記事は、東洋経済などに掲載されることがあるので、なにか関連した日本語記事があるかとざっと探したが、わからなかった。
 で、グロッサーマン氏は、日韓の軋轢で、韓国はどうすればよいのか、4つの手順を示していた。

1 現在の政治課題に歴史問題を持ち出さないこと

First, at the most basic level, Moon and the progressive left have to stop using historical issues as a contemporary political issue. Moon needs to demonstrate the kind of leadership Kim Dae-jung did in 1998, publicly committing to a “forward-looking relationship.”

第一に、もっとも基本的なレベルのことだが、文政権と急進左派は、現在の政治課題に歴史問題を使うのをやめなくてはならない。文在寅は、金大中が1998年に行ったような、「未来志向の関係」に公式にコミットすることで、ある種のリーダーシップを発揮する必要がある。

 まあ、無理なんじゃないだろうか。朴槿恵はその方向に舵を切って惨事になった。文在寅にそのようなリーダーシップを期待することは不可能だろう。ということで、もっとも基本的なレベルで、まあ、だめだろうなという思いが先に立つ。
 ただ、ここで、金大中を例示するのはよい示唆のようだが、逆に言えば、もはや金大中的な政治は不可能なのだろう。

2 日韓基本条約と日韓請求権協定を受け入れること

Second, Moon’s administration would have to accept the binding nature of the 1965 normalization.

第二に、文政権は1965年の正常化(日韓基本条約と日韓請求権協定)が拘束力をもっているという性質を受け入れなければならない。

 これが、そもそも無理なんだろうというが現下の問題の発端でもある。ただ、韓国側での言い分があれば、日韓請求権協定に基づき日本政府が韓国側に求めた仲裁委員会設置に関する手続きを行うべきで、韓国側のこの不履行が、日本側から国際法違反とされている点だ。
 なぜ、仲裁委員会を韓国が拒むのかについては、率直なところ、よくわからない。この案を持ち出す時点で、グロッサーマンも理解できていないのだろう。

3 韓国内の日本企業の資産が没収されないよう政治判断せよ

Third, regarding the court decision on individual victims of forced labor, the Moon administration can accept the legal process as having been completed, but make the political decision to not enforce the decision, to protect Japanese company assets in South Korea from expropriation. Moon can make this decision on the basis of South Korea’s “national interest” in maintaining positive relations with Japan.

第三に、元徴用工の被害者個々人についての大法院の判決に関して、文政権は、法的手続の完了を受け入れつつも、韓国内の日本企業の資産が没収されないよう、判決を執行しないという政治的決断を下すことができる。文政権は、韓国の「国益」に基づいて、日本との前向きな関係を維持しつつ、この決定を下すことができる。

 この指摘は、私には少し意外だった。三権分立だからこそ、行政府は、司法を尊重しつつも、行政的な執行の可否の権限を持つ。だから、この問題でも、文政権が政治判断ができるということはわからないでもない。韓国は日本とは異なり、米国のような大統領制を取っているのだから、法の執行について行政府の拒否が可能になのだなと感慨深く思った。この点、原理的には日本も三権分立だが、行政府は議会に載っているで、そこまで強い権限は持ちにくいだろう。

4 戦略物資の輸出管理厳格化を公言する

Fourth, South Korea can withdraw the WTO case and make a commitment to addressing Japanese concerns about sensitive materials reaching North Korea via South Korea.

第四に、韓国はWTOでの訴訟を取り下げ、韓国を経由して北朝鮮に到着する戦略物資についての日本の懸念に対処するとした声明が出せる。

 この点については、私も同じことを思っていた。今回のホワイト国除外についても、韓国側から、戦略物資の輸出管理厳格化の計画線表でも日本政府に提出されれば、現下の緊張は一気に溶けるのにと。
 韓国としては、戦略物資の輸出管理には問題がない、か、あるいは、問題があっても、日本に関係ないということなのだろうが、さすがにそれはむちゃだろう。

 



 さて、こうした4点の提案だが、当初、これは無理だよなと思ったものだが、見直してみると、1から4に向ける手順ではなく、4から1に向ける手順としては、けっこう優れているのではないかと思えてきた。
 その順でまとめるとこうなる。4点目は以下の手順に含まれるだろうから、3点になる。

  1. 戦略物資の輸出管理を行う計画書を日本政府に送る
  2. 韓国内の日本企業の資産没収は執行を停止すると公言する
  3. 日韓請求権協定に基づき仲裁委員会を設置する

 これで、日韓はまとまりそうな気がする。
 それでも、文政権では動かなさそうなので、次回の大統領選挙である2022年まで待つしかないだろう。次政権で、上述のような動きが出ればいいが、結局、そこがわからない。しいていえば、無理だろうな。

 

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2019.08.01

韓国の幼年期の終わりとでもいうべきものかもしれない

 いくつかの報道に触れ、これは、もしかすると、韓国の幼年期の終わりとでもいうべきものかもしれないと、少し思ったことがある。話は少し回りくどくなる。きっかけは、この朝日新聞の報道である。

米軍駐留費「日本は5倍負担を」 ボルトン氏が来日時に
土佐茂生=ワシントン、牧野愛博 2019年7月31日14時00分
 トランプ米政権のボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が先週、日本を訪問した際に、在日米軍の日本側負担について、現状の5倍となる巨額の支払いを求める可能性があることを伝えていたことがわかった。米政府関係者が朝日新聞の取材に明らかにした。同盟国の負担増が持論のトランプ大統領による交渉前の「言い値」とみられるが、日米同盟に悪影響を及ぼす可能性がある。
 ボルトン氏は国家安全保障会議(NSC)のポッティンジャー・アジア上級部長とともに、7月21、22日に来日し、河野太郎外相や谷内正太郎国家安全保障局長と会談。朝日新聞の取材に応じた米政府関係者によると、この際に日本側に増額を要求したという。
 「思いやり予算」と呼ばれる在日米軍駐留経費の日本側負担は2016~20年度の5年間で総額9465億円に及ぶ。現在の協定はオバマ政権時に結んだもので、2021年3月末に期限を迎える。新たな協定を結ぶ日米の交渉は来年から本格化する見通しだ。

 この報道だが、魚拓に残されている、この14時版の他に、現時点で朝日新聞のサイトで閲覧できる、後版がある。

米軍駐留費「日本は5倍負担を」 ボルトン氏が来日時に
土佐茂生=ワシントン、編集委員・牧野愛博 2019年7月31日21時15分
 トランプ米政権が、在日米軍駐留経費の日本側負担について、大幅な増額を日本政府に求めていたことがわかった。各国と結ぶ同盟のコストを米国ばかりが負担しているのは不公平だと訴えるトランプ大統領の意向に基づくとみられる。来年にも始まる経費負担をめぐる日米交渉は、同盟関係を不安定にさせかねない厳しいものになりそうだ。
 複数の米政府関係者によると、ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が7月21、22日に来日し、谷内正太郎国家安全保障局長らと会談した際に要求したという。今後の交渉で求める可能性がある増額の規模として日本側に示した数字について、関係者の一人は「5倍」、別の関係者は「3倍以上」と述べた。ただ、交渉前の「言い値」の可能性もある。
 米メディアは3月、トランプ政権が駐留経費の総額にその5割以上を加えた額の支払いを同盟国に求めることを検討していると報道。現在の5~6倍に当たる額を要求される国も出てくるとしていた。

 前版の報道が誤報だとまでは言えないだろうが、この前版の「ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が〜わかった」は、後版では「トランプ米政権が〜わかった」に変更されている。また、前版の「米政府関係者が朝日新聞の取材に明らかにした」というのは、朝日新聞のスクープネタの含みが感じられるが、それは後版にはない。さらに、前版は「5倍」のみだが、後版では「3倍以上」が付加されている。これらが暗示するのは、朝日新聞が裏取りせずに、またおっちょこちょい報道をやってしまったかなという印象である。
 さて、重要なのは、報道の要点だが、米政権が米軍駐留費の5倍負担を伝えたのかという事実関係にある。
 この点については、7月31日の菅義偉官房長官による記者会見で日本テレビ記者から問われ、「そのような事実はありません」と簡素に否定されている。いくつか別質問後、朝日新聞記者が同趣旨の質問を繰り返したが、「同盟の強化について一般的なのやりとりはあったということですが、それ以上は控えます」との回答だった。朝日新聞の報道は政府側からは否定された。
 時事はこう伝えている。

「思いやり予算5倍」報道否定=菅官房長官
 菅義偉官房長官は31日の記者会見で、米国が在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)を5倍にするよう要求したとの朝日新聞の報道について「そのような事実はない」と否定した。菅氏は駐留経費負担に関し「日米両政府の合意に基づき適切に分担されている」との認識を改めて示した。
 朝日新聞は、ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)が21、22両日に来日した際、河野太郎外相らに増額を求めたと報じた。

 朝日新聞以外からは同種の報道はなく、時事としても、この話題が朝日新聞だけに留まっている点を実際上、強調している。
 以上の経緯からすると、また朝日新聞の誤報であった可能性は高いだろう。
 ただし、単に朝日新聞の誤報というにとどまらす、不可解な点が2点あった。というか、そのあたりで考えこまされた。
 まず、朝日新聞は《交渉前の「言い値」とみられるが》がとしているが、いくら言い値であってもさすがに5倍というのは、非常識だと記者は思わなかったのだろうか? 普通なら、え?冗談でしょ、と問い返せば、ジョークという答えが出てくるかもしれない、とは想像しなかったのだろうか。普通に考えると、朝日新聞は大丈夫なのかと少し危惧される。
 もう一点は、同じ話が前日、韓国での報道にもあったことだ。中央日報より。

「ボルトン氏の訪韓目的は防衛費、5倍をはるかに超える50億ドル要求」
2019年07月30日06時57分
 米国が次期韓米防衛費分担金特別協定(SMA)として韓国に要求する防衛費分担金総額を50億ドル(約5400億円)に決めたとワシントンの外交・安保消息筋が29日、明らかにした。
 この消息筋は米政府関係者の伝言として「防衛費分担金総額に関連し、ホワイトハウスで内部的に50億ドルを暫定的に用意した」とし「国務省が開発した『新たな計算法』に従うもので、『金額は調整不可(non negotiable)』という言葉もあった」と伝えた。『調整不可』という表現はそれだけトランプ大統領の意志が強く反映されているという意味とも取れる。トランプ大統領はこれまで、同盟国に防衛費分担金の引き上げをちらつかせながら圧迫してきた。今年4月、ウィスコンシン州グリーンベイの遊説演説で「我々が50億ドルを与えながら防御している金持ち国がある。その国は5億ドルだけしか出さない。国の名前には言及しないが、電話一本で今年5億ドルをさらに出させるようにした」と言及したことがある。第10回分担金協定仮署名の2日後である今年2月12日、ホワイトハウスで「韓国に5億ドルをさらに出させるようにした」という主張の反復だった。したがって50億ドルはトランプ大統領が言及した該当金額を具体化したものだとみられる。

 話が朝日新聞報道と似ている。《国の名前には言及しないが》といった話に、もしかすると朝日新聞が慌てて食いついたのかもしれない。
 なお、この中央日報の報道内容も韓国外相は否定している。
 ではこれも誤報の類かというと、韓国での文脈は日本とは異なる。8月には米国マーク・エスパー国防長官が訪韓し、防衛費分担金問題が議論される可能性が高い。真偽は月末くらいには判明するだろう。
 話を冒頭に戻し、このあたりで、韓国の幼年期の終わり、ということを思った。これにはもう一つ。象徴的ことがある。トランプ米大統領のこのツイートである。

The WTO is BROKEN when the world’s RICHEST countries claim to be developing countries to avoid WTO rules and get special treatment. NO more!!! Today I directed the U.S. Trade Representative to take action so that countries stop CHEATING the system at the expense of the USA!
午前3:29 · 2019年7月27日

(世界の最も裕福な国がWTOの規則を回避して、特別待遇を受ける途上国なのだと言い立てるのだから、WTOは壊れている。こりごりだ!!! 今日私は、米国を犠牲にしてまで、国々がこの制度のインチキするのを止めさせるよう、合衆国通商代表部に対応策をとれと指示した。)

 具体的にそれらの国々はどこか?
 米政権は、7月26日、”Memorandum on Reforming Developing-Country Status in the World Trade Organization”(世界貿易機関における発展途上国の地位改革に関する覚書)を発表し、そのなかで、次の国々が名指しされている。

While some developing-country designations are proper, many are patently unsupportable in light of current economic circumstances. For example, 7 out of the 10 wealthiest economies in the world as measured by Gross Domestic Product per capita on a purchasing-power parity basis — Brunei, Hong Kong, Kuwait, Macao, Qatar, Singapore, and the United Arab Emirates — currently claim developing-country status. Mexico, South Korea, and Turkey — members of both the G20 and the Organization for Economic Cooperation and Development (OECD) — also claim this status.

(開発途上国の指定が適切な国もあるが、多くは現在の経済状況に照らして明らかに支持できない。例えば、購買力平価ベースで一人当たり国内総生産で測った、世界で最も裕福な10カ国のうち7カ国 (ブルネイ、香港、クウェート、マカオ、カタール、シンガポール、アラブ首長国連邦) が、現在開発途上国の地位を言い立てている。G20と経済協力開発機構(OECD)のメンバーであるメキシコ、韓国、トルコもそう言い立てている。)

 トランプ米大統領によれば、WTOでインチキやってる国々の代表は、メキシコ、韓国、トルコである。
 韓国は現状、WTOでは途上国の地位で優遇されている。米国はこれを止めさせようとしている。韓国がこの優遇を失うことは、韓国経済への影響力から見れば、日本が韓国のホワイト国認定を外すどころではないだろう。
 おそらく、韓国は、今後、米国による防衛費負担が増え、途上国優遇措置からも外されるだろう。
 韓国は、日本をかまっている場合ではないからこそ、だから日本問題に逃避してるのかもしれない。
 でも、それも終わるだろう。幼年期の終わりが来るのだ。
 まあ、日本の場合も、WTOの途上国待遇は関係ないが、米軍への負担は増えるだろうし、同じく幼年期の終わりとなるだろう。平和(pac)を授けて(pacifyして)くれたpacifierを終える時になるのだろう。

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