秋葉原無差別殺傷事件と凡庸な無
秋葉原の路上で2008年6月8日に起きた「秋葉原無差別殺傷事件」については、鈍い心の棘のようなものが残っていて、折に触れて考える。あれはなんだったのか。どう考えればよいのか。7人が死亡し、10人が重軽傷を負った。その死についても、あれはなんだったのか、どう考えればよいのか、と。答えは出ない。
先日、この事件を扱っている番組をたまたま見た。NHK『事件の涙「“君の言葉”を聞かせてほしい~秋葉原無差別殺傷事件~」』である。以下のような枠組みでの番組だった。
7人の命を奪った加藤死刑囚。タクシーの運転中に現場に居合わせ、重症を負った湯浅洋さんは、この11年、獄中にいる死刑囚に手紙を送り続けてきた。多くの人の命を奪った罪の重さを、どこまで深く考えているのかを知りたかったからだ。ところが、今も、納得のいく言葉は届かず、皮肉にも事件前に加藤がネット上で格差への不満を訴えた言葉が、いまも広がり続けている…。
番組は被害者の湯浅さんと加藤死刑囚の元同僚・大友秀逸さんの視点で描かれていた。こういうとよくないが、このお二人はこれまでもメディアにもたびたび登場されているので、そういう意味では、NHKも安易な作りをしているなという印象を持った。
番組の途中までは、そうして、深刻なテーマではあるが凡庸な話として過ぎていったのだったが、後半、加藤死刑囚の「人生ファイナルラップ」を湯浅さんが読んで、困惑しつつ考えこむシーンから少しトーンが変わる。
湯浅さんにある意味仮託されている視点は、事件の犯人である加藤死刑囚がなぜこの事件を起こしたのかということについて本人からの納得のいく言葉であり、そこに含まれると言ってよいのだろうが、失われた命への謝罪ではあるだろう。だが、そうした視点を「人生ファイナルラップ」は見事に打ち砕いてしまった。
実は、「人生ファイナルラップ」なるものは、私は都市伝説の類、つまりネット伝説だとなんとなく思っていたのだった。それが加藤死刑囚に拠るという確信が持てないでいた。そして、仮にその確信が持てたとして、そこに描かれているのは、まいどの加藤死刑囚の凡庸な自己開示でしかない。なんの深みもない。愚劣なまでの凡庸なのだ。7人の命がそこに吸い込まれるような悪ですらないのだ。と、あえて生の私の心情を書いてみたのも、そこで私は、そのこと、あまりにもばっくりと開いた無、しかも凡庸な無にどうしていいのか立ちすくんでいたからだ。
悪があるならまだ救われるのではないかという思いに震えた。思想の形をした悪が存在するなら、まだ、それが憎しみの対象たりえる。だが、この凡庸な無は憎しみをするすると吸い込んでいくように感じられた。
凡庸な無。
「凡庸な悪」であればアーレント的ではあるだろう。悪なるものが凡庸である、こともある、とは言えるだろう。そしてそれは悪の普遍性かもしれないとすら思う。だが、凡庸な無はまさに、無そのものを現しているだけだ。無とは、ここまで凡庸なものなのだ。意味がないのだ。意味を探す人の心をすべて静かに殺戮していってしまう。
凡庸な無への思いは、先日の登戸の無差別殺人事件を連想させる。2人が死亡し、18人が負傷した。
死傷者の多寡は偶然でしかない。
登戸の事件では加害者が自殺していることもあり、意図も謝罪ももう得られない。だが、それ以上に、燦然とでもいうように凡庸の無が立ちはだかるのは、加害者の岩崎隆一容疑者について、その後も私たちは何も知り得ないことだ。情報が隠蔽されているのではない。知り得ることがそもそも何もないのだ。岩崎隆一容疑者について、私たちが知り得ることはほとんどない。だから、社会学的にですら論じることが、おそらく、できない。
凡庸な無は、それが、凡庸に存在するという意味で凡庸なものだ。ただ、幸いにして、頻繁に発生するわけではない。それは、本質的な意味で、凡庸というだけだ。
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