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2019.07.21

『とある私の平成史』平成元年 ベルリンの壁崩壊

 先日、ツイッターでこういうツイートが話題になっていた。まあ、誰の発言ということは、どうでもいい。それを見たとき、まあ、そう考える人もいるだろうなとは思った。

ベルリンの壁は最初、一人一人がそれを越えようとし、多くが殺された。誰もが自分が生きている間に壁はなくならないのだと思っていた。しかし、ある日、市民が一斉に壁に押し寄せて壁を壊した。軍隊は何もできなかった。全部殺すことなど不可能だから。みんなでいっきにやれば古いものは壊せるんだ。

 そういえば、執筆中断中の『とある私の平成史』で「平成元年 ベルリンの壁崩壊」を書いたことを思い出した。
 こんな感じである。



ベルリンの壁崩壊

 平成元年、ベルリンの壁が崩壊した。「崩壊」というと自然災害などで壊れたかのようだが、大局的に見れば、民衆が壊したのである。「崩壊」というのはドイツ語”Der Mauerfall”の訳語によるものだろう。
 ベルリンは1961年以降、東ドイツの都市だった。それ以前は、ドイツ国の首都でもあった。第二次世界大戦後、ドイツ国の東側をソビエト連邦が占領し、西側をアメリカ、イギリス、フランスが占領した。これでドイツは、1949年に東ドイツ(ドイツ民主共和国)と西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の二国に分断された。が、東ドイツ内の、かつての首都ベルリンの西部(西ベルリン)だけは、米英仏の占領下のままなので、そこだけ西ドイツの飛び地のようになっていた。飛び地のようだとはいっても、西ベルリンと西ドイツは、ナチス時代に形成されたアウトバーンという高速道路や鉄道(途中下車禁止)、空路などで交通は結ばれていた。
 1961年、東ドイツはベルリン市を囲む「ベルリンの壁」を作った。「壁」と言っても、城壁といった感じのものである。理由は、東ドイツの人々が西ベルリンに逃げこみ、自由主義国側に亡命するのを防ぐためである。

   *    *

 ベルリンの壁崩壊には前段がある。すでにソ連が弱体していたこともあるが、重要なのは、平成元年(1989年)、5月2日、ハンガリーがオーストリアとの国境を分ける鉄条網を撤去したことだ。撤去理由は、国家困窮による鉄条網維持の経費削減である。ここが穴になった。当時、東ドイツ国民は、同じソ連下のチェコスロバキアとハンガリーの往来は可能だったので、この穴がうまく通過できれば、東ドイツ国民はオーストリアに出られ、そこの西ドイツ大使館に逃げ込めば、亡命が可能になった。そこで、8月19日「汎ヨーロッパ・ピクニック」という事態が起きる。この穴付近でピクニックに模した集会を機会に600人がオーストリアに抜けた。この事件がひと押しとなり、紆余曲折はあったが、ハンガリー経由で亡命が広がり、東ドイツの政権が揺らぐ中、11月9日、政府広報のギュンター・シャボフスキーが、ベルリンの壁は通過可能だと失言し、これが引き金となって、民衆が壁を壊し始めた。

   *    *

 ベルリンの壁崩壊の様子は全世界に報道された。その熱狂を私もテレビで見ていた。私としては、ヨーロッパ人というのは、やるときはやるんだなあと冷めていた。ドイツは統一化されるだろうが、ナチス時代のゲシュタポにも匹敵する東ドイツの秘密警察・諜報機関「シュタージ」(Stasi)は民衆の間に傷跡を残しているだろうなとも思った。このあたりの話は、コミック『MASTERキートン』に意外に詳しい。

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 ベルリンの壁が崩壊して、2年後、私は、東京在の外国人グループと一緒にバリ島でコテージを借りて半月過ごした。そのなかに、東ドイツ出身の若い女性がいた。モデルもしていたと思う。「キキ」と呼んでいた。あまりの美女で間近で見ると人間じゃないような感じもした。キキに、将来はどうするのかとたずねた。彼女は東ドイツに戻って社会のために尽くしたいと言っていた。立派なものだなと思った。

 

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