環境的ヴィーガンは、シカやイノシシを食べてもいいか?
「環境的ヴィーガン」という言葉はこなれていないが、ヴィーガン(菜食主義)にもいろいろあるらしく、①栄養摂取の点で動物性タンパク質を摂取しない食餌的ヴィーガン、②動物愛護の観点から肉食のみならず革製品など動物製品も否定する道徳的ヴィーガン、③地球環境保護の視点から、食物効率が悪く、畜産業としての環境への悪影響から肉食を否定する環境的ヴィーガン、といった分類ができるようだ。
そこで、環境的ヴィーガンという立場からすると、日本の場合、増えすぎて自然環境を破壊しているシカやイノシシについては、一定の手順で、環境を守るという点から、これらを殺傷し、食べてもいいんじゃないだろうかと、思った。どうなのだろうか?
シカやイノシシは増えすぎて日本の自然環境を破壊する原因となっており、すでに環境庁が取り組み、捕獲が進んでいる。当初の目標が達成されるか、見通しはよくわからないが、全体としては、イノシシやシカは捕獲され、減少傾向にある。
別の言い方をすれば、捕獲が制度化されつつある。ということは、イノシシやシカの死体が積み上げられている現状があるので、これらを同じく組織的に活用してもよいだろう。食肉も含めてである。実際、農水省のほうでもそうした対応に取り組んでいるようだ。とはいえ、日常生活でイノシシやシカの肉を目にすることはあまりないように思う。私も先日、フレンチで鹿肉のステーキを食べて驚いたほうだ。
いずれにせよ、捕獲されたイノシシやシカを食品や革製品などに活用していく産業の回路を盛り立てていけばいいのではないかと考えたのだが、ネットを見ていると、そう簡単でもないという話も見かけた。散弾で欝った肉には食肉に向かないらしい、その他、食肉という観点では、それなりに整備された状態でないと難しいということだ。ではどうするかということで、いっそ、シカ牧場を作ったらどうかという意見を見かけた。牧場といっても一種の放牧に近いものにするらしい。
実現についての技術的な部分がわからないのだが、奇妙な印象は受けた。2つ疑問が浮かぶ。まず、放牧とはいえ、一種の家畜化なので、すると、そもそも家畜ではないのか。それで、家畜がOKだというなら、現存の食肉用の家畜と本質的に変わらないのではないか。もう一点は、放牧とはいえ、おそらくシカやイノシシの生息域全体の自然管理になるのではないか。そうなると、それはそもそも「自然」なんだろうか?
以上、まるでネタ話のようなことになってしまったが、もう少し視野を広げると、人口縮小をしている日本、しかも高齢層が増える状態なら、国土の観点でも問題になりそうだ。人口は中核都市に集約しないといけなくなる。当然、放置される国土が出て来る。イノシシやシカ、さらにはクマもそうだろうか、彼らはそこに残される。こうした生物とその自然をどう管理していくのだろうか? 考えてみると、明確なイメージが結ばないのである。
話をヴィーガンに戻すなら、そもそも「環境的ヴィーガン」自体にある種の矛盾があるか、そもそもヴィーガン以外の人々も環境という視点では濃淡がある程度、同本質なのかもしれない。つまり、市民全体が食と環境のバランスを考慮しなくてはいけないのだろう。
私は基本的に自由貿易主義者として生きてた。デヴィッド・リカードの原則でいいだろうと。しかし、国土を国民が管理するということは、森林の管理や畜産の管理が必然に含まれ、それらは自由貿易の限界を形成するのだろうなと思うようになった。
話はそれだけ。オチもないのだが、来週日曜の参院選で、こうした森林の管理や畜産の管理というのは、候補者たちにどう捉えられているのかは、気になってきた。
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