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2019.07.31

「〜するとき」と訳さない when について

 英語の接続詞 when は、中学一年生で学ぶごく基本的な事項で、訳すときは、通常、「〜するとき」とするものだが、そう訳すとちょっとどうかなという例がある。例えば。

I was about to leave when they started to argue again.

 どう訳すだろうか? 「〜するとき」で訳すとこうなる。

彼らが再び議論を始めたとき、私は立ち去ろうとしていた。

 この訳文は、微妙に変な感じがしないだろうか? こう訳すと自然になる。

私が立ち去ろうとしていたとき、彼らは再び議論を始めた。

 これはどういうことなんだろうか。実は、この例文は、「〜したらそのとき〜」と訳していい。

私が立ち去ろうとしていたらそのとき、彼らは再び議論を始めた。

 次の例文はどうだろう?

I had not gone far when the moon disappeared behind the clouds.

 「〜するとき」で訳すとこう。

月が雲の陰に隠れたとき、私はまだ遠くに行ってなかった。

 これも、「〜したらそのとき〜」で訳すと、自然になる。

私が遠くまで行かないでいたらそのとき、月が雲の陰に隠れた。

 次の例はどうだろう?

He claims to be 18, when I know he is only 15.

 「〜するとき」で訳すと。

私が彼は15歳でしかないと知っているとき、彼は18歳だと言い張っている。

 「〜したらそのとき〜」で訳すと。

彼は18歳だと言い張っているならそのとき、私は彼は15歳でしかないと知っている。

 どちらも自然ではない。これは、「なのに」と訳していい。

私は彼が15歳でしかないと知っているのに、彼は18歳だと言い張っている。

 ところで、そんな訳をしていい根拠は何? これは、『表現のための実践ロイヤル英文法』に載っている。

 


 さて、次の例文はどうだろう? トランプ米大統領が7月27日につぶやいたものだ。

The WTO is BROKEN when the world’s RICHEST countries claim to be developing countries to avoid WTO rules and get special treatment.

 いくつか訳例を見ていこう。
 AFP『トランプ氏、中国などの「途上国扱い」不服 WTOに見直し求める』では、こう訳されている。

WTOは壊れている。世界で最も裕福な国々が自らを発展途上国と申告し、WTOのルールを回避して特別扱いを受けている。

 WSJ『トランプ氏、WTOに中国「途上国扱い」の是正要求 協議再開控え』ではこう。

世界で最も裕福な国が途上国だと申告しWTOの規定を逃れ、特別な扱いを受けているなど、WTOは崩壊している。

 Yahooブログの山田順氏は、こう訳していた。

WTOは壊れている。それは、世界でもリッチな国々が、WTOルールを逃れ、発展途上国(developing countries)として優遇措置を受けているからだ。

 どうだろうか? これらの訳出の背景にある英文法はどうなっているのだろう?
 まず、いずれも、「〜するとき」と訳してはいない。また、『表現のための実践ロイヤル英文法』が示す、「〜したらそのとき〜」でも「なのに」でも訳せない。
 Wisdom辞書を見ると、接続詞のwhenについて、「〜と考えると」「〜だから」というように、「主節の陳述・疑問の根拠を表す」という事例が載っている。

 

 

We can't call him a pacifist when he sometimes justifies violence.

彼は暴力を正当化することもあり真の平和主義者とは言えない。

 英語の語順を意識して訳しなおすと、こうなる。

私たちが彼を平和主義者と呼べないのは、彼がときどき暴力を正当化するからだ。

 

 Merriam-Webster辞書では、「considering that」という解釈も掲載している。

 


 こうしてみると、先のトランプ米大統領のツイートは、こう訳すといいだろう。

The WTO is BROKEN when the world’s RICHEST countries claim to be developing countries to avoid WTO rules and get special treatment.

WTOが壊れているのは、世界の最富裕諸国が、WTOの規則から逃れ、優遇を得るために、途上国だと言い立てているからだ。

 whenのような中1英語の基礎でも、難しいものだと思う。

 

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2019.07.30

イタリア製の地球儀を買った

 地球儀を買った。イタリア製だった。
 買った理由は、娘が、欲しがったこともあるが、まあ、一家に1台、地球儀はあるべきだと思っていたのだった。
 発端は、娘からの問いかけである。「うちに地球儀ないの?」と。
 「ああ、今はないかも」
 「というと、かつてはあった?」
 「あった。兄ちゃんたち用にいくつか買った」
 「でも、今はない」
 「今はないかも」
 「買ってくれる?」
 「いいよ。行政図と地勢図とどっち?」
 「それなに?」
 「これとこれ」と画像を見せる。
 行政図というのは、国がわかるように色分けした地球儀だ。地勢図は、大地の様子がわかるようにした地球儀だ。宇宙から見た地球みたいな感じ。
 「地勢図のほう」
 「そうかあ」と私は少しがっかりする。
 「?」と娘。
 「いや、行政図の地球儀って、色分けにピンクとか使っていて、美しくないんだよなと思って」
 「でも、国がよくわかるほうがいい」
 というわけで、探していて、これを見つけた。色調が落ち着いていて、部屋においてもインテリア風になる。

 

 「これでいい? ちょっと地味っぽいけど」
 「それでいい。なんかいい感じ」
 というわけで、購入。娘も気に入ってた。思ってたより、いい仕上がりだった。
 実は、これ、イタリア製だった。
 買う前に一番気になったのは、文字のフォントだ。中国製品とかだと、漢字が中国文字のフォントとかになっていることがあるんで、ちょっとそれは見づらいかと思っていた。が、そんなことはなかった。フォントも美しい。
 さて、これ、イタリアのどこで作っているのだろうかと、調べてみると、フィレンツェだった。作っている会社は、Technodidatica。技術教育社という感じだろうか。ホームページにこうある。

Dal 1950 l’azienda è pioniera nella produzione di globi geografici. Negli ultimi anni ci siamo concentrati su ricerca, innovazione di materiali e design, fino ad arrivare a una versione nuova e moderna del mappamondo.

1950年以来、我が社は地球儀の生産のパイオニアです。 近年では、私たちが専心してきたのは、研究や、素材のイノヴェーション、デザインです。そしてついに、最新版で現代的な地球儀をお届けします。

 ホームページで、同社で販売されている各種地球儀を見た。さすがイタリア製だな、美しいな、という製品がいろいろあった。

 

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2019.07.29

[書評] 沢村貞子の献立日記

 たまたまEテレの5分間のミニ番組『365日の献立日記』を見た。沢村貞子の『献立日記』をフードスタイリストの飯島奈美さんが手際よく再現するのだが、これがめっちゃうまそう。ナレーションは僕が嫌いな女優・鈴木保奈美さんと、憎まれ口を叩くが、いやいや上手。彼女の声のハリは沢村貞子を思い出させる。
 こうして料理を通して、沢村貞子さんを思い出すと、本当に素敵な女性だったなあと思う。なんだろう、ああいう、気品ある、江戸を感じさせる、凛とした色気というか、そういう女優さんって、今でもいるんだろうか。知らない。
 というわけで、沢村貞子の『わたしの献立日記』を読み返すが、エッセイとしていいのだが、肝心の料理がうまく思い浮かばない。

 


 とか思っていたら、とんぼの本に『沢村貞子の献立日記』があり、アマゾンで見たらプレミア価格なんで、そうか?と思って、ジュンク堂行ったら、普通に売ってた。昨年の8刷なので、書店から消えたらまた刷り増ししてくれるんじゃないか、とかいいつつ、これ全国の書店に現状、10冊くらいしかないんじゃないか。
 で、とんぼの本。予想通り、きれいな本だ。なにより、沢村貞子のファンブック的な作りもいい。黒柳徹子など、沢村さんの思い出話などもある。

 


 料理の点数は思ったより少ない。がきれいにできていて、うまそう。献立日記の現物の写真もあるが、手書きが味わい深い。
 なんだろう、こういう飯を食わせてくれる店はないのかというか(吉祥寺のハモニカ横丁に似た感じがあったか)、こういう飯を作ってくれる女はいないのかとか、おっと、それは炎上発言。っていうか、僕は、女性に料理作ってほしいとはこれっぽっちも思ったことがない。母親の料理も嫌いなんで、お袋の味とか、うげえと思う。
 というわけで、そうだな、悔いたり料理は自分で作れよと思う。それが沢村さんのメッセージでもあるしな。
 そしてなんだろうか、僕も老人になってきたんで、老いをどう生きるかって思うのだけど、そういうときに、沢村さんやその献立を思うなあ。日本食がどうたらじゃなくて、こういう老いの生き方に憧れるものがある。

 

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2019.07.28

BBC版『ABC殺人事件』

 NHKで放映されたBBC版『ABC殺人事件』というか、これはジョン・マルコヴィッチ版『ABC殺人事件』とでも言うべきなのか、彼が演じるポワロがあまりも決定的だった。面白いという言葉でも、アガサ・クリスティの原作がどういう文脈でも言い表しにくい、微妙で陰鬱なドラマだった。映像は、CGを多用しているとは思うが、映画的というより、テレビ的印象を受けた。
 なんと言っていいのか、まず、思いつくのは、こんなのポワロじゃないというのがあるとは思う。まず、ここで相当に違和感がある。が、それは、同様にまず最初に織り込まれている。ポワロが老いてポンコツになっていること、それが、この作品の一つのテーマであり、ポンコツで黄昏ていくことを許さないという歴史の重みが表現されている。つまるところ、この作品は、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』とは不気味に違う作品である。
 とはいえ、原作から大きく逸脱しているわけでもなく、原作の仕掛けは律儀に踏襲され、それが英国の自然を含め、美しく描かれている。
 この作品でポワロは自身が第一次世界大戦の一種の亡霊だった。それを許さないとしたのが、一方では犯人であり、もう一方では、英国ファシスト連合である。というか、英国ファシスト連合なんて、英国の歴史が隠蔽したいような忌まわしいものが、現れる。
 そもそもポワロとは誰なのか? なぜボワロという存在がいるのか。なぜ、この時代、世界恐慌の余波のに外国人として英国に孤独に暮らしているのか? それが、『ABC殺人事件』の本質的なミステリーであるなら、それはどうなるのか?
 いわゆる犯人は、ほとんど周知だし、この作品はむしろ、その周知なネタバレを織り込んで、しかも転倒させている。
 この物語は、いわゆるABCのミステリーではなく、ポワロという暗い人生の人の交わりのなかで、彼が欧州からあたかも引き連れてきた亡霊とそれに抗う、mes enfants との心情的な交わりが、人情というより、カトリックのあるべき神の哀れみとして表現されている。
 あと、マルコヴィッチののフランス語は完璧に聞こえた。どう考えても、英語も完璧だろう。ゆえに、あの変なフランス語なまりの英語ができるのだろう。
 まあ、なんだろう、神学的な作品だった。どうでもいい、斜め上のネタバレを最後に書くなら、真犯人はポワロその人でしかありえない。

 

 

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2019.07.27

麦茶ふたたび

 子供が小さいときは、よく麦茶を煮出していた。麦茶にもいろいろこだわった。そのうち、子供が大きくなり、がぶがぶと飲むようになると、煮出していては追いつかなくなり、簡易にできる水出しのパックにした。煮出していた麦茶に比較するものではないが、これでもいいかと思いつつ、何年も経った。子供も大きくなり、家でがぶがぶと麦茶を飲むということもなくなっていた。でも、そうした変化にも気が付かないでいたのだった。
 先日、ふと、何か録画していたテレビで麦茶のシーンがあり、煮出すと美味しいという話があった。そりゃそうだと思いつつ、そうだな、また作るかと、思い、作ってみたくなった。スーパーにでかけ、『はくばく 丸粒麦茶』というのを買った。アマゾンで見たら売っている。

 

 指示どおり作った。定量の水を沸かし、沸騰したらパックされた麦を入れ、5分ほど煮出し、火を止めて、45分ほどおいて、パックを捨てる。できあがり時刻は、エコーにリマインドさせる。エコーは何のリマインダーか聞いてくる。麦茶。いつにしますか。45分後。
 そして、定刻、エコーがお知らせ。麦茶が、できた。
 水色は薄い。
 個人的にはもっと濃い色の麦茶が好きだが、と思い、ぬるいまま飲んでみると、すっきりとしてうまい。なんだろか。えぐみがない。コーン茶のような強い香りはないが、麦らしさを感じる。それから冷やして飲んだ。冷やしてもうまい。ねっとりではないが、まろみという感じがある。飲みやすい。ペットボトルの麦茶は尖っていて苦手なのだ。
 偉そうな言い方だが、これだけおいしければ、十分という感じがした。
 外を見ると、梅雨が終わりに向かう。蝉が泣き出す夕方、夕風にあたって、麦茶を飲む。おいしいなあと思う。そして、ああ、老いたんだなとも思う。
 いつのまにか、コーヒーをよく飲むようになり、一日、二杯か三杯飲む。紅茶もそのくらい。ちょっと飲み過ぎだなという感じがしていた。水のようにくいくいと飲めるほうがいい。だったら、水でよくなくないと、思い、水を飲むようになった。でも、この夏は、また麦茶だなと思う。
 そういえば、三十歳頃だった。二十代を終え、さすがにもう若くないなと思う時期。まわりの同年も、もう若くないねとか、言っていた。最近、和食がおいしくてとかも言う人がぽつりぽつりといた。僕は、和食もすぎだが、年取って和食がいいなんて思わない、と思ったものだった。
 そして、三十歳の倍だ。さすがに、なんだろう、負けたな。普通の和食というか、焼き魚とか漬物とか惣菜ものが、しみじみおいしいなあと思うようになった。麦茶もそうした延長にある。
 かくしてどんどん僕は老化していく。やだなあと思う。さて麦茶もう一杯。

 

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2019.07.26

拡大化された偶発的かもしれない悪意について

 京都アニメーション放火殺人事件について、一週間がたって、とりわけ真相あるいは真実といったものは見つからない。容疑者が火傷で重症であり、調べが進まないせいはあるのだろう。だが、それが可能になったとしても、真相なり真実なりとして人が期待している何かは見つからないかもしれない。あたかも、それは拡大化された偶発的かもしれない悪意といったものでしかないかもしれない。多数の死の意味がもしかすると見つかることはないのかもしれない。
 今朝早朝付のNHKニュース、といっても昨日も同じニュースを聞いたのだが、『「京アニ」放火 容疑者はバケツ2個用意 大量殺人を計画か』では、こう伝えている。《警察は、大量のガソリンをまけるようバケツを2個、用意していたことに加え、現場で6本の包丁やハンマーも見つかっていることなどから、青葉容疑者が当初から大勢の人を殺害しようと計画していた疑いがあるとみて調べています。》
 なるほど、用意の詳細は明らかになってきた。が、今回の放火が大量殺人を狙ったものであったことは、今に明らかになったという新味はない。私のようなブロガーですら、当日、その計画性は了解できた。
 そして、思った。「よくもまあ、こんな非道なことを考えついたものだ。どこからこんな悪の知識を得たのか。」 それも事件時に思ったことだ。この計画性を支える知識は、おそらくメディアからだろう。ドラマやフィクションからではないか。
 私がこの間思っていたのは、その悪の知識は間違っていたのではないかということだ。というのは、容疑者も重症を負うと想定していただろうかと疑問に思えたことだ。存外に重度の火傷なのだとこの間に理解した。
 登戸通り魔事件のように容疑者も火炎のなかで自殺していたなら、この放火容疑者も決死の覚悟だったと察せられる。だが、現状知りうるところでは、放火の現場から逃げ出している。当初から逃げ出し、自分だけは助かろうとしていたのではないか。この容疑者の頭のなかには、ガソリンの本当の怖さ、つまり、爆発的に火炎が広がることは想定されなかったのではないか。もっと言う。この男が見たドラマか映画では、こんなはずではなかったのではないか。
 この推測が成り立つなら、容疑者は、狂人というより、あるいは知的な問題を抱えているというより、ただの馬鹿なのではないか。しかし、ただの馬鹿ならこんな残虐非道な事件は起こさない。馬鹿だけど、馬鹿よりひどいなにか、その馬鹿と殺意の幻想の間に横たわるものはなんだろうか。
 この間、もう一つ思っていたことがある。今日は、相模原市の知的障害者施設で19人が殺害された事件から3年目になる。あれから3年かというと、つい昨日のように思われるが、それは私が老いてきたせいもあるだろう。若い人なら、3年は長い時間であり、3年前は遠い過去かもしれない。そう思えたのは、同じく今朝付のNHKニュース『相模原 障害者施設19人殺害 5人に1人覚えてない NHK調査』からである。

 この中で、障害者殺傷事件の記憶について聞いたところ、
 「くわしく覚えている」が14%、「ある程度覚えている」が60%だった一方で、「あまり覚えていない」が18%、「全く覚えていない」が5%で、「覚えていない」と答えた人は5人に1人でした。
 20代以下では「覚えていない」と答えた人が、47%と半数近くにのぼり、若い世代で関心が薄れていることが浮き彫りになりました。
 また、自分も含め、障害のある人が身近に「いる」人では、「覚えている」が81%にのぼり、障害のある人が身近に「いない」人より10ポイント高くなりました。

 若い人にあの事件の記憶がないというのは、不思議なことでもないのかもしれない。むしろ、「ある程度覚えている」の60%の実態が、正直に「覚えていない」より質の悪いものかもしれない。いずれにせよ、多くの人の記憶から、あの大量殺人事件の記憶は薄れている。そして、このことは、このニュースのトーンでもそうだが、忘れてはいけないという枠組みで語られる。
 この事件では、《逮捕直後から植松被告は「障害者は不幸しか作らない」とか「意思疎通できない障害者は殺そうと思った」などと差別的な供述を繰り返しました。》というように、殺意の意図が、真相あるいは真実として語れる。そのようなホロコーストを連想させるような悪の思想があってはならないとしてこの事件が語られる。そこでは、拡大化された偶発的かもしれない悪意といったものではないとされる。そして、この事件が忘れられてはならないというのは、その意味の枠のなかに収められる。

 

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2019.07.25

NHKの政見放送ではサブチャネルで、通常の放送もしてほしかった

 選挙期間で言うのもなんなのでブログには書かなかったが、今回の選挙の政見放送ほどじゃまに思えたものはなかった。そんな言い方はないだろうと言われそうだが、政見放送をやめろというのではない。NHKはマルチ放送が可能なんだから、サブチャネルで通常番組の放送もしてほしかったというだけだ。
 さらに言うなら、むしろ、政見放送はもっとサブチャネルを使って、10時間くらい放送してもよかったと思う。
 デジタル放送に移行したことで、放送局は、マルチ編成として、1つのチャンネルで2番組、メインチャンネルとサブチャンネルが同時に放送できるようになった。もっとも両チャネルを使うと画質は落ちるが、それでも、あるかないかでいえば、あったほうがいい。
 これは私の好みというだけでもないと思う。速報を考えてほしい。現状では、政見放送中は、地震のような災害のとき、最小限のテロップしか出ない。こんなとき、サブチャネルで通常放送があれば、そちらに切り替えれば、詳細がわかる。もっとも、NHK総合についていえば、Eテレに切り替えれば速報テロップは出るには出る。
 サブチャネル化が進まないのは、操作ができない人がいるこの配慮かもしれない。さすがにアナログ放送は駆逐されたから、NHKテレビを見ている人はデジタル放送なので、サブチャネルに対応しているはずだが、切り替え操作がわからない人がいるかもしれない。
 これもしかし、逆に多用すれば使い方への理解が広がる。
 あとは、若干顰蹙だが、政見放送はここぞとばかりに変な人が出てくるので、きちんと選んだ人の政見放送が出てくるまで、この変な人と付き合わなくてはならない。けっこう苦痛だ。
 この点については、ホームページでいいから、政見放送の詳細スケジュールを上げておいてほしい。すでに上がっていたのだろうか。

 

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2019.07.24

竹島付近の空域での韓国軍によるロシア軍機警告射撃について

 昨日午前、島根県の竹島付近の空域で中国とロシアの共同巡回飛行中、ロシア軍機が韓国の領空を侵犯したとして、韓国軍がロシア軍機に警告射撃を行った。日本政府としては、日本の領空侵犯による事件なので、両国に抗議した。
 この事件は、日露中韓、四か国の視点が異なり、また事実認識についても異なっているので、真相解明および外交的な問題解決は難しい。
 いくつか項目にわけて考えてみたい。まず、客観的な事実を踏まえ、考察に進みたい。

韓国による竹島の実効支配は中露から拒絶された
 竹島は日本国の領土であったが、日本が連合国支配下で独立を目前とする1951年1月18日、すでに1948年8月15日に独立していた韓国の李承晩大統領が独断で公海上に排他的経済水域の境界線、通称李承晩ラインを引き、竹島を日本から奪った。これに並んで、韓国は日本漁船の拿捕を行い、多数の日本市民の殺害も行った。
 以降、竹島の海域は韓国が実効支配している。
 国際法は、基本国際間の問題を解決するためのもので、国内法のように正義を規定するものではない。このため、現実を踏まえた認識になる。竹島海域については、韓国が長期に実効支配しているので、国際的には概ね、韓国領土と見なされる。
 日本政府は竹島問題を非軍事的に解決する立場から、ここを特別に航空自衛隊が警戒監視を行う日本の防空識別圏(ADIZ)から外している。なお、ロシアは、ADIZという概念そものが国際法にはないという認識でいる。
 だが、今回の事件で、中国側からこの地域が公海であるとの認識が示された。ロシアも同じである。つまり、中露はこの海域の領土を日韓双方に認めていないことが、今回の事件で明らかになった。

中露は共同軍事演習だった
 航空自衛隊は竹島周辺を警戒監視を行う日本の防空識別圏から外していることになっているが、実際には監視している。今回の事件については、防衛省によると、領空侵犯したのはロシア空軍のA-50空中警戒管制機1機だった。また、同省によると、ロシア軍機による竹島への領空侵犯が確認されたのは初めてだった。
 中露合同演習では、露空軍がTU95爆撃機2機、中国空軍がH6爆撃機2機も防衛省で確認されている。5機は竹島北方の日本海上空で合流し、A-50が竹島を領空侵犯し、残り4機は対馬海峡上空を経て東シナ海に抜けた。
 ロシア側からは、CNNによれば、《"(They) conduced unprofessional maneuvers by crossing the course of Russian strategic missile carriers, threatening their security," the Russian Defense Ministry said in a statement Tuesday.》とのこと。つまり、韓国空軍はロシアの戦略的ミサイル運搬機の進路を横切って安全を脅かすという非専門的な作戦を行ったということ。韓露ではA-50の軌跡の認識も異なるが、なによりロシアはこの海域を韓国に認めていない。

中露は共同軍事演習の目的は何か?
 日経新聞記事『ロシア軍、中国と初の巡回飛行 竹島上空侵犯は否定 』によると、《中ロの共同巡回飛行に先立ち、ロシア政府は22日、中国と軍事協力協定を結ぶ交渉をすると明らかにしていた。詳細は不明だが、ロシアの有力紙ベドモスチは23日付で、1993年に結んだ軍事協力協定に代わるもので、より複雑な共同の軍事演習や巡回飛行の実施を含む可能性があると伝えた》とのことで、今回の演習はその一貫だろう。
 中露演習の基本的な目的は、露空軍がTU95爆撃機2機、中国空軍がH6爆撃機2機という構成からもわかるように、この地域に核弾頭を落とす能力を誇示することだ。当然ながら、米韓日への牽制である。

 以上が現段階でわかる事実であり、以下これに基づいて考察したい。
 
中露軍の韓国軍への挑発だったか?
 A-50の飛行経路の認識は、日韓では等しいが、ロシアは異なっている。ロシアは、この海域での韓国の領空そのものを認めていないが、仮にあるとしても、その領域に入っていない、あるいは計器のトラブルだとしている。おそらく防衛省の認識が正確で、ロシアは嘘をついているのだろう。
 ロシアの嘘から推測されることは、ロシアによる韓国空軍への挑発だろう。当然ともいえるが、今回はA-50のみが問題であり、TU95やH6は加わっていない。
 中国は今回の事態に一歩踏み込むことを控えている。

韓国空軍の過剰反応か?
 過剰反応と言えるだろう。そもそも領空侵犯機に対する警告射撃、しかも今回のような規模の大きな射撃は行わない。韓国も過去行っていない。
 なぜ、韓国空軍は過剰反応したか? これは単純に、竹島の実効支配を日本に誇示するためだろう。ここで強行に出ないと、竹島の実効支配が疑われることになる。
 そして、この過剰反応と先日のレーダー照射事件から推測されることだが、韓国軍はロシア軍の挑発に乗って、ロシアが言うように、ロシア軍機の進路を横切って安全を脅かしたのだろう。

中露軍はなぜ挑発を行ったか?
 軍事演習の枠組みからわかることは、基本的に、米韓軍事同盟に対する挑戦だろう。
 むしろ、今回の訓練の草案は中国だっただのではないか。中国のADIZを米軍は無視していることの報復的な意味合いが考えられる。

日露関係はどうなるか?
 変化はないだろう。
 日本とロシアは、極東地域の救難共同訓練などを行っていて、自衛隊とロシア軍の交流は円滑に進められている。
 
韓国はどうなるか?
 日本の輸出規制へ報復として韓国大統領府は18日、韓日の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の見直しを放言し、米国側から叱責を受け、引っ込めるという失態を行っているが、これだけ反日機運が高まると、GSOMIAは円滑にいかなくなるのではないか。当然だが、そのことは、中国や北朝鮮のメリットになる。

 

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2019.07.23

さらに、Echo Dotを買った話

 さらに、Echo Dotを買った。我ながら、先日、Echo Show 5を買ったばかりである。すでにGoogle Homeもあるのである。ので、少し悩んだ。どうせ買うなら、先日のプライムデーに買っておけばよかったのにとも思った。でも、まあ、買ったのだった。理由は、まあ、もう一個あってもいいかなと。理由になってない。(ちなみに、今見たら、タイムセールだったよ。)

 

 で買って後悔したかというと、そうでもない。いいんじゃねと思っている。非常にくだらない理由から言うと、Echo Dotは、いるかいないかわからない感じの存在感でいい。というか、普通に常時使えるBluetooth のスピーカーがあってもいいかとも思っていた。
 買って、おやっと驚いたのは、音質がいいのである。ネットとか見ると、Echo Dotは音質が悪いとかいう話が多いが、第3世代だと違うのだろうか。私の音質の好みというのもあるかもしれない。Echo Show 5も音質は悪くないのだが、低音がやや不自然なのと音の広がりが弱い。まさか、Echo Dotがこんなに音質がいいとは想定していなかった。そのぶん、重たい印象。
 というわけで、さらに買った理由は大したことはないのだが、その存在感の薄さがKindle本の朗読にもいい。というか、なかなかいい。先日、Fireも買ってこのKindleにも朗読機能があるのだが、こっちだと、中国人かなというアクセントがあるが、Alexa側の朗読だとかなり自然だ。
 年を取ったからかと思うが、静かさが好きだ。静かさというのは、沈黙が第一でもあるが、あまりに沈黙だと、老化した耳は静音時の生理音が気になる。こうしてブログを書いているときなどはかすかに聞こえるくらいの環境音楽があるといい。あれだな。病院とかの感じ。
 朗読を好むのも年だろうか。僕はけっこう速読な人なのだが、他方、朗読を聞くのが好きだ。もちろん、朗読の熟達者や声優さんがいいには違いないが、なんとなく聞けるだけでもいい。岩波文庫をKindleで買ってAlexa機能でEcho Dotで読ませるというのは、なかなかいい。読む場所は、Echo DotだとAlexaアプリ側で指定する。とか、書いていて、これじゃ一般社会的な説明になってないなあ。
 こういう一般社会向けの機能が、一般社会の人が使えないというのは、なんだろ、残念な感じがしないでもない。
 山本周五郎が今年著作権が切れて青空文庫に入った。というか、事実上、山本周五郎と吉川英治をもって20年間の中断となる。僕の人生的には終わったわけだ。まあ、著作権切れをまたなくても岩波文庫買えばいい話である。で、こうした任意の文庫をそれなりにではあるが、AI機能で音声合成して朗読してくれるしくみがもうある、しかも比較的安価に実現している。こういうのほしい人はけっこういると思うのだが、設定や使い方の説明は難しい。
 自著にも書いたが、僕は若い頃、プログラマとかもしてたことあるので(半導体自動合成システムとかも)、年寄りはITに弱いの部類でもないと思うというか、GoogleアシスタントにIFTTTの活用くらいはできる。ただ、そのあたりもけっこうめんどくさとか思うようにはなった。
 そういえば、Echo Show 5を使えば、家庭教師システムとかもできないこともない。すでにあるのかもしれない。
 ようは、身近なITでできることは増えたのに、それがほしいという潜在的なニーズに届ける人的サービスが追いつかないのだ。老人宅でWifiとBluetoothの設定をしても、想定外のトラブルとか起きてご老人の相手をする人的リソースが高すぎる。

 

 

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2019.07.22

2019年参院選結果

 参院選の結果が出た。いろいろな観点からの分析が可能だろう。私としては、まず、できるだけ私見を交えない形で考えてみたい。特徴は3点あった。

① 歴史的な低投票率と過去最高の期日前投票
② 歴史的な女性候補比率
③ 意外性のなさ

① 歴史的な低投票率と過去最高の期日前投票
  投票率が48.8%で、1995年の参院選の44.52%に次ぐ低投票率となった。
 意味は、政治に対する無関心、または政治不信。これは相反するとも言えない。卑近に言うなら、「投票なんかしても政治は変わらない。投票なんて無意味」ということだ。
 が、他方、期日前投票者が1706万2771人と過去最高となった。当日の選挙にいかなくても投票先は決めているということだ。素直に考えれば、投票に関心を持つ人が増えたともいえるが、選挙期間で十分に政治言論を高め、候補者や政党を毎回選ぶということではなくなりつつある。思考実験的に期日前投票を拡張すれば、それが世論調査、とくに政党を決めている層に収斂する。投票という概念とは異なるものになるだろう。適切な期日前投票の期間は再考されていいだろう。なお、フランスにはこうした制度はない。
 あるいは、日本では、近代の普通選挙そのものの意味が変わってきたと言えるかもしれない。

② 歴史的な女性候補比率
 今回の参院選では、女性候補比率は過去最高の28.1%だった。女性の当選者が選挙区で18人、比例代表で10人、計28人となり、過去最多の前回2016年に並んだ。この一番の理由は、2018年に成立した「政治分野における男女共同参画推進法」の影響だろう。同法では、男女の候補者数をできるだけ均等にするよう政党や政治団体に求めている。
 他方、全当選者に占める女性の比率は22.6%なので、有権者の側のほうが、「政治分野における男女共同参画推進法」の意識に乏しい。これらは今後順次改善していくだろう。
 (なお、私としては、フランスのように憲法を改定して、パリテを明記したらよいと思う。)

③ 意外性のなさ
 人によっては今回の参院選に意外性を見る人もいるだろう。例えば、れいわ新選組からの身障者議員の登場や、ぎりぎりで政党要件を維持した社民党、また、NHKから国民を守る党からの当選など。ただ、どれも論者の立脚点によるもので、重要性の根拠が薄い。
 なにより、意外性のなさを際立てて凡庸な結果に見せるのが、政治ダイナミズムとなるような議員構成の変化がなかったことだ。自民党がしぶとく生き残ったことだと言い換えてもよい。
 自民党については、改憲勢力が削がれたとも言える。与党と維新党を含め、改憲を目指す勢力が参院全体で改憲発議ための3分の2の維持に必要な85議席を割り込んだ。これをもって、自民党の敗北と見る向きもあるだろう。が、改憲勢力は81議席あり、さらら他党を切り崩せば、85議席達成は不可能ではないだろう。
 むしろ、意外性のなさの根幹にあるものは、自民党自体がこの選挙結果を想定していたことだ。この点については過去の記事でも扱った。

自民党はどう日本を見ているのか?
 ここから私見を交えたい。
 自民党としては、比例での自民党支持と一人区での難しさを想定していた、ということはどういうことか。
 単純にいうと、自民党政治の、事実上の地方の切り離しではないだろうか?
 一人区での自民党の敗北(特に東北部の現職落選)は、その地域の反自民党意識と見てよいだろう。というのも、野党協調というのは、反自民票でもあると概ね言えるだろうから。そしてこれらの地域は、かつては自民党の票田だった。概ね、自民党への期待が裏切られたことの現れだろう。
 この地域分断に、世代間の分断が加わる。
 出口調査によると、年齢別の比例代表の投票先では20代と30代の4割超が自民党を選択している。さらに、共同の調査によると、18歳、19歳では、自民党支持が38.2%であるのに対して、立民党は10.8%とだいぶ差が開く。
 戯画としていえば、リベラルと言われる勢力は、地方の反自民の受け皿、および高齢者の政治不満の受け皿となっている。そして、この部分に対して、自民党は切り離しが次第に進んでくるかもしれない。

今後の政局について
 消費税がオンスケジュールになった時点で、日本の近未来は暗いし、さらに安倍政権も不安定となり、自民党もまた揺らぐ時代になっていくだろう。オリンピックを終えたら、がらりと暗い時代になるのではないか、また。

 

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2019.07.21

『とある私の平成史』平成元年 ベルリンの壁崩壊

 先日、ツイッターでこういうツイートが話題になっていた。まあ、誰の発言ということは、どうでもいい。それを見たとき、まあ、そう考える人もいるだろうなとは思った。

ベルリンの壁は最初、一人一人がそれを越えようとし、多くが殺された。誰もが自分が生きている間に壁はなくならないのだと思っていた。しかし、ある日、市民が一斉に壁に押し寄せて壁を壊した。軍隊は何もできなかった。全部殺すことなど不可能だから。みんなでいっきにやれば古いものは壊せるんだ。

 そういえば、執筆中断中の『とある私の平成史』で「平成元年 ベルリンの壁崩壊」を書いたことを思い出した。
 こんな感じである。



ベルリンの壁崩壊

 平成元年、ベルリンの壁が崩壊した。「崩壊」というと自然災害などで壊れたかのようだが、大局的に見れば、民衆が壊したのである。「崩壊」というのはドイツ語”Der Mauerfall”の訳語によるものだろう。
 ベルリンは1961年以降、東ドイツの都市だった。それ以前は、ドイツ国の首都でもあった。第二次世界大戦後、ドイツ国の東側をソビエト連邦が占領し、西側をアメリカ、イギリス、フランスが占領した。これでドイツは、1949年に東ドイツ(ドイツ民主共和国)と西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の二国に分断された。が、東ドイツ内の、かつての首都ベルリンの西部(西ベルリン)だけは、米英仏の占領下のままなので、そこだけ西ドイツの飛び地のようになっていた。飛び地のようだとはいっても、西ベルリンと西ドイツは、ナチス時代に形成されたアウトバーンという高速道路や鉄道(途中下車禁止)、空路などで交通は結ばれていた。
 1961年、東ドイツはベルリン市を囲む「ベルリンの壁」を作った。「壁」と言っても、城壁といった感じのものである。理由は、東ドイツの人々が西ベルリンに逃げこみ、自由主義国側に亡命するのを防ぐためである。

   *    *

 ベルリンの壁崩壊には前段がある。すでにソ連が弱体していたこともあるが、重要なのは、平成元年(1989年)、5月2日、ハンガリーがオーストリアとの国境を分ける鉄条網を撤去したことだ。撤去理由は、国家困窮による鉄条網維持の経費削減である。ここが穴になった。当時、東ドイツ国民は、同じソ連下のチェコスロバキアとハンガリーの往来は可能だったので、この穴がうまく通過できれば、東ドイツ国民はオーストリアに出られ、そこの西ドイツ大使館に逃げ込めば、亡命が可能になった。そこで、8月19日「汎ヨーロッパ・ピクニック」という事態が起きる。この穴付近でピクニックに模した集会を機会に600人がオーストリアに抜けた。この事件がひと押しとなり、紆余曲折はあったが、ハンガリー経由で亡命が広がり、東ドイツの政権が揺らぐ中、11月9日、政府広報のギュンター・シャボフスキーが、ベルリンの壁は通過可能だと失言し、これが引き金となって、民衆が壁を壊し始めた。

   *    *

 ベルリンの壁崩壊の様子は全世界に報道された。その熱狂を私もテレビで見ていた。私としては、ヨーロッパ人というのは、やるときはやるんだなあと冷めていた。ドイツは統一化されるだろうが、ナチス時代のゲシュタポにも匹敵する東ドイツの秘密警察・諜報機関「シュタージ」(Stasi)は民衆の間に傷跡を残しているだろうなとも思った。このあたりの話は、コミック『MASTERキートン』に意外に詳しい。

   *    *

 ベルリンの壁が崩壊して、2年後、私は、東京在の外国人グループと一緒にバリ島でコテージを借りて半月過ごした。そのなかに、東ドイツ出身の若い女性がいた。モデルもしていたと思う。「キキ」と呼んでいた。あまりの美女で間近で見ると人間じゃないような感じもした。キキに、将来はどうするのかとたずねた。彼女は東ドイツに戻って社会のために尽くしたいと言っていた。立派なものだなと思った。

 

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2019.07.20

[書評] 「バカ」を一撃で倒すニッポンの大正解 単行本(高橋洋一)

 書店の平積みでこのタイトルを見かけて、少し考え込んだ。《「バカ」を一撃で倒す》という部分にである。

 

 何を考えたかというと、《「バカ」を一撃で倒す》というのは無理だろ、ということだ。「バカ」というのは、強靭なものなのだ。とても一撃では倒せない。倒せるなら、こんなに世の中にはびこっていない……。いやいや、そもそも「バカ」の定義はなんだ? 何をもってバカというのか不明瞭のままの議論こそバカな議論の典型ではないか云々。これは、でも、本書について言えば、帰納的に考えてもいいのかもしれない。つまり、一撃とやらで倒される・論破されている相手が、本書にとってのバカである。というわけで、世の中のバカすべてというわけでもないのだろう、たぶん。
 読みやすい本である。というか、うーむ、これなら、バカでも読めるなあという印象。ルター95か条の論題の半分以下の44の論題が取り上げられている。例えば。

最低賃金が上がれば、
消費が活性化して
景気がよくなる!

 これがバカの論題11である。で、一撃はこう。

逆だよ。
景気がよくないときに
最低賃金を上げたら、
さらに景気が悪くなるに
決まっている!

 どう? そう思っている人は、一撃で倒されましたか?
 たぶん、倒されないんじゃないかな。
 「そういうお前はどうなの?」と言われると、まあ、私はバカを甘く見ないので、そういう一撃は出さない、かな。ただ、韓国の文在寅政権が実施した「最低賃金引き上げ」の経緯は注目してきた。で、議論じゃなくて、実際はどうだったか。
 最低賃金を引き上げたら、雇用は減少した。5月21日の時点で、韓国の雇用労働部もこれを認めるに至った。日経新聞でもこの話題は「最低賃金引き上げ、世界で論争」として扱われていた。概ね、景気悪化時に最低賃金を上げてもうまくいかないことは経済学的にほぼ確立していると見てよさそうだ。
 文在寅政権による「最低賃金引き上げ」は、雇用減少という形で失敗し、さらに、もう一つ失敗を連鎖した。引き上げが次第に不達成の見込みとなり、政権支持の労働団体から反発を招いたことだ。
 つまり、景気が好調でない時点で、政府主導で最低賃金を引き上げると、雇用減少を招き、さらに景気が悪化し、達成不能となり、これにつれ、最低賃金引き上げの政治団体の反発を招き、さらに政権が不安定になり、いっそう景気が悪化するという循環になっていく。
 というわけで、「バカ」は一撃されないから、問題はさらに悪化する。
 私の考えでは、政治・経済の技術的な課題をイデオロギー的な課題に転換できない地点には、「バカ」が集結しやすく、しかも、バカは一撃で倒されないのだから、技術的な言論は実質無意味になる、と考えている。
 本書に戻ると、44のバカの論題は、まあ、議論としては、政治・経済の技術としては、概ね正しいが、バカを一撃で倒すというわけにはいかないだろうなと思った。
 じゃあ、どうするのかというと、最低賃金問題でもそうだけど、政治・経済の技術的な論点は整理しておいたほうがいいので、本書は便利だなとも思った。高校の参考書的な感じ。無駄な議論を考えても無駄だ。ちなみに、そのあたりの感覚では、本書のギャンブルへの言及も面白い。ようするに、数学が少しわかる人間なら、日本のギャンブルなんか、しない、と。ギャンブル中毒予防にこそ、数学教育を、と。まあ、現実的には無理でしょう。
 こうしたバカ一撃の話題とは別に、はっとした点があった。韓国への制裁案である。本書の基本は、「ヒト・カネ・モノ」としている。人、つまり、民間交流の規制が一番難しい。物、については、「戦略物資(安全保障上または戦争遂行上不可欠な物資・資源)の輸出制限なら理論上は可能だ」としている。が、企業活動に影響が出るので、現実的ではないと、本書では判断している。それで効果的なのは、というと、金、であり、具体的には外為法を使うことだとしている。
 本書執筆時には、まだ、フッ化水素問題はなかったのだろう。その意味では、本書は、少し外したともいえるが、おそらく実際は、そうではなく、フッ化水素の次は、外為法なんだろうなと、それなりに納得した。実際はどうなるかわからないが、そうなったら、「なるほどね」と私は思うだろう。
 本書が扱う話題は、比較的ネットで盛り上がる話題が多いので、そうした観点からも面白いかもしれないが、これで「バカ」が一撃されるわけでもないだろうし、あまりネットで問われなくなりつつある話題なども他にもあるし、環境問題や地域コミュニティの課題なども、一撃で答えが出るものでもない。
 とはいえ、本書を拡張した形で、政治・経済の技術的な論題を辞書的にまとめた書籍でもあると便利かなとも思う。

 

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2019.07.19

京都アニメーション放火事件

 個人的な視点で平成史を書いていてその後中断しているが、平成初年の陰惨な事件を振り返ったとき、それが平成という時代の幕開けを象徴していたかのような錯覚を覚えたものだった。そして、令和という時代が始まったときも、そこは人の世である、なにか時代を象徴するような陰惨な事件が起こるのかもしれない、という、不安のような取り越し苦労のような直感があった。そんな思いが、ずっと鈍く重く続いていた。そして、昨日の京都アニメーション放火事件を知り、ああ、これか、とうなだれる思いがあった。亡くなられた方に哀悼したい。
 真相はわかっていない。だが、知りうる範囲だけでも不気味な事件に思えた。まず、これはテロ事件であると捉えてよいように思うが、何がテロかという問題は難しく、今回の事件は政治的な意図をもつ旧来型のテロとはいえないだろう。むしろこの事件のテロ的な意味合いが「令和」を象徴するものになりそうだ。
 33人が亡くなったことで、ネットなどでは、戦後最悪の殺人事件というような表現も見かけた。が、2001年の歌舞伎町ビル火災では44人が亡くなっており、しかも放火事件と見られる。犯人も真相もわからないままである。
 それに比べると、今回の放火で、犯行者の点では不明なところは少ない。41歳男性の容疑者はすでに捉えられている。強盗歴があることや、関東の更生保護施設にいたことも報道されている。名前は報道されていない。精神疾患の疑いがあるのだろうか。現時点では容疑者も火傷を負って入院しており、本人からの詳しい発言はないものの、取り押さえられた時点では、「小説を盗んだから放火した」という趣旨の話をしていたらしい。当人としては怨恨が動機ではあるのだろうが、妄想に近いようにも感じられる。(追記 と、書いているうちに容疑者の名前が公表された。)
 精神疾患があるとしても、殺意は計画的に実施されたことは確かだ。犯行に使ったガソリンは、現場近くのガソリンスタンドで購入したもので、40リットル分、携行缶に収められた。これを現場近くまで台車で運んだらしい。明確な大量殺人の意思があったことは明らかで、死刑は免れないだろう。疑問に思えることは、なぜこのような派手な放火の手法をとったのか。どこからの情報でこんな悪質な放火を思いついたのか。なぜ放火先が、京都アニメーションの現場だったのか。悪質な計画性と狂気が統合的には理解しにくい。
 容疑者は、かなりの量のガソリンを撒き、発火は一瞬のことだったようだ。私は、2003年の名古屋立てこもり放火事件を思い出し、爆発したのではないかと当初、思った。つまり、死傷者の多くは瞬時に発生したのではないかと想像していた。だが、死者は、家屋の三階屋上への階段での死者が19人と多い。一階の死者は2人、二階とその階段で11人。それなりに逃げようとして逃げ場を失ったようだ。死因は一酸化炭素中毒が多いらしい。こうした点では、通常の火災だと言えるが、あまりに火のまわりが早い。避難路が確保できなかったからだとは言えない。その他も含めて、防火体制の点で、京都アニメーションの落ち度らしいものはなさそうだ。
 では、防ぎようがなかったのか?
 容疑者が入り口なり、受付なりで留まっていたら、ここまでの被害にならなかったのではないかという疑問から報道を見直すと、この日に限って、セキュリティが解除されていらしいことを知る。それはなぜかという疑問が続く。その答えだが、打ち合わせがあった、NHKがすでに現場にいた、という2つのことが明らかになっている。この事実から想定すると、NHKの報道取材が予定されていたのだろう。
 ここで、この事件について怪しい、陰謀論のような疑問が湧き上がるのは避けがたい。たまたま偶然にセキュリティが甘い時刻に事件が発生したのか、容疑者はこの状態を想定したいのか。後者であれば、おそらくNHKの取材予定を知っていたことになる。現状、この陰謀論的な推論には決め手がない。ただ、こんな用意周到な放火に偶然セキュリティが甘かったという偶然が重なったというのも想定しにくい。
 事件に不明な点は多い。それでも、この放火事件は、犯行の意思も計画性も明確であっても、犯人の理路は社会に理解できないものではないだろうか。仮に、容疑者の言うように、小説が盗作されたとしても、そしてそれにどれほど怒っていたとしても、こんな悪質で大規模な放火を行うとは想定しづらいし、まして、アニメ制作の現場を襲うことには、ほとんど怨恨の関連がない。現場が勝手に盗作することはない。こうして見ると、犯行の理路そのものが、社会の理解を絶した狂気を帯びているようだ。
 この先を言うのは勇み足だが、そのこと、つまり、社会的には了解しがたい悪意だけの露出の殺人、というのが、令和を象徴する事件なのではないか。

追記

 京都アニメーションの代理人を務めている桶田大介弁護士によると、日中の就業時間中は無施錠だったとのこと。これが事実として確認されれば、この日に限ってセキュリティが解除されていたわけではないことになる。


資料(NHK報道より)

アニメ会社で放火 容疑者とみられる男 確保の様子
2019年7月18日 16時22分

火事が起きた『京都アニメーション』に番組の撮影のため向かっていたNHKの男性ディレクターが容疑者とみられる男が確保された現場を見ていました。

このディレクターは、「京都アニメーションの近くに着くと、3、4人の警察官が集まっていて、そこに男が倒れていました。男は右足の膝から下の服が焼けていて、はだしでした。警察官と何か話していたようでしたが何を言っているかは聞き取れませんでした」と、そのときの様子を話しています。


「暴力は耐えられない」京都アニメーション社長
2019年7月19日 19時03分

また、事件当日の朝の現場のスタジオのセキュリティについて、「いつもとだいたい同じだが、出勤する午前9時ごろから1時間ほどの時間帯は人の出入りが多く、当日は来客の予定があったこともあり施錠していなかった」などと説明しました。


“京アニ” 代理人弁護士 第1スタジオの防犯対策を説明

2019年7月23日 20時29分

 「京都アニメーション」の代理人を務めている桶田大介弁護士が23日、報道各社の取材に応じ、放火された第1スタジオの防犯対策などについて説明しました。
 それによりますと、第1スタジオには正面玄関やスタッフ用の出入り口など合わせて4か所に防犯カメラが設置され、社員や来客の出入りを確認できるようになっていたということです。
 これらの出入り口は夜間は施錠してシャッターを閉めていますが、日中の就業時間中は社員などが出入りするため、日頃から開けた状態だったということです。

 

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2019.07.18

韓国とは友好的でありたいが日本とは体制の異なる国家になった

 結論を先に、かなり荒っぽく言えば、日本は米国の属国のようなものだが、韓国はそこから離脱して中国の属国のようなものになっていくのだ、ということ。現代世界を冷戦に例えるのは意外に危険ではあるが、実際的には、米中は新冷戦と言ってもいい現状がある。その意味では、日本と韓国は異なる体制になっていく。せめて鉄のカーテンがないように、民間交流は円滑になるといいと願う。
 そうして概観してみると、昨今の韓国問題は

① 日本の国家安全保障の問題(韓国は中国下に入りつつある)
② 韓国による日韓基本条約(の関連協定も)のちゃぶ台返し

を、切り分けたほうがいい。そして、今回のフッ化水素関連は、①である。
 ②については、つまり、「韓国による日韓基本条約(の関連協定も)のちゃぶ台返し」は、韓国の主体規定による、第二次世界大戦勝利国認識に関連する。これは、フランスのドゴール政府の模倣的な発想だろう。簡単に言うと、韓国は連合国側にいて、枢軸側の日本に勝利した、戦勝国であるということだ。
 ただ、さすがにここまでくると、国連(連合国)の正史の枠組みを超えた修正主義に転じることになり、国連体制が認めるかわからない。というか、中国がそれを認めるだろうか。
 冷戦的な構造といえば、核兵器競争が連想され、日韓でも危険になるかということだが、これは、案外、逆になるだろう。核兵器管理の観点から言うと、事実上の核兵器保有国である北朝鮮と潜在的な核保有志向国である韓国は、揃って中国管理下の衛星国になったほうが国際的には核兵器管理がしやすい。核兵器問題は、日韓といったレベルでいらいらするのではなく、中国と米国の冷戦的対応にまとまるようになるからだ。
 トランプ米大統領の北朝鮮対話はすでに、すでに「新冷戦」を先取りしているとも言えるだろう。冷戦時代の米国大統領とソ連の書記長の対応が雛形という感じである。絶えず緊張を抱え込むことになるが、それこそが、冷戦という安定であり、冷戦という奇妙な平和の特徴でもある。
 むしろ問題なのは、冷戦時のように西側のリーダーは米国という単純なわけにもいかない。EUは大きな勢力になった。EUは構成国の離反や移民などで不安定のように言われているが、むしろ安定化しつつある。イギリスをEUから放り出すほうがEUの安定になるというあたりで、イギリスも終わったかもしれない。
 話戻して、いずれにせよ、現下の東アジアの問題の大筋は、

① 主権国が中国の事実上の衛星国になるか
② 主権国を守ろうとして中国に対立するか
③ 中国の巨大崩壊リスクをどう見るか

 ②がタイやミャンマーとフィリピンを分けることなるだろう。インドネシアは不明。イスラム化が急速に進んでいる。
 ③が関係なさそうに見えるが、けっこう大きな要因だろう。これも悪い比喩になるが、世界は共産党に12億人人質取られているような状態。また、香港と台湾で現在起きていることもこの派生と見たほうがいい。
 幸いにしてというか、日本は韓国の二倍の国力を持っている大国なので、そう簡単に中国の衛星国に甘んじることもできない。それ以前に米国が日本を切り離すとも思えない。そうすると、東アジアの諸国が崩れてしまう。中国がそこまで、具体的には第二列島線まで、管理下に置きたいかもよくわからない。
 こうしたなか、この問題は、米国起案のホルムズ有志連合問題にも関連する。日本としては実際上、これに加わらない選択はないだろうが、参院選の争点にもならないという点で、国民の国家安全保障の意識が終わっている。
 とはいえ米国起案のホルムズ有志連合については、中国も日本と同じ利益側にあるので、上手に中国を表に出して、日本が中国から有志連合を誘われた、みたいな構図に持ち込めば、日本国民も納得しやすいだろう。というか、そのあたり、韓国が率先して出てくるのではないだろうか。
 イランと中国の関係が微妙なので、このあたりは、冷戦構造のようにはいかないだろう。イランの今後はどうなるかだが、これもよくわからない。エジプトやトルコのような独裁国家になるかもしれない。それなら、現状と変わらないとも言えるが。

 

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2019.07.17

FireとChromebookをまた買った

 先日、アマゾンでプライムデーというセールがあり、私は基本、セールというのに関心がないのだが(子供の頃、母親がセール好きでネグレクトくらったため)、それでも、どうせ買うならセール期間かなと、いくつか購入予定をメモしておいた。で、それらは、特段安くなるわけでもなかったので、なーんだという感じだったのだが、7インチのFireが3000円くらい、Chromebookが3万円くらいなので、つい買ってしまった。その後、Fireは2000円ほどお高く、Chromebookは1万円ほどお高い。いい買い物したの部類だが、それじゃブログの記事にもならないだろうとも思うが、それはそれとして少し。
 ああ、そういえば、Echo Showも6000円くらい。私は10000円くらいで買ったので、とほほ感はあったが、すでに馴染んでいるのでしかたないかとは思った。というか、独立した子供に1台買ってやって、ぶつくさ親メッセージでも送るか、いやいや、それはないない。
 Fireはすでに2台持っているのだが、初代はさすに古すぎ。でも少し古い、とはいえ、それほど違いはないだろうと思ったが、3000円ならカバーなしで落として壊してもいいやというか、カバーがけっこうめんどくさい。
 で、買ったFireだが、最新版だった。Alexaが付いていた。こんなの要らないと思ったが、いや、意外とそうでもない。つまり、これはあれだ、持ち運びできるAlexaなのだった。それなら、iPhoneのSiriでも、AndroidのAssistantも可搬性があるのだが、使ってみると、持ち運び可能なAlexaは便利だ。一時間後のリマインダーとかにもなる。勉強好きの人はポモドーロ・テクニックというのを知っているだろうが、それにも使える。
 最新Fireの機能ではないが、Kindleの読み上げが、フランス語やイタリア語などにも対応しているのを改めて知った。日本語の読み上げはやや不自然だが、使えないほどでもない。青空文庫とか朗読させることもできる。あと、インタラクティブブックというのが意外に便利だった。英語は読むより聞くほうが楽だな(英語力なしゆえか)。
 Chromebookは、LenovoのS330。14インチなので、けっこう画面でかい。画質はあんまりよくない。Netflixとか見たいなら、おすすめしない。HPのChromebookをそれまで使っていたのだが、CPUアップのきびきび感はある。というか、文章書きとかの実作業になると、WindowsやMacなんかとさほど変わらないというか、Chromebookでけっこう便利なものだと思う。
 ああ、いい忘れ。最新のChromebookはAndroidアプリが動く。ローカルにHDもある。
 あと、Chromebookなので、他のChromebookからの移行は楽というか、嘘みたいに楽。すっかりクラウドになったんだなと思う。
 まあ、セールのお得感はないが、最新のFireはけっこうおすすめ。それとChromebookもおすすめ。Echo Showもけっこう便利なものだよ。


   


 

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2019.07.16

最高の映画10

 先日、これまで見た映画で最高の映画って何?という話題を見かけて、それで、そのとき思った10個。
 紹介の補助にアフィリエイトをつけたが、大半は、原題ではストリーミングで見れるので、あくまで参考までに。


『風と共に去りぬ』

 有名な映画なので、誰もが見ているかというと、意外に若い人は見てないんじゃないかと思う。おすすめするかというと、おすすめしたい。なぜと言われると、現代から見ると微妙に不思議な映画だからだ。ちなみに、この邦題は有名だが、誤訳。
 話は、奴隷制が残る1860年代のジョージア州。南北戦争が巻き起こす、男女の恋の物語といったところか。南北戦争というものの、あるリアリティがこの映画の価値だが、普通に男女の物語として見ていても、現代のラノベあるある的なおもしろさはある。
 作成されたのが1939年。『オズの魔法使』も同じ。第二次世界大戦が勃発した年。日本はノモンハン事件。で、太平洋戦争が始まったのが、1941年。というふうに戦争の文脈を考えたくなり、映画のテーマも南北戦争だが、特段にそういう背景性はない。日本で公開されたのが1952年。日本が独立した年。本格的なフルカラーの映画として画期的だった。
 私が見たのは、1970年ころ。まだ、米軍文化が少し残る立川の映画館だった。長い映画だったなという記憶があるが、3時間42分。中間でフィルムを取り替えるのだが、そのときの記憶もある。

 


『サウンド・オブ・ミュージック』

 現代的な視点からすると、たわいない映画だが、ジュリー・アンドリュースが素敵で全編とおして歌が楽しい。『ウエスト・サイド物語』も音楽はいいが、現代的には、もにょるものだがあるだろう。

 


『シェルブールの雨傘』

 この映画については以前書いた。一番好きな映画だ。

 


『あらかじめ失われた恋人たちよ』

 劇作家・清水邦夫と評論家・田原総一郎の脚本・監督の1971年の白黒作品。というか、白黒であることが印象的。話の内容は、まあ、支離滅裂といったところ。1960年代の日本のなにかが終わったというある感覚が描かれているようにも思う。この映像的な感覚がとても印象的な映画だ。
 ちなみに、この映画の、いかにも若者たちというのが、だいたい現在の70歳。桃井かおりは68歳。
 今の若い人からみると、70歳の人ってすごい老人に見えるけど、いわゆる当時の意識高い系はこんな感じのメンタリティのまま老人になっていると思うといいよ。

 


『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』

 1985年の作品だが、なんというのか、バブル前の日本の最後の姿というか、これも奇妙な作品。ハチャメチャという感じだ。意外にエロいところがよい。話は、原発ジプシーとじゃぱゆきさん、なのだが、この言葉すら現代日本では死んでしまったんではないだろうか。
 なんだろう、この映画見ると、脳みそが空っぽになるようなトリップ感があるよ。たぶん。

 


『TATTOO[刺青]あり』

 1982年の作品。1979年の三菱銀行人質事件の犯人の梅川昭美をミュージシャンの宇崎竜童が描いた作品。ではあるが、事件そのものは描かれていない。事件に追い込まれていく、男の切ないというか、ああ、男だという奇妙ななにかを描いている。事件の記憶がまだ冷めないなかである衝撃感というか、事件というものが日本にとってなんであるかを問うようなものがあった。あれが、バブルで消えちゃったなあ的な。
 三菱銀行人質事件はサイコパス2のネタにもなっている。とんでもない事件だった。この手のとんでもない事件は、それでも、1970年代、それほどとんでもないものでもなかった。

 


『ジーザズクライスト・スーパースター』

 1973年年の映画。ふと気になって、同じくキリスト受難パロディものである、『ライフ・オブ・ブライアン』の年代を確認したら、1979年だった。
 ロックオペラという感じで有名だし、キリスト教的にどうたらというふうに見られていたが、現代的には、普通に美しいミュージカルでいいと思う。数年前見直したが、ヘロデ王がよかったな。

 


『愛の嵐』

 1974年のイタリア映画。これこそ、変態。『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』なんてもんじゃない。貧乳ファンにもたまらない。
 そういえば、イタリア語を最近勉強したのだった。原題は、”Il Portiere di notte”、「夜のポーター」。なるほどね。「愛の嵐」ってタイトルはねーわ。
 時代は、1957年。私が生まれた年だ、どうでもいい。場所はウィーン。季節は冬。マクシミリアンは、ホテルの夜勤ポーターをしている。もと、ナチス親衛隊の将校だったので、身を隠して暮らしているのだった。ある日、アメリカ人の著名な指揮者がホテルに泊まる。その妻を見て思い出す。ルチアだ。彼が強制収容所で性的虐待をしたユダヤ人の少女である。うぅぅ。
 よくもまあ、こんなひどい話作ったよなあと思うが、陶酔的。愛ってなんだかわからなくなる。ワレリアン・ボロズウィックの『罪物語』とかもだが。

 


『フラッシュ・ゴードン』

 THE B級とはこれ。すごいバカバカしい。マーヴェルっぽくすらない。クイーンの音楽が最高だ。この猥雑でデタラメでチープでうすっぺらい映画が、なんだろう、身体の奥から、美を伝えてくれるというか。こんなバカ映画に熱中するやつって俺くらいかと思ったら、『TED』がそうだったので、世界には君の友達がいる。

 


『アメリ』

 まあ、いいでしょ。おフランス、おしゃれ系に見られているけど、ただの、アスペというか、アスペの世界を完膚なきまでに美しく描いている。ルノワールを模写している爺さんとか最高に美しい。

 

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2019.07.15

環境的ヴィーガンは、シカやイノシシを食べてもいいか?

 「環境的ヴィーガン」という言葉はこなれていないが、ヴィーガン(菜食主義)にもいろいろあるらしく、①栄養摂取の点で動物性タンパク質を摂取しない食餌的ヴィーガン、②動物愛護の観点から肉食のみならず革製品など動物製品も否定する道徳的ヴィーガン、③地球環境保護の視点から、食物効率が悪く、畜産業としての環境への悪影響から肉食を否定する環境的ヴィーガン、といった分類ができるようだ。
 そこで、環境的ヴィーガンという立場からすると、日本の場合、増えすぎて自然環境を破壊しているシカやイノシシについては、一定の手順で、環境を守るという点から、これらを殺傷し、食べてもいいんじゃないだろうかと、思った。どうなのだろうか?
 シカやイノシシは増えすぎて日本の自然環境を破壊する原因となっており、すでに環境庁が取り組み、捕獲が進んでいる。当初の目標が達成されるか、見通しはよくわからないが、全体としては、イノシシやシカは捕獲され、減少傾向にある。
 別の言い方をすれば、捕獲が制度化されつつある。ということは、イノシシやシカの死体が積み上げられている現状があるので、これらを同じく組織的に活用してもよいだろう。食肉も含めてである。実際、農水省のほうでもそうした対応に取り組んでいるようだ。とはいえ、日常生活でイノシシやシカの肉を目にすることはあまりないように思う。私も先日、フレンチで鹿肉のステーキを食べて驚いたほうだ。
 いずれにせよ、捕獲されたイノシシやシカを食品や革製品などに活用していく産業の回路を盛り立てていけばいいのではないかと考えたのだが、ネットを見ていると、そう簡単でもないという話も見かけた。散弾で欝った肉には食肉に向かないらしい、その他、食肉という観点では、それなりに整備された状態でないと難しいということだ。ではどうするかということで、いっそ、シカ牧場を作ったらどうかという意見を見かけた。牧場といっても一種の放牧に近いものにするらしい。
 実現についての技術的な部分がわからないのだが、奇妙な印象は受けた。2つ疑問が浮かぶ。まず、放牧とはいえ、一種の家畜化なので、すると、そもそも家畜ではないのか。それで、家畜がOKだというなら、現存の食肉用の家畜と本質的に変わらないのではないか。もう一点は、放牧とはいえ、おそらくシカやイノシシの生息域全体の自然管理になるのではないか。そうなると、それはそもそも「自然」なんだろうか?
 以上、まるでネタ話のようなことになってしまったが、もう少し視野を広げると、人口縮小をしている日本、しかも高齢層が増える状態なら、国土の観点でも問題になりそうだ。人口は中核都市に集約しないといけなくなる。当然、放置される国土が出て来る。イノシシやシカ、さらにはクマもそうだろうか、彼らはそこに残される。こうした生物とその自然をどう管理していくのだろうか? 考えてみると、明確なイメージが結ばないのである。
 話をヴィーガンに戻すなら、そもそも「環境的ヴィーガン」自体にある種の矛盾があるか、そもそもヴィーガン以外の人々も環境という視点では濃淡がある程度、同本質なのかもしれない。つまり、市民全体が食と環境のバランスを考慮しなくてはいけないのだろう。
 私は基本的に自由貿易主義者として生きてた。デヴィッド・リカードの原則でいいだろうと。しかし、国土を国民が管理するということは、森林の管理や畜産の管理が必然に含まれ、それらは自由貿易の限界を形成するのだろうなと思うようになった。
 話はそれだけ。オチもないのだが、来週日曜の参院選で、こうした森林の管理や畜産の管理というのは、候補者たちにどう捉えられているのかは、気になってきた。

 

 

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2019.07.14

嘘情報をどうやって根絶するか

 嘘情報というのをどうやって根絶したらいいものか。と、考えて無理なんじゃないかという気にはなる。で、終わりかというと、そうもいかない。もにょるわけだが、もにょっていてもしかたないので、一つ具体的に考えてみる。
 例えば、こんなグラフをツイッターで見かけた。結論から先に言うことになるが、これは嘘くさいので、これがベタにコピペされる危険を避けるために、画像にでっかく手書きでクエスチョン・マークを付けておいた。これがまったくの嘘だと確認したかったのだが、完全に嘘とまではできなかった。
 グラフの意味は、年齢変化による、男性と女性の性欲の差というものだ。意味するところは、30歳までは男性ほうが性欲が強いが、以降は50歳までは女性のほうが性欲が強いというのだ。

Fakechart 

 最初にこれを見かけたときの印象は、「なんだこれ?」というものだった。なにが変かといえば、縦軸に暗示されている性欲の強さに単位指標がない。そもそもグラフになっていない。というか、グラフにもなっていないものがなぜ流布さているのか?
 次に思ったのは、当然だが、「出典はなんだ?」である。まず、こうは言える。

出典が明記されていない情報はそれ自体が疑わしい。

 どこかに出典がありそうなので、「出典はなんだ?」とツイートしたら、わかった。『話を聞かない男、地図が読めない女』 である。2000年に出て話題になったおり、私も一読したはずなのだが、ざっと読んで放り出した。典型的なニセ科学だと思ったからである。
 出典が気になって改めて同書を見ると、このグラフと同じグラフに「(出典:ピーズ国際研究所)」と明記さている。この研究所についてはすぐにわかった。同書の著者である。アラン ピーズとバーバラ ピーズの私的な研究機関である。
 さらに気になったので、原典の”Why Men Don't Listen and Women Can't Read Maps”も確認したら、同グラフのページには、出典の明記すらなかった。翻訳本の「(出典:ピーズ国際研究所)」は日本版の編集で追加したものだろう。
 原典の該当部分を読んでみたのだが、やはり典拠となる論文はわからなかった。性ホルモン・レベルの推移などから合成したピーズ国際研究所の独自研究ではないだろうか。ついで別途そうした医学論文があるのかざっとあたってみたのだが、同グラフを示唆するような研究はなかった。そもそも「性欲の強さ」を男女総合する指標が学問的に定義できるかすら疑わしい。
 それと、原典を読んでみて思ったのだが、このグラフは、研究結果があってグラフになりそれを読み解く、というものでは、どうやらなくて、30歳以降から50歳までは女性の性欲が高いという説明を視覚化するための解説図っぽい。そもそも研究結果ではないっぽい。
 と、いうことなのだが、最終的にこの図が全面的に嘘だとまでは、現状言い切れない。ただ、『話を聞かない男、地図が読めない女』 は概ね、ニセ科学の典型と言ってもよさそうではある。
 さて、こういうのをどうしたらいいのだろうか。
 最近もうひとつ似たようなことを思った。
 その話題は、れいの、と言っていいだろう、ケネディ大統領暗殺陰謀論である。最近のNHKの『ダークサイドミステリー「ケネディ暗殺 陰謀論の正体に迫る」』でも扱っていたので、トランプ大統領が2017年10月26日に、ケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書の公開を保留を決定して以降の新情報が知りたいと思って、見たのだが、その点では概ね、スカだった。
 番組としては、陰謀論全体を終わりにできたらよかったのだろう。そのせいか、1993年の"Case Closed: Lee Harvey Oswald and the Assassination of JFK"の著者ジェラルド・ポスナーを出して、彼の主張にそって、オズワルド単独犯行説以外を陰謀論という主張を強調していた。
 まあ、そうできたらよいのだが、ポスナー本以降に明らかになった、CIAダラス支局長J・ウォルトン・ムーアが事件以前にオズワルドと接触があったというあたりの事実は、番組では指摘されたのに、濁されてしまった。ので、陰謀論は根絶されない。
 そもそも陰謀論ならすべて誤りかというと、イラン・コントラ事件のような事例もあり、陰謀論というのも個別に見ていかなくてはならないのだろう。
 陰謀論とニセ科学は違うが、ニセ科学についても、従来は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの交配などはニセ科学にされてきたが、今ではほぼ定説だろう。
 エピジェネティクス研究の進展で獲得形質「のようなもの」が世代を超えていくことも解明されつつあるが、これがニセ科学の典型とされてきたルイセンコ学説とどこで一線を引くのか、悲しいかな僕などにはわからない。
 そういえば、昔、友人が言ってたが、統計学と占星術は同型かもしれない。統計と占いも同型と言えそうにも思う。まあ、それも極論すぎるのだろうが。
 まあ、とりえずもう一つ言えそうなことがある。

疑わしい情報が否定できそうなら、否定の声をネットに上げるべきだろう。

 少なくとも、男女の性欲さのグラフのようなものがツイッターとかでリツイートされるようなのはこれで終わりになってほしい。

 

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2019.07.13

子供と学んだ教材、3点ほど紹介

 文具メーカーのコクヨが、「しゅくだいやる気ペン」というおもしろグッズを販売したことがネットで話題になっていた。この新製品を普通の鉛筆に取り付けて文字を書くと、その書いて勉強していた間の時間が計測され、可視化されるので、その達成感が子供の勉強の励みになるというものだ。仕組みは、鉛筆を動かしている時間を内蔵加速度センサーで計測してスマホに記録させることだ。現代の万歩計ともいえる活動量計と似た仕組みである。
 当然ながら、考えている時間や読書している時間は計測されない。なので、これは一種、子供が「肉体労働」している状態を親が監視する装置だなとは思った。というあたりで、宣伝の動画を見たら、勉強しない・したくないという子供がこの装置で勉強するようになるというものだった。
 動画を見ながらが、そういえば、私は子供が4人いるが、小学生くらいのころ、いや中学生になってからも、子供に勉強しなさいと言ったことがないなと思った。思い出すに、ない。それどこから、宿題の提出物が出てこないので担任から苦情の電話をもらったことを思い出した。それで……どうしたっけ?と思い出す。それでも、やっとけと言わなかったような気がする。子供たちは特段に成績がよいわけでもなく、提出物忘れた減点はがっつり効いていたみたいだった。
 私は子供の学習に関心がなかったのだろうか。そう考えて、そういえば、子供にあまりものを教えなかったなと思った。大学生のとき、家庭教師はしたし、院生のときは補講とかで学部生の指導とかもしたが、と思い、いや、長女には古典と英語を少し教えた。というか、教材を使って一緒に勉強した。ちなみに、受験期になってからは、やっていない。
 そうした教材のなかで、自分も使っていて面白かったものを3点ほど紹介したい。

『読んで見て覚える重要古文単語315』
 子供が古典の勉強をつまらなそうに思っているので、そうだなあ、じゃあ、お父さんと古典の勉強でもするか、ということで始めた2冊目がこれである。表題からもわかるように、古文単語集だが、ゴロゴ系のようにゴロで丸暗記するわけでもなく、また重要語が辞書的に並んでいるというものでもなく、主要な古典文が1、2ページあり、そこで使われている重要古文単語を学ぼうというものだ。なので、まず、それぞれの語が古典の文脈のなかで生きている。
 これを子供に音読させて意味を確認するということをした。
 受験向きの勉強法でもないが、私としては、古代から近世までの特徴的な古文をできるだけ音読したほうがいいと思ったのだった。
 私としては、古典語と現代語の変遷のようなものを考えるきっかけとなっておもしろかった。

 

『1日10分 超音読レッスン「大統領のスピーチ編 」』
 子供は英語が得意でも不得意でもなそうだが、それでもできるだけ本物の英語に触れる機会があったほうがいいだろうということと、音読がいいだろうということで、超音読レッスンのシリーズをいくつか使った。
 そうしたなかで、一緒に学んでいておもしろかったのが、これ、「大統領のスピーチ編」である。エイブラハム・リンカーンの「ゲティスバーグ演説」なども含まれている。最近ではオバマまで。
 というわけで、現代英語の変遷史にもなるし、なぜこれらの米大統領がこうした演説をしたのかという、現代史の勉強にもなる、というか、その解説は本書にはほとんど含まれていないので、私が教えた。
 米国現代史を教えつつ思ったのだが、私も60歳にもなり、自分の記憶がすでに半世紀以上の歴史を抱えていて、人生を回顧するきっかけにもなった。
 そういう意味でいうと、この本を拡張して、英語の解説と時代背景を解説した参考書でもあればいいなとは思った。既存であるだろうか?

 

『ネイティヴ発想の英文ライティング: 赤字チェックで徹底指導! 』
 私は、結局使うことがなかったが、高校の英語教師の資格を持っている。人生どっかで間違っていたら、高校の英語教師でもしていただろうか。それはさておき、英語の授業というのは、あまりクリエイティブではない。つまり、自分の創意や思考が活かせることが、工夫しないとない。こういうのはつまんないと思っていたので、そうだな、できるけ受験勉強くさくない英作文学習というか翻訳でもやってみてはどうかと、子供と数冊やった。そのなかで、おもしろかったし、私も勉強になったのが、この一冊である。
 若干、乱造の感もあるデイヴィッド・セイン先生だが、この本は、かなり本格的だった。
 すでに他に数冊、基本的な英作文の参考書での学習は終えていた。そこで、もう、いかにも文法応用的な英作文、あるいは受験的な英作文ではなく、すなおに日本人が書いた、日本人発想の普通の日本語文をどう英訳するか、という課題がこの本である。
 進め方はこうだった。まず、私と子供とそれぞれ英作文をしてみる。互いに講評する。セイン先生の解答例と解説を読む。まあ、ほぼ毎回圧倒された。ネイティブの感覚はそうかというのがよくわかる一冊だった。

 

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2019.07.12

これがハゲの生きる道 〜 ボウズカッターについて

 ハゲは一日にしてならず、ということで、じわじわとハゲてくる苦しさは自著のほうに書いたが、さすがに60歳にもなった。ハゲか白髪という年齢である。できたら白髪ほうがかっこよかったなあとも思うが、しかたない。というか、ハゲにも慣れた。もう少し延長していうなら、ハゲであることで嫌われるという人生にも慣れたというか、ハゲであることで嫌われるかというようなことが関心にのぼらなくなった。
 かくしてハゲな人生だが、それはそれでメリットもある。シャワーを浴びても、風呂に入ってもプールに入っても、さっとひと拭きですむ。当然、髪が臭くなるこということもないし、なにより髪の毛を毎朝整えるめんどくささもない、と言いたいところだが……
 意外と問題は、床屋だ。ハゲは頭髪がないと思われているが、そうでもない。というか、たいていのハゲはメンテナンスが必要なのである。それなりに敗残兵的毛髪は無駄なゲリラ戦を試みていて、伸びてくる。ので、床屋に行く必要がある。丸刈り。それだけなら、1000円カットでいいし、妻帯でもあるので奥さんにカットしてもらってもいいのだが、なんだろ、微妙に心苦しい。丸刈りで1000円は安いか高いか、月に2回では足りない。いくら奥さんでもカットを頼むのはどうなんだろ、自分でできないのか?
 そうだ、カットは自分でやるべきなんじゃないか?
 ということで、いろいろ悩んでいて、数ヶ月前に、ボウズカッターを買った。ダジャレみたいだな。坊主頭専用の電動バリカンである。6000円くらいしたが、最近では5000円くらい。
 使い勝手はどうか。最初使ったときは、微妙だった。慣れないからである。が、何回もやって慣れてきた。というか、自分で自分の頭をくりくりと坊主にしていけるというのも、なんとなく、自由になったような感じがするものだ。
 以前も奥さんにカットしてもらうことがあり、バリカンもあるにはあるのだが、コードが付いているし、刃の取替とかめんどくさい。まあ、なにかとめんどくさい。1000円カットでいいんじゃねと思うくらいには。
 で、ボウズカッターもそういうものかと思ったが、微妙に違った。他の機種というか他の個人用坊主バリカンを使ったことがないのだが、ボウズカッターは、想定したデメリットである、毛の飛び散りがないのである。
 そう、バリカンで困ったことは、カットした髪の毛が飛び散ることだ。たいした頭髪ではないが、それなりに飛び散る。
 ところが、ボウズカッターだとウエットで刈っていけることと、なんかよくわからないが、スリットみたいなところに刈った毛が留まって、ほとんど飛び散らない。
 バケツに半分水くんで、ジジジジジと頭髪を刈って、バケツに毛をすすぐように落とす。バケツの毛は、油濾みたいな紙で濾すとまとまる。水をしぼって捨てて、終わり。ボウズカッターは乾燥させて油をつけておく。
 あとデメリットの部類かもしれないが、5ミリカットでも7ミリくらいになる。まあ、気になったら、2ミリにしてもいいだろうし、気になるときにまた刈ればいい。
 そういえば、見事な坊主あたまというか、スキンヘッドの人にどうしているか、先日、聞いたら、髭剃りで、つつつっと剃るんだ、と言っていた。うーむ。それもありか。


 

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2019.07.11

[書評] わたしの外国語学習法(ロンブ・カトー)

 ハンガリア人のポリグロットであるロンブ・カトー著『わたしの外国語学習法』は、多言語学習を試みる人の一種のバイブルとも言える書籍で、日本では1981年に米原万里の翻訳で創樹社から出版されたものだが、その後ちくま学芸文庫に入っている。先日、別件で語学の本を探していたら、同じ書棚にあり、読み返してみた。

 率直に言うと、これから多言語習得を試みようとする現代人にとってすぐに適用できる秘訣のようなものは、ないわけではない、というか意外に面白い小ネタもあるが、概ね多言語学習の一般論に終始しているとも言えるので、「どうやったら外国が効率よく習得できるか」といった期待から読み始めても、やや迂遠な書物にも見えるかもしれない。他方、すでに3か国語以上の言語に取り組んでいる人にしてみると、著者が言いたいことはあれか、と心に響くものがあるだろう。多言語を学ぶ人だけにわかる独自の感覚が上手に表現されている。
 もちろん、普通に多言語好きの人の読むエッセイとしてもいいだろうし、歴史的な書籍として読んでもいいだろう。1970年に執筆されたもので(本書の原典は2版)、まだ語学教育に情報機器が普及していない時代である。冷戦の時代も感じさせられる。書籍的には、1969年の種田輝豊著『20カ国語ペラペラ』を連想させる。ちなみに、種田はアルクの創成期のメンツだが、すぐ抜けたようだ。
 本書でも学習法は古臭い。辞書と読書が中心である。逆にいえば、言語学習の原点がここにあるとも言える。ベルリッツについての考察もあり、その点も興味深い。
 個人的に、「ああ、なるほど」と、うなったのは、まさにハンガリーという国の状況であった。我ながら失念していたのだが、ハンガリー王国の公用語はラテン語だった。それどころか、オーストリア・ハンガリー二重帝国では、19世紀まで実用的な公用語であり続けたのである。この事実上の最後は、ウィーン会議で、その最終文書はフランス語になった。
 本書でもダキアについて触れているが、ダキアはまさにハンガリーでもあったわけだ。
 関連して面白かったのは、結局のところ、最後までラテン語の学習体系にこだわったのが英国で、それゆえに英語の正書法の確立が遅れたのではないかという示唆だった。
 そういえば、以前、英語の歴史について個人的に事実上一冊の本を書いたことがあり、書き上げたら結論が気に食わないのでどこにも公開していないのだが、そのおり調べて知ったのだが、英国の法律の正式文書の一部は18世紀半ばくらいまで独自のフランス語だったらしい。独自のフランス語というのは、フランスのフランス語ではなく、現王家がフランス起源になるように王室の歴史のまま継続したらしい。そのため、コモンローを研究するには、このなぞのフランス語の研究も必要になるようだ。話がそれた。
 ところで、オリジナルのタイトルは、"Így tanulok nyelveket"となっているのだが、このハンガリー語の意味がわからないので、調べてみた。『だから私は言語を学ぶ』ということのようだ。というあたりで、ふと気になったのだが、米原万里はハンガリー語ができたのだっただろうか? ハンガリー語は、印欧語族でもなく、ましてスラブ語派でもない。この翻訳書はロシア語版からの重訳ではないだろうか? 

 

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2019.07.10

秋葉原無差別殺傷事件と凡庸な無

 秋葉原の路上で2008年6月8日に起きた「秋葉原無差別殺傷事件」については、鈍い心の棘のようなものが残っていて、折に触れて考える。あれはなんだったのか。どう考えればよいのか。7人が死亡し、10人が重軽傷を負った。その死についても、あれはなんだったのか、どう考えればよいのか、と。答えは出ない。
 先日、この事件を扱っている番組をたまたま見た。NHK『事件の涙「“君の言葉”を聞かせてほしい~秋葉原無差別殺傷事件~」』である。以下のような枠組みでの番組だった。

7人の命を奪った加藤死刑囚。タクシーの運転中に現場に居合わせ、重症を負った湯浅洋さんは、この11年、獄中にいる死刑囚に手紙を送り続けてきた。多くの人の命を奪った罪の重さを、どこまで深く考えているのかを知りたかったからだ。ところが、今も、納得のいく言葉は届かず、皮肉にも事件前に加藤がネット上で格差への不満を訴えた言葉が、いまも広がり続けている…。

 番組は被害者の湯浅さんと加藤死刑囚の元同僚・大友秀逸さんの視点で描かれていた。こういうとよくないが、このお二人はこれまでもメディアにもたびたび登場されているので、そういう意味では、NHKも安易な作りをしているなという印象を持った。
 番組の途中までは、そうして、深刻なテーマではあるが凡庸な話として過ぎていったのだったが、後半、加藤死刑囚の「人生ファイナルラップ」を湯浅さんが読んで、困惑しつつ考えこむシーンから少しトーンが変わる。
 湯浅さんにある意味仮託されている視点は、事件の犯人である加藤死刑囚がなぜこの事件を起こしたのかということについて本人からの納得のいく言葉であり、そこに含まれると言ってよいのだろうが、失われた命への謝罪ではあるだろう。だが、そうした視点を「人生ファイナルラップ」は見事に打ち砕いてしまった。
 実は、「人生ファイナルラップ」なるものは、私は都市伝説の類、つまりネット伝説だとなんとなく思っていたのだった。それが加藤死刑囚に拠るという確信が持てないでいた。そして、仮にその確信が持てたとして、そこに描かれているのは、まいどの加藤死刑囚の凡庸な自己開示でしかない。なんの深みもない。愚劣なまでの凡庸なのだ。7人の命がそこに吸い込まれるような悪ですらないのだ。と、あえて生の私の心情を書いてみたのも、そこで私は、そのこと、あまりにもばっくりと開いた無、しかも凡庸な無にどうしていいのか立ちすくんでいたからだ。
 悪があるならまだ救われるのではないかという思いに震えた。思想の形をした悪が存在するなら、まだ、それが憎しみの対象たりえる。だが、この凡庸な無は憎しみをするすると吸い込んでいくように感じられた。
 凡庸な無。
 「凡庸な悪」であればアーレント的ではあるだろう。悪なるものが凡庸である、こともある、とは言えるだろう。そしてそれは悪の普遍性かもしれないとすら思う。だが、凡庸な無はまさに、無そのものを現しているだけだ。無とは、ここまで凡庸なものなのだ。意味がないのだ。意味を探す人の心をすべて静かに殺戮していってしまう。
 凡庸な無への思いは、先日の登戸の無差別殺人事件を連想させる。2人が死亡し、18人が負傷した。
 死傷者の多寡は偶然でしかない。
 登戸の事件では加害者が自殺していることもあり、意図も謝罪ももう得られない。だが、それ以上に、燦然とでもいうように凡庸の無が立ちはだかるのは、加害者の岩崎隆一容疑者について、その後も私たちは何も知り得ないことだ。情報が隠蔽されているのではない。知り得ることがそもそも何もないのだ。岩崎隆一容疑者について、私たちが知り得ることはほとんどない。だから、社会学的にですら論じることが、おそらく、できない。
 凡庸な無は、それが、凡庸に存在するという意味で凡庸なものだ。ただ、幸いにして、頻繁に発生するわけではない。それは、本質的な意味で、凡庸というだけだ。

 

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2019.07.09

モブってなんだろうか?

 アマゾンでKindle本を買ったら、『モブ子の恋』というのを勧められた。1巻目はプロモーションなのか無料らしい。で、読んでみた。内気な大学生の普通の恋という感じの微笑ましい漫画だった。まあ、僕には関心ない。と思ったが、微妙に心にひっかかるものがあって、しばらくぼんやりと考え続けた。主人公・田中信子はモブなんだろうか。相手の「入江くん」もモブなんだろうか? モブって、なんか、こーゆーもんじゃないぞ、じゃあ、なんだろ。うーむ。で、ふと、「モブって、もっと、なんか、こー、もうちょっと薄気味悪いなんかだぞ」と思い、え?と我に変える。なんだろ、それ。それというのは、自分のモブへのリアクションである。
 そして、当然の疑問が浮かび上がる。私はモブか?
 私は自分をモブだと思っているか? たぶん、違う。これは残念ながら違うという感じ。いや、お前なんかモブだから、と言われるなら、それはそれで心安らぐ気がする。でも、たぶん、そうじゃない。というか、60年以上生きてみて、どうも微妙にモブじゃない。そもそもモブって19年もブログ書かない。日記は書くかもしれない。モブは嫌われることを恐れると思うし、僕もそうなんだが、結果的に、自分であることが嫌われる原因なら、しかたないと受け入れる。自分であることが失われるなら、石を投げられてもしかたないと思っている。っていうか、実際、石を投げられたことがある。自分の言いたいことが言えないなら、炎上してもしかたないと思っている。衆人で罵倒されたこともある。ブログはそんな延長だろうか。まあ、炎上は避けたいので、炎上ホイホイ的なキーワードやフレーズや主張は避けているティミッドというか、バカに絡まれるのはやだなあくらいは思う嫌なチキン野郎だな自分は、とは思うが、それこそモブだというなら、それはそうかもしれない。とか、こういうのを公開に書いている時点で、微妙にモブじゃない、だろうと思う。
 いや、と、さらに思う。僕は自分ではそれなりに謙虚に生きないといけないと思っているのだ、自分では。で、モブというは、自分が見る限りでいうと、あまり謙虚じゃないと思う。なんだろ、なんか、モブって、美しくないのだ。いやあ、じゃあ、お前が美しいのかというと、ニヘラ笑いするくらいに醜い自覚はあるのだが、なんだろ、モブっていうのは、なんか醜いなと思うのだ。具体例がないとわからないと思うので、そうだな。
 例えば、モブってつるんで歩道塞いで歩いていたり、歩道で後ろから自転車でチリンとか鳴らしていくる印象がある。いや、そこがポイントじゃない。歩道塞いでいる人たちに、先に進むために、後ろから、すみません、とか、言うと、彼らはびっくりして、お前何?視線を飛ばしてくる。自転車のチリンを無視しているとさらにチリンチリン鳴らしてくる。うーん、おまえら自分のリアクションに自覚ないの?と僕は思う。というか、こういうとき、ああ、こいつら、モブだと思うのである。加害者になる自覚がなく生きているんだろうなあ。
 で、それと矛盾したこと書く。
 これも具体例から始めるといいかもしれない。先日、スタバでコーヒーを頼んだ。普通のホットコーヒーである。今日のおすすめである。300円くらいの。で、マグカップの小を頼んだ。紙コップが嫌いなので。で、「マグカップで小さいので」と言ったと思うが、でかいマグカップが出てきた。レシート見ると、350円以上だったか、「あれれ、ここはそういうスタバかな」と思ったが(まいどおおきに食堂で姫盛りなしみたいな)、いちおう、「ええと、これって小ですか」というと、売り子のきれいなお姉さんが、はにゃっという笑顔に微妙に怖がっている表情を浮かべるので、あちゃあー、自分爺クレーマーと思われているかなと、こっちも、はにゃっという笑顔に微妙に困った表情を浮かべると、別の店員さんが気を聞かせて応対に入ったので、事情を説明する、「あのぉ、そのまま小さいマグに移してもらえるだけでいいですよ……飲みきれないですから」と言ってみた。ものの、すでにクレーマー対応モードになっていた。あーあ。と思う。
 で、思った。このどこかに、モブとモブじゃねー、の境界がある。あるいは、クレーマーとモブの境界だろうか。
 この時は、事態が想定外の方向に進んでこれ以上説明してもなんなので、成り行きに任せた。
 が、こうしたとき、モブなら、どうするか、と考えた。そのくらいの間違った注文ならしかたないと思うものだろうか。実際のところ、僕も普通はそうしているが、このときは、ああ、それ飲みきれないと思ったのだった。
 話はそれだけ。
 そんなの、お前ただのモブじゃんというなら、まあ、それはそれでいい。僕はモブじゃないものになりたいわけではない。よく自意識過剰とか自尊心高いとかも言われるが、そう言われたとき、あまり返す言葉もない。
 ただ、生きていると、微妙にモブという何かからは逸れてくる。しかたない。というか、それなりに、普通に謙虚な市民であっても、市民の公平さを少しでも意識すると、微妙にモブからずれてくるんじゃないかとも思う。

 

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2019.07.08

出生前検査についての情報提供はナッジ的に見るとどうなんだろうか?

 若い頃、障害児の問題に取り組んでいたこともあるし、自著のほうには書いたが自身4人の子供の父親でもあり、出生前検査については、それなりに知っていたつもりだったのだったのが、意外な盲点だった。というか我ながら、無知だった。NHKハートネット『【特集】出生前検査(1)求められる情報提供のあり方』を見ていたら、《日本産科婦人科学会の指針には「医師が積極的に知らせる必要はない」と書かれているのです》ということだった。え? と、驚いてしまったのである。
 というのは、日本産婦人科学会は昨年、「出生前に行われる遺伝学的検査および診断に関する見解」を改定し、この改定でそうした情報提供も含まれているのだと思っていた。この機に改めて、改定を読み返してみると、こうある。

なお母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査の実施にあたっては「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査に関する指針」日本産科婦人科学会[5]を遵守して実施する.

 この[5]の注を見ると、明記されていた。

[5]「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査に関する指針」日本産科婦人科学会と「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査に関する共同声明」日本医師会・日本医学会・日本産科婦人科学会・日本産婦人科医会・日本人類遺伝学会 2013(平成25)年3月9日

 つまり、この部分については昨年の改定での変更はなかったのだった。てっきり改定されたと思っていた。
 だが、この部分の解説を読むと、

 (解説)
・母体血液中に存在する胎児DNA を用いて胎児が染色体異常に罹患している可能性を従来よりも高い精度で推定する検査が実施されている[6].こうした母体血液中に存在する胎児・胎盤由来細胞やDNA/RNA 等による遺伝学的検査については検体採取の簡便さから安易に実施される可能性があるので,検査の限界,結果の遺伝学的意義について検査前の時点から十分な情報提供が遺伝カウンセリングとして実施され,検査を受ける夫婦がこれらの内容を十分理解し,同意が得られた場合に実施する.
 またこの検査の提供にあたっては,表1の各号のいずれかに該当し,かつ検査対象となる疾患に関してこの検査の診断意義があることを前提とした上で検査を希望する妊婦に個別に遺伝カウンセリングが行われ,提供すべきであり,決して全妊婦を対象としたマス・スクリーニング検査として提供してはならない.
・マイクロアレイ染色体検査法(アレイCGH法,SNP アレイ法等)や全ゲノムを対象とした網羅的な分子遺伝学的解析・検査手法を用いた診断については得られる結果が臨床医学的にも遺伝医学的にもまだ明確でない遺伝医学的情報が多く,さらに結果が示す情報は多種多様であり,その意義づけや解釈が難しいことも多く含まれることから検査前・検査後に専門的な遺伝カウンセリングの場で適切な情報提供,説明が行われる必要がある.

 ここから、従来通りに「医師が積極的に知らせる必要はない」という前提を読み取ることは、実際にはかなり難しいようにも思える。
 いずれにせよ、「日本医学会によって全国で92の病院が、この検査の実施施設として認定されています。検査は、高年齢での妊娠など、一定の条件を満たした人のみが対象です(NHK)」というのに、実際には、高年齢での妊婦には、「新型出生前検査(NIPT)」の情報が知らされていない現状がある。
 この問題については、該当のNHKの番組が詳しく取り上げているので、関心がある人はそちらを読んでもらうほうがいい。医学的にも、倫理的にも、いちブロガーが言及できることはない。
 だが、視点を変えて、これを「ナッジ」として見た場合はどうなのかは、ブロガー以前に市民として考えさせられた。
 「ナッジ」については、以前にもこのブログで扱っているので、それ自体にはここでは触れないが、最近では、省庁でも取り組みが始まっている。経産省でも、「エネルギーや中小企業施策などの分野で具体的なナッジプロジェクトを組成・推進します」として推進された。厚労省でも『明日から使えるナッジ理論』という冊子を公開している。
 そこで問題は、つまり、出生前検査についての情報提供はナッジ的に見るとどうなんだろうか?ということだ。
 非選択による本人のメリットがあるのだろうか? 考えてみるのだが、わからない。
 むしろ、逆に、この問題をナッジの視点で考えたら、どうあるべきなのだろうか?

 

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2019.07.07

映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』

 映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』を見た。まあ、よかった。感動もした。ただ、これ、映画なんだけど、映画っぽくないなとは思った。映画としての映像美のような独自性はない。TVアニメと同じ印象。
 それが悪いわけでもない。映画『orange -未来-』のように、ファン向け映画として考えれば、それはそれでいい、というか、こういうの、つまり、放映アニメの延長的映画作品だが、増えてきたなあと思う。『冴えカノ』もこうした感じの映画で終わりになるだろう。『リゼロ』と『このスバ』は多少、延長路線とは違うだろうか。
 アニメ業界的には、円盤ビジネスが終わったということだろうし、優れたラノベや優れたコミックが次々と出て来るので、後ろから押されているのはあるだろう。『ニセコイ』とかももう押し出された形だろう。これはこれでコミックのエンディングはいいと僕は思っているので、アニメでも見たいのだが。
 そういえば、ブログには書かなかったが、映画『続・終物語』も映画館で見た。その後、この映画は、ばらして6回になってストリーミングサービスとかで見れるようになっている。が、これなどはもともとTVアニメ6回分が基本で作られていて、それを映画にしたっぽい。『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』もそうだろうか。大体、半クールという感じだろうか。
 『物語シリーズ』については、『傷物語』が映画用にできていて、しかも、美術的なトーンが違う。その分、映画的な見応えがあるが、アニメのほうのシリーズとはずれた感じもする。
 いずれにせよ、こうしたアニメ継続的な映画作品は、アニメとか原作のファンでないと、単独映画作品としては理解しづらいものだ。まして、『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』は、フィクションとしてかなり独自な世界構成なんで、それ以前の作品で慣れていないと、理解できないのではないだろうか。
 まあ、それはそれ。
 で、ぐだってしまうのだが、今回の映画は、TVアニメの延長というよりも、これでTVアニメの1クールの完結編という感じもあった。なので、この先、継続的なTVアニメが作成されても、この映画を挟まないとなかなか全体の意味が取りにくくなるだろう。
 まあ、それもそれとして。
 ネタバレは避けたいが、それにしても、純愛で、友情で、やさしさで、「超ひも理論」のシャレはさておくとしても、例のトロッコ問題の複雑版でもあり、倫理的な難問としては、案外答えが出しづらい難問のようにも思えた。
 わずかにネタバレ的にいうと、最終的にハッピーエンドのようにまとめたのは、映画の構成というより、原作によるのだろうが、そのあたりの映画での説明力は少し弱く思えた。別の言い方をすれば、この難問は悲劇であってもよかっただろう。悲劇を超えさせる十分な説得力が一度みたいだけではよくわからなかった。このあたり、原作を読んでみるかなとは思った。

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BBCドラマ アガサ・クリスティ原作『無実はさいなむ』

 2018年にBBCがドラマ化した、アガサ・クリスティの『無実はさいなむ』をNHKで見た。三回シリーズだった。つなげると3時間弱というところ、毎週見てもいいと思ったが、まとめて、午前中に二回分見て、夕方最終回を見た。まあ、文句なく面白いと言っていいだろう。久しぶりに、英国風悪趣味とはこれだったなという極上の気持ち悪さが堪能できた。もちろん、映像、演技、言うことなし。
 でも、文句を言う向きもあるだろう。原作と違うのだ。原作派としては、まあ、文句もあろうだろうが、今回のBBCリメークはそもそも、古典で事実上ネタバレしているのに、原作忠実ってどうよ、が原点だし、見ている側としても、どこをどうひねるんだ、XXXは犯人じゃあないよな、今回。ということで、僕は二回目を見終えた時点で、「新」犯人を当てました。満足です。っていうか、緻密に作られていて、それ以外、犯人ないじゃん、というか、逆に原作がなぜああいう犯人だったのか不思議に思える。
 物語は、釣りだと。

1954年のクリスマス・イブの夜に資産家で慈善家の女性レイチェルが自宅で撲殺され、彼女と夫レオが養子に迎えていた子ども5人のうちの1人、ジャックが犯人として逮捕される。ジャックは無実を訴え、犯行時刻のアリバイがあると父レオに告げる。通りがかった男性の車に乗せてもらっていたというのだ。しかし、ジャックは裁判を待たずに、獄中でのほかの囚人とのケンカにより命を落とす。1年半後、レオは秘書との再婚を決め、家族は結婚式に向け準備をしていた。だがそこに、事件の夜にジャックを車に乗せたという男が現れる!

 そこまではごく普通。
 今回のBBCリメークも、時代的な批評性があって面白かった。冷戦や朝鮮戦争の課題を上手に取り上げていた(吹き替えだとちょっとボケていたが)。あのあたり、あの時代を知っている人にとっては、ぐっとくるものがある。
 で、総じて、趣味の悪い作品で、面白いけど、名作とは言えないよねと思っていた。が、一晩経って考え直すとそうでもなかった。
 これは、極めてフェミニズムの作品だったと思う。ネタバレにならないようにするが、主人公は、レイチェル・アーガイルだったと思う。地位も金もあるが子供がなく社会意識も愛情もある一人の女性が、地位も金もなく女性であるがゆえの苦悩に追い立てられるカーステン・リンツトロムとの連帯の物語だった。
 養子の子どもたちも母を憎んでいたし、それが悪趣味な趣向で推理小説になっていくのだが、最後は二人の女性の生き方に気がつく。
 そう考えてみると、最後は、胸糞悪い悪趣味ではなく、爽快な仕上げになっていたとも言えるだろう。

 

 

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2019.07.06

大学入試の英語民間試験の導入議論はあまり意味ないがないんじゃないか

 大学入学共通テストに2020年度から、英語の民間試験を導入することについて、「公平性や公正性の問題が解決できていない」といった議論があるが、あまり意味がないのではないだろうか。あるいは議論の方向が違うのではないだろうか。
 というのは、すでに早慶上智では、入試に民間試験の得点が活かせる状態になっている。MARCHと言われている私大でも、学部では対応しているし、全体として概ねその方向にある。英語の民間試験は必須とまでは言えないが、現実、すでにそれを活用する方向にあると言っていいだろう。
 さらに、そもそも論でいうと、欧米の大学に留学するにはTOEFLかIELTSの一定得点が必須なので、日本の大学生でもそうしたグローバルな社会に対応していくには、これらの試験に慣れておくといいだろう。
 もっとも、すべての学生が留学するわけではない、という議論もあるだろうが、先進国の定評のある大学がそうなっているのに、日本の大学の英語の水準は別という議論でもないだろう。
 あるいは、この話題は、大学入学共通テストであって、私大の入試と同じではないということもあるだろう。それに地方の公立・国立大はちょっと異なる視点が必要になる。だが、それでも、すでに早慶上智とMARCHにすでに英語の民間試験が導入されているに等しい状況にあるのだから、それ以外の都市部の国公立大は別というものでないだろう。東大や一橋大学を目指す受験生なら、早慶上智は抑えにしているだろうし、国公立大志望であれ、英語の民間試験の一定点はあったほうがいいに違いない。
 雑な議論になるし、誤解を招きやすいが、そうしてみると、大学入学共通テストでの英語の民間試験の導入が問われているのは、ランク的にはMARCH以下の大学ということになるのではないか。そしてそれは、基本的に他の先進国の大学と並べるという意義での大学でもないように思う。繰り返すが、大学で格差を設けろとか、それらは低いレベルの大学だ、と言いたいわけではない。とりあえず、先進国で定評のある大学と並んでいける大学なら、英語の民間試験の導入はすでに既定路線だろう。導入の是非が議論される状態ですらないように思われる。
 そして、それが意味することは、高校の英語教育を廃止にしてよいということだ。
 英語を学びたいなら、公が(地方自治体が)、英語の民間試験に対応する英語教育機関活用の助成をすればいい。クーポンとかでもよいだろう。そしてそれができるなら、それを機に英語の偏重もなくしていくとよいのではないだろうか。
 他方、MARCH以下の大学で民間試験での一定成績に至りそうにない高校での英語教育であれば、英検2級あたりを達成にして、個別選択にしてよいだろう。
 以上の話題で、「MARCH以下の大学」というくくりが差別的なようだが、現実的には、就活で存在しているのも事実だろう。就活において「学歴フィルター」がないと言うのは現実的な議論ではない。
 逆に言えば、大学側で英語の民間試験が導入され、高校での英語授業の負担が減れば、その部分、文系の場合、社会科や国語に勉強時間を当てられるので、いわゆる偏差値の低い高校の学生でも、早慶上智レベルが狙いやすくなる。理系については、むしろ、英語力という点では、英語の民間試験に合わせた学習のほうがよいだろう。

 

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2019.07.05

参院選挙が、まあ、なんというか、だるい

 参院選挙が昨日公示され、街中がうるさい。しかたないとは思う。そして、まあ、なんというか、だるい。この、だるさ自体が今回の参院選挙の本質なんじゃないかとふと思えた。
 何が争点の選挙かわからない。「いや、わかるだろう、安倍政権を信任するか、否かだ」と、言えないこともないし、それもわからないではない。が、そのテンションが重い。
 第2次安倍内閣が2012年12月に発足して、8年半は経った。その間の日本はどうか? と、言われても、いや、そんなに悪くないんじゃないか、と個人的には思う。大学卒業生の新規雇用は増えた点でアベノミクスはそれなりに成功したと言っていいだろうし、外交的には長期政権のメリットが出ているようにも思うが、当然、批判もあるだろう。というか、まず、頭ごなしに、安倍政権批判ありきの話がネットで目立つので、これでは話にならないなあ感がある。そんなに安倍政権を支持しているわけでもないだが、と、だるい。
 選挙の具体性で見ていくと、与党である自民・公明の両党が非改選議席をあわせた過半数を得るかが注目される、ということになるが、その「過半数」が曲者で、70議席の非改選議席もベースに含めて、過半数で53とするか、今回議席が増えた分も考慮し、与党全体で改選過半数で63とするか。
 自民党単独なら、67という数字もあるが、安倍政権としては、53あたりと随分低めの撤退ラインにあるので、それなりに、厳しい選挙結果になるとの想定はあるのだろう。
 では、自民党に逆風があるかと言えば、その原因は、消費税だろうか。そこを野党は攻めている。が、そこが争点になっている印象は私にはあまりない。そもそも消費税は民主党政権が決めたものだった。それを、これまで安倍政権がぐだぐだして延期してきたのだが、このぐだぐだへの微妙な信頼のようなものが、なんだろう、無関心という形であるんじゃないか、という気がする。つまり、消費税増税は一種のオオカミ少年効果みたいなものがあるんじゃないか。とはいえ、現実、これを機に消費税を上げれば、安倍政権は終わりの始まりを迎えるだろう。オリンピックの高揚感で乗り切れるかというと、祭りの後が、後の祭りになるんだろう。
 年金問題は、以前の安倍政権にダメージを与えたので、またことさらに一部が騒いだのではないかと思うが、今回の金融庁報告書のネタは筋が悪すぎたと思う。実際のところ、金融庁の報告書は年金問題の本質ではないし、本質部分、つまり、実際年金問題は困ったことになるという解決が野党から示されているわけでもない。もともと、年金制度については、昭和時代(1984年中曽根内閣閣議決定)で、一元化の方向が打ち出されていた。これが、平成時代でぐだぐだになって行ったのだった。現状、正規雇用の厚生年金は、企業が半分負担してるっていうけど、これは、①元を正せば労働者の金、②政府による企業の税的優遇、なので、こうした制度をなくして、その分賃金を上げて、一元的に国民年金に統合し、上がった賃金分で個人が自分の年金を運営していけばいいんじゃないか。まあ、個人対応では難しいかもしれないけど。
 野党もこの問題は取り上げないように見える。共産党とかは、「非正規で働く人を正社員にする、最賃を大幅に引き上げ賃上げをはかる。これが年金問題解決の決定的カギだ!」と息巻いているが、共産党なら、万国の労働者というか全労働者を対象に、同一労働下での、非正規と正社員の差を年金部分でもなくすのが筋だ。これまで、既存の労組などは正社員の利益保護が中心で、その他の多様な労働者を充分支援してこなかった。正社員が優遇される構造の上にあった。その根幹を共産党が改革していくのはどうなんだろうか。
 まあ、年金は実際上、参院選の争点にはならないようにも思う。
 じゃあ、憲法問題? これも、争点足り得ないだろう。というのは、改憲勢力が参院の三分の二となるのは、今回の選挙では86議席。維新とか入れてもそもそも無理な線ではないだろうか。まず、野党側としては、参院で「ねじれ」を作るには、与党が52議席以下に追い込む必要があるが、そんな空気もまだ感じられない。
 参院選挙が、まあ、なんというか、だるい、とか思っていたが、はっとする事もあった。野末陳平・元参院議員(87)が今回の参院選で24年ぶりの国政復帰を目指しているらしい。当選して、議員6年を全うすると、93歳! マハティール・ビン・モハマド首相も93歳だ。鈴木宗男・元衆議院議員(71)も参院選にいる。一瞬、同姓同名かと思ってしまったが。
 がんばれ老人。僕らは、だるすぎる。

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2019.07.04

捕鯨問題、終わりの始まり

 世界を騒がせてきた、日本の捕鯨問題だが、これで、つまり、商用捕鯨の開始によって、終わりを迎えることになるだろう。つまり、捕鯨問題の終わりが始まったのである。
 朝方、ツイッターで気軽に、こんなTweetをした。「そう言えば、商業捕鯨なんだけど、これを機に助成金が減り、クジラ肉はマーケットに委ねられる。つ・ま・り、捕鯨文化の安楽死なんじゃないかと思うが、そういう論調を見かけず。仕方ないからブログに書くかな。」
 とは言ったものの、「捕鯨文化の安楽死」なんて物騒な言葉を使うと、そこだけ注目されて不用意な炎上を招きかねないので、とりあえず、なぜ捕鯨問題が終わるのかという道筋だけ簡素に述べて、炎上しかねないキーワードは自主規制しておくかなと思っていた。
 それと、再考にするに、私が見てないだけで、きちんとした論評もあるかもしれない。そもそも私が書くような話でもない。が、そこは素朴に市民の複数の声として、この場合は、日本市民の声の一つとして、ブログに書いておいてもいいかもしれないと思った。
 それでもう一度、ざっとニュースを見て回ったら、なんことはないなあ。日本についてけっこう辛辣なBBCが事実上、「安楽死」とでも言うようなことを書いていた。じゃあ、それでいいんじゃないかという気もしたが、ふと日本語の記事を見ると微妙なユーフェミズムになっているので、その指摘も兼ねてブログのネタにしておこう。
 記事は"Japan whaling: Why commercial hunts have resumed despite outcry"。タイトルは、「日本捕鯨:なぜ抗議にもかかわらず商業的狩猟が再開されたのか」ということで、いつものBBC節ではあるが。で、該当箇所はずばりこれね。

But even if Japan does defy the criticism and stick with whaling, there's a good chance the contentious issue will gradually die down by itself.

Japanese demand for whale meat has long been on the decline and the industry is already being subsidised. Eventually, commercial whaling might be undone by simple arithmetic.

 しかし、たとえ日本が批判に逆らって捕鯨に固執したとしても、論争の的となっている問題が、一人で緩やかに死んでいくという幸運はあります。
 日本の鯨肉需要は長期現象を続けてきて、この業界はすでに助成金漬けです。結局のところ、単純計算で考えると、商業捕鯨は実施されなくなるでしょう。

 ちなみに、英文解釈的には、"there's a good chance〜"の部分は熟語表現で、「~ということになりそうだ」「~となる可能性が高い」と訳すのが普通で、「幸運」とは訳さないが、この意地悪な英文には、「幸運」の皮肉が効いていると思うのであえて上述のように訳出してみた。
 要するに、日本の捕鯨は安楽死するでしょう、ということをBBCはきちんと述べているのである。しかも、小学校の算数ができるくらいの知能があるなら、そのくらいわかるでしょというのである。
 ちなみに、この記事なんだが、日本語の報道が『日本が商業捕鯨を再開 IWCから脱退、規制受けず』という題。つまり、記事はあるにはあるのだが、もう一つの記事、"Japanese whalers set sail for commercial hunting"も参照されている。日本向けの編集記事ではあるだろう。とはいえ、先の該当部分は含まれている。こんな感じ。

 ただ、日本がいくら捕鯨に固執しようと、この対立を招いている問題は徐々に自然消滅していく可能性が高い。
 日本での鯨肉の需要は、長期的な下降傾向にある。捕鯨産業は、補助金なしではやっていけない。将来、商業捕鯨は単純な算数によって終わりを迎えるかもしれない。

 そう悪い意訳ではないし、英語の"die"という言葉は日本語の「死ぬ」よりも弱い語感だし、「消滅」と訳してもいいのだが、それでも、ようは、"gradually die down by itself"は、「老衰」ということで、意訳なら「安楽死」でしょう。
 つまり、BBCの記事を書くくらいの知性がある記者なら、日本の捕鯨はこれで終わりの始まりを迎え、世界的な捕鯨問題も終わる、ということがわかっていて、それなりに、結論は記事に加えているのである。
 他方、本邦はというと、朝日新聞『商業捕鯨、不安乗せた船出 肝心の食卓ニーズは尻すぼみ』はこう切り出す。

 日本が国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、31年ぶりの商業捕鯨に踏み出した。「日本の鯨食の文化を守る」と関係者は意気込むが、国際社会は反発し、外交上のリスクも抱える。肝心の鯨肉の需要も尻すぼみで、「商業」の名を借りた国の補助金頼みの「官製捕鯨」になりかねない。

 あーあ。これは記者たちがわかっているのかわかってないのか、よくわからないが、《補助金頼みの「官製捕鯨」になりかねない》は概ね、間違っていると言っていいだろう。ちなみに、この記事に限らず、近年朝日新聞の記事がイデオロギーは抜きにしても知的なクオリティが落ちているように感じられるので、記者さんたちがんばってほしいと思う。
 さて、話を戻して、商業捕鯨はどういうことなのかというと、朝日新聞が書いていることが、従来の話だった。つまり、従来は、捕鯨業者は国が委託した研究機関の請負で捕鯨していた。請負のためのお金は国の補助金だった。ようするに、調査捕鯨だったから、国が金出して捕鯨をしていたのだが、その実態は、獲ったクジラの肉は販売しているので、商業捕鯨と批判されていた。
 それで、じゃあ今後、マジに商業捕鯨に変わってどうなったかというと、補助金が大幅に縮小される。商業捕鯨なんだから、獲った鯨肉の売上で捕鯨のお金を回してねということ。鯨肉産業としては、なんとか日本人にもっと鯨肉を食べて支援してほしいという気持ちはわかるけど、1960年代のピークの20万トンから現在は4000トン。日本人は1980年代後半からもうほとんど鯨肉を食べていない。これが今後飛躍的に増えるとは想定できない。
 それでも鯨肉は流通できるし、捕鯨文化も細々と維持できるかもしれない。が、かなり細々と、ということで、あるかないかというと、あるかな、くらい。
 ところで、日本はIWCから脱退したので、これから勝手なことやるんじゃないかという懸念もあるかもしれないが、日本は商業捕鯨に切り替えても、IWCの科学的な指摘は守っていて、乱獲をする兆候もない。
 こうしてみると、いろいろ世界を賑わせた反捕鯨団体も、日本の捕鯨問題の事実上の終了にともない、縮小していくことになるだろう。とはいえ、こうした、団体は団体の維持自体がその目的化しやすいので、こういう終わりの始まりの時期に派手な活動をするなんてことがないように願いたい。反捕鯨の活動も、"there's a good chance the activities will gradually die down by itself"となっていってほしい。自然保護の運動ならほかもニーズはあるのだし。

 

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2019.07.03

スマホ見ながら電車に乗る人をいかに避けるか

 電車待ちでホームに並びながら、スマホを見ているぶんには特に問題もないのだが、こういう人の大半が、電車が来てドアが開いても、そのまま、スマホを見たままで電車に乗り込んでくる。

 危ないです。

 でも、注意するとかいう問題でもない気がします。
 というか、下手に注意して逆上されるのもいやだし。
 でも、危ないです。
 それに、当然だけど、スマホを見ていると周りへの注意が手薄になる。なにより動作がにぶくなる。
 スマホ歩きも危ないといえば危ないが、電車に乗り込むときにスマホ見ながらというのは、それとは別にして危ない。せめて、電車が入ってきた時点で、スマホから目を離すことができないのだろうか。
 まあ、たぶん、できないのだろうな。
 というわけで、最近、ホームで電車待ちするときは、スマホ見て並んでいる列はできるだけ避けている。
 スマホ見ながら電車に乗る人をいかに避けるかが日々の課題。
 だが、ほとんど無理だよなあ。努力しても無駄だなあ。
 一体全体、こうした問題をどう考えたらよいのだろうか。
 僕は、自由主義社会においては、できるだけ他者の不快に耐えるべきだと思うのだが、「歩きスマホ電車乗り込み」は、我慢すればいい問題じゃなくて、現実的に、社会的な危険があるし。
 駅の側で、つまり駅員さんがなんらかの対応をしてくれると、助かるには助かるが、では、どうやって対応すべきかというと、れいよってスピーカーでがなりたてるくらいだろうか。それもいやだ。
 電車待ちしている状態のスマホまで禁止したいわけでもない。せめて電車に乗り込むときくらいは、スマホから目をそらしてほしいというだけなのだが。
 なんなんだろう、このくだらない、しかし、解決策も思いつかない問題は。
 どこにも巨悪が隠れているわけでもない、憲法改正にも原発推進にも捕鯨禁止にも関係しないけど、身近な危険の問題だが、事実上、対処しようがないというのは。
 何か象徴的な大事件でも起きて、うっひゃあ、スマホ見ながら電車に乗り込むと死ぬかもということになるとよいのか。違うなあ。
 昭和のころはどうだっただろう。あの頃も電車待ちして本読んでいる人もいたし、そのまま電車に乗り込む人がなかったわけでもないが、そんなにはなかったな。つまり、スマホの普及が副次的にもたらした問題だろうか。
 技術で解決できる問題だろうか。
 そういえば、地下鉄の駅とかで、ホーム自体にドアが付くようになった。昨年だったが、東西線高田馬場駅の付いた。これでホームに落っこちる人も減るだろう。で、こうしたホームにドアが付いているなら、スマホ見ながら電車に乗り込むようになってもそれほど危なくないか。うーむ、それとも違う問題に思えてきた。
 というわけで、ホームに並んで電車を待ちながら、前でスマホ見ている人を見ていると、この人このまま、電車に乗り込むんだろうなと思う。
 そして、ふと思うのだ、こんな人たち、どうしようもないよな、と。
 で、はっと思う。え?え? 私は人を見下していた?
 いや、こういう場面なら、自然に人を見下してもいいんじゃないか。多くの人が、スマホ見乗車の人を見下すようになるといいんじゃないか?
 っていうことにも、たぶん、ならないよね。

 

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2019.07.02

英語の現在完了は、なぜ、「have + 過去分詞」なのか?

 先日、英語の現在完了について、VOAの教材を紹介した。VOAでは、英語の現在完了を過去を示す表現として扱っていたが、実は、これは、フランス語やドイツ語、さらにイタリア語やスペイン語など他の言語を学んでみると特段に不思議なことでもない。よく見られる過去の表現である。ただ、厳密には、英語の現在完了には、継続の意味が残っているので、これらの言語とは異なった文法上の特性は見られる。
 それはそれとして、英語の現在完了は、なぜ、「have + 過去分詞」なのか?
 これも意外と学校英語などでは教えてないんじゃないだろうか。
 ネットをざっと検索しだけだと、「過去分詞の状態をもっている(have)」といった説明くらいしか見つからない。
 なので、これも簡単に説明しておこう。

歴史的な説明
 この話題は、『英語の歴史から考える 英文法の「なぜ」』に説明がある。


 なにより、まえがきがこうである。

 私は中学校で英語を習ってから何度もつまづきました。いちばん大きなつまづきは現在完了です。「現在完了は、〈have + 過去分詞〉という形で、これは完了を表します」と教わりました。そのときの教科書の例文は I have finished my breakfast.(私は朝食を終えました)というものでした。動詞finishは「終える」という意味ですから完了したのはあきらかです。それなら I finished my breakfastと言えばいいではありませんか。なぜhaveを使うのでしょう。「持つ」という意味はどこに消えたのでしょう。

 というわけで、ネットで見かける、「haveという動詞で過去分詞の状態をもっている」的な説明も、このまえがきの疑問には答えていない。
 それで、同書はどう答えているか?
 そのまえに、本文では、こういう微笑ましともいえる話がある。

 (前略)そもそもどうしてここにhaveが現れるでしょう。このもやもやとした霧が晴れないまま、私は現在完了形が現れると「…したところです」と訳してしませていました。

 ネットの状況を見るに、現在でもそういうふうに「すませていました」という人が多いだろう。
 では、この本での答え。

 現在完了形の成立 現代英語の現在完了形〈have + 過去分詞〉は古英語で他動詞を使った〈have + 目的語 + 過去分詞〉という言い方から生まれました。古英語のこの言い方では、目的語と過去分詞は緊密に繋がっており、その性・数・格の屈折は一致していました。その後、屈折が消失するとともに目的語の名詞・代名詞とそれに続く過去分詞のつながりは薄れました。また、目的語は動詞の後に来るという意識から目的語と過去分詞の位置が入れ替わり、次のような現在完了の形が生まれました。
 (3) I have written a letter.
 この元の形 I have a letter written.(手紙が書き終えられた状態で存在している)は過去において書き始めた手紙が今、書き終えた状態で存在しているということです。

 つまり、古英語の枠構造的な文型が目的語意識で変化したということだ。枠構造というのは、動詞的な要素で目的語などを挟む形式である。ドイツ語がそうだ。
 というか、古英語はドイツ語に近く、ドイツ語は現在でもこの枠構造を持っている。例えば。

 Ich habe mir ein Fahrrad gekauft.

 この語順で英語の置き換えると。

 I have my a bicycle bought.

 ドイツ語の初歩学習書、『文法から学べるドイツ語』ではこう説明している。

 

 英語では、「いつその事柄が行われたか」を基準にして、過去形と現在完了が厳密に使い分けられますが、ドイツ語の場合は、「いつその事柄が行われた」ではなく、「話し手がどの時点から語っているか」が重要です。
 現在の視点からは現在完了形を使うため、日常会話ではほとんど現在完了を使います。

 「日常会話ではほとんど現在完了を使います」というのは、「過去を表現するのには」ということで、実際上、ドイツ語の現在完了は、過去表現なのである。で、この点では、英語も同じということをVOAでは簡素に説明していた。

ロマンス語共通の文法でもある
 さて、現在完了が過去を表現するという問題は、さらに面白い問題を引きおこす。というのは、ロマンス語もみんなそうした文法を持っているからだ。
 フランス語ではこうなる。英語の I have written a letter.とまったく同じ。

 J'ai écrit une lettre.

 イタリア語では、こうなる。これも英語と同じ。

 Ho scritto una lettera

 ちなみに、イタリア語では主語は不要。こうした文ではあるほうが不自然。よく、日本語は主語が明確ではないが英語はうんたらという話があるが、特に日本語が不思議なわけではなく、英語やフランス語が特別かもしれない。
 ちなみにちなみに、これを代名詞で書くと。

 Je l'ai écrite.
 L'ho scritta.

 となる。目的語が動詞の前に出て、SOVになる。こうしたこともあって、印欧語の基層は、SOVだと考えられている。むしろ、SVO語順を取る英語が特例かもしれない。あと、この例でわかるように、過去分詞は性・数一致を起こす。
 で、この英語なら現在完了形のような表現を、フランス語では「複合過去」、イタリア語では「近過去」として、どちらも、普通に「過去」として扱っている。
 さて、ここで問題なのは、一般的なラテン語文法には、この〈have + 過去分詞〉の構造がないことだ。これこそがけっこうな大問題だと思う。
 2つのことがわかる。

① 古英語やドイツ語の原点の西ゲルマン語には〈have + 過去分詞〉があっただろう
② 俗ラテン語には、〈have + 過去分詞〉があっただろう。

 ここから何が言えるだろうか?

考察1 俗ラテン語の〈have + 過去分詞〉という形式は、ゲルマン語の影響かもしれない
 推測に推測を重ねることになるが、一つの仮説は、俗ラテン語の〈have + 過去分詞〉という形式は、ゲルマン語の影響だろうとするものだ。つまり、ゲルマン語とラテン語が衝突したときに、これれがロマンス語圏に定着したのではないか。
 これを歴史事象に当てはめてみると、そうした文化機運が強いのは、カロリング朝ルネサンスっぽい。が、このたあり、調べているのだが、今ひとつわからない。そして、さらに大きな問題にぶつかる?
 カロリング朝ルネサンスというなら、その中心は、「カール大帝」である。で、「シャルルマーニュ」である。え? どっち?
 さすがに、Charles the Greatはなしだが、Karl der Großeなのか、Charlemagneなのか?
 当然、どっちも違って、ラテン語で、Carolus Magnusとしたいところだし、公式にはそれでいいのだろうが、さて、彼自身はどう捉えていたか?
 というか、カール大帝は、何語を喋っていたのか?
 ここで、歴史好きなら知っているだろうが、カール大帝の母は誰かわかっていない。母語、mother tongueは?
 だが、おそらく、ここは、カール大帝の母の言葉ではなく、彼の教育係の言葉だろうし、それはラテン語だろうが、日常会話はどうだったかというと、俗ラテン語ではないだろうか?
 で、カール大帝自身は、〈have + 過去分詞〉的に過去を表現していると、教育係にもにょられたのではないか? というコンプレックスこそが、カロリング朝ルネサンスの真相かもしれない。
 そう考えると、カロリング朝ルネサンスとは、むしろ、俗ラテン語の支配であり、これが英語を含めた欧州語を決定付けたとも言えるのではないか。

考察2 古英語やドイツ語がすでに俗ラテン語の影響下にあったかもしれない
 考察1でいいんじゃないかと思いつつも、『イタリア語の起源』を読み返してみたら、ありゃりゃ、以前の読書の読み落としを発見。

 動詞 habere (= avere)の活用形と完了分詞(イタリア語の過去分詞に対応するラテン語)からなる迂言的動詞表現、たとえば、cognitum habebo、deliberatum habebo は前古典時代から用例がみつかっている。しかし、今日の複合時制のような意味はなかった。動詞 habereは、補助動詞としてではなく、物理的、精神的な「所有」や「保持」の意味をもった独立した動詞として使われて、それに従う完了分詞は述部としての機能をもっていた(つまり動詞の意味を補完していた)。(中略)この迂言法が、イタリア語の複合時制と同じような意味と役割をもつようになった。その変化が見られるのは紀元1世紀のことである。(中略)中世ラテン語ではそうした意味がしだいに増えてくる。

 ということで、古英語的なhaveの用法は、古典期後のラテン語や中世期のラテン語にもすでに見られるらしい。ただ、「ラテン語文法」として確立したものではなさそうだ。当然、これらは、俗ラテン語になっていただろう。
 おそらく俗ラテン語では、〈have + 過去分詞〉という表現が、5世紀あたりには確立していたのだろう。
 すると、むしろ古英語と呼ばれる言語(ラテン語を学ぶ書記僧がまとめた)が、すでに俗ラテン語の影響を受けていたとも考えられそうだ。この線で同じように考えるなら、ドイツ語での完了形の枠構造が過去を意味するようになったのも、そうした俗ラテン語の影響ではないか。

 

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2019.07.01

韓国への輸出規制強化は中国問題ではないのか?

 半導体などの原材料について、韓国への輸出規制が強化された。NHKはこれを、太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題が背景にある措置だろうという見解を報道していた。そうだろうか? 「半導体などの原材料 韓国への輸出規制強化」より。

 政府は、韓国に対する輸出の優遇措置を見直し、半導体や軍需物資の製造などに使われる原材料について輸出の規制を強化します。「日韓の信頼関係が著しく損なわれたと言わざるをえない状況だ」としていて、太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題などが背景にあると見られる異例の措置です。

 このニュースはこう続く。

 経済産業省は、韓国に対して、安全保障上の友好国に与えている輸出管理の優遇措置を見直す方針を発表しました。
 合わせて、高純度のフッ化水素、フッ化ポリイミド、それにレジストの3品目について輸出の際の規制を強化します。
 これらの3品目は主に半導体などの製造に使われますが、軍需物資の製造にも使うこともできることから、手続きを簡素化していたこれまでの韓国への優遇措置を改め、今月4日からは輸出ごとに許可の申請が必要になります。

 率直な疑問として、これがどうして、徴用問題に関わるのか私には理解できない。
 基本となっているのは、「安全保障上の友好国」であり、「軍需物資の製造」である。普通に考えるなら、今回の輸出規制は、日本の国家安全保障上の判断である。
 と、いうことはどういうことか? 韓国を、非友好国というより、実質的な敵国の一部と見なすようになったということだ。では、それはなぜか? 
 この文脈から考えられることは、当然、日本に実質的な軍事脅威を与えている国と韓国が強く結びついたことだろう。その国は、北朝鮮か中国しかない。
 もう一度、報道に戻ろう。元になったのは、西村康稔官房副長官による1日午前の記者会見での、産経新聞記者への質問への回答である。そこでは、「適切な輸出管理制度の運用を目的としたもので、対抗措置ではない」と述べている。つまり、韓国人元徴用工訴訟を巡る対抗措置との見方を否定ししている。
 なのになぜNHKはその逆を推測までして報道しているのだろうか?
 NHKの報道は、以下のようにも続くが、明らかに憶測の文脈になっている。

 今回の規制強化について、経済産業省は、「日韓の信頼関係が著しく損なわれたと言わざるをえない状況だ。信頼関係のもと、輸出管理に取り組むことが困難になっている」としていますが、対抗措置ではないとしています。
 ただ、輸出管理上の優遇措置を見直すことは異例で、「徴用」をめぐる問題などが背景にあるとみられます。

 むしろ、日本の軍事的な仮想敵国である中国と韓国の関係が、より明確になったからと見たほうが自然ではないだろうか。
 私には、以下のような文脈が思い浮かんだ。
 基本は、「三不」である。韓国は、2017年10月に北京で韓中首脳会談を持ち、そこで、「三不」を約束したと報道されている。三不は次のとおりである。

① THAADの追加配備をしない
② 米国主導のミサイル防衛(MD)体制に加わらない。
③ 韓米日安保協力は三カ国軍事同盟に発展しない

 これにさらに、「既存THAADシステムの使用について、中国の戦略的安全性の利益を損なわないよう制限する」という「一限」が加わる。
 これはどういうことかというと、単純な話、韓国は、中国の軍事影響下に入り、主権国家を自ら放棄したということだ。米国および日本から見れば、韓国は自由主義国家の連帯から外れたということだ。
 だが、この「三不一限」は当時の韓中合意文には入っていないので、公式にはされていなかった。それをいいことに、韓国としては、THAAD問題は解決したかにこれまで振る舞ってきた。
 ところが、先日のG20で習近平中国国家主席と文在寅韓国大統領会談したおり、習主席は文大統領に、THAAD問題の解決を迫った。要するに、これで、晴れて、韓国の「三不一限」が公式に暴露された形になった。
 事がこうなってしまった以上、事実上、主権国家の体を無くした韓国は、日本にとって「安全保障上の友好国」ではなくなり、「軍需物資の製造」が懸念される国家となった。
 と、こうした文脈で今回の日本側の規制を見たほうが、NHKの憶測より強い説明になるように思うが、どうだろうか?
 当然、日本国家としては、表立って中国を仮想敵国とするわけにもいかないし、韓国は隣国としてできるだけ友好的であるべきなので、政府発表が曖昧になるのはしかたないだろう。さらに言えば、それを、ことさらに、「徴用」問題に落とし込む話題にするのは、NHKにどのような意図があるのだろうか、疑問だ。
 さて、もう一点。
 6月30日、世界を驚かせた、トランプ米大統領と金正恩北朝鮮委員長の板門店での会談だが、その後、文在寅韓国大統領が合流して、米国・北朝鮮・韓国の3か国による首脳会談が実施された。この件について、日本では事前に、一部であるが、すでに文在寅韓国大統領は、北朝鮮問題から「外された」という議論があったことから、そうした議論は誤りで、外されているのは安倍首相ではないかという議論も見かけた。
 しかし、板門店での会談で、トランプ米大統領が文在寅韓国大統領を引き回したのは、中国向けのポーズだったのではないだろうか。つまり、THAADについては、米国が韓国を握っているという中国向けの演出ではなかったか。

 

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