幸せを思うことについて
76歳になって自分の子供を手にかける人がいた。その個別の事件についてはあまり考えないようにしている。というか、本来ならそうした個別のことを考えるべきなのだろう。だがあえて、その一般的な部分だけを考えてみる。いや、この一週間くらそのことを考えつづけていた。
自分は、61歳にもなった。余談めくが、このブログを始めたのは、45歳である。あなたがもし40代なら、60歳はそう遠い日ではない。そして自分も寿命があれば、76歳まで生きられるかもしれないが、それもそう遠い日ではない。もう人生は締めくくりの時期だ。そのとき、そうした悲劇が自分には起こらないだろうか。おそらく自分の場合はそんなことはないんじゃないかと楽観的に思うが、その人はどうだっただろうか。その人は、あのような人生の締めくくりを予期して生きてきたのだろうか。これを一般化してみる。
人が人生のあるとき幸せでも、その末期にとんでもない悲劇が訪れることがある。それは運命とはいえないだろうが、起きてしまって振り返るなら運命のように見える。そうした、運命のようなものが、人の人生にどのように訪れるかはわからない。であれば、人生のあるときその人がどれほど幸せであろうと、バッドエンドということはある。
逆にいえば、末期に幸せなら人生の総体は幸せということになるだろうか。人生のある時期、どんなに惨めで、人に捨てられ、絶望でいても、それでも、末期には幸せでした、となるだろうか。
格言が思い出される。人事は棺を蓋うて定まる、と。だが、棺の中にいる自分は、霊となってこの世界を見ているわけではない(僕は死後の生命は信じられない)。価値のある人生や幸せな人生が、棺の外の他者たちの評判として定まったとしても、その人自身にはもうわからない。死んでいるのだ。ただ、生きているとき、自分の棺を思いながら、自分の人生は良かったと、まだ信じていたいというだけにすぎない。
この構図は、カルヴァンの予定説にも似ている。結局のところ、天国は幸福の比喩であるとするなら、その人の人生の幸福というのは、予定されているかのようなものだ。あるいは、どのような努力をしても及ばないものだ、と。
ではどうしたらいい。まるで予定説に懊悩するプロテスタントとさほど変わりない。日々、自分の人生の価値や幸福を自分で確認しながら、ここまで生きてきて、ここまではよし、というしかない。それでも、最期は、やはりわからない。
最期など、もしかしたら、どうでもよいのではないだろうか。
結局のところ、最期などわからないなら、そして、生きているのは、今まさにこのときであるなら、最期など気にかけることはない。最期のその瞬間も、そのときの今の問題でしかない、と。
これをもっと延長する。実は、今が幸せであるかどうかも、実はどうでもよいことなのではないだろうか。そもそも、こうした幸せとは、「私は幸せなのだ」と私を納得させる何であって、かならずしも自然に沸き起こる情感でもない。まして、人生の価値などは所詮、思考の産物でしかない。
こうした思考の、どのあたりに真理があるのだろう。
もう一度、死を問い返してみる。
死は、実は、自己意識にとっては、眠りと変わりない。目覚めたときに、それまで眠っていた、あるいは夢見ていたと事後に気がつくだけで、目覚めなければ、わかりもしない。
死は、遠いところにあるわけではないのかもしれない。眠りの前と死と、意識にとって違うものではない。
だとすれば、幸せか否かは、棺の中のことでも、今のこのときでもなく、日々の眠りに落ちるその意識のはざかいにあるだろう。
眠りに落ちながら、幸福な気分であれば、幸福だろうし、不幸な気分であれば不幸だろう。
そして、それはそこで終わる。明日の幸せや明日の不幸は、また明日の課題だろう。
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