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2019.06.26

ミシェル・フーコーは生きづらさにどう答えたか?

 たまたま、Eテレに『世界の哲学者に人生相談』という番組があることを知った。歴史に名を残す哲学者に人生相談するという趣向の番組である。なんとなくどこかの新興宗教の降霊ような感じがしないでもないが、哲学者に寄せられた人生相談という趣向は面白い。というか、なんとなく、最近またというか、人生相談が流行っている感じするよな。
 で、そのときのテーマというか、お答えする哲学者がミシェル・フーコーだったので、気になって番組を見た。その回のテーマは、「社会の中での生きづらさ~フーコー~」というものだった。

 今回のテーマは「社会の中での生きづらさ」フランスの哲学者フーコーの考えからヒントを探る。彼は自らが同性愛者だったことを悩み「生きづらさ」の根源について探求した。
 フーコーは、時代ごとに社会の大きな価値観が異なることに注目し、それを「エピステーメー」と名づけた。例えば「狂気」の社会的な位置づけも、エピステーメーによって大きく異なる。さらに、私たちは、知らぬ間に「心の監視システム」にとらわれているという。その名は「パノプティコン」。そこから抜け出すにはどうすれば良いのか?スタジオでは、ゲストの室井滋さんが、生きづらさを感じていた過去について打ち明ける。

 番組のメインの司会は高田純次。なかなかかっこいい爺さんになっていたが、ノリは昔と変わらず、なんでこの番組の司会やっているのかよくわからない。講師は山口大学の小川仁志教授。番組の学問的な部分は彼が担っているのだろうか。
 で、番組だけど、ゲストの室井滋さんの話が三分の一くらいかな。フーコーとの関連は特になさそうなので、普通に彼女のゲスト番組でいい感じ。
 テーマのフーコーについては、ごく普通の紹介と「エピステーメー」と「パノプティコン」の解説。そこから、人生を一つの芸術として捉えるという考え方。
 さて、ここから生きづらさをどう考えるのだろうかということだが、まあ、僕にはよくわからなかった。が、概ね、こういうことなんじゃないか。社会の一般的な考え(エピステーメー)というのがあって、それに人は自分自身を監視させている(パノプティコンのように)。だから、そんなことを気にせず、自分の人生を自分が作り上げる芸術作品のように捉え、自分にあった生き方をしたらいい、ということのようだ。で、いいのかな。まあ、そんな感じ。
 で、極めつけの、フーコーのお言葉でまとめられる。曰く、「実存の美学を極めれば生き方は変えられる。ミシェル・フーコー」
 うーむ。フーコー、そんなこと言ってたかな。
 番組での説明は、ゲイであることを公開したフーコーは自分の生き方に自身を持って生きるようになった。実存は、生きるということ。っていう感じだった。 
 思い当たることはある。フーコーは晩年(といっても57歳で亡くなったのだが)、1980年代前半、大著『性の歴史』を書きながら、ルモンドなどでインタビューをしていて、これが日本では、1987年に『同性愛と生存の美学』として出版されている。フランスでこのインタビュー集があるか知らないが、翻訳編集本の表題にある、「生存の美学」は確かに彼の晩年のテーマではあった。フランス語だと、"une esthétique de l'existence"ということ。NHKの同番組ではこれを実存の美学としたわけだ。訳語としてはどっちでもいいだろう。フランス語のesthétiqueは、「エステ」という意味より「美学」でいい。が、日本語の「エステ」の美しく仕上げるという意味合いはあるだろう。
 まあ、美を追求して生きるということではあるだろう。もっと、卑近に言うなら、自分がかっこいいと思う生き方を自分でしろ、ということだろう。
 ルモンドでのインタビューでこの用語が使われている部分は、こう。

De l'Antiquité au christianisme, on passe d'une morale qui était essentiellement recherche d'une éthique personnelle à une morale comme obéissance à un système de règles. Et si je me suis intéressé à l'Antiquité, c'est que, pour toute une série de raisons, l'idée d'une morale comme obéissance à un code de règles est en train, maintenant, de disparaître, a déjà disparu. Et à cette absence de morale répond, doit répondre une recherche qui est celle d'une esthétique de l'existence.

【試訳】
古代からキリスト教の時代にかけて、私たちは、本質的に個人的な倫理探求であった道徳から、規則体系に従順であるような道徳へと移行してきました。そして私が古代に関心を寄せるのは、当然のこととして、制限に従順であるような道徳が今消えつつあり、もう消えているからです。道徳の不在について、何が生きる道徳なのかという探求をもって答えなくてはなりません。

【超訳】
古代からキリスト教全盛の中世への時代変化で、一人ひとりがいかに生きるべきかという生き方は、ただ、キリスト教のような規則に従うだけの生き方になってしまいました。しかし、私が古代に関心をも向けるのは、規則に従うだけの生き方はもう時代的に終わったいます。現在の私たちは、自分自身で美しいと思う生き方をするべきなのです。

 例によって誤訳もあるだろうと思うが、概ねフーコーが、美学として言っていることは、社会の規則に従うのではなく、自己の美意識で生きろということということだが、で?
 たぶん、ここで抜けているのは、この時代のフーコーが言う、「快楽の活用」つまり、"L'usage des plaisirs"ということ。欲望を高めるために制御すること。短絡的だが、美学は欲望との対応になっているだろう。
 で、ぶっちゃけどうかというと、生きる虚しさ、生きづらさみたいなものに対して、美や性から快楽を訓練して引き出すことで効果的にヒャッハーに生きろ、ということだろう。快楽を開放するというより、快楽を絞り出すための厳格な生き方というか。

 

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