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2019.06.25

ラノベ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を全巻読み返した

 ラノベ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を全巻、読み返した。アニメは5周くらいしているので、さすがに、読みながら、アニメがよく想起される。ということは、違う点や、脚本上の演出の違いなど。細かくチェックもした。
 一日一冊ペースくらいで読んだ。読み応えがある。というか、読書のそれ自体の快感がある。
 個人的にはあたためて、すごい作品だなと思う。文学的に優れているかというと、優れているだろうとは思うが、アカデミックな批評対象にはなりにくいかも知れない。ラノベ的要素が勝りすぎている。ということは、そこを削ってスタイリッシュに書き直せば、純文学かというと、それだとこの作品の面白みはないだろう。
 いろいろ発見もあった。
 文学の関連でいうと、漱石の『こころ』は当然、直接的な影響が強くあるのが確認できた。太宰治『人間失格』の影響もある。宮沢賢治なども。
 ストーリーが非常に緻密で、特殊な叙述トリックになっているのだが、全体通して読むと、比企谷八幡と葉山隼人が、文学的な比喩としては同一の設定になっている、いや、設定というのではないな。同一の人間の心性の何かというか。
 この点で興味深いのは、作品が、基本「俺」(比企谷八幡)の視点で語られているのに、小説の世界は他者の思惑のなかで「俺」が錯綜させられている点だ。これは文学的には非常に面白いしかけなのだが、10巻で「手記」として、突然他者が現れる。
 その後、12巻以降、interludeとして他者の内面が入り込む。この評価が難しい。一種のネタバレ的に、「俺」から見えない世界が開示されてくるのだが、それでよかったのか? 
 ただ、「手記」の時点は鮮やかで、あれは、葉山隼人の手記でもあると気がついて、このあたりのしかけは、ちょっと鳥肌が立った。
 以前読んだときは、エンディングには悲劇しか思い浮かばず、そして、現在の巻をもって未完でもいいようにも思えたが、今回読み返してみると、そう悲劇でもないようには思えた。雪ノ下雪乃の絶望しかないと思っていたのだが、そうでもない。由比ガ浜に委ねられている。
 総じて、青年が大人になる物語というフレームをもっていながら、そうとばかりもいえない。愛することと共依存は、大人の恋愛そのものでもあるし。
 アニメの3期が予定されている。いちおう、最終巻も構想されているのだろう。アニメ脚本だと、interlude的な部分は別の表現になる。そこも興味深い。
 くだくだ言ったが、すべての文学がというわけではないが、文学の本質の何かは、ぼっちと自意識と恋愛だろう。それがこの作品に見事に溶け合っていた。


 


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