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2019.06.09

フランス人的に親であること。日本社会もそうなるだろう。

 ある種の作品や体験は、一晩眠って朝になると、印象が深まったり、変わったりすることがある。昨日見た映画『LOL ロル ~愛のファンタジー』もそうだった。まあ、それほどおもしろい映画でもないけど、悪い映画でもないし、現代の生きたフランス語に触れるにはいいんじゃないのというのが大筋の印象だった。だから、フランスの文化やフランス語が好きではない人、あるいは、映画にもっとエモーショナルな満足を求めてる人には、それほど向かないんじゃないかとも。「おもしろい」というのは、とりあえずそういうことだから。
 でも、違った。この映画、ああ、親になるということはこういうことか、ということを上手に問いかける映画だったんだ、とわかった。いや、それは見ているときでも、見終えてからもわかっていたのだが、なんというか、心の底まできちんと届く感じでわかった。

 

 この感覚からちょっと書いてみたい。うまく言える自信はない。
 ふつう、自分が人の親になったというのは、もちろんと言っていいと思うが、子供が生まれたときだ。受胎を知るときがそうかもしれないし、むしろ、妊娠の期間というのは、親になるための心の準備期間でもあり、そして驚くことに体の準備期間でもある。概ね女性に大きな変化がいくが、男の体の変わると思う。医学的な研究はないから、これは実感として。
 そして、子供が小さいころは、親は比較的自然に親であるという気分でいられる。というか、自分が「おとうさん」であったり「おかあさん」であったりというアイデンティティに、なんというか、つらさがあっても酔いしれるのである。そういうものなのだと言っていいんじゃないか。子育てがつらいというのは、大半は、このアイデンティティが責務化したものへ不達成感や、ある種の疑念があるからだ。で、ちょっと補足すると、実はそう少なくもない割合で、そうしたアイデンティティに違和感をもつ人もいるものだ。そしてその人たちの少なからずが社会的なアイデンティティに結果的に逃げ込む。親になる適性がないとまではいえないが。
 で、子供が子供のうちは親は親であることは、つらくても自明なことが多いのだが、子供が子供ではなくなってくる。思春期くらい。そうしたとき、親であるということは揺らぎだす。子供がそのまま小さな子供であることが揺らぎだせば、親であることも揺らいで当然でもある。
 子供が子供でなくなってくるのは、それが自然だからでもあるし、子供というのは、親から逃れようとする存在だからとも言えるだろう。子供にとって親の愛情と称するある種のアイデンティティの押し付けは、子供にはつらいものだ。
 で、これは、けっこうな大問題である。
 親が親でいられるのは、もはや自明ではない。自分がかつて子供であったことの総体も問われる。どうしたらよいか。
 『LOL ロル ~愛のファンタジー』で、ソフィー・マルソーは、そうした人生の時期の女性を、アンとして上手に演じていた。たぶん、かなり、素だなこの人というのも感じられるくらいに。奇妙なことに、私たちのそう少なくもない数は彼女の少女像を持ち続けてさえいる。
  アンは建前は離婚している。理由は、夫の浮気でもあるが、そういう夫の関係が受け入れられないからでもあるだろう。それでいながら、元夫の関係が悪いわけでもない。別居しているがほぼ定期的に性行為の関係はある。これが娘、ロルにもわかっていて、なんなのおかあさん、ということでもある。
 アン自身、夫婦関係でどう生きていいかわからない。それは同時に娘への接し方もわからないということにつながる。わかってはいるつもりではいる。
 で、振り返ってみると、この映画、そうした親像を、思春期の子供で一種の反射鏡のようにして多様に描いていた。いい作品だったのだ。特に、ロラのボーイフレンドと父親の齟齬と和解については、世界観を多角的にしたい意図はわかっても、うまく調和してないようにも思えたが、一晩たってみると、そうした父親と息子の関係を描くことは、この映画の必須要素であった。
 アンは恋愛をする。元夫のずるずるとした性関係と信頼関係を維持しながらも、別の男性と親密な関係になっていく。そもそも結婚していないのだから、どう恋愛しても自由なのだが、そうした自分をそれほど上手に受け入れられない。で、結論は受け入れていく。これは親というものの新しいアイデンティティにもなる。
 アンの元夫もそれをある意味、そうした新しい親というもののアイデンティティを受け入れていくし、その過程で彼らの娘、ロラとの関係が壊れていくわけでもない。むしろ、変化を乗り越えて良好になっていく。
 で、結局なんなの? というと、そう問うなら、結婚という制度が終わった市民社会というのはこういうものだということだ。
 もうちょっと言うと、日本の市民社会もそうなるだろう。さらにもうちょっと言うと、結婚後の姓をどう決めるかとか、同性婚をどうするかという問題は、ある部分的な問題となるだろう。それは、結婚という制度そのものが、男女の関係、子供の関係を十分に保証するような外的な支えではなくなっていくからだ。
 親は親として、自分が産んだ子供との関係をできるだけ維持したほうがよいだろうし、社会はそれを支援するようにあるべきだろうが、それは結婚という制度とは別のものでいい。
 結婚という生き方もあるだろうが、それは私たちの市民社会が子供を産み、育てていくというのは、本質的な関連ではなくなっていく。むしろ、恋愛やそれに近い、多様な連帯こそがそうした社会を支えていくようになるのだろう。

 

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