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2019.06.03

練馬の親族殺人事件と嫌な行間

 「行間を読め」と言われるのが嫌いだ。読めないこともあるが、そう言われるときはたいてい、行間を読み取って、拒絶しているときだからなのだ。こう思うことが多かった、若い頃だが、「だいたいたいにおいて、きみたちより文学・評論を読んで現国なんか無勉強でクリアの僕がそもそも行間とやらを読めないと思っているというのはどういう了見なんだかな」という感じである。しかし、それはある種の若者の凡庸さの現れの一つでしかない。
 行間など読めと言われるものではなく、読めてしまう行間にどう対処したらよいのか。たいていの場合は、沈黙である。そもそも「行間を読め」というのは、命令だからだ。そして、それを読まないことは、その命令への拒絶だからだ。そして、拒絶を口にすれば、弱者のポジションにあれば、一悶着起きる。沈黙以外にどうしろと。
 で、この状況である。
 どの状況か。行間だ。
 回りくどく書きたい。
 登戸の無差別殺人で、いくつか心に引っかかることがあった。一つは、「拡大自殺」という言葉だ。NHKの報道で知った、というか、ああ、またNHKやらかしたなと思った。ググると毎日新聞もこのビッグウェーブに乗ろうとしていた。さすがに他メディアもそこまでバカじゃないから、その後、この言葉に気がついただろう。NHKも事後気がついたかもしれない。当然だろう。それが「自殺」の一種なら、自殺報道というものをどう扱うというのか?
 しかし、事実としては、自殺であろう。そして、通り魔殺人ではあれ、自殺が伴うときであれ、「わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」という思いは去来する。
 心に去来するもう一つはそこにつながる。私は、被害者への献花の映像を見ながら、岩崎隆一容疑者に花束を捧げようかと思ったのである。そして戸惑った。行間は読める。彼への献花であるなら公営バス停側に置くべきだろうか。多くが捧げるファミマ前でよいのではないか。あの献花の山は、被害者に捧げた花束だけとは限らないだろう、そう思ってみた。その花束のなかに岩崎隆一容疑者への献花も含まれているだろう、それがどれかはわからないとしても、と思った。そして、それを信じた。私は、「黙祷!」にも呼応しない人である。死者への献花は知己なりの行間を読む以外にはしない。それをあえて、無関係の他者にするというのも欺瞞だろうとも思った。
 そして、練馬の親族殺人事件。
 困ったことになったなと思った。まず、親族殺人事件そのものが困ったことだし(その背景心理は稀有なものではないし)、引きこもりが危険という行間の読みも困ったことだと思ったが、さらに問題は、登戸の事件との行間である。
 文脈は明確には存在していない。だが、行間だけは浮かび上がる。それを、「そう解釈するのは恣意的過ぎるのではないか」と言えるかというと、言えはするが、そう言うこと自体が、別の「お前は黙っていろ」という行間のメッセージになる。
 たぶん、この行間のメッセージはすでにそれほど恣意的とも言い難い。
 事件について私も語りたいのだろうか。ただ、こういう行間は読める。
 40歳を過ぎた引きこもりで家族と軋轢の歴史があり、そこで登戸の事件。ここに、行間。この40歳過ぎた引きこもりがとんでもない社会事件を引き起こすとしたら親としてどうすべきか。
 NHKニュース『農水省元事務次官逮捕 長男は近隣トラブルで実家に戻ったか』ではこういう文脈が唐突に現れる。

 その後の調べで、長男は以前、都内の別の場所に住んでいましたが、ごみ出しなどをめぐって近隣の住民とトラブルになっていたことが捜査関係者への取材で分かりました。その後、長男は実家に戻り、両親と同居していたということです。
 捜査関係者によりますと、熊澤容疑者は「長男はひきこもりがちで家庭内暴力もあった。周囲に迷惑をかけてはいけないと思った」と供述しているということです。
 事件直前には近くの小学校の音がうるさいと腹を立てていたのを父親にたしなめられて口論になったということで、警視庁は同居後もトラブルが絶えなかったとみて、容疑を殺人に切り替えて詳しい経緯を調べることにしています。

 「周囲に迷惑をかけてはいけないと思った」という供述の意味は、文脈的には、かつてのできごとである。だが、行間からは、「これ以上周囲に迷惑をかけさせてはいけない」というメッセージが読める。
 もちろん、それは読みすぎだし、そう読むのは間違いだという意見があるのもわかる。そもそもそれが行間だ。
 だが、読売新聞『「運動会うるさい」騒ぎ始め…書き置きに「殺すしかない」』は、こう報道している。

 東京都練馬区の民家で起きた殺人事件で、無職の長男(44)を刺したとして、殺人未遂容疑で逮捕された元農林水産省事務次官の熊沢英昭容疑者(76)が調べに対し、「周囲に迷惑をかけてはいけないと思い、長男を刺した」と供述していることが捜査関係者への取材でわかった。日常的に家庭内暴力を繰り返していた長男を「殺すしかない」と記した書き置きも発見され、警視庁練馬署は、熊沢容疑者が将来を悲観して事件を起こしたとみている。

 不愉快な行間のメッセージはこれで確定したのかというと、冷静に考えれば、文脈はできあがったが、今回の殺人がそれであったか、まだはっきりとはわからない。
 で、何が問題なのか。行間である。
 こう言ってもいいかもしれない。行間を読んで生きるのは、とても嫌なことだ。それは責任所在の不明な命令だからだ。
 では、行間を読まないということは、どういうことかというと、現在の日本の情報空間では、それを読んだ上で、拒絶するということでしかないのではないか。
 登戸の事件と練馬の事件について、中年の引きこもりという文脈を作り上げられる。その時点で、そこで、実際上、行間を読めとする空気が生まれている。こうした行間に対抗するには、行間を読んだ上で、まだ何も言えないはずだろうと、しばらくは拒絶することが重要なのだろう。

【同日追記】

 残念ながら、その後、この行間の読みを強化する報道は現れた。『長男の暴力は中学から 父親の元農水次官「身の危険感じた」』より。

農林水産省の元事務次官の76歳の父親が44歳の長男を刺したとして逮捕された事件で、長男の暴力は中学時代から始まり、父親は「身の危険を感じた」と供述していることが分かりました。先週、川崎市で男が小学生らを殺傷した事件を見て「息子も周りに危害を加えるかもしれないと思った」とも供述していて、警視庁は詳しい経緯を調べています。

 

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