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2019.06.30

英語の現在進行形は、現在進行しているとは限らない

 ついでなんで、英語の現在進行形は現在進行しているとは限らないという話も書いておこうかと思い、VOAを覗いてみたらやはり適切なコンテンツがあったので、これも意訳しておこうかと思う。


今日は、進行形を学びましょう。進行形は、未完了または進展中の行動を表現します。進行形に3つあります。過去進行形、現在進行形、そして未来進行形です。進行形は継続形と言ってもいいでしょう。

過去進行形
例: It was snowing when I drove to work.
形: Was/were + -ing verb

現在進行形
例: It is snowing.
形: Am/is/are+-ing verb

未来進行形
例: It will be snowing by the time I get home.
形: Will be + -ing verb


現在進行形


最も一般的な現在進行形から始めましょう。現在の進行形は、be動詞に–ing動詞を続けることで作ります。例えば、“I am watching a movie.”などです。

現在形と現在進行形は、混同しやすいものです。ここで質問。次の2文の違いは何でしょう?

It rains in Seattle.
It is raining in Seattle.

“It rains in Seattle”は、一般的に雨が降っていることを示しています。話しているときに雨が降っているという意味ではありません。 “It is raining in Seattle”は、過去に雨が降ったことを意味します。そして、現在も雨が降っており、おそらく今後も続くのでしょう。

現在進行形の文には、"Now" "at this time" "currently"といった副詞がよく伴います。

現在進行形は、未来に実現する予定を表現することもできます。 例えば、この文は、形の上では現在進行形ですね。

She is starting school next semester.

でも、この文の意味は、単純な未来の文の意味と同じなのです。つまり、次の文の意味と同じです。

She is going to start school next semester.

現在進行形は、単純未来と同じ意味になるがあります。

現在進行形は、"always"を伴って、迷惑を受けている意味合いが出せます。つまり、何かがあなたの邪魔をすると言うのに、現在進行形を使うことができます。

My neighbor is always playing loud music at night.
I am always making mistakes with verb tenses !

過去進行形

次は、過去進行形です。過去進行形は、過去に継続中だった出来事を表しています。過去進行形を作るのには、"was"か"were"に –ing形の動詞を続けます。例えば、“I was working late last night.”

過去進行形の1文には、多くの場合、2つの動作が含まれているものです。次の例を見てください。

It was snowing when the plane landed in Denver.

「飛行機がデンバーに着陸したとき、雪が降っていました」ということですが、飛行機が着陸したという動作が単純過去になっている点に注意してください。

過去進行形は、2番目の動作によって中断された進行中の動作も表現できます。次の例文を注意して見てください。2つの動作が発生した時間は異なります。

I was running when I slipped and fell.
I was sleeping when you called.

仮に、2つの動作が同時に起きたのなら、両方を過去進行形の文に含めます。こうなります。

I was sleeping when you were working.

未来進行形

未来進行形は、未来に継続する動作を表します。未来進行形を作るのには、"will be"に –ing形の動詞を続けます。例えば、“I will be waiting for you when you finish work.”

未来進行形は、計画を立てていることの表現に役立ちます。例えば、あなたの友人が明日空港に彼女を迎えに来てほしいという状態を想像してみてください。でもここで、あなたは仕事があってできない、とします。

こんなとき、あなたは彼女にこう言うことができます。時制に注意してください。

“I’m sorry, but I will be working when your plane gets in.”

状態動詞

進行形にできない動詞がいくつかあります。次の例を見てください。

正: I own a car.
誤: I am owning a car.

Own(所有する)という動詞は、状態動詞です。状態動詞は、変化しない条件や状況を表します。状態動詞は、心の中の動きを示す動詞が多いものです。例えば、次の動詞です。

know, realize, like, believe, understand, love, hate, appear, exist

しかし、状態動詞でも、進行形になるものがあります。具体例を見ましょう。

I think the book is good.
I am thinking about you.

違いがあります。“I think the book is good”では、動作の変化は示していません。“I am thinking about you” は、一時的に変化する動作を示しているのです。

この点については、知覚動詞についても同じようになります。次の動詞が知覚動詞です。

see, taste, feel, smell, hear

進行形というのは、感情の変化を示すのに特に役立ちます。だから、歌の歌詞によく見られるのです。いくつか例を挙げておきましょう。

[John Lennon]
“I was dreaming of the past
And my heart was beating fast
I began to lose control…”

[Styx]
“I’m sailing away
Sail an open course for the virgin sea”

[Adele]
“I'll be waiting for you when
you're ready to love me again
I put my hands up
I'll do everything different
I'll be better to you”

執筆は、John RussellとJill Robbinsでした。



 さて、ちなみに、こうした説明を読むと、以前話題になった、マクドナルドの決まり文句、"i'm lovin' it"の含みもわかるだろう。もちろん、これは、文法的には間違いだけど、感情の動き・変化を表しているわけだ。しいて訳せば、「好きになってるよ!」あたり、だろうか。

 

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2019.06.29

英語の現在完了形は過去を表す

 英語の現在完了形は過去を表す、というふうに単純には、学校英語では教えていないような気がする。ネットを検索しても、現在完了形の3つの用法と使い分けといった説明がよく出て来る。間違いとも言えないのだろうが、もっと単純に、英語の現在完了形は過去を表すと考えてよいだろう。そうした説明に適したものはないかと見ていたら、VOAの英語学習教材に"Simple Past and Present Perfect"という解説記事があった。以下、意訳しておこう。


今週の「日々の文法」の回では、単純な過去形と現在完了形の違いが理解できるようにしましょう。英語の学習者はしばしばこれらの2つの形を混同します。

例から始めましょう。 この2つの文の違いを言ってください。

文1:I saw the movie.
文2:I have seen the movie.

文1は単純な過去形を使っています。 文2は現在完了形を使っています。

過去だけど時刻が不確かなら現在完了形
文1"I saw the movie"と文2"I have seen the movie."はどちらも過去に終わった行動を指します。しかし、重要な違いが1つあります。文1"I saw the movie"というのは、過去の特定の時刻にその映画を見たことを意味します。文2"I have seen the movie."は、過去の不確かな時間にその映画を見たことを示しています。

特定の時刻が想定されているなら過去形
もう終了した行動だけど特定の時刻に起きた行動について話すのなら、過去形を使ってください。例えば、“I went out with my friends last night.”という文で、副詞”last night”は必須ではありませんが、その出来事が特定の時間に起こったことを明確にするのに役立ちます。

現在完了形は過去の行為を強調する
ここまでは簡単ですね。では、現在完了形について説明しましょう。現在完了は、"have"または"has"の後に動詞の過去分詞形を続けることでできます。例えば、"I have graduated from college."という文を取り上げましょう。この現在完了形の文は過去の行動を示しているので英語の学習者を混乱させます。でもこれが「現在完了」と呼ばれるているのには理由があります。この文を話した人が、過去の出来事の重要性を、現在の時点で強調するためなのです。つまり、"I have graduated from college."という文は、過去の出来事の現在への影響、すなわち、ここでは「卒業」を強調しているのです。他方、正確な卒業の時期は重要ではないのです。

一般的に現在完了形が求められるのには、さらに4つの状況があります。

過去に繰り返した動作なら、現在完了形
まず、現在完了形は繰り返した行動を表現できます。過去に複数回行動が発生した場合は、現在完了形を使用してください。 例えば、"I have seen the movie three times"などです。

過去に継続した動作なら、現在完了形
第2に、"for"と"since"という言葉と一緒に現在完了形にするのが一般的です。"for"と"since"は、活動の継続期間を表す副詞です。これらの副詞は"how long?"という質問に答えるものです。例えば、"I have studied English for a long time"というようにです。

"never"を伴うなら、現在完了形
第3に、否定的な副詞の"never"は、現在完了形を必要とします。あなたは"I have never been to France."と言えます。他方、"I did never go to France."とは言えません。

"ever"を伴う質問なら、現在完了形
最後に、現在完了形で質問をするときは、"Have you ever won the lottery?"のように"ever"を使ってください。では、アメリカのロックバンド、Creedence Clearwater Revivalによる現在完了の質問を聞いてください。

I wanna know have you ever seen the rain?
I wanna know have you ever seen the rain
Coming down on a sunny day?

会話では、have/hasが省略できる
くだけた会話では、現在完了形の質問なのに"have"が省略できます。1989年の映画『バットマン』で俳優のジャック・ニコルソンがジョーカーを演じるのを聞いてください。ジョーカーが犠牲者を連れて行く前に、彼は彼らに変わった質問をします。

Tell me something, my friend. You ever danced with the devil in the pale moonlight?

ちょっと一言。副詞に注目してください。過去形か過去分詞かは、副詞が手がかりになります。参考のリストを見てください。

現在完了形の練習にいいのは、英語を話す友人に、何かをしたことがあるかどうか、尋ねることです。"Have you ever flown in an airplane?"または"Have you ever seen the Grand Canyon?"とか。もっと珍しい体験を聞くのもいいでしょう。"Have you ever seen the rain coming down on a sunny day?"とか。

I wanna know have you ever seen the rain
Coming down on a sunny day?

以上の説明は、Ashley ThompsonとJonathan Evansでした。

参考

現在完了形の作り方
Have/has + past participle verb

例. I have proven her theory.
例. She has gotten promoted.

過去形と一緒に使う副詞: last night, last year, yesterday, today, ago, first, then, later, when

例. Yesterday morning, I went to the store.
例. When I lived in Boston, I worked at a deli.

現在完了形と一緒に使う主な副詞: before, after, already, yet, for, since, recently, still, time

例. I have already eaten.
例. I have already visited Angola three times.

注意点1: 不規則動詞の完了形に注意してください。不規則動詞では、過去と過去分詞の形は通常異なります。

誤: I have already did it.
正: I have already done it.

注意点2: 現在完了形の三人称単数では、"has"を使ってください。

誤: She have not read the book yet.
正: She has not read the book yet.

 

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2019.06.28

とりあえずイタリア語、3か月

 4月から始めたイタリア語だが、3か月を終えた。「終えた」というのは、ピンズラーのレベル3まで終えたからという意味合いもある。なかなかきつかった。
 これまで、フランス語はレベル5まで数度繰り返した。あのころの勢いからすると、イタリア語もこのままレベル4へ、とも思うが、少し間というか、1か月くらいあけてから再開しようかと思う。
 中国語とドイツ語はレベル4までやるにはやった。このときもきつかったが、時が経つとけっこう忘れてしまう。語学はフォローアップしないと能力的には薄れてしまうものだ。
 今回はピンズラーによる学習は、サブというわけではないが、メインともしなかった。最初にPaul Nobleを使った。Next Stepもやったので、だいたでだいたい入門に20時間くらいだろうか。他に、Duolingoもやっている。この点は、ドイツ語のときも同じ。
 さらに、今回は最初から、普通にネイティブのイタリア語の講座を学びに行くことにした。週一ではあるが、これがかなりモチベーションの維持になっている。
 ほとんど初歩の時点から、外国語をネイティブに学ぶというのはどういう感じなのか知りたいというのもあった。その実感からすると、語学というのは、ネイティブがいないとだいぶ異なるものだなと思った。
 ネイティブに学ぶことを意識したのは、この2年間はフランス語のほうをネイティブに学んでいたからだ。私のフランス語はたぶん、B1からB2くらいだろうと思う。とりあえず、フランス語については、フランス語だけの授業もそれなりにわかるようにはなった。現状だと、イタリア語だけの授業はまだきついかとは思う。A2には十分行ってない気がする。
 以前、中国語やドイツ語、そしてロシア語を学んだおり、その勢いでイタリア語も少しかじったのだが、あのときは、フランス語に似すぎていて混乱した。今回はそれほどでもない。むしろ、学ぶにつれ、フランス語との差異がはっきりしてきた。とはいえ、文法については、ほとんど似ているので、楽は楽だと思っていた。が、条件法の過去とかでは、けっこう違っていたり、代名詞の目的語の動きなどもフランス語とけっこう違うので、やはり別言語なのだと思えるようになった。
 そんなわけで当初は、イタリア語はフランス語によく似ている、ロマンス語だからな、と思っていたのだが、どうも実感としては、英語にも似ているようにも思う。英語が、ノルマン・フレンチの影響があるから当然とも思っていたのだが、それともちょっと違う感じがする。
 例えば、"perfect"という単語だが、もとはラテン語だとして、ラテン語から英語にそのまま入るとすれば、時代的にはかなり古いだろうが、そういう印象はない。普通に考えると、ノルマン・フレンチ経由だろうが、現在のフランス語だと、"parfait"となり、音の印象がかなり違う。
 語源にあたると、Dictionary.comとかはこうある。

1250–1300; < Latin perfectus, past participle of perficere to finish, bring to completion (per- per- + -fec-, combining form of facere to do1 + -tus past participle suffix); replacing Middle English parfit < Old French < Latin as above

 つまり、中英語のparfitが、置き換わったということだろうか。いずれにせよ、古フランス語そして、ラテン語に至るわけだが、"1250–1300"というややスペシフィックな年代で、どうしてラテン語なのか? というと、当然、中世英国の人文学者らのラテン語知識によるのだろうが、そこで、さらに気になるのは、やはり、なぜこの時代にラテン語?なんだろうか?
 気になるのは、ダンテだ。彼は、1265年ー1321年。だいたい同年代だからだ。直接、英語にダンテの影響がある、というわけではないが、イタリア・ルネッサンス期には重なってくる。
 時代的には後代になるのだが、シェイクスピアの作品の背景も、イタリアの影響が目立つ。
 というか、英語にはイタリア・ルネサンスの影響がけっこうあるんじゃないか。英国の人文学というか、芸能にもけっこう直接的にイタリア・ルネサンスが関わっていたのではないか。それ以前には十字軍もあるだろうが、こっちは俗ラテン語ではあるだろう。
 もう少しきちんと調べないといけないが、英語のラテン語起源の語彙は、ノルマン・フレンジやアンジュー帝国の影響(この2つは英語に2系統の残存を残している)の他に、ラテン語文献からの人文学者のラテン語という3層があるかと思っていたのだが、直接的な、つまりフランスを経由しないイタリア・ルネサンスの影響がけっこうあるんじゃないかと思った。
 話はそれと逆になるが、現代イタリア語は、直接英語の影響を受けている印象も強い。その例になるかわからないが、「身分証明書」はフランス語的に考えると、"Carta d'identità"になりそうだが、実生活的には、"Documento d'identità"で、"Documento"だけでもよさそうだ。用例的には外来語ではあるのだろうが、不思議な印象はある。

 

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2019.06.27

Echo Show 5を買った

 Echo Show 5を買った。つまり、これだ。



 買ったのは、単なる興味からだ。Echo Dotも買う気でいたが、Google Homeで十分に思えた。Echo Spoも買う気でいたが、逸した。まあ、今回はと。
 で、どうか?
 要するに、時計である。
 これにラジオの機能が付いている(radikoである)。
 まあ、基本はそれだけで、音楽も鳴る。CDプレーヤーの代わり、昭和人的には。
 当然、天気予報やニュースも見られる。
 それなりにいろいろ答えてくれる。ちなみに、G20のニュースを見ていて、安倍首相がけっこう背が高いので、その身長を聞いたら、178cmと言っていた。(ちなみに、Googleさんに聞いたら、175cm)。
 「F35の写真を見せて」と言ったら、Bingから写真を出してきた。
 これは便利かというと、まあ、普通に便利。
 使い方はいろいろあるだろう。最新ニュースを常に表示させたり、個人通知をリアルタイムに表示させたりと。
 僕自身はそういうのはうるさいと感じるので、基本時計で十分。

「ちみもうりょうという漢字を表示して」
「ごめんなさい、ちょっとむずかしいです」
「じゃあ、もっと漢字勉強してね」

「だじゃれを言って?」
「らくだに乗ったら、楽だった」

 Google Homeと比べてどうか?

「だじゃれを言って?」
「本棚に入れるのはやっぱり本だな」

 だじゃれはさておき、個人的な印象だが、調べごととかは、Googleの勝ち。Googleの他のサービスとの連携もいい。だったら、Google Nest Hubがいいんじゃねとも思うが、現在、大型パネルとGoogle Homeを連携しているので、そのニーズが僕にはない。
 今回も思ったことだが、この手のガジェットの最大の欠点は、電源だろうな。AC電源からコードをつなぐというのが美しくない。
 機能をもっとベッドサイド用に特化して、単一乾電池2個で一ヶ月くらい動くというのがあってもいいようにも思う。ただ、それだとつまりは、タブレットということか。
 子供が自立しはじめてきたので、こうしたテレビ電話にもなる装置で気軽にコミュニケーションが取れるといいようにも思うが、そこまで家族のつながりを重視するのもどうか。

 

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2019.06.26

ミシェル・フーコーは生きづらさにどう答えたか?

 たまたま、Eテレに『世界の哲学者に人生相談』という番組があることを知った。歴史に名を残す哲学者に人生相談するという趣向の番組である。なんとなくどこかの新興宗教の降霊ような感じがしないでもないが、哲学者に寄せられた人生相談という趣向は面白い。というか、なんとなく、最近またというか、人生相談が流行っている感じするよな。
 で、そのときのテーマというか、お答えする哲学者がミシェル・フーコーだったので、気になって番組を見た。その回のテーマは、「社会の中での生きづらさ~フーコー~」というものだった。

 今回のテーマは「社会の中での生きづらさ」フランスの哲学者フーコーの考えからヒントを探る。彼は自らが同性愛者だったことを悩み「生きづらさ」の根源について探求した。
 フーコーは、時代ごとに社会の大きな価値観が異なることに注目し、それを「エピステーメー」と名づけた。例えば「狂気」の社会的な位置づけも、エピステーメーによって大きく異なる。さらに、私たちは、知らぬ間に「心の監視システム」にとらわれているという。その名は「パノプティコン」。そこから抜け出すにはどうすれば良いのか?スタジオでは、ゲストの室井滋さんが、生きづらさを感じていた過去について打ち明ける。

 番組のメインの司会は高田純次。なかなかかっこいい爺さんになっていたが、ノリは昔と変わらず、なんでこの番組の司会やっているのかよくわからない。講師は山口大学の小川仁志教授。番組の学問的な部分は彼が担っているのだろうか。
 で、番組だけど、ゲストの室井滋さんの話が三分の一くらいかな。フーコーとの関連は特になさそうなので、普通に彼女のゲスト番組でいい感じ。
 テーマのフーコーについては、ごく普通の紹介と「エピステーメー」と「パノプティコン」の解説。そこから、人生を一つの芸術として捉えるという考え方。
 さて、ここから生きづらさをどう考えるのだろうかということだが、まあ、僕にはよくわからなかった。が、概ね、こういうことなんじゃないか。社会の一般的な考え(エピステーメー)というのがあって、それに人は自分自身を監視させている(パノプティコンのように)。だから、そんなことを気にせず、自分の人生を自分が作り上げる芸術作品のように捉え、自分にあった生き方をしたらいい、ということのようだ。で、いいのかな。まあ、そんな感じ。
 で、極めつけの、フーコーのお言葉でまとめられる。曰く、「実存の美学を極めれば生き方は変えられる。ミシェル・フーコー」
 うーむ。フーコー、そんなこと言ってたかな。
 番組での説明は、ゲイであることを公開したフーコーは自分の生き方に自身を持って生きるようになった。実存は、生きるということ。っていう感じだった。 
 思い当たることはある。フーコーは晩年(といっても57歳で亡くなったのだが)、1980年代前半、大著『性の歴史』を書きながら、ルモンドなどでインタビューをしていて、これが日本では、1987年に『同性愛と生存の美学』として出版されている。フランスでこのインタビュー集があるか知らないが、翻訳編集本の表題にある、「生存の美学」は確かに彼の晩年のテーマではあった。フランス語だと、"une esthétique de l'existence"ということ。NHKの同番組ではこれを実存の美学としたわけだ。訳語としてはどっちでもいいだろう。フランス語のesthétiqueは、「エステ」という意味より「美学」でいい。が、日本語の「エステ」の美しく仕上げるという意味合いはあるだろう。
 まあ、美を追求して生きるということではあるだろう。もっと、卑近に言うなら、自分がかっこいいと思う生き方を自分でしろ、ということだろう。
 ルモンドでのインタビューでこの用語が使われている部分は、こう。

De l'Antiquité au christianisme, on passe d'une morale qui était essentiellement recherche d'une éthique personnelle à une morale comme obéissance à un système de règles. Et si je me suis intéressé à l'Antiquité, c'est que, pour toute une série de raisons, l'idée d'une morale comme obéissance à un code de règles est en train, maintenant, de disparaître, a déjà disparu. Et à cette absence de morale répond, doit répondre une recherche qui est celle d'une esthétique de l'existence.

【試訳】
古代からキリスト教の時代にかけて、私たちは、本質的に個人的な倫理探求であった道徳から、規則体系に従順であるような道徳へと移行してきました。そして私が古代に関心を寄せるのは、当然のこととして、制限に従順であるような道徳が今消えつつあり、もう消えているからです。道徳の不在について、何が生きる道徳なのかという探求をもって答えなくてはなりません。

【超訳】
古代からキリスト教全盛の中世への時代変化で、一人ひとりがいかに生きるべきかという生き方は、ただ、キリスト教のような規則に従うだけの生き方になってしまいました。しかし、私が古代に関心をも向けるのは、規則に従うだけの生き方はもう時代的に終わったいます。現在の私たちは、自分自身で美しいと思う生き方をするべきなのです。

 例によって誤訳もあるだろうと思うが、概ねフーコーが、美学として言っていることは、社会の規則に従うのではなく、自己の美意識で生きろということということだが、で?
 たぶん、ここで抜けているのは、この時代のフーコーが言う、「快楽の活用」つまり、"L'usage des plaisirs"ということ。欲望を高めるために制御すること。短絡的だが、美学は欲望との対応になっているだろう。
 で、ぶっちゃけどうかというと、生きる虚しさ、生きづらさみたいなものに対して、美や性から快楽を訓練して引き出すことで効果的にヒャッハーに生きろ、ということだろう。快楽を開放するというより、快楽を絞り出すための厳格な生き方というか。

 

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2019.06.25

ラノベ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を全巻読み返した

 ラノベ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を全巻、読み返した。アニメは5周くらいしているので、さすがに、読みながら、アニメがよく想起される。ということは、違う点や、脚本上の演出の違いなど。細かくチェックもした。
 一日一冊ペースくらいで読んだ。読み応えがある。というか、読書のそれ自体の快感がある。
 個人的にはあたためて、すごい作品だなと思う。文学的に優れているかというと、優れているだろうとは思うが、アカデミックな批評対象にはなりにくいかも知れない。ラノベ的要素が勝りすぎている。ということは、そこを削ってスタイリッシュに書き直せば、純文学かというと、それだとこの作品の面白みはないだろう。
 いろいろ発見もあった。
 文学の関連でいうと、漱石の『こころ』は当然、直接的な影響が強くあるのが確認できた。太宰治『人間失格』の影響もある。宮沢賢治なども。
 ストーリーが非常に緻密で、特殊な叙述トリックになっているのだが、全体通して読むと、比企谷八幡と葉山隼人が、文学的な比喩としては同一の設定になっている、いや、設定というのではないな。同一の人間の心性の何かというか。
 この点で興味深いのは、作品が、基本「俺」(比企谷八幡)の視点で語られているのに、小説の世界は他者の思惑のなかで「俺」が錯綜させられている点だ。これは文学的には非常に面白いしかけなのだが、10巻で「手記」として、突然他者が現れる。
 その後、12巻以降、interludeとして他者の内面が入り込む。この評価が難しい。一種のネタバレ的に、「俺」から見えない世界が開示されてくるのだが、それでよかったのか? 
 ただ、「手記」の時点は鮮やかで、あれは、葉山隼人の手記でもあると気がついて、このあたりのしかけは、ちょっと鳥肌が立った。
 以前読んだときは、エンディングには悲劇しか思い浮かばず、そして、現在の巻をもって未完でもいいようにも思えたが、今回読み返してみると、そう悲劇でもないようには思えた。雪ノ下雪乃の絶望しかないと思っていたのだが、そうでもない。由比ガ浜に委ねられている。
 総じて、青年が大人になる物語というフレームをもっていながら、そうとばかりもいえない。愛することと共依存は、大人の恋愛そのものでもあるし。
 アニメの3期が予定されている。いちおう、最終巻も構想されているのだろう。アニメ脚本だと、interlude的な部分は別の表現になる。そこも興味深い。
 くだくだ言ったが、すべての文学がというわけではないが、文学の本質の何かは、ぼっちと自意識と恋愛だろう。それがこの作品に見事に溶け合っていた。


 


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2019.06.24

公教育の水泳ってなんだろうか?

 ツイッターを眺めていると、ちらほらと公教育での水泳廃止の話題が目についた。夏になったからだろうな、と思い、いくつか話題を追ってみると、水泳のために生理の申告をさせるのはどうか、ということが今回の話題の中心のようだった。参照されているニュースを読んでみると、けっこうひどい実態がありそうだった。
 こうなるとそもそも論が出てきても不思議ではない。そもそも、公教育に水泳教育って必要なのだろうか?
 すぐに脳裏に賛否が浮かぶ。というか、必要論が思い浮かぶ。水上安全の能力の獲得とかいうのではないだろうか。
 で、疑問が起きる。現在の水泳教育は、水上安全の能力の獲得にきちんと貢献していると言えるのだろうか? つまり、その達成目的が明示され、その達成はきちんと評価されているのだろうか?
 着衣水泳の授業などもあるが、それらを含め、こうした水泳教育が水上安全の能力に結びついているといえるのだろうか。
 さらに疑問が生じる。水上安全の能力の向上なら、それに特化した教育だけでも十分ではないのか。またさらに、そもそも論になるが、そうした教育と水難事故の発生には関連がないんじゃないか。
 こうした問題の議論の基礎となる実態研究がよくわからないので、私などはこれ以上議論しようがないような気がする。
 水上安全の能力以外に、泳ぐ能力という点でも、疑問に思うのは、ある。自分もけっこう水泳が趣味だったので思うのだが、泳ぎの指導というのは、個人的に行う必要がある。ひとりひとりフォームを直していく必要があるのだ。だが、そうした教育はなされているのだろうか。教師にその指導能力はあるのだろうか? 否定的な印象はもつ。
 関連ニュースを追っていくと、地方自治体によっては、プール設備が維持できないところもあるらしい。
 振り返ってみると、東京都の小中学校にプールが標準的に装備されるようになったのは、美濃部都政の成果だったように思う。あのころを思い出すと、プールが楽しいものだという憧れだけった。
 日本の社会が変わったのだ。これから日本の社会は、ムスリムも包摂していかなくてはならない。水泳教育を継続するなら、そうした配慮にもいっそう取り組んでいく必要はあるだろう。

 

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2019.06.23

6月23日が何の日か知ってますか?

 6月23日が何の日か知ってますか?
 たぶん、慰霊の日ということになるのだろう。では、慰霊の日とは何の日かというと、沖縄での戦争で日本軍を指揮していた、第32軍司令官牛島満大将が自殺した日とされている。それで? 
 それで組織的な戦闘が終結したとされている。本当?
 実際には、戦闘はその後も続いた。
 なぜ、日本軍の一大将が自殺した日を慰霊するのか、私はよくわからない。
 それと、慰霊の日が定まったのは、沖縄がまだ日本に復帰していない1961年のこと。琉球政府は、6月22日を慰霊の日を定めた。が、1965年に一日ずらして23日と変更した。牛島満大将が自殺したのは、6月23日の未明というのは史的に確定していたのだろうか。
 それ以外に6月23日は何の日か。と、そうだなあと思い、ウィキペディアでこの日の項目をを見たが、次のことは、書いてなかった。
 この日は、日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)が1960年に発効した日である。
 50周年記念にあたる、2010年6月23日には、「日米安全保障条約改定50周年」切手が発行されている。
 そんなわけで、6月23日は安保記念日としたらいいんじゃないかと思うが、そういう話も、令和の時代ということなのか、聞かなくなったように思う。
 憲法学者らでつくる「安全保障関連法に反対する学者の会」はこの日、「一人ひとりの尊厳が尊重される平和で民主的な社会のために――今こそ主権者としての行動を」というアピールをした。

 2015年9月19日に安全保障関連法が強行採決された翌日、「安全保障関連法に反対する学者の会」の学者170名が学士会館に集い、大記者会見を開き、抗議声明を発表しました。
 学者の会は、この日よりこれまで15回の集会やシンポジウムなどを開催し、のべ1万2000人を超える方々と学び、考え、行動をともにしてきました。そして、学者の会の取り組みは、全国各地に大学有志の会が立ち上がるなかで、いっそう広がり、力強く展開してきました。
 平和主義、立憲主義、民主主義という基本的価値を守りはぐくむ志を同じくする私たちは、それぞれ学者としての専門的立場から、そして大学という学問共同体に身を置く大学人として、学生や市民、労働者の皆さんと連帯し、路上や生活の場で声を上げるとともに、学問の軍事利用に反対し、大学や学校、職場や暮らしを壊し、個人の尊厳を奪うような政策の抜本的転換を訴えてきました。
 しかし、この間、安倍政権は暴走をつづけ、国家の根本さえ大きく歪めてしまいました。ポスト真実の政治が、日本の将来を蝕んでいます。
 この夏の選挙で、日本の「戦後」は、最大の正念場を迎えます。結果次第では、まっとうな議論のないまま、明文改憲への動きがいよいよ加速することになってしまうでしょう。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」という70余年前の焦土の決意と希望は、私たちの代で意味を失ってしまうのでしょうか。
 闇の深まる時代に、学問が照らす光は、私たちの歩む道を示すはずです。自らの蒙を啓く研鑽の場としての大学は、未来を切り拓くための「自由の砦」たりうるはずです。
 2015年、大学から路上にとびだした若者たちが、政治は、統治者の支配の道具ではなく、私たち主権者一人ひとりが尊厳あるくらしを勝ち取るための日常であることを教えてくれました。
 学者の会は、いま再び、市民の皆さんに呼びかけます。
 大きな連帯をつくることによって、私たちは政治を変えることができます。
 今こそ、主権者としての行動を起こし、私たちの声で議会を動かそうではありませんか。
 
 2019年6月23日
 安全保障関連法に反対する学者の会
 大学有志の会ブロック連絡会

 アピールが6月23日とされ、安全保障関連法が問われているが、安保条約が発効した日についての言及は、そこにもなかった。

 

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2019.06.22

アニメ『さらざんまい』とはなんだったか?

 今期のアニメで何がおもしろかったかといえば、いろいろ議論があるだろうが、どうしても話題になる作品は幾原邦彦監督の『さらざんまい』だっただろう。そして、これは評価が難しい作品でもあった。毎回、3回は見た。すでに3周はしている実感はある。
 難解さと明快さが入り交じる作品だったとは言えるだろう。難解さについては、幾重にもしくまれた謎や象徴、物語構造、暗喩、オマージュなどが錯綜している。ここから何を読み出すのかというのは、大変な知的作業を要する。だが、それだけの労力が報われるだろうという作品価値が視聴者に直感されるかというと、そこは『輪るピングドラム』より危うい印象はあった。以前のこの作品がオウム事件という巨大な事件の問題を内包していることが明快であることに比べて、今回の作品で提示されている問題の射程は簡単にはわからない。
 映像およびアニメ表現においては、画期的な作品であったと言ってもいいだろう。つまり、このアニメ作品自体がモダンアートだった。この点については、美術の側面から、また世界的にも評価されるのではないだろうか。
 そうした、難解さやアート性とは対比的に明快さもこの作品の特徴といっていいだろう。単純にいえば、人情話であった。人情話も多層的ではあるが、もっとも深く強い部分は、久慈悠に代表される、少年犯罪だった。端的に、少年犯罪の友人を刑を終えて再び友情のなかに取り込んでいく部分である。刑を終えた若者を社会に包摂していくありかたは、他の差別など社会問題の根の部分の緩和にも機能するものだ。
 考えてみると、『輪るピングドラム』も犯罪者とその関係者としての家族の物語であった。こうした、人情話がきちんと人情話の水準で情感を揺り動かす作品がまだ存在していること、それ自体に、社会的な意味は、まずあるのだろう。

 

 

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2019.06.21

BBC One 『検察側の証人』

 アガサ・クリスティー原作で2016年にBBC Oneで放映されたドラマ『検察側の証人』がNHKでやっているので見た。以前NHKで見た『そして誰もいなくなった』が、なかなか見ごたえがあったので、これも期待していた。見た。期待以上だった。
 原作はアガサ・クリスティーの代表作とは言えないだろうが、短編の傑作とされている。マレーネ・ディートリッヒ主演で『情婦』として映画化されたこともある。原作自体に脚本版もあり、劇にもなったりするようだ。なお、同名の日本映画の原作は別。

 

 ネタバレなしで話を進めると、原作ストーリーは、大金持ちの独身女性エミリーが、街で知り合った青年レナードの情人となる。が、ある夜、彼女は撲殺された。状況証拠も不利なうえ、彼を見かけたとする証言もある。しかもアリバイを立証するはずのレナードの妻ロメインも夫の犯行を裏付ける証言をしてしまった。弁護士ジョン・メイヒューはどうやって、レナードの無実を立証するか。という法廷物で、アガサ・クリスティーらしい、あっと言わせるどんでん返しがあるという作品。
 で、このBBC One版も、基本は原作をなぞっているかに見えるのだが、冒頭からしてまったくトーンが異なる。すでによく知られているアガサ・クリスティーの原作をさらにどんでん返しさせる情景的な伏線がしかけられている。これは、ちょっと一筋縄ではいかない現代的な作品だなと感じさせる。
 以下、少しネタバレを含む。

 BBC Oneのこの作品は原作をすっぽり包含しつつ、また、原作をまったく毀損せず、それでいて、ほとんど別の物語にしているように思えた。主人公は弁護士ジョン・メイヒューであり、正義感に駆られるようでいながら、自己欺瞞の罪が暴露されていく。しかも、それは戦争と国家と若者という枠組みのなかで、おそらく、言うまでもなくと言っていいと思うが、英国のイラク戦争参戦の苦さを反映したものだ。とても現代的な、かつ批評的な作品だった。そのどんでん返しのどんでん返しに圧倒された。
 放映は二回に分けられていたが、通しでも2時間ほどであり、映像も演出もまったく映画と遜色ない。というか、これが映画上映されないということはどういうことなのだろうかと、映画と現代のあり方についても再考させられるものだった。

 

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2019.06.20

金融庁の報告書は生活福祉資金貸付制度と整合すべきだった

 リバース・モーゲージについて書いたおり、リバース・モーゲージなんかできるわけないだろ的なコメントを見かけたが、話は逆であって、そういう現実をどうするんのか?という話であった。
 というか、金融庁もその現状の問題認識を持っていたのに、ひっこめちゃったというのがまさに問題なのであった。
 で、この問題をもう一段踏み込むと、高齢者が保有している、実際には金にもならない住宅資産をどうするのか、ということだ。
 もっと端的な例で言えば、老朽化マンションをどうするの?ということである。一部例外を除けば、老朽化マンションはリバース・モーゲージの対象にならない。これに対して、宅地があれば載せものの価格がゼロになっても土地に価値が残る。が、ここに踏み込むと、それもわずかで、載せのものの解体費に満たないことがある。
 さらに踏み込んでいえば、国や公共機関が、老朽化マンション対策として、リバース・モーゲージの名目で買い上げればいいじゃないかということだ。
 別の言い方をすれば、高齢者は公共がケアできる圏内にある程度まとめておくしかないだろうから、その転居の手段であってもよいはずだ。あるいは、逆に考えてもいい。老朽化マンション問題について、建て替えのために容積率を行政的に操作するのももう行き詰まりではないか。であれば、この問題を、公共はどう考えるのか? 
 儲けにもならないリバース・モーゲージなら公共が引き受けるしかない。
 で、それはすでに、厚生労働省の生活福祉資金貸付制度があり、社会福祉協議会が窓口になっている。
 で、これの制度が現状どうなのか? 今後はどうなのか?
 金融庁としては、高齢者の金融資産の扱いまでは目が届くとして、取り崩しのフェーズを厚労省のスキームとどう整合させるのか? 本来の問題はそこにあったはずだ。
 現状、厚労省の高齢者保護のリバース・モーゲージは、不動産担保型生活資金と生活福祉資金(要保護世帯向け不動産担保型生活資金)に分かれていて、マンションは後者に当たる。利用できるのは、65歳以上で、生活保護受給中高齢者世帯に限定される。融資限度額は市場評価の半額としている。が、この半額が尽きたら終わりとして済む話でもない。
 少し話を戻して、生活保護受給中の高齢者ではないと利用できない制度というのが、そもそも、高齢者の年金生活と整合しない。
 つまり、今回の炎上金融庁報告書は、厚生労働省の生活福祉資金貸付制度と整合し、現状や制度的な抜けを総合的に整備する提言であるべきだった。

 

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2019.06.19

今回炎上した金融庁報告書で、金融庁が隠し、マスコミや野党が追求しないこと

 今回炎上した金融庁報告書で、金融庁が隠し、マスコミや野党が追求しないことがある。リバース・モーゲージの問題である。
 以下、証明とまではいかないが、簡単に示しておく。

金融庁報告書はリバース・モーゲージの問題を隠した

 今回炎上した金融庁報告書は、「金融審議会 市場ワーキング・グループ」を事実上、金融庁が恣意的に乗っ取った形ででてきたものだ。この点については、前回のブログ「金融庁の問題報告書を読んでいたら、変なことに気がついたの巻」で触れた。また、その背景はさらにその前回のブログ「昨今の年金問題の発生源を探してみたら、なんだこりゃ案件だった」で触れた。
 今回炎上した金融庁報告書は、「金融審議会 市場ワーキング・グループ」から出たものというより、別途金融庁が進めていて平成30年7月3日に発表した『「高齢社会における金融サービスのあり方」(中間的なとりまとめ)』から出てきたものである。これを別の審議会に被せて事実上、乗っ取りしたものだった。
 この関係を洗っているときに、さらに奇妙なことに気がついた。平成30年7月3日の『「高齢社会における金融サービスのあり方」(中間的なとりまとめ)』だが、これが事実上の乗っ取り後の「金融審議会 市場ワーキング・グループ」のリブート2回目(第14回)の「事務局説明資料」として平成30年10月11日『高齢社会における金融サービスのあり方について』として提出されているのだが、その文書を比べてみると、異なっていたのである。
 異なっているのは、「5.検討にあたっての指摘 ②資産の有効活用・取崩し」の項目で、審議会に出された平成30年10月11日文書では「(参考)資産の有効活用・取崩し」という参考資料が追加されていたことだ。審議会のために出された参考資料ということになっているが、表向きの金融庁の文書には見られない情報である。完全に隠蔽したというものはないが、公的には隠されていた。
 この参考資料の内容だが、まさにリバース・モーゲージの実態そのものだった。
 その実態とは何か。前提は「退職世代等の保有する資産の約3分の2が住宅・宅地資産である」ということだ。

退職世代等の保有する資産の約3分の2が住宅・宅地資産である

 退職世代等の保有する資産の約3分の2が住宅・宅地資産なのである。金融資産ではないのだ。この参考資料にはそう明記されている。もちろん、これも平均値ではあるが、資産状況の傾向は示されているだろう。ぶっちゃけ、中央値で見るなら金融資産は700万円に満たないので、金融資産の問題は庶民にはほとんど関係ない。すぐに取り崩して消える。
 すでに前々回のブログ「昨今の年金問題の発生源を探してみたら、なんだこりゃ案件だった」で触れたが、今回の炎上案件の火元の文書は、金融資産に限定されている。これは金融会社のパンフレットのようなものにすぎない。
 だが、老後足りなくなる金額(2000万円とやらは平均値から出された事実上の虚構ではあるが)を最終的に、かつ実質的に補いうるのは、住宅・宅地資産である。なぜなら、退職世代等の保有する資産の約3分の2が住宅・宅地資産だからである。

年金足りない問題の主要な論点は、リバース・モーゲージの問題

 当然、年金足りない問題の主要な論点は、リバース・モーゲージの問題なのである。この点については、平成30年7月3日文書にも言及がある。

退職世代の保有する資産の約3分の2が住宅・宅地資産であり、リバースモーゲージの活用によって、住み替えの促進や、より豊かな老後につながる可能性があるが、金融機関による融資実績は一部を除き少ない状況。

 そして、対応として。

既存住宅の流通やリフォームに関する市場の活性化に向けた
●公的保証による民間金融機関のバックアップなどによりリバースモーゲージの普及を図り、高齢者の住み替え等の住生活関連資金を確保
●良質な既存住宅の資産価値が適正に評価される等の環境整備
といった取組みを進めることは、住宅資産を有効に利用できる環境整備という観点からも重要ではないか。

 リブートした審議会は当初それを念頭においていた。まさにそれこそが、議論の中心であるべきだった。が、すり替えられた。
 事実上隠蔽された参考資料は問題点を明確にしている。

●退職世代等の保有する資産の約3分の2が住宅・宅地資産であるが、地域別に見ると、首都圏や政令指定都市以外であっても宅地資産の額が1000万円を超える世帯が半数近くを占める。
●住宅・宅地資産が老後の生活に有効活用されることが期待される中、リバースモーゲージの取扱金融機関は近年増加しているものの、依然として取扱件数は限られている

Morgage 

金融庁の報告書は何を問題とすべきか、またマスコミは何を追求すべきか?

 金融庁の報告書は何を問題とすべきか、またマスコミは何を追求すべきか? リバースモーゲージがより広く活用されるようになるための議論である。
 単純な話である。実際、高齢者の資産の約3分の2が住宅・宅地資産なのだから、年金が足りなければ、これを上手に取り崩するために国がいっそうの制度整備をしなけれならない。現状では、不動産価格下落のリスクや相続のトラブルなどのリスクで銀行が事実上手が出せていない。
 審議会当初の問題を繰り返し示しておこう。

●公的保証による民間金融機関のバックアップなどによりリバースモーゲージの普及を図り、高齢者の住み替え等の住生活関連資金を確保
●良質な既存住宅の資産価値が適正に評価される等の環境整備

マスメディアが年金騒ぎを繰り広げていると、どうなるか?

 マスメディアが年金騒ぎを繰り広げ、リバースモーゲージ問題に取り組まないとどうなるか?
 すでに、今回の「年金2000万円足りない問題」で、高齢者が年金不安となり、資金問題ににわかに関心をもち、コンサルティング業務が活況になっている。もちろん、金融資産が多い人ならそれでいいが、そんな層は、マスメディアに踊らされた動きはしないだろう。
 金融資産が足りない層が不安になっている。そしてその層にあるのは、住宅・宅地資産である。それで、どうなるか。現状のリバースモーゲージ制度の不備に直面するか、既存のリバースモーゲージでかっこうのカモにされるくらいだろう。

 

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2019.06.18

金融庁の問題報告書を読んでいたら、変なことに気がついたの巻

 昨今の話題の「年金2000万円足りない」問題の火元である、『金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書』(副題は「高齢社会における資産形成・管理」)を読んでいて、変なことに気がついた。まあ、変というのでもないのかもしれないが。
 何が変かというと、いくら資産を形成しても最終的には、足りない分は、「資産取り崩し」になるというのは前提認識になっている。例えば報告書でもこうある。

 老後の生活においては年金などの収入で足らざる部分は、当然保有する金融資産から取り崩していくこととなる。

 すでに長期・積立・分散投資を現役期より行っている場合は、それを続けられるうちは続け、その後は計画的に資産を取り崩していくことが有効である。

 ところが、「取り崩し」についてキーワード的にだが報告書で言及されているのは、この二箇所だけ。この報告書には、「取り崩し」にどう対応するのかという話が実質ないのである。
 なんだろこれ?と思って、仕切り直しされた審議会議事録を読んで見て、まあ、だいたいわかった。「取り崩し」についてちゃんと議論していたのである。
 仕切り直し第2回目では。

【野尻委員】
 まず1つ目は、やはり退職後の時間が30年、40年という時代になっていく中で、金融資産をどう取り崩すかというところをもっとフォーカスを当てていただきたいなと思いました。言葉としては含まれているわりに、資料の中にどう取り崩すかというところが弱いように思います。資産構成、我々はついつい運用というと長期、分散、時間分散、これをやっていればいいみたいなことを言われるんですけれども、やはり退職後になるとどうやってリスクを減らしていくか、リスクをどう扱ったらいいか、定額で引き出すのがいいか、定率がいいかとか、Sequence of Returns Riskはどう取り上げるのかといったことは、日本ではほとんど議論されてこなかったと思います。やはり取り崩しに対して考え方、理論等をもっと議論する必要があるんじゃないかと思います。

 仕切り直し第3回目では。

【永沢委員】
 それから、野尻さんのお話ですが、私も時々、資産形成はどうあるべきかみたいなお話をして欲しいと頼まれてしておるわけですけれども、資産の取り崩しが非常に重要なところと、聞いてくださる皆さん分かってくださっているのですが、その方法について日本人として共有できるものが現時点ではないことにもどかしいものを感じております。この点、アメリカでは取り崩し戦略的な議論が相当なされているようです。日本人は右に倣えという傾向がありますので、こうすればいいという方向性が示されると行動を起こすことができるのではないかと思います。知恵を集めて、取り崩しの方法論を示すことができれば、動かない日本人も一歩動けるのではないかと思っております。

 ところが!
 この話、審議会が進むにつれ、「取り崩し」の議論はだんだんか細くなり、そして。整理されちゃったみたいなのだ。通算の第20回では。

【神田座長】
 これら以外にも、長い人生をリタイヤ期前後以降でも、長い人生があり得るということでございますので、これを見据えて中長期的な資産運用の継続、長期・積立・分散投資等の中長期的な資産運用を継続していただき、その後計画的な取り崩しというのを実行していただくとよいのではないかということでございます。

 つまり、「取り崩し」は確かに問題だが、第1フェーズは資産運用にしましょうということだ。つまり、「それ今の話題にしないからね」ということだ。当初がんばったかに見えた野尻委員もこう、切り分け論に賛同する。

【野尻委員】
 それから、同じ資料5ですが、リタイヤ期前後の3つ目のレ点のところを読みますと、「中長期的な資産運用の継続(長期・積立・分散投資等)と計画的な取崩しの実行」、これも細かい点ではあるのですが、積み立てしながら取り崩しをしましょうというのはロジックとしてはとても合わないと思っておりまして、取り崩したお金をまた積み立てしますという話は、毎月分配型投信の分配金を受け取って、それをまた再投資するみたいなイメージにつながりますので、私としては、ここは長期とか分散投資は大事だと思うのですが、取り崩しの時期に積み立てという言葉が重なることは、メッセージとしてはあまりクリアにならないのではないかと思っております。どう書き直していくべきかは、別途、議論を必要とするのではないかと思います。

 まあ、切り分けるなら、それはそれでいいのだけどは思ったが、どう考えたって、「取り崩し」は大きな課題として残るよな、そのあたり、金融庁としてはどうなの(厚労省としての対応もあるにはあるが)、と見ていくと、発見! 
 平成30年7月3日に『「高齢社会における金融サービスのあり方」(中間的なとりまとめ)』が金融庁がから出ていた。

 金融庁では、平成29年11月の金融行政方針に「我が国の高齢化率は世界の中でも最も高い水準となっており、退職世代等に関する取組みが重要な課題であることから、退職世代の金融資産の運用・取崩しをどのように行い、幸せな老後につなげていくか、金融業はどのような貢献ができるのかについて、外部有識者の知見を活用しながら、検討を進める。」としております。
 上記方針を踏まえ、今事務年度を通じて継続的に、高齢化が進行する現状や退職世代等を取り巻く状況、退職世代等が抱える課題等について、学識経験者、シンクタンク、金融機関、業界団体等へのヒアリング等も行いながら、金融庁において整理・分析を進めてきました。
 この度、これまで整理・分析をしてきた内容について中間的にとりまとめましたので公表いたします。
 今後、今回公表させていただいた考え方を基に各方面と議論をしながら、さらに検討を深めてまいりたいと考えております。

 で、これ、審議会がない。金融庁が勝手にまとめていた。
 で、もうおわかりでしょ?
 これ、「平成30年7月3日」。
 昨日のブログ『昨今の年金問題の発生源を探してみたら、なんだこりゃ案件だった』で触れた。これじゃないですか。

「第12回 平成28年12月20日(火)」と「第13回 平成30年9月21日(金)」に2年近い謎のリープがある。

 謎が解けましたね。(ってか、今頃わかったのは私のようにボケたブロガーくらいだろうが。というか、審議会資料を読んでいたら普通にわかる。)
 つまり、この『金融審議会 市場ワーキング・グループ』のリブートは、金融庁がそれまで別系で独自にやっていた『「高齢社会における金融サービスのあり方」(中間的なとりまとめ)』を、とりあえず既存の別の審議会で引き継いだものだったわけね。だから、今回の報告書も副題がその痕跡で「高齢社会における資産形成・管理」となっていた。
 で、この流れから見れば、この話題は麻生金融担当相の諮問じゃないんじゃないの疑惑は深まる、と。
 さて、これで一つ謎が解けたわけだが、「高齢社会における金融サービスのあり方」では「取り崩し」がそれなりに意識されていたのに、今回の「高齢社会における資産形成・管理」ではその部分が後のフェーズとして位置づけられ、実質切り捨てられた。どうすんのそっちは?
 というか、資産切り崩しにどう対応するかという議論をしないために、審議会にこの話題をぶちこんだんじゃないのか?
 当の大問題である、資産切り崩し、つまり、現実には、金融資産は早期に枯渇するのだから、実物資産のリバース・モーゲージの活性化をどうするのか?
 もっというと、現状銀行が十分に対応できないリバース・モーゲージの公的なリスク対応をどうするのかという問題を、金融庁がきちんと、審議会を開いて、議論しなきゃいけないんじゃないの? Hein?

 

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2019.06.17

昨今の年金問題の発生源を探してみたら、なんだこりゃ案件だった

 6月3日に発表された金融庁審議会の報告書が火元になって、老後の生活費は年金では足りず、老後の30年間のためには各人が二千万円の蓄えが必要だ、という話題になり、国は国民の生活を守らないのかうんぬんプンスカ、という話題になっている。そしてさらに、有識者に報告書作成を依頼する立場の麻生金融担当相が、これじゃ国民に誤解と不安を与えるから報告書を受理しない、とし、なんだその無責任さはプンスカ、という話題にもなった。かくしてネットにはこの話題がいろいろ広がり、まあ、いろいろ意見もあるようだ。
 私としては、19年間近くもブロガーやっているので、さーて、こうした炎上案件では第一次資料を見るかなと、見てみた。『金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書』である。副題は「高齢社会における資産形成・管理」である。発表日は令和元年6月3日である。冒頭はこう。

はじめに
 近年、金融を巡る環境は大きく変化している。例えば、デジタライゼーションの急速な進展により、金融・非金融の垣根を越えて、顧客にとって利便性の高いサービスを提供する者が出現している。こうした者の出現や低金利環境の長期化等の状況と相まって、金融機関は既存のビジネスモデルの変革を強く求められている状況にある。
 こうしたなか、金融を巡る特に大きな背景の変化として挙げられるのが、人口減少・高齢化の進展である。わが国の総人口が減少局面に移行した中、長寿化は年々進行し、「人生 100 年時代」と呼ばれるかつてない高齢社会を迎えようとしている。(中略)政府全体の取組みや議論に相互関連して、高齢社会の金融サービスとはどうあるべきか、真剣な議論が必要な状況であり、個々人においては「人生 100 年時代」に備えた資産形成や管理に取り組んでいくこと、金融サービス提供者においてはこうした社会的変化に適切に対応していくとともに、それに沿った金融商品・金融サービスを提供することがかつてないほど要請されている。

 なんだか無内容なことがたらたらと書かれているようだがそれなりに読んでみると、話題の焦点は「金融サービス提供者」に置かれていることはわかる。
 つまり、ごく簡単にいえば、金持ち老人がもっと金を増やすための金融サービスはどうあるべきか、というのがテーマで、年金だけじゃ暮らしていけないという庶民の関心とはまったく関係なさそうな文書である。

 今回のプンスカ焦点である「年金」を見ていくと、こうある。

 しかし、収入も年金給付に移行するなどで減少しているため、高齢夫婦無職世帯の平均的な姿で見ると、毎月の赤字額は約5万円となっている。この毎月の赤字額は自身が保有する金融資産より補填することとなる。

 これ、現状の「高齢夫婦無職世帯の平均」で見ると、現実、「赤字額は約5万円」で、資産から補填されているという話だ。平均化すると、高齢者は多額の資産をもっていて切り崩している現状があるという話である。今後、年金だけでは生活費が5万円足りなくなるという話ではない。
 実際、平均で見ると、高齢層は資金を持っているという指摘がある。事実であろう。

(前略)65 歳時点における金融資産の平均保有状況は、夫婦世帯、単身男性、単身女性のそれぞれで、2,252 万円、1,552 万円、1,506 万円となっている。

(前略)前述のとおり、夫 65 歳以上、妻 60 歳以上の夫婦のみの無職の世帯では毎月の不足額の平均は約5万円であり、まだ 20~30 年の人生があるとすれば、不足額の総額は単純計算で 1,300 万円~2,000 万円になる。この金額はあくまで平均の不足額から導きだしたものであり、不足額は各々の収入・支出の状況やライフスタイル等によって大きく異なる。

 つまり、「平均」像から見るとそうなるということで、国民の多数がこれに当てはまるかというと、まあ、当てはまらない。あてはまるわけもない。そもそも、この報告書は、そういう目的で書かれたものではない。
 ただ、現在の国民が求めているのは、こんな報告書ではなく、これからの日本国民の多数の老後の生活像だろう。
 その意味でいうなら、これからの日本国民の多数の老後がどうなるのか、ということを議論する審議会を作って、その趣旨の報告書を作れよ、ということなるが、たぶん、それは厚労省の管轄だろう。
 さて、この金融屋のパンフみたいな文書の冒頭を読み返すと、ちょっとひっかかることがあった。これだ。というか冒頭のさっきの続きである。

 このような問題意識の下、金融審議会市場ワーキング・グループにおいて、高齢社会のあるべき金融サービスとは何か、2018 年7月に金融庁が公表した「高齢社会における金融サービスのあり方(中間的なとりまとめ)」を踏まえて、個々人及び金融サービス提供者双方の観点から、2018 年9月から、計 12 回議論を行い、その議論の内容を報告書として今回提言する。(中略)

 というわけで、これ、審議会の議事録が公開されているはずなので、ブロガーらしく一次資料を見に行く。まず、「金融審議会「市場ワーキング・グループ」(第1回)議事録」から。学習院大学の神田秀樹氏が座長。

 本日は初回でございますので、まずこのワーキング・グループについて簡単にご説明をさせていただきたいと思います。このワーキング・グループでございますけれども、本年4月19日に開催されました金融審議会の総会・金融分科会の合同会合におきまして大臣からいただきました諮問を受けて設置されたものでございます。
 お手元に諮問文を配付していると思いますけれども、諮問におきましては次のように述べられております。すなわち、「情報技術の進展その他の市場・取引所を取り巻く環境の変化を踏まえ、経済の持続的な成長及び家計の安定的な資産形成を支えるべく、日本の市場・取引所を巡る諸問題について、幅広く検討を行うこと」でございます。

 これ、どう読んでも、高齢社会とか資産形成というかいうワーキンググループじゃないよな。というか、とっても奇妙な感じがした。どこかで、このワーキンググループの方向性が変わったのだろうかと見ていく。と、あれれ?
 「第12回 平成28年12月20日(火)」と「第13回 平成30年9月21日(金)」に2年近い謎のリープがある。
 というわけで、この第13回の議事録を見る。

 このワーキング・グループでございますけれども、今から2年半ほど前の平成28年4月に麻生金融担当大臣から、「市場・取引所を巡る諸問題に関する検討」という諮問をいただきまして、それを受けて金融審議会のもとに設置されたワーキング・グループであります。平成28年の5月から12回にわたって皆様方からご議論をいただき、また関係者の方からヒアリング等もしながら審議を進めて、顧客本位の業務運営、あるいは取引の高速化等についてご審議をいただきました。平成28年の12月には、約2年弱前ですけれども、報告書を公表いたしました。
 その後、金融庁においては国民の安定的な資産形成に向けた取り組みを進めてきまして、近いところでは本年6月に「投資信託の販売会社における比較可能な共通KPI」を公表するなど、顧客本位の業務運営の定着に向けた施策を進めてきました。このほか本年1月につみたてNISAの導入、それから本年の7月になりますけれども、「高齢社会における金融サービスのあり方」の中間的な取りまとめというものを公表しております。
 そこでこのたび、「高齢社会における金融サービスのあり方」など「国民の安定的な資産形成」を中心に議論をさらに深めるために、このワーキング・グループが再開されることとなった次第です。
 本日は、ワーキング・グループの通算で、第13回目の会合となりますけれども、前回から約1年9カ月ぶりの開催ということになりますので、初めに、事務局である金融庁の遠藤長官からご挨拶をいただきたいと存じます。遠藤長官、よろしくお願いいたします。

 これ、普通に読むと、当初大臣から諮問された報告書は、平成28年12月に公表され、事実上、ワーキンググループは終了している。
 ところが、金融庁の都合で、別の話題である《「高齢社会における金融サービスのあり方」など「国民の安定的な資産形成」を中心》としたなんかを、気ままに、ここにぶち込んできたようだ。
 これって、きちんと、麻生金融担当相の諮問を経ているのか?
 これって、金融庁がこのテーマを作りたくて、既存のワーキンググループに押し込んだんではないのか?
 金融庁の遠藤長官の話もこんな感じだ。

 ご案内のように、我が国では1,800兆円という家計金融資産、この過半が現金・預金ということでございます。過去20年間、その伸びも非常に低い水準になっております。この豊富な資産が有効に運用、活用されているとはとても言い難い状況ではないかと思っております。

 これって、端から、金持ち高齢層に投資をさせようという話だ。金融庁の活躍場を広げるためのもので、そもそもが年金問題なんてこの時点での冒頭にないじゃん。
 ええと、まとめると。
 これ審議会のあり方がそもそもがおかしい。別の話題を、どさくさに既存の審議会に混ぜ込むのではなく、少なくとも、別途専門の審議会を立ち上げて、もっと庶民の年金問題にも配慮できる人選もして、きちんとした議論をすべきであったと思う。

 

 

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2019.06.16

オマーン湾でのタンカー攻撃について

 13日、ホルムズ海峡も近いオマーン湾で2隻のタンカーが攻撃された。1隻は日本の海運会社が運航するタンカーであり、また時期が安倍首相のイラン訪問に重なっていたことから、この2つの要因が背景化されて、日本でも大きく報道された。当然とも言えるが、誰が攻撃したのかということが話題になるなか、米国はイラン革命防衛隊によるものと名指しで非難し、英国もそれに追従する形となってきた。イラク戦争時を想起させるような空気も感じられる。
 実際は誰が攻撃したのか? 現状、国際世界の表向きとしては、判然としていない。私はイラン革命防衛隊によるものではないかと思う(イラン革命防衛隊はイランという国家が国家に収納できていない暴力である)。が、それは私の考えにすぎず、根拠となる事実はない。
 しかし国際外交的には、「何をもって事実とするか」ということがより問題である。つまり、①米国はイランによる攻撃である事実をどこまで知っているのか、②知っていてどこまで公開するのか、というのが、外交上の注意点になっている。現状では米国は、今回の攻撃に利用されたと見られる不発リムペットマイン回収の映像を公開している。
 今回の事件は、陰謀論を誘発しやすい構図にある。特に、今回の事件は、日本が背景化されたため、日本国内での推測が盛んになりがちだ。イラン革命防衛隊を疑う私も、単純にそこに主体があるというより、彼らがなんらかの情報操作を受けているのではないか、という印象論に近い推測を持っている。だが、それ以上、この推測を進める気もなければ、ブログに書く気もない。
 私としては、おそらくそれがブログの最大の価値であろう、同時代的なメモを残しておきたい。
 まず、日本を背景化することの重要性はどのくらいあるか?
 このことがまず気になり、事件後に海外情報に当たってみた。今回はそれが海外の人々への情報が気になったので、高級紙などよりもテレビニュースなどに注視した。その印象だが、日本での報道とは異なっていた。
 攻撃を受けた2隻のタンカーだが、①ノルウェーの会社が所有する「フロント・アルテア(Front Altair)」号、②パナマ国旗を掲げた「コクカ・カレイジャス(Kokuka Courageous)」号である。欧米のニュースでは、当然とも言えるが、地理的に近いノルウェーのタンカーに着目していた。また、もう1隻については外的にはパナマ国旗であり、日本の所有という指摘を焦点化しているものは見かけなかった。
 これが意味することは何か? 彼ら(主に欧州)にとっての今回の事件だが、「前回」の事件の後続が背景化されていたということだ。この前回の事件については、日本で報道がなかったわけではないが、あまり関心もたれてはいなかったようだ。
 その事件だが、5月12日、アラブ首長国連邦(UAE)のフジャイラ(Fujairah)沖でサウジ、UAEなどのタンカー4隻が攻撃を受け、船体に被害を受けたことだ。事後、米国は今回同様、イラン関与のアナウンスをしている。この事件は、その後の6月6日、UAEからも暫定調査報告が出され、事件の背景に「国家」の関与があるとしていた。が、イランとの名指しはしていなかった。
 今回の攻撃はかくして前回の攻撃とで文脈化されるほうが国際的には自然であり、その文脈のなかで、今後、フジャイラ沖がリムペットマイン設置との関連で焦点化されそうな印象がある。
 より強い印象で言えば、5月12日の攻撃は別の文脈に置かれる。
 5月9日の時点ですでに、米連邦海事局は、紅海やペルシャ湾海域でタンカーや米軍艦船がイランあるいは革命防衛隊のような代理勢力によって攻撃を受ける可能性がある旨、注意を喚起していた。米国側はこの時点で動向を掴んでいたわけである。そしてさらに、その全体的な対処として、5月10日、米国防総省は、地対空ミサイル「パトリオット」とドック型輸送揚陸艦1隻をこの地域に配備する発表をした。その後日を置かず、12日に攻撃が実現化し、以降は、さらにこの地域への米軍投入を強化していった。
 この文脈で見るなら、米国による威嚇で押さえ込んだいたはずの、タンカー攻撃が再開されたのが、今回の事態である。米国側としては押さえ込みの調子を監視しているような状況下であった。

 

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2019.06.15

安倍晋三首相のイラン訪問は失敗だったか?

 安倍晋三首相は14日午前、首相としては41年ぶりという歴史的なイラン訪問から、政府専用機で羽田空港に帰国した。この会談は失敗だったか?
 成功か失敗かと評価するには、どのような評価基準を持つかによる。
 端的に、どうであったら、大成功であったか? 
 日本のメディアでは、米国と仲介に失敗したという見解も見かけた。その視点の背景は、イラン核合意を再構築するということだろう。だが、これは原理的に難しい。というのは、合意を破棄したのは米国なのだから、それを求めるなら対象は米国になる。また、米国側の破棄をなだめるために、イランにミサイル開発を含め、全面的に米国の意向に従わせることができたら、というのであれば、それはすでに日本の外交ではないだろう。
 こうして具体的に考えていくなら、失点がないことが、成功というしかないだろう。その意味で、今回の安倍晋三首相のイラン訪問には致命的な失点もなく、そうであれば、成功というほかもないように思う。
 では、そんな可もなく不可もなしの訪問をわざとするのか、安倍首相の人気取りかというと、それも、違うだろう。なにも安倍首相を弁護するわけではない。今回の訪問は、イラン側の招待に応えたものだ。ロウハニ師自身が、「私の招待に安倍首相がお応えいただいたことを光栄に思います。両国は伝統的な関係を有していますが、今年は両国の外交関係樹立から90周年です。今まで私たちは何回も会談を行い、今回で8回目となります。日本政府をはじめ、安倍首相が2国間の関係強化に関心を持っていることを歓迎します」と述べている。そしてこのことは、最高指導者ハメネイ師に謁見できたことでイラン側の誠意が示されている。国際的には、日本が国際政治の主要プレーヤーであることを示してくれたことになる。ただ、これはイラン側としてもメリットは大きい。
 今回の会談の成否については、米国側からの評価も日本にとっては重要になる。これについては、トランプ米大統領の、やや否定的なツイートが注目される。

While I very much appreciate P.M. Abe going to Iran to meet with Ayatollah Ali Khamenei, I personally feel that it is too soon to even think about making a deal. They are not ready, and neither are we!


 そう難しい英文でもない。映画評論家の町山智浩氏は次のように訳していた。

トランプ「安倍総理がイランの最高指導者に会ってくれるのはありがたいが、自分としては交渉は時期尚早に思う。イランも私もまだ準備できてない!」

 私は、こう訳してみたい。

 私は安倍首相がイランに赴き、アヤトラ・アル・ハメネイ氏と会談することに大変に感謝しているが、個人的には、何か合意を得ようとするのは時期尚早だとも思う。彼らは準備できていなし、私たちもまだだ。

 "making a deal"は、町山氏の訳のようにシンプルに「交渉」としてもよいだろうが、私は、トランプのこのツイートの意図は、日本が何かイランと合意、とくに密約をしないように釘をさしたものだろうと考える。
 なぜか、日本には過去に、米国を困惑させた事例があり、また現在も背景があるからである。
 日本も世代代わりとなり、昭和の時代が忘れられようとしているが、1953年に日章丸事件があった。ウィキペディアを見るとそれなりに詳しい解説があるので見ておくとよいが、日本は西側諸国を出し抜いてイランと直接合意をむすんだことがある。さらに日本とイランの友好史は戦前以前に遡る。
 昭和の時代が忘れられようとしても、日本にはイランと独自の信頼ルートがあり、しかもこれが、比較的近年までアザデガン油田に関連していた。また、2003年のバム地震でも日本はイランの支援を行っている。あと、表向きには語られていないが、悪魔の詩訳者殺人事件でも日本はイランに配慮していたようだ。
 こうした背景から、米国側としては、日本が米国を裏切ってイランと密約する懸念をもっていると考えてよいだろう。
 その面で言えば、今回の安倍首相のイラン訪問は、日本とイランに具体的な合意がないという点で、日米関係の外交上の成果があったとも言える。

 

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2019.06.14

箸の正しい持ち方?

 箸の持ち方がネットで話題になっていた。今回のその話題の発端は、「お箸の持ち方がおかしい。お嫁にいけんよ」というツイートへの反発からのようだった。単純な話、そんなはずもない。だが、そこから話が広がって、「正しい箸の持ち方って何? 誰が決めたの? 箸なんかどう持ったっていいんじゃないの」となっていった。まあ、それもそうかな。
 ちなみに、僕は正しく箸を持っている、と思う。そして、箸の持ち方を学んだ記憶はない。物心つく頃からきちんと持っていた。親がしつけたのだろう。というか、母親が若い頃その件で困ったことがあり、子供である私にしつけたらしい。
 自分の子どもたちについてはどうか。4人いるが正しく箸を使っている。しつけたかというと、これも記憶がない。ちなみに、子どもたちはみなナイフ&フォークも器用に使う。かなり小さいころから使わせていた。
 じゃあ、どうやって覚えたんだろうと不思議な気持ちなるが、そういえば、子供が小さいころ、誰がいちばん豆運びが上手かという競争のようなことをしたことがあった。教育的な意味はない。やり方だが、2つの皿を用意し、一方に豆(大豆)を50個くらい入れ、箸で1粒ずつ摘んで他方のからの皿に移す。たしか、私がいつも優勝したが、子どもたちもけっこう頑張っていた。というか、つまり、その時点で彼らも上手に使っていた。箸の使い方というのは、身近に、こうもったらいいのではないかという、あるビジョンがあればそれで自然に見慣れて正されるものなのではないか。
 そういえば、子どもたちには、小さいころから、骨のある魚を食わせていた。当然、箸を使った魚の扱いも上手。さすがに、猫跨ぎができるのは左利きの一人だけだが。と思い出すのに、その子の左手の箸は矯正しなかった。が、鉛筆は右手に矯正した。それほどつらい矯正ではなかったせいもある。もともと両利きだったようだ。そういえば、もつ一人、両利きの子がいたが、箸と鉛筆は自然に右手使いになった。他の2人は生まれつき右利きである。
 箸の持ち方の基本というのは、多分に生まれつきなのではないだろうか。あるいは、矯正が容易い子とそうでない子がいるのでないか。安倍首相も箸の持ち方が変だなと思うが、彼の場合も生まれつきではないだろうかという感じがする。
 こうした動作については、もし、矯正に対する困難があるなら、矯正しないほうがいいには違いない。が、そのあたりの困難さの臨界はどこかにあるのだろうか。ちなみに、僕はタッチタイピングができるが、身の回りにそういう人はあまりいない。非タッチタイピングを見てるとへんてこな運指に思えるが、これもまあ、どうでもいいことの部類だろう。ただ、タッチタイピングは運指が合理的だとは思うが。
 他者の些細な動作は気になるものだ。僕については、よく他人の箸の使い方を見ているほうだ。いや、つい気になってしまうというのが正解だろう。先日もきれいな若いお母さんが変な箸使いをしていてちょっと気になった。そういえばと一緒にいる夫さんの箸使いをちらと見たら、こっちも変だった。誤解なきように言えば、私は他者の箸使いがどうであってもかまわないとは思っているし、そんなもの見るもんじゃないなとも思ってはいる。
 お薄をいただくときはどうか? お薄でお茶碗がちゃんと持てないというのはどうだろうか? まあ、これもどうでもいいの部類ではあるだろう。茶席でも、作法を知らないなら、普通にボウルを持つように扱ってもかまわないはずだ。
 では、総じて、マナーに意味はないのだろう?
 まあ、ないと言ってもいいのではないか。
 では、自分はどうするかといえば、マナーを学ぶ機会があれば、学ぶだろうし、できるだけきれいな所作を身につけたいとは思う。タッチタイピングのように、動作に無駄がないのが、正しい所作のようにも思えるからだ。

 

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2019.06.13

香港大規模デモについて

 現下の香港の大規模デモについては、日本のメディアでもけっこう報道されていることと、このブログでは香港の民主化についてこれまでも扱ってきたので、ごく簡単に言及しておきたい。
 まず、なぜデモなのか?という原点を確認したい。これがもっとも重要な点だとも言える。理由は、議会が普通選挙による民主的な議会ではないためだ。日本のように普通選挙が実施されている民主主義国なら、市民はデモを行っても当然よいが、政治参加としては投票に次ぐものになる。ところが、香港には、市民の普通選挙がない。市民の意思表示は、デモ以外にはないのである。
 この原点が意味するところは、2つに分けて考えてもいい。①議会が市民の代表ではないということ、②普通選挙が実施されていないこと。前回の雨傘運動は、この普通選挙を求めるものだった。そして、その意味での、普通選挙を求める香港市民の意思は変わりない。そこが目標でもある。
 次に、現下のデモは何か?だが、香港の犯罪容疑者を中国本土に引き渡す「逃亡犯条例」改正に反対する抗議デモである。
 これに対して、中国当局擁護派からは、凶悪犯罪者を処罰するだけであり、政治的な弾圧ではないといった意見も見られる。とんでもないことだ。なぜか? まず、思いつくのは、凶悪犯と政治犯の区別は、運用において中共の独裁政権側が考えるから、恣意的になりがちというものだろう。これに対して擁護的な反論もすでにあるのだが、実は、そんな修辞の段階は終わっている。事態はすで進んでいる。
 日本のマスメディアではその報道を見かけなかったように思う(そういうときはこのブログで補ったものだが)。背景は、2016年。香港の旺角、ネイザンロードで民主派団体「本土民主前線」が地元の警察と衝突した事件「魚蛋革命」があった。きっかけは露店の取締に反対した同派の若者が警察と衝突し、投石やゴミ箱への放火を行い、警察も威嚇発砲した。暴力的な事件ではあるが、大規模な暴動とも言い難い。が、暴力事件であり、指導者の梁天琦(27)は禁錮6年の実刑判決となった。イギリス統治時代に起きた暴動での処罰に比べると厳罰である。この事件で、指導者の黃台仰(25)と李東昇(25)は裁判を逃れ国外逃亡していたが、2017年にドイツで難民申請し、2018年5月に承認された。彼らは、今回のデモに関連して、ドイツから反対運動の声明を出した。
 どういうことか? 「逃亡犯条例」が改正されると、中国は、黃と李を凶悪犯としてドイツに引き渡しを要求するようになると想定されている。すでにドイツはその想定の上で、引き渡しの拒否の意向を示しているようだ。
 つまり、すでに国際問題なのである。国際問題ということは、すでに日本も巻き込まれているのである。
 その上で、この事態の意味はなにかというと、梁の厳罰でも示唆されているが、中国が香港統治を変更したということであり、香港返還時の国際公約を中国が破っているということだ。つまり、この点も国際問題なのである。
 そしてそれが国際問題であるということは、どういう影響があるか? 他の、例えばスーダンのデモ弾圧などといった国際問題とどう異なるか? というと、香港という土地の特異性が問われる。簡単に言えば、国際市場だったのが非国際市場と見なされるようになるということだ。香港は今後国際ビジネスの場ではなくなるかもしれない。香港経済の根幹が毀損されていくことになる。香港市民の死活問題がかくして関わってくる。学生だけの問題ではないのである。

 さて、見通しだが、国際世界がこれは大問題だと認識して、中国の対応を抑え込めばそれなりの達成と言えるし、そのためにこそ香港市民は大問題化しなくてはならなかった。で、どうなるかだが、わからない。そもそも中国という国は、天安門事件が示すように、市民を虐殺しちゃう国家なのである。なんだってやりかねないからだ。

 さて、私は今回の事件でどう思ったかだが、こうするしかないだろうし、見通しはあまり明るいものではないな、と思った。
 が、かつてこのブログでも注目した周庭さんには圧倒された。雨傘運動のときのJK(女子高生)、今は大学生。もともアニオタだと自称していたが、来日してプレスできるまで日本語が使いこなせている。中国語(多分広東語と北京語)と英語は当然できて、その上、アグネス・チャンより上手かもしれない日本語を使いこなせるという時点で、圧倒される。そして、日本に来て、香港の民主化を訴えた。日本が民主義国であり自由主義だから、日本の市民に日本語で訴えに来たわけである。こういう若者がいる限り、香港の自由が消えてしまう未来なんか想像できるだろうか。(いやできない、と補っておかないと、ブログでは反語は読まれないからね)。

 

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2019.06.12

一週間でイタリア語が習得できるか?

 一週間でイタリア語が習得できるか? 議論をすればいろいろあるんだろうが、それを実際にやっている人をたまたまYouTubeで見かけた。Nathaniel Drewという人。同名の人も多いようだが、彼は自分のWebサイトも持っている。About meという項目があるので、自己紹介があるかと思ったが、人生のビジョンのようなものを語っているだけでよくわからない。メキシコに住んでいるアメリカ人YouTuberなのだろうか。
 話は、"I Learned Italian in 7 Days”というものだ。自習だけで実現すると言っている。たいしてお金もかけない。しかし、一日、数時間は集中的に学習するとのこと。
 これまでイタリア語の素地のようなものはほとんどないと言っているが、最初の時点で、挨拶や自己紹介くらいはできそう。
 さて、1週間で、イタリア語習得ができるんだろうか、ということで、見ていくと、パート1とパート2があって、2週間後のパート2のほうだとけっこうイタリア語で会話ができている印象がある。
 さて、彼はどうやっていたのか。
 4つの段階に分けている。

① 最初の2日間で、頻度数の高い1000語を丸暗記する
 彼の意見では、Duolingoのように長期にわたり、語彙を増やそうとして時間をかけても有用ではないが、短期間に覚えるならよいだろうとしている。2日間。
 頻度順にしたのは、80/20の法則によるとしている。彼は用語は出していないが、パレートの法則である。ようするに、頻度の高い単語を覚えれば、その4倍くらいはカバーできるという感じだ。
 で、どうやって暗記するか?
 ノートに書き出して、何度も声に出して見直すというのが、基本。それから、具体的に、声に出して読み上げた単語をスマホで録音して聞き返してもいる。
 ほかに、集中できる時間や空き時間を有効に使う、スマホなど最新技術を応用する、視覚化や連想(こじつけとかダジャレ)も効果的に使う。
 なーんだという感じだが、自分で筆記して教材を作って、自分で音声の教材も作るというのはけっこう効果的なんじゃないか。

② 3日目から結合
 覚えた言葉を「結合」して、意味のあるチャンクや文章にしていく。
 動詞の活用なども「結合」の一環としている。「文法」という表現はしていない。
 慣用表現なども注目する。
 3日目以降も語彙の確認はする。
 睡眠も大切。睡眠中に短期記憶から長期記憶に移る。

③ 関係を作る
 簡単にいうと、その言語が使われている環境になじむこと。映画とか音楽とか。
 そうすることで、その言語が実際に使われている感覚をつかむことができる。
 また、暗記ばかりしていると、学習意欲がそがれる。
 それで、この日、彼は数時間、イタリア語のポッドキャストを聞いた。20パーセントくらいしかわからないとのこと。でも、なにか全体がわかった気になるとも。

④ 間違えてみる
 間違いを恐れずにしゃべってみる、と言ってもいいだろう。
 誰かが笑っても気にするなとも。
 ここで彼はいいことを言っている、「外国語を学ぶことは謙虚さを学ぶこと」。
 で、どうやって間違いだとフィードバックされるか。彼は、italkiやHalloTalkのようなネットサービスを勧めている。



 さて、結局どうなのかだが、まあ、こういうのもありかもしれないなとは思った。
 ところで私のイタリア語学習は、73日目。ネイティブの講座に週一。ピンズラーのレベル3の13。それと、Duolingo。
 Duolingoの語彙リストを見ると、1169wordsになっている。Duolingoでは活用形も1語とカウントするので、通常のカウントなら、600語くらいだろうか。
 
 さて、1週間でイタリア語が学べるかだが、イタリア語は正書法が他言語に比べてやさしい面は大きいだろう。日本語は文字種が多すぎ、英語は正書法がでたらめ、フランス語は正書法が文法に食い込んでいてやっかい、ロシア語は他のラテン字母の言語と衝突。などといった部分で、まあ、軽く一週間はふっとぶだろう。
 ただ、会話だけなら、案外、1週間で学ぶというのはよいのかもしれないとも思った。

 

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2019.06.11

横浜市新交通システム「シーサイドライン」の逆走で何が問題か?

 1日、無人自動運転する横浜市新交通システム「シーサイドライン」が新杉田駅で車両が逆走して乗客14人が重軽傷を負った。この逆走事故で何が問題なのか、ぼんやりと考えつづけた。結論ではないが、ちょっとブログに書いておきたい。
 事故の原因はだいたいわかってきている。事件当初は、事件の手がかりはなく、動作プログラムのご動作も疑われたが、現状ではそれはない。無人運転の安全の要となるATC(自動列車制御装置)とATO(自動列車運転装置)には異常はなさそうだ。
 8日のNHKニュース『シーサイドライン逆走 回路断線で車両止める設計なし』ではこう伝えている。

 無人で自動運転していた横浜市の新交通システム「シーサイドライン」が逆走した事故から8日で1週間です。これまでに先頭車両の回路が断線していたことがわかっていますが、断線した場合に車両を動かなくする「フェイルセーフ」と呼ばれる設計になっていなかったことが、運行会社への取材でわかりました。
 (中略)
 これまでの運行会社の調査などで、先頭車両にある進行方向を制御する装置につながる回路が断線しているのが見つかり、逆走につながったとみられています。
 また、この回路が断線した場合に車両を動かなくする「フェイルセーフ」と呼ばれる設計になっていなかったということで、現在は有人運転を行っています。
 一方、NHKが全国のほかの無人運転の新交通システム6社に取材したところ、5社は、回路が断線した場合、車両を動かなくする設計になっていることを確認したということです。
 国土交通省は、新交通システムの運行会社などでつくる協議会を立ち上げ、フェイルセーフの設計が徹底されているかや想定外のリスクがないか検証し、再発防止策を検討することにしています。

 NHK報道によれば、横浜市新交通システム「シーサイドライン」にはフェイルセーフの設計に問題があったというふうに読める。そして、ほかの無人運転の新交通システム6社中5社では、「回路が断線した場合、車両を動かなくする設計になっていることを確認した」ということだ。
 簡単に言えば、設計ミスだったということになる。
 ただ、気になっていたことがあった。「フェイルセーフの設計が徹底されているかや想定外のリスクがないか」という部分に関係する。「徹底」の意味合いである。
 ちょっと矛盾した言い方になるが、横浜市新交通システム「シーサイドライン」はフェイルセーフシステムに欠陥があったのだろうか? そう疑問に思ったのは、そんなはずはないんじゃないの?と思えたからだ。ATCにもATOにも異常はない。
 5日時点のNHK時論公論「自動運転 逆走事故 問われる安全対策」では、こう伝えていた。

 一方、逆走(上図の右方向)した場合も、ATCや非常停止は機能します。しかし、このとき設定される制限速度は、駅の出発を想定しているため時速40キロです。停止した状態から逆走した列車は、制限速度の40キロ以下であるため、ATCは働きません。つまり、車止めに衝突するまでの間、列車を止めるシステムは事実上ありませんでした。

 つまり、ATCが機能するためには、時速40キロを超える必要がった。
 実際にどのくらいの速度で逆走したかわからないが、ロードバイクが30キロくらいで、まあ、自転車を必死こいてこぐとそのくらい出る。それがぶつかって休止したら、人は吹っ飛ぶなあとは思う。ここで、ちょっとよからなぬ疑問を連想をしたのだが、すし詰め満員電車だと、その衝撃を吸収するだろうか。もっとひどい事態になりうるか。と想像してみて、そもそも電車というのは、急停止したとき、できるだけ事故が起きないように設計されているのだろうかとも疑問に思った。
 さて具体的に今回の事故をきっかけにどのようにシステムが改善されるのだろうか?


① 回路が断線したら動かないようにする
② ATCの制限速度を下げる

 たぶん、最初のほうだろうと思うが、私としてはは、

③ 緊急停止で事故が少ない車体を検討する

 というのがあってよういようには思った。

 

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2019.06.10

[映画] Viva!公務員 (Quo vado?)

 なんかイタリア語の映画が見たいな、そしてできればコメディがいいと思って探していると、『Viva!公務員』が推されたので、見た。2016年の作品。これは、かなり面白かった。
 笑えるという点で、『TED』以来だろうか。ちなみに、続編の『TED2』はリベラル臭がひどすぎてつまらなかったし、この手のつまらさなだと『ソーセージ・パーティー』もそうだった。リベラルを基調にお下劣というパターンはリベラルが口実になってつまんない作品になりがち。その点、『Viva!公務員』はなんだろう、根っこにあるリベラルがけっこう骨太というかがっちりしている。おフランスのコメディ映画の軽さとも違う。ああ、イタリア的知性っていうのが感じられた。
 最初、表題を見たとき、あ、やられたと思った。これは、すごい。『Quo vado?』である。これがすべてを物語っている。っていうか、それわかんないやつが、この映画、ほんとに笑えるとかつい上から目線というかマウントしたくなるんで、逆に解説は控えておくね。いや、でも、このダジャレはすごい。
 物語は、こんな釣り。

終身雇用を求めて公務員になった男がリストラの対象になってしまったことから巻き起こる騒動を描き、イタリアで大ヒットを記録したコメディドラマ。終身雇用の仕事に就いて安定した人生を送るという子どもの頃からの夢をかなえ、15年前に公務員になった独身男性ケッコ。しかし政府の方針で公務員が削減されることになり、ケッコもその対象になってしまう。それでも公務員の職にしがみつこうとするケッコをどうにか退職に追い込みたいリストラ担当者は、ケッコに僻地への異動を命じ続け、ついには北極圏へと左遷する。

 まあ、確かに、そういうふうな点で笑えるようにもしている。イタリアの公務員改革をおちょくっているというか。
 ただ、意外にディテールが複雑だった。というか、単純ではない。イタリアのだめな公務員を批判しつつ、公務員改革も批判している。根っこに骨太のリベラルがあるのに、リベラルを批判している。なんだろ、反知性を知的に批判するのをおちょくっているというか、この倒錯的なねじれ感が、「しびれるねー』という感じだ。
 こうしたある種のひねくれたイタリア的な知性が「五つ星運動」のベッペ・グリッロにも通じるところがあるのかもしれないが、さすがにそのあたりとなると、どう受け止めてよいのかよくわからない。
 主演のケッコ・ザローネの演技は安定していた。ソニア・ベルガマスコも。ヒロインのエレオノーラ・ジョヴァナルディはすてきな女優だった。ロビン・タニーに似ているなとも思った。

Viva 

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2019.06.09

フランス人的に親であること。日本社会もそうなるだろう。

 ある種の作品や体験は、一晩眠って朝になると、印象が深まったり、変わったりすることがある。昨日見た映画『LOL ロル ~愛のファンタジー』もそうだった。まあ、それほどおもしろい映画でもないけど、悪い映画でもないし、現代の生きたフランス語に触れるにはいいんじゃないのというのが大筋の印象だった。だから、フランスの文化やフランス語が好きではない人、あるいは、映画にもっとエモーショナルな満足を求めてる人には、それほど向かないんじゃないかとも。「おもしろい」というのは、とりあえずそういうことだから。
 でも、違った。この映画、ああ、親になるということはこういうことか、ということを上手に問いかける映画だったんだ、とわかった。いや、それは見ているときでも、見終えてからもわかっていたのだが、なんというか、心の底まできちんと届く感じでわかった。

 

 この感覚からちょっと書いてみたい。うまく言える自信はない。
 ふつう、自分が人の親になったというのは、もちろんと言っていいと思うが、子供が生まれたときだ。受胎を知るときがそうかもしれないし、むしろ、妊娠の期間というのは、親になるための心の準備期間でもあり、そして驚くことに体の準備期間でもある。概ね女性に大きな変化がいくが、男の体の変わると思う。医学的な研究はないから、これは実感として。
 そして、子供が小さいころは、親は比較的自然に親であるという気分でいられる。というか、自分が「おとうさん」であったり「おかあさん」であったりというアイデンティティに、なんというか、つらさがあっても酔いしれるのである。そういうものなのだと言っていいんじゃないか。子育てがつらいというのは、大半は、このアイデンティティが責務化したものへ不達成感や、ある種の疑念があるからだ。で、ちょっと補足すると、実はそう少なくもない割合で、そうしたアイデンティティに違和感をもつ人もいるものだ。そしてその人たちの少なからずが社会的なアイデンティティに結果的に逃げ込む。親になる適性がないとまではいえないが。
 で、子供が子供のうちは親は親であることは、つらくても自明なことが多いのだが、子供が子供ではなくなってくる。思春期くらい。そうしたとき、親であるということは揺らぎだす。子供がそのまま小さな子供であることが揺らぎだせば、親であることも揺らいで当然でもある。
 子供が子供でなくなってくるのは、それが自然だからでもあるし、子供というのは、親から逃れようとする存在だからとも言えるだろう。子供にとって親の愛情と称するある種のアイデンティティの押し付けは、子供にはつらいものだ。
 で、これは、けっこうな大問題である。
 親が親でいられるのは、もはや自明ではない。自分がかつて子供であったことの総体も問われる。どうしたらよいか。
 『LOL ロル ~愛のファンタジー』で、ソフィー・マルソーは、そうした人生の時期の女性を、アンとして上手に演じていた。たぶん、かなり、素だなこの人というのも感じられるくらいに。奇妙なことに、私たちのそう少なくもない数は彼女の少女像を持ち続けてさえいる。
  アンは建前は離婚している。理由は、夫の浮気でもあるが、そういう夫の関係が受け入れられないからでもあるだろう。それでいながら、元夫の関係が悪いわけでもない。別居しているがほぼ定期的に性行為の関係はある。これが娘、ロルにもわかっていて、なんなのおかあさん、ということでもある。
 アン自身、夫婦関係でどう生きていいかわからない。それは同時に娘への接し方もわからないということにつながる。わかってはいるつもりではいる。
 で、振り返ってみると、この映画、そうした親像を、思春期の子供で一種の反射鏡のようにして多様に描いていた。いい作品だったのだ。特に、ロラのボーイフレンドと父親の齟齬と和解については、世界観を多角的にしたい意図はわかっても、うまく調和してないようにも思えたが、一晩たってみると、そうした父親と息子の関係を描くことは、この映画の必須要素であった。
 アンは恋愛をする。元夫のずるずるとした性関係と信頼関係を維持しながらも、別の男性と親密な関係になっていく。そもそも結婚していないのだから、どう恋愛しても自由なのだが、そうした自分をそれほど上手に受け入れられない。で、結論は受け入れていく。これは親というものの新しいアイデンティティにもなる。
 アンの元夫もそれをある意味、そうした新しい親というもののアイデンティティを受け入れていくし、その過程で彼らの娘、ロラとの関係が壊れていくわけでもない。むしろ、変化を乗り越えて良好になっていく。
 で、結局なんなの? というと、そう問うなら、結婚という制度が終わった市民社会というのはこういうものだということだ。
 もうちょっと言うと、日本の市民社会もそうなるだろう。さらにもうちょっと言うと、結婚後の姓をどう決めるかとか、同性婚をどうするかという問題は、ある部分的な問題となるだろう。それは、結婚という制度そのものが、男女の関係、子供の関係を十分に保証するような外的な支えではなくなっていくからだ。
 親は親として、自分が産んだ子供との関係をできるだけ維持したほうがよいだろうし、社会はそれを支援するようにあるべきだろうが、それは結婚という制度とは別のものでいい。
 結婚という生き方もあるだろうが、それは私たちの市民社会が子供を産み、育てていくというのは、本質的な関連ではなくなっていく。むしろ、恋愛やそれに近い、多様な連帯こそがそうした社会を支えていくようになるのだろう。

 

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2019.06.08

[映画] LOL ロル ~愛のファンタジー

 このところイタリア語の勉強をしていて、なんかイタリア語の映画でも見るかと思っていると、たまたまフランス語の映画を見つけた。そして、「ああ、フランス語はこのところあまり勉強していないな、じゃあ、これを見るか」と。それで、『LOL ロル ~愛のファンタジー』という映画を見た。
 10年くらいの前の映画で、パリの中産階級の母と娘の日常といった作品らしい。普通の日常生活のフランス語が聞けるといいかなと思ったのだ。で、その思いは、十分満たされた。
 加えて、面白い映画かというと、それほど面白いというほどはないが、見る価値のある映画ではある。現在となっては少し古いが、それでも現代フランスの日常、特に、高校生やシングルマザーのフランスの日常に関心があるなら、十分面白いだろうと思う。主演は40代のソフィー・マルソーである。美しい女性だ。演技もいい。なお、邦題はなんかの間違いという感じがする。原題は、"LOL (Laughing Out Loud) "という英語だが、英語のこの語の語感もそれほど関係ない。もう1人の主人公の娘の名前ロルのダジャレにもなっている。
 この映画のある独自のリアリティ感は何に由来するのだろうかと見てから気になったので、監督について調べてみた。Lisa Azuelosという1965年生まれの女性であった。ソフィー・マルソーより一年年上。つまり、同年代と見てよい。この映画は、実話を元にしているらしいが、おそらく監督を含めて、政策側の同年代感覚が生かされているのだろう。
 ちなみに、彼女たちは現在は、50代前半。10年前は、40代前半だが、娘は16歳。20代前半に産んだという設定のようだ。日本でもだいたいこの世代の女性の感覚に通じるものがあるのではないか。
 話は……40代前半、3人の子どもと暮らすシングルマザーのアンヌと、16歳の高校生のロル(ローラ)の日常。ふたりとも少しトラブルもある恋愛を経験する半年間といったところ。母と娘の物語といってもよく、さらにおばあちゃんも出て来る。女の物語でもあり、その反照としての、男の物語でもある。
 内容のトーンは、さすがにおフランスといったいったイメージがコテコテだった。高校生も大人もタバコに大麻にセックス。それに、娘の高校生たちがイギリスにホームステイするときの、フランス人からみたイギリス人の偏見像も、微妙に笑える。
 全体として、特にこれといった話の展開もなく、昨今の日常系アニメにも似た感じする。だが、微妙に、ああこれがフランスなのだな、と思ったのは、恋愛というより、C'est la vieというある感覚と、日記を綴るという感覚だった。あるいは、言葉をめぐる「生」と信頼の関係とも言ってもいいかもしれない。

 

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2019.06.07

電気ひげそり器を買って思ったこと

 その前にだ。「電気ひげそり器」ってなんだと思う。いや、「ひげそり」を「髭剃り」と書くかとか、「器」じゃなくて「機」じゃないのとかいうことでもなく、そもそも、そういう言い方しないんじゃないか。じゃあ、何? 「シェーバー」。ピンポーン、正解です、ということだろうか。まあ、正解は正解だろうが、シェーバーねえ。
 落語の枕みたいなことになってしまったが、「歯磨き粉」についても思うのである。「歯磨き粉」ってなんだ? そう言うか? 言わないよね。じゃあ、何? 「練り歯磨き」 いやそれもっと言わないぞ。じゃあ、あれは何? 英語なら簡単だ。あれだ。まあ、辞書ひいてくれ。
 やっぱり「歯磨き粉」としかいえないかと、字引をひくと、「状のものについてもいう。」とある。ご親切なことで、辞書的には落とし所という感じだが、しかしなあ、あれ、「粉」じゃないよね。で、辞書には、「歯磨石鹸」ともあるが、それ聞いたことない。
 ちなみに、僕は、本物の「歯磨き粉」というのを知っている。粉だ。白い粉なのである。丸いアルミ缶入りだったと記憶している。明治生まれのおじいさんが使っていた。
 ああ、なんの話だったっけ、電気ひげそり器というか、許す、シェーバーだ。それを、2月に買ったのである。アマゾンから。いや南米のそれじゃなくて。
 けっこう悩んだ。いろいろ悩んだ。ブログのネタになるくらだ(誰が読む?)。
 まず、僕は物保ちがよいのである。体型も20代からそれほど変わんないから、下手するとまじで20代の衣類を大事に着ている。30代のはがちで着ているな。特に、海外旅行で買ったのとか。どうでもいい。
 シェーバーもだから、何年使っていただろう。下手すると10年くらい使っていたんじゃないか。物保ちよさすぎ。その前のシェーバーもそうだった。僕はこれまでの人生で、シェーバーは5つぐらいしか買ってないんじゃないかと思って、記憶を探るが、20代のころはけっこう買っていた。単一電池で動くやつで、いくら僕が物持ちがよくても刃がだめになった。そもそもパワーがない。先々代あたりから、AC電源で動くのにしたので、パワー不足はない。いや、そこが別の問題でもあったのだが。
 さすがに買い換えるか。刃がもうだめだ。シェーバーというのは、刃だけ取り替えるのと本体ごと取り替えるとのさほど値段差がない。
 あるいは、もう安全カミソリ(これまた古語だわ)でもいいかとか悩んだ。まあ、さすがにシェーバーを買い換えるか。
 で、どれ?
 決まらない。シェーバーというのは、青天井なのである。まさに高級機があるのだ。というか、髭の濃い人は特製でないとだめだろう。僕はというと、それほど髭は濃くない。なんというか、髭は凡庸なのである。
 迷った挙句、アマゾン・チョイスというのを買った。これだ。



 「ブラウン シリーズ3 【Amazon.co.jp 限定】」というのだ。ブラウンならいいんじゃね、と、ぽちった。4980円。それから気がついたのだが、ブラウン シリーズ3は3480円である。うわ、アマゾンに騙された、と思った。気がついたのがすぐだったので、発送前、キャンセルするかと思ったが、限定品とそうでないと、なんか違うのである。まず、形状が違う。形状なんかどうでもいい。機能が違うか。同じ? 同じか? 
 違いは、バッテリーの保ちであった。
 簡単にいうと、1500円分で25分、長い。
 さて、と考えた。僕はシェーバーはAC電源で使っていたのだ。だいたいバッテリーはすぐにへたれるし。で、このシェーバーそもそもACでは使えない。うーむ。
 まあ、いいかと、そのまま買った。
 で、どうか。
 剃り心地はよいのであった。痛くない。前のシェーバーは肌が痛かったから、剃る前にすべらすローションのようなのを塗っていた。その必要ない。
 で、AC電源のコードがない。便利だ。ということは、バッテリーの保ちがいいほうがいいんじゃないかとそこで納得した。
 まあ、シェーバーの好みというのは人それぞれだろう。でも、アマゾン・チョイスでまあ、問題なさそうだった。ちなみに、どうでもいいが、僕は身長体重が日本人の平均である。身体サイズ的に困ったこというのがまるでない。髭も。
 新しい凡庸なシェーバーで髭を剃りながら、自分の凡庸さになにか微妙に感動するというか、反省するというか、まあ、微妙。

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2019.06.06

幸せを思うことについて

 76歳になって自分の子供を手にかける人がいた。その個別の事件についてはあまり考えないようにしている。というか、本来ならそうした個別のことを考えるべきなのだろう。だがあえて、その一般的な部分だけを考えてみる。いや、この一週間くらそのことを考えつづけていた。
 自分は、61歳にもなった。余談めくが、このブログを始めたのは、45歳である。あなたがもし40代なら、60歳はそう遠い日ではない。そして自分も寿命があれば、76歳まで生きられるかもしれないが、それもそう遠い日ではない。もう人生は締めくくりの時期だ。そのとき、そうした悲劇が自分には起こらないだろうか。おそらく自分の場合はそんなことはないんじゃないかと楽観的に思うが、その人はどうだっただろうか。その人は、あのような人生の締めくくりを予期して生きてきたのだろうか。これを一般化してみる。
 人が人生のあるとき幸せでも、その末期にとんでもない悲劇が訪れることがある。それは運命とはいえないだろうが、起きてしまって振り返るなら運命のように見える。そうした、運命のようなものが、人の人生にどのように訪れるかはわからない。であれば、人生のあるときその人がどれほど幸せであろうと、バッドエンドということはある。
 逆にいえば、末期に幸せなら人生の総体は幸せということになるだろうか。人生のある時期、どんなに惨めで、人に捨てられ、絶望でいても、それでも、末期には幸せでした、となるだろうか。
 格言が思い出される。人事は棺を蓋うて定まる、と。だが、棺の中にいる自分は、霊となってこの世界を見ているわけではない(僕は死後の生命は信じられない)。価値のある人生や幸せな人生が、棺の外の他者たちの評判として定まったとしても、その人自身にはもうわからない。死んでいるのだ。ただ、生きているとき、自分の棺を思いながら、自分の人生は良かったと、まだ信じていたいというだけにすぎない。
 この構図は、カルヴァンの予定説にも似ている。結局のところ、天国は幸福の比喩であるとするなら、その人の人生の幸福というのは、予定されているかのようなものだ。あるいは、どのような努力をしても及ばないものだ、と。
 ではどうしたらいい。まるで予定説に懊悩するプロテスタントとさほど変わりない。日々、自分の人生の価値や幸福を自分で確認しながら、ここまで生きてきて、ここまではよし、というしかない。それでも、最期は、やはりわからない。
 最期など、もしかしたら、どうでもよいのではないだろうか。
 結局のところ、最期などわからないなら、そして、生きているのは、今まさにこのときであるなら、最期など気にかけることはない。最期のその瞬間も、そのときの今の問題でしかない、と。
 これをもっと延長する。実は、今が幸せであるかどうかも、実はどうでもよいことなのではないだろうか。そもそも、こうした幸せとは、「私は幸せなのだ」と私を納得させる何であって、かならずしも自然に沸き起こる情感でもない。まして、人生の価値などは所詮、思考の産物でしかない。
 こうした思考の、どのあたりに真理があるのだろう。
 もう一度、死を問い返してみる。
 死は、実は、自己意識にとっては、眠りと変わりない。目覚めたときに、それまで眠っていた、あるいは夢見ていたと事後に気がつくだけで、目覚めなければ、わかりもしない。
 死は、遠いところにあるわけではないのかもしれない。眠りの前と死と、意識にとって違うものではない。
 だとすれば、幸せか否かは、棺の中のことでも、今のこのときでもなく、日々の眠りに落ちるその意識のはざかいにあるだろう。
 眠りに落ちながら、幸福な気分であれば、幸福だろうし、不幸な気分であれば不幸だろう。
 そして、それはそこで終わる。明日の幸せや明日の不幸は、また明日の課題だろう。

 

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2019.06.05

ブローカー(broker)の語源

 ツイッターでたまたまだが、「仲介人」を意味する「ブローカー(broker)」の語源を、breakの過去形のbrokeに、人を示す接尾語(er)がついて、brokerとなったように考えているようなのを見かけた。そう見えても不思議ではないなとは思った。が、この語源は違うのである。といった、雑談。
 brokerという言葉は、14世紀に、フランス語の"brocour"から英語に入った言葉で、breakとは関係がない。brocourという単語の響きを英語風にしたら、brokerになったということで、erは語尾ですらない。
 話はそれだけなのだが、雑談なので、話を広げる。
 13世紀には、brocourは人名の一部で入っていたらしい。小貿易人という職業が家名になったようだ。
 で、このフランス語の"brocour"だが、実は、アングロフレンチと呼ばれているもので、ノルマン征服(1066)後に入った語彙が多い。そしてこのあと、12世紀から13世紀、現イギリスの地は、アンジュー帝国化に置かれる。このときも、フランス語の語彙が英語に多く流れ込むが、ノルマン征服のときとは異なり、南フランスの言葉も入る。時代的に考えると、brocourもこの一種ではないかと思うが、資料を読んでいるとノルマンという話もある。
 で、いずれにせよ、フランス語であれば、俗ラテン語を介して、ラテン語に至るので、ラテン語の"broccare"(葡萄酒仲買人)が元にはなるだろう。古フランス語には、"brocheor"があり、これが由来かもしれない。この言葉は現代語のbroachでワインの樽に口を開けるという意味になる。
 他資料を見ていると、フランスでの由来で、abrokurがあり、さらにポルトガル語"barter"との関連もありそうだ。
 以上、まとめると、brokerがラテン語由来の言葉で、アングロフレンチとして英語に入ったことまではわかるが、その間の経緯は諸説あってよくわからない。が、歴史的な出来事を背景にしていそうだ。
 ついで、ロシア語のброкерは英語の、brokerが語源らしい。これは見たままとも言えるのだが、英露交流史と関係しそうだが、よくわからない。
 いずれにせよ、brokerという言葉は、中世の仲買人の歴史そのものと関連していそうなので、あれだ、『狼と香辛料』的な背景があるのだろう。

 

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2019.06.04

シャンソン『チアナンマン』

 心に響くシャンソンでした。訳してみました。誤訳や間違いはあるかも。

 

シャンソン チアナンマン

Quand les yeux ont tout vu et tout subi
Que même les dieux ont perdu de leur magie
Quand les mots ne vous répondent plus
On courbe le dos
Un jour le bout de la rue
Vous mène là
À Tien An Men

目がすべてのものを、苦しむものを見たとき
神々ですら魔力を失った
言葉があなたにもう何も応えないとき
人は身をかがめた
ある日通りの行き止まりが
あなたをそこに連れて行く
チアナンマンへ

À pas baisser les bras
Seul face à soi même
On se voit faire le pas
De donner ses chaînes
Parce qu'on n'a plus que ça
P't-être que Tien An Men
Est plus près que ce qu'on croit
Que nos guerres quotidiennes
Valent aussi la peine
Mais on ne les voit pas

そこで降伏はしない
ひとりで自分に向き合う
踏み出す足が見える
鎖を与えられても
だってそれしかできない
たぶんチアナンマンは
みんなが思うより身近にある
私たちの日々の闘争だって
意味があるんだと思うことに
そう見えないとしても

Quand les gestes fléchissent sous le plus fort
Qu'il ne vous reste
Plus qu'a se rendre d'accord
Quand plus rien
N'est à perdre ou à prendre
On ne vous retient
Un jour la fin des méandres
Vous mène la

力でねじ伏せられたとき
あなたに何も残されてなくて
しかも同意するしかなくても
もう何もないとき
失うことも得ることもなくても
あなたを後退させない
ある日迷いの終わりが
あなたはそこに連れていく

Parce qu'on a encore ça dans les veines
Et pas d'autres choix
Un jour le destin vous emmène
À Tien An Men

だって、まだ血のなかにそれをもっている
ほかに選択なんかない
ある日運命がそこにあなたを連れていく
チアナンマンへ

 

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2019.06.03

練馬の親族殺人事件と嫌な行間

 「行間を読め」と言われるのが嫌いだ。読めないこともあるが、そう言われるときはたいてい、行間を読み取って、拒絶しているときだからなのだ。こう思うことが多かった、若い頃だが、「だいたいたいにおいて、きみたちより文学・評論を読んで現国なんか無勉強でクリアの僕がそもそも行間とやらを読めないと思っているというのはどういう了見なんだかな」という感じである。しかし、それはある種の若者の凡庸さの現れの一つでしかない。
 行間など読めと言われるものではなく、読めてしまう行間にどう対処したらよいのか。たいていの場合は、沈黙である。そもそも「行間を読め」というのは、命令だからだ。そして、それを読まないことは、その命令への拒絶だからだ。そして、拒絶を口にすれば、弱者のポジションにあれば、一悶着起きる。沈黙以外にどうしろと。
 で、この状況である。
 どの状況か。行間だ。
 回りくどく書きたい。
 登戸の無差別殺人で、いくつか心に引っかかることがあった。一つは、「拡大自殺」という言葉だ。NHKの報道で知った、というか、ああ、またNHKやらかしたなと思った。ググると毎日新聞もこのビッグウェーブに乗ろうとしていた。さすがに他メディアもそこまでバカじゃないから、その後、この言葉に気がついただろう。NHKも事後気がついたかもしれない。当然だろう。それが「自殺」の一種なら、自殺報道というものをどう扱うというのか?
 しかし、事実としては、自殺であろう。そして、通り魔殺人ではあれ、自殺が伴うときであれ、「わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」という思いは去来する。
 心に去来するもう一つはそこにつながる。私は、被害者への献花の映像を見ながら、岩崎隆一容疑者に花束を捧げようかと思ったのである。そして戸惑った。行間は読める。彼への献花であるなら公営バス停側に置くべきだろうか。多くが捧げるファミマ前でよいのではないか。あの献花の山は、被害者に捧げた花束だけとは限らないだろう、そう思ってみた。その花束のなかに岩崎隆一容疑者への献花も含まれているだろう、それがどれかはわからないとしても、と思った。そして、それを信じた。私は、「黙祷!」にも呼応しない人である。死者への献花は知己なりの行間を読む以外にはしない。それをあえて、無関係の他者にするというのも欺瞞だろうとも思った。
 そして、練馬の親族殺人事件。
 困ったことになったなと思った。まず、親族殺人事件そのものが困ったことだし(その背景心理は稀有なものではないし)、引きこもりが危険という行間の読みも困ったことだと思ったが、さらに問題は、登戸の事件との行間である。
 文脈は明確には存在していない。だが、行間だけは浮かび上がる。それを、「そう解釈するのは恣意的過ぎるのではないか」と言えるかというと、言えはするが、そう言うこと自体が、別の「お前は黙っていろ」という行間のメッセージになる。
 たぶん、この行間のメッセージはすでにそれほど恣意的とも言い難い。
 事件について私も語りたいのだろうか。ただ、こういう行間は読める。
 40歳を過ぎた引きこもりで家族と軋轢の歴史があり、そこで登戸の事件。ここに、行間。この40歳過ぎた引きこもりがとんでもない社会事件を引き起こすとしたら親としてどうすべきか。
 NHKニュース『農水省元事務次官逮捕 長男は近隣トラブルで実家に戻ったか』ではこういう文脈が唐突に現れる。

 その後の調べで、長男は以前、都内の別の場所に住んでいましたが、ごみ出しなどをめぐって近隣の住民とトラブルになっていたことが捜査関係者への取材で分かりました。その後、長男は実家に戻り、両親と同居していたということです。
 捜査関係者によりますと、熊澤容疑者は「長男はひきこもりがちで家庭内暴力もあった。周囲に迷惑をかけてはいけないと思った」と供述しているということです。
 事件直前には近くの小学校の音がうるさいと腹を立てていたのを父親にたしなめられて口論になったということで、警視庁は同居後もトラブルが絶えなかったとみて、容疑を殺人に切り替えて詳しい経緯を調べることにしています。

 「周囲に迷惑をかけてはいけないと思った」という供述の意味は、文脈的には、かつてのできごとである。だが、行間からは、「これ以上周囲に迷惑をかけさせてはいけない」というメッセージが読める。
 もちろん、それは読みすぎだし、そう読むのは間違いだという意見があるのもわかる。そもそもそれが行間だ。
 だが、読売新聞『「運動会うるさい」騒ぎ始め…書き置きに「殺すしかない」』は、こう報道している。

 東京都練馬区の民家で起きた殺人事件で、無職の長男(44)を刺したとして、殺人未遂容疑で逮捕された元農林水産省事務次官の熊沢英昭容疑者(76)が調べに対し、「周囲に迷惑をかけてはいけないと思い、長男を刺した」と供述していることが捜査関係者への取材でわかった。日常的に家庭内暴力を繰り返していた長男を「殺すしかない」と記した書き置きも発見され、警視庁練馬署は、熊沢容疑者が将来を悲観して事件を起こしたとみている。

 不愉快な行間のメッセージはこれで確定したのかというと、冷静に考えれば、文脈はできあがったが、今回の殺人がそれであったか、まだはっきりとはわからない。
 で、何が問題なのか。行間である。
 こう言ってもいいかもしれない。行間を読んで生きるのは、とても嫌なことだ。それは責任所在の不明な命令だからだ。
 では、行間を読まないということは、どういうことかというと、現在の日本の情報空間では、それを読んだ上で、拒絶するということでしかないのではないか。
 登戸の事件と練馬の事件について、中年の引きこもりという文脈を作り上げられる。その時点で、そこで、実際上、行間を読めとする空気が生まれている。こうした行間に対抗するには、行間を読んだ上で、まだ何も言えないはずだろうと、しばらくは拒絶することが重要なのだろう。

【同日追記】

 残念ながら、その後、この行間の読みを強化する報道は現れた。『長男の暴力は中学から 父親の元農水次官「身の危険感じた」』より。

農林水産省の元事務次官の76歳の父親が44歳の長男を刺したとして逮捕された事件で、長男の暴力は中学時代から始まり、父親は「身の危険を感じた」と供述していることが分かりました。先週、川崎市で男が小学生らを殺傷した事件を見て「息子も周りに危害を加えるかもしれないと思った」とも供述していて、警視庁は詳しい経緯を調べています。

 

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2019.06.02

ポリグロットの言語習得が他の語学学習者と異なるところ

 ネットを見ていたら、複数言語が使えるポリグロットの言語習得が他の語学学習者と異なるところとして、Lýdia Machová さんの、"Ten things polyglots do differently"という、ポリグロット集会の講演をYouTubeで見かけた。面白かった。自分の備忘も兼ねて触れておきたい。なお、彼女は同種のテーマをTEDでも話している。
 複数言語を使う人をポリグロットという。だいたい5ヶ国語くらいからそういう感じが出て来る。
 さて、実際には「異なるところ」とも言えないので、項目的にはちょっと矛盾している。

1 ポリグロットに特殊な才能があるわけではない
 特殊な才能ではないから、ハイティーンや成人以降でも別言語が十分習得できている。

2 ポリグロットはそれぞれ自分独自の手法で言語を習得している
 自分に合った学習法を開発している。語学に堪能な人は独自の学習法をもっているとも言える。

3 ポリグロットの学習は自習による
 語学学校で学ぶものではないということだ。教える・教えられるというスキーム自体は語学習得に有効ではない。学ぶという主体が重要。

4 ポリグロットは語学教材を自分で作成している
 といっても、特殊な学習教材というのではなく、単語帳を自作する、学ぶべき内容のノートを自分でまとめるといったことである。

5 ポリグロットといえども一つの言語を学ぶときはそれに集中している
 複数の言語が使えるようになりたかったら、1ずつ加えていくというのだ。とはいえ、他言語の能力維持に2割は割くともいっている。

6 ポリグロットは、スピーキングとリスニングに注力する
 読み書きは後回しということ。語彙力増強も後回し。そしてある日、耳から入るその言語が理解できるときに、自由の感覚を得るという。

7 ポリグロットは間違いを恐れない
 権化習得時には間違いがつきもの。それを恐れないこと。

8 ポリグロットはものごとを簡単に言う技術をすでにもっている
 The art of simplification と呼ばれている。語彙力が十分ではないとき、別の簡単な語を組わせて伝える技術と言っていいだろう。

9 ポリグロットは毎日少しずつ言語を覚える
 毎日1時間くらい。短距離走ではなくマラソン。

10 ポリグロットは言語を楽しみながら学ぶ
 楽しみと語学学習を結びつける。言語を学ぶことを趣味にしてしまえばいい。あるいは、好きな分野で言語を学ぶとか。実際、日本のアニメを直接楽しみたいがゆえに日本語を学ぶ人は多い。アプリを活用してもいい。

 以上、面白い指摘だが、学習科学的に有効と言えるかについてはわからない。

 

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2019.06.01

[アニメ] BEATLESS その2

 ええと、タイトルの「BEATLESS その2」としたけど、「その1」は欠番です。アニメのBEATLESSはすでに2周していて、そのときなんか書いたはずと思ったら、なんとなくブログを書くのが億劫な時期で書いてなかった。気分だけはしかし、書いた気になっているので、そこを欠番にした。
 で、3周した。意外に面白かった。意外というのは、ちょっと説明が要る。
 アニメのBEATLESSは途中に、まとめ回が入ったせいか、2クールで完結せず、完結編が4話時期ずれて放映された。で、そのずれ、というか、それ以前になるのだが、原作を読んだ。原作は傑作だった。
 私はSFも読むが(過去にもそうした記事もあるが)、いわゆるSFファンというわけでもない。なので、SFというジャンルのなかでの『BEATLESS』の位置づけというのはわからないが、個人的には、現代人のマスト・リードだと思う。というわけで、身近でも読めるものには勧めて、やはり好評だった。ネットでもツイッターなどで勧めたので、読んだ人もいるようだった。
 現代人へのテーマとしては、AI・人工知能というのの極限をどう考えるかということになる。この分野の一般的な問題枠でいうなら、シンギュラリティである。で、シンギュラリティについて、これだけ明瞭なビジョンを打ち出した作品は他にないんじゃないかというくらい優れていた。端的に言えば、人類の知を超えた高度AIと信頼関係を持つということになる。それがどういうことなのかということが、このSFの価値そのものである。
 また、最終的な哲学的なテーマは、AIによる社会権力の公正な配分である。つまり、それがAIへの信頼から成り立つことのアポリアがうまく表現されていた。
 ただ、この作品は、読みづらい面もある。まずシンギュラリティの問題とその背景の情報技術の知識、さらに核兵器の国際管理などの背景知識も必要とする。加えて、4体のhIEの意味合いについても理解しにくい部分がある。
 アニメの3周目で思ったのは、すでに原作も既読で、以前の記憶からも少し離れて見ると、アニメとして普通によくできていると思った。2周目のときは、むしろ原作に劣る部分に目が行き過ぎた。また、原作イラストのredjuiceのクオリティが高すぎて、アニメとの差がつらかった。
 しかし、アニメ作品としてみると、脚本に無理がなく、2周目時に思ったエンディングの残念感もある程度納得できた。また紅霞やマリアージュの見せ場も上手だし、絵もそれなりによく描かれていた。ただ、いつか、redjuiceイラストのクオリティのリメークで見てみたいとは思う。
 声優もよかった。特にこのところ、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』を5周もしているせいか、東山奈央の別の魅力を感じた。

 

 

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