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2019.05.05

鯉のぼりを見ないこどもの日

 車窓をぼんやりと眺めていると、鯉のぼりを見なくなったものだねと言われ、そうか、こどもの日か、鯉のぼりかと思った。確かに、しばらく外を見ていても鯉のぼりを見かけない。令和とやらの時代になった変化でもない。昨年も、その前もそうだったように思う。なぜだろうかと考えて、理由を考える前に、それを考えることが虚しいような気だるさを感じる。
 そういえば、鯉のぼりは絵文字にもあったかと、携帯に「こいのぼり」と打ち込んでみると、なるほど出て来る(🎏)。その絵を見ながら、吹き流しがないなというのと、子どもの鯉がないなと思う。そういえば、雄の鯉と思われるのが上に来て、雌の鯉と思われる鯉が下に来ている。サイズも夫婦茶碗よろしく雌が小さい。これじゃ現代的ではないな。
 昭和32年生まれの私は家の庭に鯉のぼりを立ててもらった記憶がある。父が穴を掘っている記憶もある。白い5メートルほどの棒だったか。今思うとどこから手にれたものか。昭和37年頃だろうか。私の家の鯉のぼりはなぜか生地が黃がかっていて、ちょっときれいじゃないと子供心に思った。
 思い返すと、あの時代、小学校のクラスの生徒の半数は団地住まいだったから、そもそも庭に鯉のぼりを立てるということができなかった。残り半数の生徒のその半分くらいは、分譲地に家を建てるいわば新興中流層で、そこにはきれいな鯉のぼりがあったように思う。女の子に家にはアップライト・ピアノがあったし、ひな祭りには七段くらいの雛飾りがあった。50人ほどのクラスだったかと思うと、実際のところ鯉のぼりを立てられる家は四軒くらいだったろうか。私もそうして考えると微妙にその新興中流層にいたのだろうか。ただ、家はそうした地域からは離れていて友だちはあまりなかった。
 当時の団地住まいは2DKくらいだった。後に3DKという言葉を聞いて、子供ながらに一部屋増えたのかと思ったことがある。私の家は、平屋で3DKだったが建て増しというか部屋を増設していった。それでも、あの時代、住居は狭く家族は小さい。クラスでも3人兄弟というのはいなかったように思う。一人っ子はいた。すでにその頃から少子化は進んでいた。
 父母が結婚したのは、上皇の二年前くらいというか、私と天皇の差くらいになる。父の結婚は30歳で私は子供ながらに晩婚だなと思ったものだった。母との年齢差もあった。子供も2人だった。まさか自分がそれらすべてを上回るような反時代的なものになろうとは。
 いつからか鯉のぼりは、川やイベントとかで多数見かけることがあるものの、住宅街で見かけなくなり、鯉のぼりの歌も聞かれなくなった。

やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうにおよいでる

 歌ってみて、なるほどなと思う。父がいて子供が2人くらいの情景であり、母は父の下になんとなく隠れているのだろうかと思い、そういえば、この歌の二番に出て来るのだった。

やねよりたかい こいのぼり
おおきいひごいは おかあさん
ちいさいまごいは こどもたち 
おもしろそうにおよいでる

 いつ頃の歌なのか、Wikipediaを見ると、「1931年(昭和6年)12月に刊行された『エホンショウカ ハルノマキ』が初出」とある。国定の唱歌ではなかった。が、いつ頃から歌われたものかよくわからない。戦前からだろうか。
 そういえば、私の子供の時代にすでにこの歌が広まっていたが、別途唱歌の「鯉のぼり」もあった。というか、こっちが国の唱歌なので、いわゆる「こいのぼり」のほうはいわゆる唱歌ではないなとなんとなく思っていたのだった。国定の唱歌のほうはこう。

甍の波と 雲の波
重なる波の 中空を
橘薫る 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり

開ける広き 其の口に
舟をも呑まん 様見えて
ゆたかに振う 尾鰭には
物に動ぜぬ姿あり

百瀬の滝を 登りなば
忽ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子と
空に躍るや 鯉のぼり

 多分、現代の若い人には意味不明な箇所が多いだろうから、いろいろ注釈を付けたくなるが、三番は登竜門の故事に依っている。『後漢書』李膺伝から、登竜門なる門があるような解を見かけるが、本当だろうか。李膺の知己を指すように思えるが。下すと「龍門を登る」である。ここで「龍門」を実体的な門と見るかは僕はわからない。
 故事としては、三秦記「河津、一の名は龍門。水険にして通れず。魚鼈の属、能く上る莫し。江海の大魚、龍門の下に薄り集ふもの数千、上るを得ず。上らば則ち龍と為る」。要は、凡百のなかから秀でるのはわずかということで、日本では武勲から立身出世を願ったものだろう。
 妙にうちんちくめいた話になったどさくさで続けると、こどもの日は、言うまでもなく端午の節句である。端午の節句については、Wikipediaあたりにいろいろ書いてあるかとブラウズするに案の定いろいろ書いてあり、屈原(屈平)の故事も言及があるが、「要出典」がわずらわしい。
 話を端折るが、中華圏では旧暦の端午の節句では屈原の故事から、ドラゴンボートレースをする。真偽不明のトリビアだが、ドラゴンボートレースというのは世界で二番目に普及しているスポーツらしい。
 私は沖縄暮らしが長い。中華圏の文化である沖縄では、端午の節句にドラゴンボートレースである「ハーリー(爬竜)」をする。正確には、ユッカヌヒー(4日)ではあるが。那覇ハーリーは新暦でする。厳密には、これらの行事は本土復帰の影響とも言えるかもしれない。
 沖縄の子供たちにとって、こどもの日は、ハーリーの思い出と重なるものかよくわからないが、復帰前世代の人々は楽しげにハーリーの思い出を語るので、聞いてみると、ハーリーには屋台が出るらしい。その屋台が子供ながらに楽しかったというのだ。屋台の文化がハーリーと結びついているのは、戦後の沖縄だけであろうか。内地の夏祭のような感覚であろうか。

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