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2019.05.02

レンタルなんもしない人としての天皇

 先日、と言っていつだっただろうか、平成31年4月26日放送NHK『ドキュメント72時間』だったな、録画で数日後見たのだが、その番組で「密着!“レンタル なんもしない人”」というテーマを扱っていた。私は、その「レンタル なんもしない人」についてまったく知らなかったのだが、半径5m以内に聞いてみたらけっこう知られているのでいつもながら世間のことの疎さを思った。話を知るに興味深いものだった。私のように世事に疎い人向けに簡単に説明すると、二、三時間レンタルできる人であるが、なにも依頼できない。レンタルしてもなんもしない。ただ、いるだけ。という人である。
 たぶん、これだけでは、まったく知らない人はわからないのではないかと思う。私もわからなかったからだ。補足すると、このレンタルサービスなんだけど、掃除をしてくれたり料理をしてくれたりとかの依頼はなんもできない。労働やシャドー・ワークに当たることはなんもしない。また、ゆえに、労働の対価はとらない。呼び出した交通費はいただく。一緒に食事をすることはあるが、食費は呼び出した人が払う。
 もう一つ補足。サービスなんだが、サービスとは言えない。というのは、「レンタルなんもしない人」は、そのサービスで任意の人が来るわけではない。人も選べない。来るのは「レンタルなんもしない人」さんという、ある1人の男性である。30代半ば。風体はいかにもモブ。しかし、爽やかなモブだ。実際に映像で見た印象では、女性に好かれるタイプではないかと思う。その意味で、『リラックマとかおるさん』の宅配のハヤテ君を連想するし、事実上レンタル彼氏的な意味合いがありそうだ。ただ、そう、彼氏ではない。
 おそらく、そのあたりに、レンタルなんもしない人のある特徴が浮かび上がる。特定の個人だが、人のある欲望が映し出す像である。それは恋人や配偶者のようにただ寄り添っているけど、性的な関係性がない。そのことのある安心感だ。私たちは他者と生きるときエロスの交換をしているが、その濃い交換がしいる祝祭の空間はそれのない日常の空間を必要とする。
 つまり、論理飛躍のようにレンタルなんもしない人を定義するなら、それは非祝祭空間としての私たちが普通に必要とする親密性であり、レンタルなんもしない人が必要とされるのは、そうした日常性が現在、静かに壊れているからだろう。
 さて、ずいぶんと前のめりに書いてしまったが、そののりで続けると、そうしたレンタルなんもしない人というのは、天皇なんだろうと、ふと思った。正確に言えば、平成時代の天皇である。人々、日本国民が、非祝祭的な日常を取り戻すことが難しいという困難な祝祭性のなかで、ただ寄り添う人として、平成時代の天皇は現れた。彼は(実際にはご夫妻は)、来てほしいなというある状況でレンタルされ、そして労働的な意味ではなんもしない。寄り添っているだけだった。そしてそのことを日本人が欲するとき、「天皇」はそこにレンタルできるという精神性のようなものを明仁陛下は達成した。
 大げさな話のようだが、私は若い頃、森有正という思想家に傾倒したのだが、彼の哲学の根幹は「体験と経験の差」ということで成り立っている。そして、それは同時に「経験としての名辞」という概念に呼応する。まあ、簡単にいうと、私たちが他者と交換できる言葉の意味は体験ではなく経験によって成り立っているというものだ。では、そうした意味充足としての経験とはなにかというと、簡単に言えば、人の生涯なのだ。例をあげよう、私たちはソクラテスによって「考える事」という名辞の意味を知る。イエス・キリストによって「愛」という名辞の意味を知る。いや、ちょっと待て、それは変だ。ソクラテスもイエス・キリストも関係ないぞという人がいるだろう。それはそうなのだが、彼らがなんであるかを受け入れていくなかで、名辞の経験が深まるとは言えるだろう。つまり、こうした名辞は辞書的に定義されるのではなく、直感的に開示される意味の原形に人がある人の生涯に寄り添う経験の深みのなかでその新しい意味を表していくのである。
 ふー。
 で、つまり、平成時代の天皇は、レンタルなんもしない人として、国民に寄り添うという確信という意味で、天皇という名辞の意味を深化させたのだ。
 そしてそうした天皇の希求は、欧米や前近代の物語で現れる「王」という意味合いを変えてしまった。彼らは、その御心に問うなら、社会を超えた力によって恩恵をもたらす存在だからだ。しかし、平成時代を通して、天皇はそうした「王」の意味を変え、新しく天皇という名辞の意味を創作し深めた。
 それは、そのままレンタルなんもしない人につながっている。そしてレンタルなんもしない人は、私たちの非祝祭的な日常における連帯の像を表している。それはリラックマでもいいし、ひざ、時々、頭のうえにいる同居人でもいい。
 こうも言える。私たち日本人は、平成の時代を通して、レンタルなんもしない人やひざ、時々、頭のうえにいる同居人を強く切望するようになった。私たちは、そうした非祝祭の日常を求めるようになった。なぜだろうか。現実の世界は嫌になるほど退屈な非祝祭の空間であるかに見える。すべてはぬるく、適当に平穏で、幸せで……と口についてみて、それが微妙な虚しさを持っている。ここに、レンタルなんもしない人はいない、ひざ、時々、頭のうえにいる同居人もいない。天皇もいない……そう思ってみて、ふとばっくりと深淵が開くような不愉快でまだら模様のような祝祭に私たちは覆われる。
 ふと私はここであることを思う。この邪気を発している者が仮にもし、いるなら、誰であろうか。レンタルなんもしない人、ひざ、時々、頭のうえにいる同居人、天皇……そうした人の「真逆な人」。ああ、誰か言うまでもない。ツイッターを覗いてごらん、知識人まで彼への呪いをつぶやいているのだ。
 さて。
 ブログらしく締めてみたものの、ちょっとテンションが違うな、それにレンタルなんもしないの説明が甘いなと思うので、そう思った人は、「レンタルなんもしない人は本当に何もしないの?何かさせようと試みた。」というネットの記事がお勧め。普通にこの人に思うことをうまく答えていた。あと、「同居人はひざ 時々 頭のうえ」は漫画。前期のアニメにもあった。お勧めしておく。

 

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