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2019.05.30

正しく後悔すること

 寺田寅彦の「正当にこわがること」はよく知られている。なかなか洒落たレトリックだから。曰く、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」というのである。元の文脈は火山噴火であり、こうも続く。「火山の爆発だけは、今にもう少し火山に関する研究が進んだら爆発の型と等級の分類ができて、きょうのはA型第三級とかきのうのはB型第五級とかいう記載ができるようになる見込みがある」。寺田が言いたいことは、正しい、科学知識が持てるようになれば、「正当にこわがること」ができるようなるというのである。
 その真似事のレトリックで思う。正しく後悔すること。人がどんなに失敗の人生を辿っているのか、つまるところ、私にはよくわからないが、自分についてなら、後悔はいっぱいある。うんざりして照れ笑いしてやりすごし、水餃子を食べる。スタバの新作でもいい。まあ、後悔はするが、向き合うことなんかできない。きちんと後悔に向き合えたら、もう少しまともな人間になれるのだろうか。それも、今の自分を省みると、手遅れだろう。
 といいつつ、正しく後悔する、ということを考えた。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のアニメを4周しながら……。さらに5周もするのではないか。私はこの作品を見ながら、のたうち回るように人生を後悔している。
 なぜ、このアニメにこうも自分はこだわるのか、それ自体に興味が出てきて、もう、こんなアニメは飽きた、うんざりだに到達するか、行けーとか思った。
 で、4周して、なおも発見があった。さすがに物語の構造に仕組まれているトリック(この物語は、一種の楽園追放のような原罪が仕組まれている)もわかった。今回、かなりこたえたのは、雪ノ下雪乃の一種の「自殺」である。もちろん、そう見るのは私の独断でしかない。が、ああ、これは自殺だと思った。まあ、正しく言うなら、自殺ではない。身体は生きているから。でも、心の自殺というものはあるし、心の自殺は身体の自殺に結びつきやすい。幸い、必ずしも結びつかないので、私もなんだか生きている。
 それでも、心の自殺は、自殺の一種のようなものだと思うあたりで、この作品がやはり漱石の『こころ』に似た作品なのだと思って唖然とした。何が言いたいか。『こころ』では、Kが身体的に血みどろに死ぬから、そこはわかりやすいが、Kはまず心が死んだのである。そして、「先生」の心も死んだ。先生の自殺は、ただ、時間差があっただけだ。
 もちろん、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』と『こころ』を単純に重ねることはできないし、また、三角関係的な恋愛は、一種の触媒であっても、本質ではない。ではなにが問われているかというと、「ほんとう」ということだ。
 「ほんとう」というのは、漱石的には、こんなものだ。

あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(中略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。

 これは、呪縛でもあるだろうと思う。『こころ』は間違った作品だと思う、もちろん修辞的な意味でだが。
 だが、そうしたもの(ほんとう)にとらわれて、間違って、後悔して生きていくしかできなかったら、その後悔を受け取るしかないだろう。いや、そこはよくわからない。でも、後悔はできる。
 
 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の最終巻14巻では、「ほんとう」が問われるはずだが、どう考えても悲劇以外想像もつかない。心が死んで、間違った恋をする弱い雪乃は、ラノベ13巻で心の死を深めるだけになっていく。
 人は心の死のあとも、生きていける。生きるというのは、そういうことなのかもしれない。「ほんとう」が死をもたらしたなら、「ほんとう」を捨てて生きていて何がいけないのだろう。いけないわけはない。でも、それがいいというなら、正しく後悔して生きていてもいいには違いない。

 

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