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2019.05.08

[書評] やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(渡航)

 令和の時代とやらになっても特段に変わることなんかあるわけないだろ、ばーか、という気分でいたのだが、いざなってみると、自分が、老人になっていた。思わぬ体調の不全があって死ぬかもと思ったせいもあるが、うひゃあ老人になったちゃったよ俺感が充溢してしまった。2歳下のなるちゃんが天皇になって新時代を頑張るというのに俺のほうが終わりかあみたいな。で、なぜか、アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』2期のエンディングを見て、あれ?という気持ちになった。
 いや、何が言いたいのかこれでは伝わらないだろうと思うが、書いている自分もよくわかっていないのだ。ただ、その「あれ?」のひっかかりから、終わりの2話を見直したら、なおさら「あれ?」だったので、一期から全部見直した。三度目になる。
 呆れた。まったく新しく見る感動とまではいかないが、以前、俺は何を見ていたんだろうくらいの感想はあった。そこで「あれ?」が微妙に繋がった。どう繋がったか、言葉にできないが。
 アニメ3度見直して、ひどい物語だった。いや、最高の賛辞として「ひどい」と思ったのだ。こんなきっつい物語はないなと思う。当初は、ちょっとひねくれたアンチヒーローの物語に見ていたのだが、さすが理解が深まると、緻密な、地獄のような物語であることがわかる。前回見たときは、担任の先生だとか雪乃の姉とか、うぜーキャラを物語の装置のために入れているなと思ったが、今回はさほどそうも思わない。彼らは、単純に大人という意識時間の物語装置でしかないというか、青春が青春で自己完結してしまうロマン的な陶酔のストッパとも言える。
 3度見て、これはこれでまた、漱石問題だなとも思った。『こころ』に一番近いが、『明暗』にも近い。ただ、これは日本の近代自我の類型的な問題とか、ホモソーシャルな問題という呑気な批評的な擬似問題でもない。これは本当にやっかいな問題なんだ。そして、そのやっかなな問題が、人々に生きることの自覚を促してしまうという点でも、極めて悪質でやっかいな問題だなとも思った。こんなめんどくさい物語がなんで人気があるんだとも思うが、まあ、人気はあるだろう。それもわかる。若い人たちも、ぬるいくそみたな現実を生きていることは間違いないだろうから。余談だが、八幡の家のリビングの書架が気になったな。
 今回、アニメを全部見直したいと思った背景はあった。最終巻予定の14巻が4月18日から再延期になったことだ。すでにアニメ3期が確定しているから、残りの12、13、14巻で1クールということになり、たぶん、この難解な物語のより解説的な脚本の書き直しになるのだろうと思うが、という前に、ええ、ラノベのほうも読んでいます。
 アニメをまた通し見したあと、続きのラノベを読んでみて、少し驚いた。特に13巻なのだが、前回読んだときは、この先どうなるんだと最終巻を期待していたのだが、読み直したら、これはここで終わっているという感じがしたのだ。ここから、どうにも動けない。いや、動くとしても、あとは、悲劇を解説するしかないだろ的な悲惨なエンディングしかありえない。由比ヶ浜エンドとか雪ノ下エンドとか、そんな呑気なこと言ってんじゃねーよ的な。
 ただ、どうなんだろ。そんな、なんだろう、見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮みたいな話に持っていっていいわけないだろ、ラノベだぜ、文学じゃないんだぜ、書店ビジネスだぜと言ってみるテスト。作者、書けるのか。延期しているのは、そのせいじゃないのか。
 でもまあ、そう索漠とした終わりにはできないだろうな。雪乃が初めて恋というものを本当の自分のものとして受け取るという物語は描かなくてはならないだろう。露悪的に言えば、このドロドロとした共依存のような世界から、人が一つの性として他者に関わり傷つけたり日常をやりすごしたりという、そういう自立に到達できるものだろうか。ええと、おい、お前はどうだったんだ、お前? 俺だよ。(ああ、ごめんな。大人になってみたら、性や恋の問題はもっと動物的でゆえに文学的な純粋性なんかふっとんでたよ。)
 ただの偶然かもしれないし、意味なんてないのだと思うけど、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』が平成で終わらなくてよかったような気がしている。

 

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