クックパッドの本のレシピを受け入れる
クックパッドが嫌いだった。そういうふうに考える自分も嫌いなので、クックパッドは好きじゃないくらいにしていた。そしてそのことを他の人に押し付けないようにしていた。まあ、クックパッドに限らず、自分のある種の嫌悪というものには、そんなふうに対処している。
それが、クックパッドの本のレシピを受け入れるようになった。
そもそも、なぜクックパッドが嫌いだったかというか、実は今でも好きではないのだが、ある料理について作り方を知りたい、また手元の食材でなんか食事を作りたいというとき、googleで検索すると、まず、十中八九、クックパッドが出て来る。試しに、「豚肉 キャベツ」で検索してみると、ほら……あれ、NAVERまとめが最初に出てきて、次がクックパッドか、うわ、これはさらにひどいな……おっと、まあ、とにかくクックパッドは、料理について検索すると必ずと言っていいほど、上位に出て来る。
僕にしてみると、こんな情報は要らない。ちゃんとした料理について知りたいのだ。そうだ、クックパッドの何が嫌かというと、料理についての情報がちゃんとしていないのだ。いや、「ちゃんとしてない」というのが不快の原因ではないな。じゃあ、なんだろう。作り手が見えないということかな。誰がどういう意図でその料理をどう考えたかがまるでわからない……いや、それも厳密には違うな。ちゃんと料理を作った人の名前のようなものは出て来るし。
じゃあ、なんだ? 僕はクックパッドの何が嫌いなのか? そこまで問い詰めてしまうと、そこに人が群れているような感じがするからだろうか。クックパッドのコミュニティみたいのが嫌いなのだ。考えてみたら、BLOGOSもYahooブログとかも好きじゃないなあ。なんかなんとなく群れているのが、僕は嫌いだ。どうも話の方向がずれているぞ。
話を戻して、クックパッドが嫌いというのを別の視点で考える。僕はレシピ本が好きだ。ブログとして掲載されているレシピも嫌いではない。そこでそれらがクックパッドと何が違うのかというと、レシピの完全性というのか、ちょっと違うが、これってレシピとして完成しているだろうかという疑問がいつもある。不安のようなものだ。実際に個別のクックパッドのレシピを見ると、なんでこの人こういう料理をするかなあ?みたいな。これ、この通りに作ったらどうなるんだろう的な不安ともいうか。
もちろん、クックパッドが好きな人がいてもいいし、そもそも群れるのが好きという人もいるだろう。それは人それぞれだ。
まあ、そういうことだ。それで何年も過ごしていた。
ところが、ある日、僕は、クックパッドのレシピ本を買ったのである。『クックパッドの毎日ごはん2』である。なぜ? 気まぐれ。いや、ちょっと違うな。本になっているレシピ見たら、それなりにレシピになっているじゃないかと思い直したのだ。そして、どれも、それなりに工夫はあるんだけど、料理自体の工夫というより、現代日本の日々の食事の普通と言ってよいような凡庸さと自然さもあった。食材がそもそも普通なのである。いいんじゃね、と思った。
買って、ビリビリと破いた。
作りたい料理のページを破って、キッチンの壁に貼る。調理するとき、それを見る。そう、そうやって、ページを破って貼って、使おうと思ったのだ。
で、どうだったか。というと、良かった。レシピって一枚の紙として壁に貼ってあると見やすい。料理も考えやすい。食材の関係でそのとおりに作らないことはあっても、材料の分量や調味料の分量の感覚は悪くない。
しばらくこれらのクックパッド料理を料理を作った。最近はまた、別の料理に戻っているが、それでもたまにビリビリとやぶったレシピを使うかもしれない。
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