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2019.05.06

[映画] 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?

 映画といってもアニメ映画の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を見た。今更という感じではある。おもしろかったかというと、おもしろかった。感動したかというと、感動した。ただ、これ、興行的には失敗したんだろうなと思った。アニメ『グラスリップ』のように、ちょっと人類には早すぎた感はあったというか、『グラスリップ』に似ていた。というか、P.A.WORKSもそうだけど、シャフトもこういう作品を作りたかったのだろうというのがわかった。でも、そうだったら、アニメファンにもっと受けるか、評価されるか、というと、そこは正直よくわからない。コミックス・ウェーブ・フィルムや京アニのようなものが受けるのかというと、僕はそこまでアニメというメディアがよくわからない。
 今更感があるので、この物語の基本的な解説を繰り返す必要はないはずだが、それでも、基本の設定はこうだ。背景は小学六年生の夏のある日。祐介と典道は同級生のなずなが好きだ。なずなも2人を好きだとは思っているが、親の都合で2学期から転校させられことになっている。なずなは、それが嫌だ。プールで競争する2人の男の子うち、どっちか勝った方と「駆け落ち」しようと内心賭けをする。
 そこからの話は、あたかもゲームのように2つに分かれる。祐介となずなの物語と、典道となずなの物語である。
 実は、この2分岐までが1995年に公開の実写映画であり、実写版では、典道の物語は一種の幻想となり、祐介となずなの物語だけで、ある種、収束する。だが、より仔細に見ると、典道となずなにはもう一つの分岐として夜のプールの短い物語が付加されている。ここに、さらなる分岐という欲望が残されていて、そこから彼らを中学一年生にさせたアニメが始まる。映像アングル的にもここまではパロディかと思えるほど似ていながら、そこからは全然似ていないズレ感が発散する。
 いずれにせよ、実写映画のほうは、それほど複雑な物語ではない。が、アニメ映画のほうは、典道となずなの物語を起点に多重に世界が分岐していく。いわゆる、一般的な物語に慣れた人にしてみると支離滅裂で、いったい何がいいたい映画なのかわからないということになるし、エンディングも叙情的な必然なのか、物語を転倒される趣味のトリックなのかわからない。
 おそらく、アニメも実写版をより現代的にリメークして叙情的なエンディングで収束させれば、大衆的な感動を誘う名画になっただろう。というか、そうしておけば、興行成績は上がっただろう。『君の名は』がそうであるように。
 だが、そうではなかった。なんでこのアニメを、つまり、人類には早すぎた的な作品を作ろうとしたのか、シャフトは?
 というか、それがシャフトだからだ、というしかない。
 言うまでもないが、シャフト映画のなずなは、戦場ヶ原ひたぎである。
 いや違うだろう。すごくそっくりだけど違うだろう、ということでごまかされる人が多いだろうが、なずなは戦場ヶ原ひたぎその人なのだ。いやさすがにそれはむちゃくちゃ、というツッコミが入りそうだが、『物語シリーズ』の戦場ヶ原ひたぎの本質は14歳にあったといえば、わかるのではないか。個々のシーンでもきちんと、なずなとひたぎとのリンケージは取れている。とくに、落下シーンだ。14歳の戦場ヶ原ひたぎを描かなければならなかったのだ、誰かが。いや、誰か、ではない、シャフトがである。もちろん、譲歩はする。戦場ヶ原ひたぎの造形となずなの造形は同じではない。だが、それを言うなら、その差は世界というもの多元性に吸収されてしまう。
 ひたぎ=なずな、13歳から14歳の少女、というものを描きたいがため、その少女の内面に入りすぎた。そのため、物語の視点として、アニメでは典道が主人公化というか語り部化してしまった。オリジナルの物語構造でいうなら、なずな自身には、典道への思いは、女になることを選択するときのある恣意性でしかない。極言すればリアルのなずなは、典道が好きだとも言い切れない。むしろ、女がそのように恣意的に複数の男から1人の男を選ぶという事象で、男はその選ばれたものとしての自己を男の性として引き受けなけれならない。その構造が、典道となずなの愛の物語に擬態する。
 この岐路の、女から選ばれる男の物語、というところに、男の子の、なんというのか童貞を脱するよりもきつい痛みというのがある。むしろ、その痛みこそ、オリジナル映画よりもアニメ映画が全的に引き受けることになった。
 さて僕は61歳にもなってわかるのだが、過去というのは、そして過去の恋や性は、一貫した物語ではなく、多元的な後悔から成り立っている。そもそも女からの選択で男であることを受け止めた瞬間から、男は必然的な負け戦が始まる。この敗北感の予見としてアニメではなずなと典道と祐介の身長差が強く表現されている。
 恋なんておよそ成就するもじゃない。が、成就させようとする負け戦がシーシュポスの罰のように続くことを少年は直感するし、私のような老人はすべてを多元的な、祝福された後悔として飲み込む。
 なにも60歳まで待たなくてもいい。もう少女という存在を愛することはないのだ、というある決定的な人生の時刻を超えたとき、30歳あたりからだろうか、かつての少女たちの思いへの後悔と責務は多元化していく。あるいは、死に場を失う。カッパゾンビになる。
 つまり、そういう映像なのである、このアニメ映画は。目をつぶって、俺は少女を愛したとつぶやくとき、こういう後悔というものが花火のように美しく煌めく。典道がガラスの破片のなかで見た未来の、なずなとの恋のシーンは、同時に老いた男の過去の後悔の回想でもある。
 といっても、おそらくなんら説得力もないだろう。だが、そうなのだ。そう思えるから、この作品に感動したんだよ。
 少年の前に、ひたぎ=なずな、が立つ。駆け落ちしましょう、と彼女がつぶやく。あるいはつぶやいた。少年にチョイスはない。あとは、煌めくような負け戦が延々と続くだけなのだ。

  

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