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2019.05.31

国際関係論では学びづらい微妙な部分

 国際関係論を学ぶことの難しさは、例えば、教科書としてよく使われるジョセフ・ナイ『国際紛争 -- 理論と歴史』などからでは学べない、ある微妙な部分にある。ある程度体系的に国際関係論を学んだとしても、そうした体系的ではない、常識に近い部分での重要な知識の欠落が起こりがちになる。多くは同時代的な感覚によるものだとも言えるが、他方、あまりに日常的過ぎてとりわけ語られない部分というものがある。例えば、今回の、トランプ米大統領訪日中のバイデン氏への批判でも気付かされた。
 日本の報道ではあまり注目されなかった。時事は『バイデン氏中傷、批判に反撃=北朝鮮よりソフトと強弁-米大統領』として次ような報道をしていた。

【ワシントン時事】トランプ米大統領は28日のツイッターで、大統領選の民主党公認争いに名乗りを上げたバイデン前副大統領を訪日中に「低IQ(知能指数)」と中傷したことについて、北朝鮮によるバイデン氏批判と比べ表現を弱めたと強弁した。外国での記者会見で政敵攻撃を繰り広げたことに対する批判に反撃した形だが、民主党の反発は必至だ。
 トランプ氏は投稿で「金正恩(朝鮮労働党委員長)は(バイデン氏を)『低IQのばか者』と呼んだが、私はもっとソフトに『低IQの人物』と引用した」と主張。「それなのに誰が憤るというのか」と書き込んだ。

 この報道の記述から、何が問題なのか読み取れるだろうか?
 もちろん、トランプ米大統領によるバイデン前副大統領への批判が好ましくないということは明らかだし、次期大統領選挙での政敵への攻撃がえげつないというのもある。
 BBC報道『バイデン陣営、トランプ氏の中傷は「職の品位にふさわしくない」と批判』はもう少しわかりやすい。

 2020年米大統領選に出馬し、民主党最有力とされるジョー・バイデン前副大統領の陣営は28日、ドナルド・トランプ米大統領が北朝鮮と同調してバイデン氏を中傷したことについて、大統領職の品位にふさわしくないと批判した。
 トランプ大統領は27日、訪問中の東京で記者会見した際、北朝鮮がバイデン氏を「IQの低い人物」と呼んだことについて、自分も同意見だと発言した。トランプ氏は前日にもツイッターで、バイデン氏を北朝鮮が「低脳」と罵倒したことについて自分は「ほほ笑んだ」と書き、歓迎する姿勢を示していた。
 バイデン氏は現在、来年の大統領選でトランプ氏に対抗する民主党候補の最有力と見られている。
 米政界では冷戦時代から、国内でどれほど争っていても米政治家同士がその対立を国外に持ち出してはならないという不文律があったが、トランプ氏はそれを無視した形だ。(後略)

 この報道の論点は、「国内でどれほど争っていても米政治家同士がその対立を国外に持ち出してはならないという不文律」をトランプ米大統領が違反した点にある。「職の品位」というのは、トランプ米大統領が下品だ(これは言うまでもないだろう)ということではなく、外交の基本原理を逸脱した行政府というものの問題なのである。
 そして、この基本原理は、ごく日常的な英語の言い回しのなかに示されていた。それが伺われるのは、BBC報道のオリジナル報道の、次のような慣例的な言い回しに対応している。

During his four-day visit to Japan, Mr Trump disregarded the old Cold War axiom that US politics stop at the water's edge.

 日本語訳ではこうなっていた。違いに注目したい。というか、かなり意訳になっていることがわかる。

米政界では冷戦時代から、国内でどれほど争っていても米政治家同士がその対立を国外に持ち出してはならないという不文律があったが、トランプ氏はそれを無視した形だ。

 重要なのは次の表現である。これが、BBCでは、the old Cold War axiomとなっているが、他報道では、 a cardinal rule of being America's presidentともされている。

US politics stop at the water's edge.

 water's edgeは、水際と訳してよいのだが、実際のイメージとしては、波打ち際である。海に接するところで、米国は国内政治のいざこざを停止せよ、というのだ。これは、大統領を拘束するもので、いわばコモン・ロー的な扱いになっている。
 この慣用句が、その比喩表現において、大きな意味をもつことが明らかになるのは、例えば、ブルームバーグ『Biden Campaign Rips Trump’s Remarks: ‘Beneath the Dignity of the Office’』の次のような表現である。

“To be on foreign soil, on Memorial Day, and to side repeatedly with a murderous dictator against a fellow American and former vice president speaks for itself,” Biden’s deputy campaign manager, Kate Bedingfield, said in a statement, released just as Trump landed on his return from a trip to Japan.

 重要なのは、just as Trump landed on his return というところだ。バイデン側も大統領がbe on foreign soil(外国の土の上)までは沈黙していたが、本国にlandする(陸に降りる)と即座に批判を繰り出した。
 レトリカルな問題のようだが、こうした英語の慣例表現に大統領のあるべきコモン・ロー的な規定が横たわっていると知るのは、ある意味、チャンスであろう。

 

 

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2019.05.30

正しく後悔すること

 寺田寅彦の「正当にこわがること」はよく知られている。なかなか洒落たレトリックだから。曰く、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」というのである。元の文脈は火山噴火であり、こうも続く。「火山の爆発だけは、今にもう少し火山に関する研究が進んだら爆発の型と等級の分類ができて、きょうのはA型第三級とかきのうのはB型第五級とかいう記載ができるようになる見込みがある」。寺田が言いたいことは、正しい、科学知識が持てるようになれば、「正当にこわがること」ができるようなるというのである。
 その真似事のレトリックで思う。正しく後悔すること。人がどんなに失敗の人生を辿っているのか、つまるところ、私にはよくわからないが、自分についてなら、後悔はいっぱいある。うんざりして照れ笑いしてやりすごし、水餃子を食べる。スタバの新作でもいい。まあ、後悔はするが、向き合うことなんかできない。きちんと後悔に向き合えたら、もう少しまともな人間になれるのだろうか。それも、今の自分を省みると、手遅れだろう。
 といいつつ、正しく後悔する、ということを考えた。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のアニメを4周しながら……。さらに5周もするのではないか。私はこの作品を見ながら、のたうち回るように人生を後悔している。
 なぜ、このアニメにこうも自分はこだわるのか、それ自体に興味が出てきて、もう、こんなアニメは飽きた、うんざりだに到達するか、行けーとか思った。
 で、4周して、なおも発見があった。さすがに物語の構造に仕組まれているトリック(この物語は、一種の楽園追放のような原罪が仕組まれている)もわかった。今回、かなりこたえたのは、雪ノ下雪乃の一種の「自殺」である。もちろん、そう見るのは私の独断でしかない。が、ああ、これは自殺だと思った。まあ、正しく言うなら、自殺ではない。身体は生きているから。でも、心の自殺というものはあるし、心の自殺は身体の自殺に結びつきやすい。幸い、必ずしも結びつかないので、私もなんだか生きている。
 それでも、心の自殺は、自殺の一種のようなものだと思うあたりで、この作品がやはり漱石の『こころ』に似た作品なのだと思って唖然とした。何が言いたいか。『こころ』では、Kが身体的に血みどろに死ぬから、そこはわかりやすいが、Kはまず心が死んだのである。そして、「先生」の心も死んだ。先生の自殺は、ただ、時間差があっただけだ。
 もちろん、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』と『こころ』を単純に重ねることはできないし、また、三角関係的な恋愛は、一種の触媒であっても、本質ではない。ではなにが問われているかというと、「ほんとう」ということだ。
 「ほんとう」というのは、漱石的には、こんなものだ。

あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(中略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。

 これは、呪縛でもあるだろうと思う。『こころ』は間違った作品だと思う、もちろん修辞的な意味でだが。
 だが、そうしたもの(ほんとう)にとらわれて、間違って、後悔して生きていくしかできなかったら、その後悔を受け取るしかないだろう。いや、そこはよくわからない。でも、後悔はできる。
 
 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の最終巻14巻では、「ほんとう」が問われるはずだが、どう考えても悲劇以外想像もつかない。心が死んで、間違った恋をする弱い雪乃は、ラノベ13巻で心の死を深めるだけになっていく。
 人は心の死のあとも、生きていける。生きるというのは、そういうことなのかもしれない。「ほんとう」が死をもたらしたなら、「ほんとう」を捨てて生きていて何がいけないのだろう。いけないわけはない。でも、それがいいというなら、正しく後悔して生きていてもいいには違いない。

 

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2019.05.29

黒船は黒船だったのか?

 先日、NHKの『歴史秘話ヒストリア』という番組で「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」という回を見た。これはたまたま見たというより、ちょっと気になっていることがあって見たのだった。現代でも外国からの制度改革の圧力のことを比喩的に「黒船」と呼ぶことがあるが、もとになっている黒船来航自体、そういうものだったのか、疑問に思っていたからである。
 そういえば、”話題”の『日本国紀』を書いた作家・百田尚樹もこう言っていた。

 まあ、どうなんだろうかと。
 で、NHKの同番組はこうした旧来の黒船観に対してこんな基調を出していた。

黒船――ペリー艦隊出現。これまで、時の徳川幕府は黒船に「あわてて」対応した、といわれてきました。しかし、突然であるはずのアメリカ艦隊に、幕府の役人は英語で話しています。実は最近の研究では、幕府はすでに外国船来航を予期しさまざまな準備を進めていたことが明らかになっているのです。

 番組はこうした基調で進められていたが、意外に思えたのは、幕府側としては、黒船が軍事活動に及ばないと踏んでいたことだった。兵站がない状態では軍事活動は脅しと見ていたようだ。おそらくその観察でよかっただろう。
 番組では強調されていなかったが、最初の交渉では中国語の通詞を介してうまくコミュニケーションができないといふうに私は記憶していたが、次年の交渉では言語的にも日本側はかなり詳しく米国の状況を把握してようには思えた。
 個人的にちょっとわけあって、昨年ごくわずかだがオランダ語を学んだだが、やはり英語によく似ている。江戸時代、それなりに蘭学の蓄積があれば、英学への転向はそれほどに困難というものでもなかったのではないかと思えた。
 黒船については、私の高校生時代では、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌を合わせて学んだもので、今回の番組にも出てきたが、これは同時代証言ではないとのことで、その後は教科書から消えたと思っていた。そのあたりについての言及はNHKの番組にはなかった。気になって調べなおすと、そうでもないとの新説もあるようだ。ただし、この狂歌観が同時代的に民衆に定着していたかは依然よくわからない。
 また、番組では触れてなかったが、浦賀沖に現れる1853年7月8日以前、5月26日に琉球に上陸し、武装員が首里城まで行進している。琉球王国はその後日本国に併合されるのだが、こうした史実はどのように日本史に組み込まれるのだろうか。類似の例では、種子島への鉄砲伝来は1543年とされているが、琉球王国には先行している。
 今後高校では、学習指導要領改訂され、日本史と世界史を統合して近現代を教える新科目「歴史総合」になるが、黒船や琉球王国の扱いはどのようになるか、具体的な歴史事象についての評価が気になる。

 

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2019.05.28

登戸の殺人事件

 今日の朝、登戸駅近くの路上で男性一名とスクールバスを待っていた女児小学生が、51歳の男に包丁で殺害された。他、バス待ちの小学生を含め17人がけがをした。殺害に及んだ者はその場で自殺した。痛ましい事件だった。
 この事件を何と呼ぶのかわからない。「川崎通り魔殺人事件」という呼称も見かけたが、私は登戸に土地勘があるせいか、あの地域を「川崎」と呼ぶのは、行政区としては正しいが違和感がある。そして、この事件を「通り魔」と言ってよいのかも、よくわからない。特定の誰かを狙った殺人ではないという意味では無差別の殺人事件ではあるが、現状の情報からは、たまたま通りがかって無差別に殺傷に及んだというより、主にこのスクールバスの小学生を狙ったようにも見える。少なくとも、小学生はあきらかに弱者であるから、弱者を狙った卑劣な殺人事件であることは疑えない。
 3つのことを思った。
 まず、容疑者はどんな人間なのか。当初報道から知らされたのは、51歳の男性ということだった。そのことから、ネットを覗くと、いわゆる「無敵の人」として、その像がすでに語られていた。その上で容疑者を憎む声や、そうした容疑者を産まない社会が望ましいといった意見もあった。私は、その状態にも、ある困惑を覚えた。現状から、容疑者について言えることは、弱者を狙う卑怯者という以上はないように思えたからだ。加えて言えば、年齢がわかっていて名前が出てこないことは訝しく思えた。午後になって一部報道から容疑者の名前が出たが、一部に留まっている。報道を抑制しているなんらかの事情があるのだろうが、それもわからない。
 次に、どうしたらこんな悲惨な事件が防げるのだろうかと思った。もちろん、防御の方法が考えられないわけでもない。スクールバスの子供を保護する専門の人員を配置すべきということがある。その対応は、登戸では取られることになるだろうが、全国で普及するため、行政的な制度にまでのぼるかというと、否定的な予想になる。また、防御としてNHKの7時のニュースでも言及していたが、街中の防犯カメラのシステムの強化がある。さらにニュースでの識者コメントではAI的な判定も盛り込むような示唆もあった。アニメ『サイコパス』の犯罪係数を連想した。
 以上の2つの点は、簡単に言えば、①私たちはこの事件についてほぼ何も知らないのに、何かを言わずにはいられない不安に耐え難い、②防御は多様に語られるだろうが、制度的な対応はたぶんないだろう。
 そして、3つめのことは、ごく個人的なことだが、私がこの事件を知ったのは、昼過ぎ1時半を過ぎてのことだった。自分が意外とネットやマスメディアの情報から自然に隔絶していたのだなという感覚は奇妙なものだった。振り返ってみれば、昭和の時代などでは、そう頻繁に社会の動向について情報に触れているというものでもなかった。
 事件については、今後、もう少しは情報が開示されるだろう。それにそって、しばらくは世間の話題となるだろう。
 現状、私が思ったことをまとめるなら、事件の正確な相貌に向き合うまでの不安に耐えることは難しいものだということになる。私たちは不安から何かを語りたい。しかも自分を正義のポジションに置きたいがために語りたいのではないか。

 

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2019.05.27

加藤典洋の死

 文芸評論家の加藤典洋が5月20日に亡くなった。71歳。死因は肺炎。日本人の死因の4番目である。一昨年くらいは3位に上がっていたが、社会的な啓蒙のせいだろうか、3位から落ちた。老人になると肺炎を起こしやすい。多くは誤嚥による誤嚥性肺炎だ。口腔内の細菌が気管から肺へと吸引されることが多い。その面では、感染症なので、ワクチン対応ができ、60歳から対応になる。つまり、61歳の私は考慮したほうがいい。で、その先のワクチンについては、ちょっとめんどくさい話があるが、一般的にはあまり知られていない。
 加藤が誤嚥性肺炎だったかはわからないが、自分ももうあと9年も生きて、肺炎で死ぬことはあるだろうなとは思ったのだった。竹田青嗣を含め、ポスト吉本隆明ともいうべきか、彼らの世代を、自分も老い、そのことで身近に感じられるようになってしまった。
 加藤典洋の死は、そうした親しい感覚とともに、ある種の脱力感も伴った。彼の重要な作品は、村上春樹についての多くの著作もおもしろいが、言うまでもなく、平成7年の『敗戦後論』である。そしてそこで提示された問題は、戦後日本の言論世界の根幹を表していたと思う。テーゼとしては簡単である。日本の戦争について、アジア諸国の犠牲者に謝罪するためには、それを明確に侵略戦争と位置づけた上で、まず自国の戦死者を弔い鎮魂べきだとした。このテーゼは、左派やいわゆるリベラルから批判を受けた。簡単に言えば、日本のリベラル派としては自国の戦死者を弔ってはいけないというものだ。当然、これは靖國問題に連結した。
 私は加藤の問題提起が重要だと思ったし、リベラルはこれに対して、靖国を廃するという意味で、国家の公的な追悼施設を作るべきだと思った。現存の千鳥ヶ淵を拡張してもよいだろう。だが、それに十分に答えたリベラル派はなかったか、あるいは、自民党のリベラル派が受けた。昨今のネットの空気は近い歴史を忘却しているが、自民党にはリベラル派の伝統がある。最後は自民党を離れたが宇都宮徳馬などももう多くは忘れられているだろう。
 加藤は論争に応えはしたが、その結実はなかったように思うし、加藤自身がこの問題に深くコミットしていくふうには見えなかった。リベラル派はかくして加藤を排除したのかというと、『人類が永遠に続くのではないとしたら』が典型だが、反原発ということで、かつてのリベラル派と融和していった。極論にはなるが、日本のリベラル派は一種、思想の踏み絵をもっていて、①9条の絶対視、②反原発、の2つである。加藤は②を宣言し①を曖昧にしたことで薄くリベラル派に戻った。他方、吉本隆明はその逆になり、リベラル派の嫌悪の対象となるか、あるいは、そうした吉本像は曖昧にされた。
 振り返ってみれば、加藤の問題提起自体が消えてしまった。そしてどうなったか。極言すれば、日本の戦後思想は終わったと私は思う。そして、その先になにがあるかと問うなら、『進撃の巨人』を読むといい。鎮魂が奪われた特攻隊の死はエルヴィン・スミスに乗り移った。アルミン・アルレルトにも。唯一の逆説はジークに生じた。そして、ジークとエレンの問いはまだ開かれている。この難問をおそらく、日本のリベラル派、あるいは、論壇は、戦後思想の枠組みで捉えることはないだろう。そのくらいに私は不安に絶望している。そして、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考』を読み返す。

  

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2019.05.26

[映画] gifted/ギフテッド

 『gifted/ギフテッド』は2年前の映画だったらしい。知らなかった。まいど、お勧めで知り、見た。よくできた映画なので、おそらく誰が見ても満足がいくだろう。さらっと見ると、映画のお手本のような映画でもある。基本は人間ドラマで感動するといった類ものである。が、その主題は深刻というか重たいものだった。シリアスというのとも違うし、解釈が難しいというのとも違う。中核にあるのは、わかる人にしかわからないと言えないでもないのでは。微妙と言えば、それも逃げになってしまうだろう。
 物語の筋立てはある意味、単純である。天才数学者の悲劇というのは、アメリカ映画のジャンルと言ってもいいくらいだ。表題のgiftedとは天与の才が贈与されているということで、天才という意味である。
 物語の背景は、アメリカの沖縄ともいえるリゾート地域フロリダ。そこで、中年男のフレッドと7歳の少女メアリーが片目の拾い猫と貧しく暮らしている。メアリーは数学の天才である。物語は彼女が小学校に通うようになるところから始まる。当然、学校で齟齬が起きる。フレッドは父ではなく、メアリーの叔父である。母は自殺した天才女性数学者であり、フレッドにとっては姉だ。そして家庭でも齟齬が起き始める。数学者だった祖母エヴリンが孫娘の才能を見込んで引き取りたいとする。物語は、法廷闘争にも転じる。エヴリンにしてみると、自殺した娘ダイアンが取り組んだ世紀の難問「ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさ(Navier–Stokes existence and smoothness)」を孫娘のメアリーに解かせたいのである。
 と、いかにも問題への関心としてはわかりやすいし、天才美少女というのも興味を引きやすい。そして、中年男と天才少女の心温まる愛の物語も展開される。大衆受けしやすい要素もきっちり含まれている。

 以下、ネタバレを含む。


 フレッドの姉である自殺したダイアンとその母エヴリンには、確執があった。数学者でもあるエヴリンにしてみれば、自分よりも娘が天才であり、数学史・人類史に名を残す偉業が達成できると期待して、娘の自由な人生を結果的に奪ってしまった。
 エヴリンは、娘ダイアンが、難問が解けずに挫折して自殺したのだと思っている。物語もそう進むのだが、最後にどんでん返しのように、ダイアンはすでにその難問を解き終えていたことが明かされる。母の死後に公開するように弟のフレッドに、生まれたばかりのメアリーとともに託していた。
 映画では明確には示されていないが、ダイアンが自殺したのは、母親への面当てや自身のプライベート生活の破綻というより、偉業を達成したことで、自分が無になってしまったと思えたためだろう。そこで人生の意味が崩壊してしまった。
 エヴリンにとっては、愛する娘が難問に屈したとしてその才能にしか目を向けていないが、最後にダイアンの残したメモで初めて娘への愛情に気がつく。つまり、この映画は、母と娘の悲劇の物語なのである。
 あえてかなり雑駁に言えば、女というもののある本質がもたらす必然的とも言える悲劇がこうした仮構によって露出させれらている。天才幼女や中年男の生き方、その隣人女性や恋人という人間劇的な要素は、その露出の緩衝材である。
 おそらくこれはフェミニズムというものが取り組まなくていけない難問なのではないかと思うが、そういう認識は共感されはしないだろう。
 中年男フレッドはそうした物語の構図のなかで、天才幼女と同じく、一種の人間的ではあるが狂言回しでしかない。が、こうした物語が露出するのは、男の契機によってだろう。女の本質の一つとしての天才を継いだメアリーはいずれそうした男を忘れていくか、男をある凡庸な相のなかで受け止めることになるだろう(このことの暗喩はエヴリンの二番目の夫に象徴されている)。
 女性のある種の天才性というものは、それに巻き込まれるように遭遇しなければ、その悲劇性自体注意されにくい。それが誰の目にとって可視であり、国家幻想の中核で生じていても、存外に気づかれることはない性質のものなのだ。

 

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2019.05.25

「アセクシャル」というものを知らなかった

 「アセクシャル」というものを知らなかった。というか、知識として知らないわけではないが、関心がないせいか、さして考えたこともなかった。というか、性的な関心がない人、というくらいに考えていた。どうやら、そーゆーものではないらしい。たまたまNHKの『ノーナレ 恋愛圏外』という番組を見たが、そこにアセクシャルの若い人が取り上げられていた。番組の概要を引用しておく。

 恋とは何なのか?どこからどこまでが愛なのか?中村健・通称なかけんは22歳。恋愛的感情の有無に関わらず、他者に性的にひかれない「アセクシュアル」だ。キスを粘膜接触と呼び、町に流れるラブソングは意味不明。大人のビデオをみれば寒そうだと思ってしまう。そんななかけんは、大切なパートナーや友だち、家族に支えられて今日も生きる。それは、愛とか恋とかを超えた不思議な感情。名前はないけど、大切な人間関係の物語。

 これだけ読んでみてもわからないのではないか。番組を見ながら、へー、こういう人が本当にいるのかと考えさせられた(失礼な感想である)。恋愛の感情がないらしい。性的な関心もあまりないようだ。が、他者への関係性がわからないというものでもない。ネタバレというほどでもないだろうから書くが、番組では、なかけんさんは友だちの女性と同棲するという話になっていった。
 『さらざんまい』ではないが、他者とのつながりは、欲望か愛情かと考えやすい。すると、アセクシャルな人は、愛情がないわけではないから、むしろ、純粋な愛情かとも言えないでもない。が、性的な欲望を除いた強い愛情の関係欲求というものがありえるのかというと、私にはとんとわからない。
 あるいは、世間でよく言われるような、結婚したが性的な関係はない夫婦というのも、実際上は、そうしたアセクシャルと言えないでもないのではないか。
 これはなんだろうか、とついググってみると、LGBTから、LGBTQ、そして、LGBTQ+として、IAがあるらしい。まず、QはQuestioning、性的な指向が不明、で、IはIntersex性的未分化、そして、AはAsexualで、「無性愛者」とも訳されるようだが、つまり、冒頭に戻るではないが、アセクシャルは性的な感覚がない人とされがちだ。が、先の番組から受けた印象は、それとは微妙に違うものだった。どちらかというと、性的な欲望の人間関係の構築ができないということに思えた。
 そういうタイプの人間がいるのだというのは、知らなかったし、想像もできなかった。自分は、性的な指向は凡庸極まりないというか、どちらかというと、西洋人型の恋愛至上みたいな人のため、無性的な人間関係が理解できないのだと理解した。
 番組でのなかけんさんについて、高校時の自殺未遂の話がとりわけ興味深かった。死にたいというより、そうしたアセクシャルな自分の社会からの疎外のようには思えた。
 また、番組では、「アセクシャル」な人々での集会の映像もあり、そうしたある種の自己アイデンティティが社会的に共有されているようすも伺えた。
 医学あるいは心理学的には、アセクシャルについては、まだあまり研究が進んでいるふうはないようだが、人口の1%から2%には及ぶらしい。性的なマイノリティとして社会的な連帯を結びやすくする対応は必要なのだろう。
 と、なんとなく心に引っかかることを書いているが、うまくまとまってこない。
 なんだろうか、と再び問い直して、「アセクシャル」というのは、程度の問題と言えるだろうかとも仮に考えてみる。世の中、強烈な恋愛感情というものを知らないという人は少なくない。むしろ、強烈な恋愛感情にとらわれるタイプの人のほうが少ないのかもしれないとも思うというか、恥ずかしながら、私は強烈の側なので、そう思う。
 恋愛感情の強度というものがある種、スペクトラム的なもので、また、婚姻後のセックスレスの関係という実態を含めると、外的には、アセクシャルと区別がつかないという人は、社会でかなりの人口に及ぶのかもしれない。そういうふうに社会を捉えるとどうなるだろうか。これもあまり考えたことがなかった。

 

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2019.05.24

世界史の学習漫画を大人買いした話

 昨年の春だったと思う。世界史の本を書き始めた。子供に読ませようかと思ったこともある。20ページくらい書いただろうか。そのあたりで、なんとなく中断してしまった。そういえば、平成史も中断中。古典の学習書は書き上げたが、見直しがいろいろあって、保留状態で眠っている。まあ、なんかそんな気まぐれが多い。気まぐれといえば、自著の続編も60歳になって書こうと思っていたが、これは、末子が大学に入ってからかなとなんとなく思っている。で、世界史である。
 自分が書いていた世界史は、世界の歴史を逆に辿るものだ。とはいえ、時代を逆に見るという趣向ではない。「なぜ今の日本はこの日本なのか?」という理由を世界史的に説明するというのが目的である。だから、アステカ文明については触れない。モンゴル帝国については触れるつもりでいた。ビザンチン帝国については、触れる、なぜかというと……といった趣旨の本にするつもりだった。
 資料がてらにいろいろ世界史の概説本なども買って読み、本の山になっており、たまに読むのだが、ふと、ああ、そういえば、世界史の学習漫画はどうだろうと気になって、ついでに、大人買いした。
 もう一つ理由がある。現在、世界史漫画というのは、大きく分けて、3種類あることを知って、なんだろ、それと思ったのだった。3種は、こんな感じだ。

学研: NEW世界の歴史(12巻 + 別巻2)
集英社: 学習漫画「世界の歴史」(10巻 + 別巻2)
小学館: 学習まんが「世界の歴史」(全17巻)

 この集英社のは文庫版で、そうでないのもある。というか、当初、漫画の世界史というとこの版のことを思いついたのだが、他に学研と小学館があるのを知った。で、集英社のは、改定されているが、ベースは2002年ころで古い。古い分、定番とも言える。
 学研と小学館は、比較的新しい。それぞれ2016年と2018年。それだけ、新しい世界史観で描かれているんじゃないかと期待できる。まあ、こっちだ。で、どっちだ?
 小学館のは、実質、山川だった。つまり、世界史の教科書の定番の山川がベースになって監修され小学館から出ている。山川なら安心できるというのがまずあるだろう。で、これかなと各巻の概要を見ていたら、なぜかイスラムが抜けているように思えた。まさかと思ったのだが、ほとんどなさそうだ。というか、全体を見ると、基本は西洋史中心でまとめられている印象がある。ちょっともにょった。
 で、結局学研にした。実は、別館の世界遺産学習事典もいいなと思ったのだ。
 内容的には、学研のは、中学生向けのようなので、内容は薄いんじゃないかと思った。
 大人買いしてどうだったか。
 濃かった。漫画の内容は薄いといえば薄いのだが、注がけっこうある。チェーザレ・ボルジアも出てきた。チェーザレ・ボルジアについては、高校の山川の教科書にも出てこないんですよ。
 イスラムも簡素でよくまとまっている、というか、西洋中心主義ではない印象があってそれも好感だった。
 あと、意外なんだが、絵が全部カラーというのはよかったのと、読んでいて、あれれと思って、はっと気がついたのだけど、この本、横書きだった。だから、本の開き方も通常の漫画と違っている。これに違和感を感じていやだと思う人もいるかもしれないが、私にはむしろわかりやすかった。そうかあ、昔、漫画世界史とかで微妙な感じがしたのは、縦書きだったからと思うほどだった。
 さて、特に、お勧めするものでもないが、世界史って今ひとつわかりにくいという人が漫画で大人買いするには、この学研版は悪くないチョイスじゃないかとは思った。

 

 

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2019.05.23

66歳になって孤独でお風呂で泣くだろうか?

 先日からなんとなく心に引っかかっていて、ぼんやりと考えるのだが、思いが空回りしているだけのような気もするので、そうだな、ブログにでも書いてみるか、と思って書き出したわけだが、それは何かというと、「66歳になって孤独でお風呂で泣くだろうか?」ということだ。この疑問文の主語は、私、である。私は61歳になってしまった。それで、5年後生きたとして66歳。そのとき、私は孤独な自分の現状に泣くだろうか。
 そんな疑問をもったのは、先日、この話題をネットで見かけたからだ。話題の元は、『AERA.dot』に連載されている、《連載「鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい『世間』を楽に生きる処方箋》に掲載された、「66歳男性が風呂場で涙… 友人もいない老後を憂う相談者に鴻上尚史が指摘した、人間関係で絶対に言ってはいけない言葉」である。タイトルを見てわかるように、劇作家の鴻上尚史による人生相談である。この相談者の相談内容がこういうものだった。

 誰にも言えませんが、最近、風呂に入っていると涙が出てきます。弟たちのことだけでなく、振り返ればとくに心を割って話せる友人もいないことに今さら気づきました。
 どうやってこの後の人生を過ごしていいか、お恥ずかしいですが、孤独で、寂しくてたまりません。
 いまさら、私はこれからのありあまる時間を、どうしたらいいのでしょうか。どうしたら、弟たちと仲良くできるのでしょうか。楽しい人づきあいのコツはなんなのか全くわかりません。解決法が浮かばず、途方に暮れています。

 それで、回答のポイントはこういうこと。

 僕のアドバイスは、「まずは、対等な人間関係を学習しませんか?」ということです。
 弟・妹さんと仲良くすることは、いったん、あきらめて、他に人間関係を作るのです。見下すことも、見下されることもない関係の先に、有閑人さんが求める「心を割って話せる友人」が生まれる可能性があるのです。
 友人探しには、インターネットに感謝しましょう。趣味のサークルや地域のボランティアサークルが簡単に見つかるはずです。
 思い切って、そこに飛び込むのです。

 要するに、孤独な66歳男性は、これまでの人生での人間関係から旧交を温める式の目論見は諦めて、ネットで趣味のサークルやボランティアグループを探して、参加し、新しい友だちを探しましょう、ということだ。つまり、これまでの他者への態度を改めれば、孤独を癒やす新しい友だちができるはずだということだろう。
 で、思った。いろいろ僕は思った。
 まず、孤独ってそんな泣くほどつらいものだろうか? そんなことはないだろうと言いたいわけではない。私の場合、現状は家族と暮らしていて、それほど対話がないわけではない。友だちがいないわけでもないが、そう顔を突き合わせているわけでもない。が、それゆえに孤独でつらいということはないように思う。私にとって、孤独というのは、子供の頃からもっと根深いたちの悪い何かだ。いや私は、何か、老いと孤独というものを捉え間違えているのではないか。この話題に触れたとき、風呂場で泣くほどの孤独とはなんだろうと思ったのだ。そして、それは、わからない。
 次に、この66歳の男性は、「これからのありあまる時間を、どうしたらいい」と言っているのだが、そこも自分には奇妙に思えた。私は、人生、残された時間はもう少ないと感じている。難病を抱えていることもだが、発作や身体の不具合(目が見えなくなり、手が動かなくなるだろう)、そしてさすがに知力というか集中力の衰えは実感しているので、意外と残された時間はないだろうなと思っている。むしろ、今の時間がとても大切だし、1人でイタリア語勉強していたり、ロマンス語のことなど考えているほうが楽しい。見たいコンテンツも山ほどある。まあ、時間をどう過ごすかという問題については、自分には疑問はあまりない。
 さて、もう一つ。これは回答に関係するのだが、66歳の男が趣味やボランティアのサークルに飛び込んで友だちができるものだろうか? できないと言いたいわけではない。この2年間、フランス語の講座にいろいろ参加した。見知らぬ人といろいろ学んだが、特に知り合いはできない。たぶん、同じ講座を一年くらい取り続けないとだめなんだろう、というのもあるかもしれないが、もっと単純なところで、60過ぎた男はそれだけでキモいんじゃないだろうか。そう自分が思うのがいけないという意見もあるだろうが、まあ、概ね、高齢男性はそこにいるだけでキモいもんじゃないかと思う。
 実は、この間、そういうフランス語講座とかじゃなくて、自分からなにかグループでも作ったらどうかともつらつら考えていた。何がやりたいかというと、歌仙である。僕は若い頃、歌仙の宗匠をしていたことがあるので、今でもたぶん、できる。あれは楽しいものだという思いがある。で、ここで、また戸惑っている。なんか、人の輪の中心に立ちたいという気が今ひとつしない。そういえば、独身時代はネットのオフ会などもよく出たものだった。
 最近の自分を振り返ると、孤独でつらいという思いはない。体調が良ければ、ひとり散歩したり、ジュンク堂に行ったり、銭湯とか行ったり、バスを乗り継いだり、美術館見たりと、ひとりで過ごすのも楽しい。一人カラオケもやってみた。いいものだ。
 さて以上、書いてみたものの、やはり、特に思いはまとまらないものだな。
 とはいえ、ブログを書いていて、それほど読まれたいとも思わないが、それでも読む人もいるかもしれないというのは、意外に自分の孤独を癒やしているのかもしれないとは、思った。Grazie a tutti !

 

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2019.05.22

Maritaという単語を知ってますか?

 Maritaという単語を知ってますか?
 そう、質問はそれだけ。
 ググってみよう、現代人だからね。うぁお、ニックネームとかペンネームみたいのがザクザク出てくる。ということは、固有名詞扱い。普通名詞だとどうかというのはわからない。というか、そもそもこれ、どこの国の言葉?という問題もあるからな。
 歴史を学んだ人なら、1941年4月6日にドイツ軍がブルガリアを経由してギリシャに侵攻した軍事作戦「マリータ作戦(Unternehmen Marita)」を知っているだろう。なぜそう言うのか? ちょっと調べたがわからない。
 固有名詞としては人名に多い。女性というのは語感から感じられる。アイルランドや英国に多いらしい。そのあたりを探ると、ノルウェー語らしく、その起源は、Margaretaと同じようだ。
 ところで、では、Maritoという単語を知ってますか?
 これは、イタリア語で「夫」という意味。その起源は当然、ラテン語で、語源的には、marītus で、「結婚の」ということ。「結婚した男」なら、当然、「夫」だよねということになるのだが、はて?と疑問が浮かぶ。maritoは男性形だから、maritaという女性形があっていいし、意味は「妻」になるはず。
 ところが、イタリア語で「妻」はmoglieという。こっちの語源は、ラテン語のmulierで、意味は女性。というか、あれ、この単語見るとわかるけど、スペイン語のmujerでしょ。で、さらにそのラテン語の起源は、mulgereで、乳搾りらしい。女が家畜の乳搾りをするのか、乳を与える者か、よくわからない。
 いずれにせよ、イタリア語で、夫はmaritoだが、妻はmoglieということになる。が、じゃあ、イタリア語でmaritaというとどうなるのか?
 ネイティブに聞いてみた。
 妻という意味で、maritaは使いません、とのこと。冗談ならあるかもしれません、とのこと。なお、maritareの活用形三人称現在では同形なのであるにはある。
 そして、ラテン語にはありました、とのこと。
 え?!
 調べてみると、ラテン語ではそう言っている。「妻」の意味がある。
 ということは、俗ラテン語で、maritoが消えたのだろう。そして、mullerのほうが優勢になった。
 フランス語には、おもしろいことに、「妻」という言葉が事実上ない(epouseはあるが、日常語とは言い難いだろう)。で、ma fammeになる。「俺の女」ということ。で、俗ラテン語が優勢だった時代の、つまり、ローマ法的な市民の婚姻がなくなると、「妻」という概念そのものが消えたたんじゃ、なかろうか?
 ところで、調べていたら、maritaを採用する言語があった。一種のロマンス語である。Interlinguaである。「インターリングワ」。人造語である。
 インターリングワは、ロマンス語の共通項を実用的につなぎ合わせた、いわば、現代版、リンガ・フランカなのだが、これだと、たしかに、maritaを採用したくなるんだろうな。

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2019.05.21

[書評] イタリア語の起源 歴史文法入門

 たぶん、イタリア語の起源に関心を持つ人はそれほど多くはないだろうし、まして、このブログを覗く人にそういう人がいるか、おぼつかないが、おそらく、ある程度まで英語に関心ある人なら、『イタリア語の起源 歴史文法入門』を読んでおいてもいいのではないだろうか。

 

 そう思えるのは、語彙の変化もだが、ラテン語から俗ラテン語、そして、イタリア語へと変化していく母音のありかたが、大母音推移に似ているように見えたことだ。歴史的な関係はないのだが、大母音推移のような現象は英語でのみ起きた特殊な現象ではないのではないかと思えた。補足するなら、古英語にも母音には短母音と長母音があり、これらはラテン語の母音と似ている。
 もっとも、大母音推移がまさに大母音推移であるような、調音までの遷移はイタリア語ですら発生していない。むしろ、そのことがなぜかという問いにもなるだろう。
 他方、俗ラテン語の影響を受けたはずのフランス語にはこうした現象はほとんどないといってよいが、古フランス語と言えるような言語では短母音と長母音の対立はなかっただろう。また、フランス語の語末の脱落についても特殊なものかもしれない。
 いきなり専門的なところに突っ込んでしまったが、一般にイタリア語やフランス語などの言語の歴史については、ロマンス語という枠組みで一括的にあるいは、その枠のなかで通時と共時が曖昧に記述されがちなのだが、本書は、イタリア語に絞り、また、その方言差を扱っているので、むしろ、俗ラテン語の特性がわかりやすかった。塩野七生の著作でも、ローマ時代にすでに口語では現在のイタリア語に近い俗ラテン語のような言語であっただろうという示唆があったが、そうした視点も本書で考えさせらるものだった。
 あと実は、フランス語がイタリア語から派生したのではないか、そういう疑念が深まるような特徴がわかるのではないかと期待して読んだのだが、そこは逆に難しい問題なのだということがわかった。驚いたのだが、フランス語のmangerは、イタリア語のmangareからできたと思っていたのだが、逆だったのである。仏伊語の相互関連はかなり難しい。
 本書は翻訳書だが、監修者の岩倉具只氏の日本語版の序がよくまとまっていている。なかでも、イタリア語がダンテなどの書き言葉を基本にできたという話は興味深い。残念ながらこの部分についての本文での説明は薄いのだが、それでも、リンガ・フランカというものについても考えさせられた。本書では、コイネーとして扱われている。
 本書での言及はそれほど多くはないのだが、このコイネーの成立には、十字軍も関連しているのだろう。
 現在学び始めているイタリア語にある程度めどがついたら、ラテン語にもういちど挑戦してみたい気がする。

 

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2019.05.20

クックパッドの本のレシピを受け入れる

 クックパッドが嫌いだった。そういうふうに考える自分も嫌いなので、クックパッドは好きじゃないくらいにしていた。そしてそのことを他の人に押し付けないようにしていた。まあ、クックパッドに限らず、自分のある種の嫌悪というものには、そんなふうに対処している。
 それが、クックパッドの本のレシピを受け入れるようになった。
 そもそも、なぜクックパッドが嫌いだったかというか、実は今でも好きではないのだが、ある料理について作り方を知りたい、また手元の食材でなんか食事を作りたいというとき、googleで検索すると、まず、十中八九、クックパッドが出て来る。試しに、「豚肉 キャベツ」で検索してみると、ほら……あれ、NAVERまとめが最初に出てきて、次がクックパッドか、うわ、これはさらにひどいな……おっと、まあ、とにかくクックパッドは、料理について検索すると必ずと言っていいほど、上位に出て来る。
 僕にしてみると、こんな情報は要らない。ちゃんとした料理について知りたいのだ。そうだ、クックパッドの何が嫌かというと、料理についての情報がちゃんとしていないのだ。いや、「ちゃんとしてない」というのが不快の原因ではないな。じゃあ、なんだろう。作り手が見えないということかな。誰がどういう意図でその料理をどう考えたかがまるでわからない……いや、それも厳密には違うな。ちゃんと料理を作った人の名前のようなものは出て来るし。
 じゃあ、なんだ? 僕はクックパッドの何が嫌いなのか? そこまで問い詰めてしまうと、そこに人が群れているような感じがするからだろうか。クックパッドのコミュニティみたいのが嫌いなのだ。考えてみたら、BLOGOSもYahooブログとかも好きじゃないなあ。なんかなんとなく群れているのが、僕は嫌いだ。どうも話の方向がずれているぞ。
 話を戻して、クックパッドが嫌いというのを別の視点で考える。僕はレシピ本が好きだ。ブログとして掲載されているレシピも嫌いではない。そこでそれらがクックパッドと何が違うのかというと、レシピの完全性というのか、ちょっと違うが、これってレシピとして完成しているだろうかという疑問がいつもある。不安のようなものだ。実際に個別のクックパッドのレシピを見ると、なんでこの人こういう料理をするかなあ?みたいな。これ、この通りに作ったらどうなるんだろう的な不安ともいうか。
 もちろん、クックパッドが好きな人がいてもいいし、そもそも群れるのが好きという人もいるだろう。それは人それぞれだ。
 まあ、そういうことだ。それで何年も過ごしていた。
 ところが、ある日、僕は、クックパッドのレシピ本を買ったのである。『クックパッドの毎日ごはん2』である。なぜ? 気まぐれ。いや、ちょっと違うな。本になっているレシピ見たら、それなりにレシピになっているじゃないかと思い直したのだ。そして、どれも、それなりに工夫はあるんだけど、料理自体の工夫というより、現代日本の日々の食事の普通と言ってよいような凡庸さと自然さもあった。食材がそもそも普通なのである。いいんじゃね、と思った。
 買って、ビリビリと破いた。
 作りたい料理のページを破って、キッチンの壁に貼る。調理するとき、それを見る。そう、そうやって、ページを破って貼って、使おうと思ったのだ。
 で、どうだったか。というと、良かった。レシピって一枚の紙として壁に貼ってあると見やすい。料理も考えやすい。食材の関係でそのとおりに作らないことはあっても、材料の分量や調味料の分量の感覚は悪くない。
 しばらくこれらのクックパッド料理を料理を作った。最近はまた、別の料理に戻っているが、それでもたまにビリビリとやぶったレシピを使うかもしれない。

 

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2019.05.19

[書評] 「ル・マンジュ・トゥー」谷 昇のおいしい理由。フレンチのきほん、完全レシピ

 僕は料理が好きだし、おいしいものというより、変わったものが食べたいということもあって、よくレシピ本を買ったものだった。それがけっこうな数にもなり、ある種、飽和というのか飽きた。もう数年もレシピ本は買ってなかった。しかも、最近、利用している定額サービス、Kindle Unlimitedのレシピ本が充実しているのである。Kindle Unlimitedと言えば、クズ本ばかりと割り切っていたが、少なくともレシピ本はそうでもない。というか、このサービスでレシピ本を読むくらいでいいやと思っていた。この本、『「ル・マンジュ・トゥー」谷 昇のおいしい理由。フレンチのきほん、完全レシピ』もそうした一冊だった。定額サービスとはいえ、無料の感覚で読んでいたつもりだったが、衝撃だった。これはぜひ、手元に欲しい。ポチった。
 何が衝撃的だったのか。料理で知りたいことが、全部書いてある、という感じだった。もし、料理を習うということがあるなら、こういうことを習わなくていけないということが、きちんと書いてある。というか、自分の料理なんて、所詮、ど素人だなと痛感した。玉ねぎの皮の剥き方も知らなかったのである。この本の「最後に、この本で使う料理以前の大切なことを教えます」という見開きに載っている。
 もちろん、その、玉ねぎの皮の剥き方が、本当に正しいかというのはわからない。どう剥いたっていいじゃないかとも言えるだろう。ふとYouTubeを覗いたら、いくつか動画解説もあった。でも、まあ、本書を読んで、僕は、本当の、玉ねぎの皮の剥き方がわかった、というか、なぜこれが本当の玉ねぎの皮の剥き方なのかがわかった。
 で、本書の料理なのだが、変わった料理は何もないというか、それなりにフランス料理を知っている人ならごくおなじみの42レシピだけ。でも、それがどういう料理なのかというのが、本当によくわかる。なんというのだろう、素人とプロの差のコツがわかると言うのも違う。料理を作るというのはこういうプロセスなのだというのが、わかるのである。
 そして、自分の料理の最大の欠陥に直面することになった。僕の料理の持論だが(というのも恥ずかしいのだが)、一番難しい調理器具は、フライパンである、ということ。だから、僕みたいな素人はできるだけ、フライパンを使わないほうがいい。じゃあ、なにを使うか? まずオーブンの使い方を覚える、次に、スロークッカーと下ごしらえの方法を覚える、まあ、そういうふうに考えていた。これだけ、確かにびっくりするくらい、おいしい料理ができる。ちょっとした料理店よりおいしいじゃないかと思ってもいた。当然といえば、当然だ。手はかけていないが、きちんと時間はかけている。料理店はあまり時間をかけていないことが多い。
 とはいえ、僕もフライパンは使う。というか、実際のところ、よく使っている。鉄のタイプだ。だいぶ使い込んでいるので、焦げつきもない。テフロンのフライパンとか使うなよ、とも思っていた。
 が、本書は、すべての料理(例外もあり)を、テフロンのフライパンで作っているのである。ブフ・ブルギニオンから、あろうことか、ローストチキンまで。いや、率直に言って、このローストチキンはやり過ぎじゃないかとは思った。
 調理法はきちんと書かれている。YouTubeの動画なんかじゃわからない料理の微妙なところが正確に写真と解説でわかる。でも、率直に言って、超絶技巧という感じもしないではない。これは、真似できない料理なんじゃないか。
 それでも、真似はする。試してみる。ことごとく本書が正しい。
 昨晩も一品作った。唯一の例外となっているオーブン料理だ。魚のローストである。本書では、メバルだが、たままたおいしそうな黒鯛を見かけたのでやってみた。食べた。我ながら大げさな言い方になるが、こんなにうまい魚料理は食べたことないぞと泣けるほど、おいしかった。塩釜よりうまい。もちろん、魚料理にはいろいろあるのは知っている。干し魚を焼いただけのがおいしいというのもある。でも、魚の料理というのの本質を突き詰めたら、こういうものになるんだという味がそこにあった。
 とまあ、大げさに書いてしまったが、つまり、それだけ衝撃を受けた、僕は。

 

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2019.05.18

詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人

 今朝、Googleを見たら、ウマル・ハイヤームみたいな人の絵がある。

Screenshot20190518

 右手で幾何学、左手にぶどう。数学者でもあり詩人でもありということの表現だろうか。そもそもウマル・ハイヤームかなと、リンク先を見たらWikipediaの「ウマル・ハイヤーム」の項目に飛んだ。読むと、詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という記載はなかったように思う。日本だけ知識が遅れているのかと、自分が理解できそうないくつかの言語の項目も見たが同様だった。もしかしてペルシャ語のならと、自動翻訳で見ただけだが、やはり詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という話はないようだった。通説ではないんですかね。とか言うと、とんでも歴史を素人が書くんじゃないと歴史学者に知られてしまうだろうか。
 詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という話は以前、このブログにも書いた。放送大学で数学史を学んだとき、講座で注意するように指摘があって、知らなかったので驚いたのだった。というわけで、ソースについては、そっちを見てほしいが……。
 ネットで確認できるソースはないかなと少し探してみた。調べかたが悪いのかもしれない。あまりないのだなと思ったが、東アジア人訊醜報學萌究センターの『伝ウマル・ハイヤーム著ノウルーズの書』という文書に関連の指摘があった。

ウマル・ハイヤームは、厭世観あふれる『四行詩集(ルバーイーヤート)』の作者として名高く、またセルジューク朝のスルターン、マリクシャーに仕え、数学や天文学の著作が多数残されている。しかし最近の研究では、詩人のハイヤームと、数学や天文学に秀でた科学者としてのハイヤームは別人と捉えられるようになった。数学や天文学に秀で、セルジューク朝のマリクシャーに要請されて天文表作成に携わり、ニザーミーの『四つの講話 (Čahār Maqāla)』(12世紀)などに名前の挙がる人物は、正しくは、ウマル・ブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー (‘Umar b. Ibrāhīm al-Xayyāmī) という名前であり、ニーシャープール出身であった。もう1人、同時代に、詩人として知られるウマル・ブン・アリー・ブン・ハラフ・ハイヤーム (‘Umarb. ‘Alī b. Xalaf Xayyām) という人物が存在し、若干の詩が伝えられているという。ヒジュラ暦8世紀(西暦14世紀)ごろには、このふたりの人物が同一視され、新たに「ウマル・ハイヤーム」という、詩人にして自然科学者である人物が産み出されたのだ、と近年では主張されている (Ṭabaṭabā’ī 1991参照)。

 正確には、通説ということには至ってないだろうが、異説や個人研究言及の多いWikipediaなんだからというわけでもないが、というか、きちんとそれなりに最新の学説なのだから、注釈でも入れておいていいのではないだろうか。「おまえがやれ」とか言われそうだが、私はWikipediaを使って嫌がらせを受けたとこがあり、このプロジェクトにはあまり関わりたくないなと思っている。
 まあ、こういう考えは、現状では異説なのかもしれないし、私のような素人は異説好きと片付けられてしまうかもしれないが、それでも若い頃はアカデミズムを志しその訓練も受けてきたわけで、異説について鵜呑みをするものでもないと思うのだが、そうは言っても、アカデミズムの内部にいるわけでもなく、素人して多種の分野の知識に関心をもって、それを一種の趣味にしているわけで、つまりは、それが素人というものだろう。
 Wikipediaを使って知識をまとめれば、素人でも何か言えるような時代になった。そう言ってしまえば悪口のようだが、いいことなのかもしれない。というか、それをいいことにしていくには、どうしたらいいんだろうか。学術論文にも指摘があり、専門筋では通説化していることがあれば、学問好きの素人が、とりあえず受け取ってブログに書いてみるというのもいいのかもしれない。ネット全体がWikipedia のように機能するかもしれないから。そう思いたい。

 

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2019.05.17

17日の金曜日

 17日の金曜日である。だからなんだという話なのだが、13日の金曜日(Friday the 13th)のようなものらしい。知らなかったのだが、イタリア、特に南イタリアでは、17日の金曜日(Venerdì 17)を忌むらしい。
 なぜ?
 理由ははっきりしない。もちろん、理由のような話はある。
 まず、17という数字が不吉だというのだ。飛行機の席番に17がないことがあるらしい。エプタカイデカフォビア(Eptacaidecafobia:ἑπτακαίδεκα φόβος)というらしい。
 こうした特定の数字が嫌われるといえば、13が嫌われる理由にも似ている。12だったらなにかと割り切れるが、13だと割り切れない。素数だ。17もそうだ。というか、13の次の素数である。それにピタゴラス教団では、4×4と3×6の四辺形となる16と18の断絶で嫌われるというのもあるらしい。
 じゃあ、イタリア人にとって、13はどうなのかというと、トトカルチョは13試合全部当てると一等賞になるから、13はラッキーナンバー(un numero fortunato)とも現代では考える人もいるようだ。
 そういえば、なんで英米仏などでは13が嫌われるかという理由に、キリスト教で、裏切り者の使徒ユダが12番目から13番目になったという話もあるが、それをいうなら、修道院に必要な修道士数12とこれに1人修道院長を加えた13はキリスト教に好ましいという話もある。
 17日についてキリスト教的な背景ではさらに、ノアの洪水の日でもあるそうだが、ユダヤ教、とくにカバラではそういう話はなさそうだというか、カバラでは17はどっちかというと縁起がいいらしい。そういえば、金曜日に限らないが、イタリアでは11月17日は、黒猫の日(La festa del gatto)になっている。
 その他、面白いのは、17はローマ数字で「XVII」。これは、「VIXI」のアナグラムでイタリア語で"vissi"と読める。「私は生きていたものだ」ということで、死になるらしい。まあ、考え過ぎの感はある。
 どれも迷信でくだらないともいえるし、どうも、イタリア北部ではそれほど強い風習でもなさそうだ。というあたりで、この風習の背景を見ているうちに、意外にギリシア的なものなんじゃないかということで、「マッサ・セニガッリア線(Linea Massa-Senigallia)のことを想起した。これはロマンス語を二分する等語線なのだが、17日の金曜日もこのあたりで感覚が変わるっていうことはないかと。

 

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2019.05.16

[ショートショート] とあるユートピア

 夕暮れ。東京郊外の鳥貴族で人生再設計第一世代の男ふたりが久しぶりに飲んでいる。
A「それにしても意外にすんなりと実現したものだね、日銀のAI化なんてものがさ。たしかにマクロ経済学的には、日銀の政策ほどAIによる自動化に向いたものはないんだから、当然とも言えるんだけど」
B「あれだよ、ベーシック・インカムとの抱き合わせというのが受けたんだろうな。庶民的には日銀のAI化なんかよりも、そっちに関心が集まったわけだし」
A「だよね。なんだかんだ言っても、俺たちに月額10万円からの補助というのはありがたいよ。おまえ、その他合わせると、いくらもらってるの?」
B「合算すると20万ちょい。僕んとこは親の介護しているんだし、アレも使った」
A「この政策って、財務省が提案したって噂があるけど、そこはどうなの?」
B「財務省がなにか裏で動いてはいたらしいんだよ。元は政府主導のプロジェクトだったかもしれないけど。いずれにせよ、当初は国家財政についてAIでいくつかシミュレートしたらしい。けっこうひどい結果も出たようだ。」
A「ほんとかね」
B「まあ、噂なんだけどね。それで、お先真っ暗というのもなんだから、いろいろ奇抜な政策シナリオも与えてみて、いろいろ試したそうだ。そうしたらAIがこのご託宣」
A「あれだけ財源がないとか、増税とか言ってた財務省も変わるもんだね」
B「財政赤字といっても、国もけっこう資産持っているし、赤字国債も国民の財産とも言えるようなものだし。それを富裕層だけに固めておくより、最終的に国民に配分しちゃったほうがいいしな。僕んとこも、だから、アレも使ったよ。親の財産は相続するより、国に委託ってやつ。その分で10万上乗せということさ。親が死んだら墓のほうも国がなんとかしてくれるらしい」
A「まあ、これで日本もだいぶ変わるなあ。AIが怖いという人もいるだろうが、政策にAIを応用するというのがもっとも合理的だよな。あれ? おまえ、スマホ鳴ってない」
B「あ、鳴ってる、っていうか、君のもの鳴ってるよ。地震でも来るんか」
A「あ、まじ、地震だ。え! 南海トラフ地震!」
B「おいなんか揺れだしたぞ。どうなるんだ」
A「これがショートショートのオチだったら、ふざけんなと言いたくなるよな」
 おわり。

 

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2019.05.15

イタリア語を学び始める

 特に理由もないのだが、先月から、イタリア語の勉強を始めた。以前、少しこの言語をかじったとき、あまりにフランス語に似ていて、混乱しそうになってやめたことがある。
 とはいえ、そのおり、なんとなく、ピンズラーの教材とポール・ノーブルの教材を買っておいた。思い出したように引っ張り出した。ピンズラーのほうは最初の30日レッスンは終えた。ポール・ノーブルのほうも、ネクスト・ステップも終えた。これだけで25時間くらいはあるのだろうが、CEFRのA1にも満たないだろう。語学というのは難しいものだと思う。が、反面、なかなか楽しく学べる面もあった。
 実は、今回のイタリア語学習は、そうした自習教材は後追いで、最初からイタリア人のネイティブに習うことにした。外国語というのを、またゼロから学ぶというのはどういうものだろうかという関心もあった。
 そんなふうに、もうしばらくは、イタリア語を学んでみようかと思う。いろいろ楽しい。
 イタリア語を少し踏み込んで学ぶと発見が多い。
 入門としては、なにより発音が楽だ。日本語と違う音もあるがそれでも、英語やフランス語の比ではない。それに加えて、正書法も素直だ。フランス語のように、発音しない語末を正確に書くといった必要はないし、英語のようにスペリング体系がめちゃくちゃにもなっていない。
 文法の骨格はフランス語によく似ている。フランス語より簡単とも思えないが、ロマンス語の代表とも言えるので、英語のようにフランス語の影響を受けて疑似ロマンス語化した言語よりはわかりやすい。
 ということで、学校教育、とくに、中学生くらいの外国語というのは、最初にイタリア語とかやったらどうなんだろうか。少なくとも、ごく初級の部分を3ヶ月ぐらいやるだけで、日本語のローマ字とイタリア語の表記の関連は簡単に理解できるだろうし、その後、英語を学ぶにしても、英語が異常なスペリング体系を持っていることがわかるだろう。日本人が英語で戸惑うけっこうな要因が、ローマ字と英語スペリングの相違だろうから。
 そうしたごく初級的な部分、あるいは教養という部分のイタリア語学習ということで言えば、講談社現代新書の『はじめてのイタリア語』がとても役に立った。もうけっこう古い本なるが、イタリア語の基本・教養がよくまとまっている。

 


 なかでも、ラテン語から俗ラテン語、イタリア語、フランス語、英語という歴史の影響の過程や、ルネサンスや近代以降の、イタリア、フランス、イギリス、アメリカという各国の文化的な影響がそれぞれの言語にどう反映していくかも、なんとなくつかめる。当たり前といえば当たり前だが、シェークスピアの作品というのは、イタリアが舞台というのが多い。
 個人的に、同書で驚いたのが、現在のイタリア語の形成過程だ。ボッカッチョやダンテの文芸作品が普及することで、言語のスタンダード感が出て、そこからイタリア語なるものが形成されてきたという指摘は興味深かった。このあたりはもう少し詳しく知りたいところだ。というわけで、少し専門的な本も読んでみようと思う。
 イタリア語学習のついでに、ちょこっとスペイン語も覗いてみた。イタリア語とはけっこう異なる言語でこれも驚いた。発音体系はイタリア語と似ているが、言語としては、イタリア語とフランス語のほうがはるかに近いのだと実感した。
 イタリア語を学んでみて、けっこう日本人の日常にイタリア語からの外来語があるものだなとも思った。イタリア料理は当然。音楽用語も当たり前だが、イタリア語が多い。ルネサンス芸術の関連もそうだ。そう言えば、フェルマータ(fermata)というのは、日常的には「停留所」なのだな。
 町中を歩いていて、いつものVELOCEの看板を見て、あ、これ、イタリア語だったんかと、あらためてその意味に気づくのも楽しかった。 

 

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2019.05.14

「終身雇用」の認識ギャップ

 トヨタ自動車・豊田章男社長が、5月13日の記者会見で日本自動車工業会・会長として「終身雇用の継続は難しい」との認識を示した。その前提からわかるように、自動車業界全体としての認識を示したものなのだが、なぜか、ネットでは日本社会の「終身雇用」は終わりだといったふうな話題になって、なんというか、盛り上がっているのを見た。
 が、日本にはそもそも「終身雇用」はないと言っていい。一部にそう見える現象がまったくないわけでもないが、日本の「終身雇用」と呼ばれている雇用制度は、日本社会全体から見れば、ある種の錯覚にすぎない。
 例えば、10年も前になるが、NIRAの研究報告書『終身雇用という幻想を捨てよ』でも、「そもそも、終身雇用制と呼ばれるような長期雇用(より正確には期限の定めの無い長期雇用)と年功賃金の組み合わせを実現できた企業は、ごく一時期のごく一部の企業に過ぎない」とまとめられていた。指摘されている事実だが、そうした大企業の従事者は各種統計でも10%に満たない。同報告書では4%の指摘もある。また他先進国と比較しても日本の特徴とも言い難い。
 関連して、「団塊世代の逃げ切り」という話題も見かけたが、団塊世代は狭義には、1947年~1949年の生まれで、72歳から69歳といったところで、現在の話題とは噛み合わない。
 という話をブログに書こうかと思って、しかし、微妙に気が乗らなかった。不用意な批判を招くことになるだろうこともだが、なんだかめんどくさい感じ以前に、そんなことは単なる事実であって、特段に説明することでもないようにも思えた。
 とはいえ、自分とこの社会との認識ギャップはなんだのだろうか。
 存在しない問題、あるいは、自動車産業の一部というように限定された話を、社会全体の話題に広げて議論しても、想像上のモンスターと戦うようなもので、現実にはあまり意味がない。
 だが、この、実際には存在しない問題、あるいは、定義が不明確なのになんとなく確定しているかに見える問題というのは、なんだろう、フェイクニュースとも違うし、単なる大喜利とも違うようにも思う。分数が理解できない大学生といった話題に似て、事実が認識できない知的に劣った層の興隆と割り切れるものでもない。
 これは、一種の「空気」というべきものかもしれないが、微妙に「空気」とも思えない。
 「終身雇用」という幻想についていえば、あるべき過去の理想のようにも見えるので、理想への希求が生み出したのかもしれない。
 昨今の社会的な話題というのは、たとえどんな話題でも、それなりに問題だと一定数に共有されれば、それだけで「問題」になってしまうじゃないだろうか。

 

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2019.05.13

家の電話を買い替えた話

 電話が微妙に壊れた。イエ電の電源モジュールの接続不良といったところだ。電話機本体には故障はない。昭和の黒電話なら電源なんてそもそも要らなかったのに不便な世の中になったものだなと思い、さて、どうしたものかと考えた。適当な電源モジュールをつなげるか、それともこの機に電話機本体を買い換えるか。そして、なんとなく最近のイエ電の電話機のカタログを見て、なんか怪しいキノコの森に入ったような困惑感に捉えられた。なんだこれ。
 ほとんどのイエ電の電話機の売り文句が、迷惑電話撃退なのである。あれとかこれとか。相手に名乗らせるメッセージボタンとか、この電話は録音していますという警告メッセージ機能とか。偽のドアベルが鳴る機能というのもあった。「あ、ちょっとお客様がいらっしゃったようで」という言い訳用なのだろう。
 考えてみたら、イエ電に求められる最大の機能は、コミュケーション遮断の機能なんだろうな、というあたりで、なんかすごく間違った感じがする。
 それ以前に、そもそもイエ電がなくなった時代だし、イエ電なんてそもオレオレ詐欺のインタフェース、とか、あれだ、もっと凶悪なやつとか、いずれにせよ、犯罪誘導装置に成り下がってしまった。
 そういえば私も、イエ電は、以前いやな売り込み電話を受けて依頼、電話番号開示していない相手からの電話はそもそも受け付けないように設定した。一般の家電では、そうしてないのだろうかと疑問に思った。相手電話番号開示機能はオプションだし、このオプションはそう売り込んでもないようなので、意外と普及してないんじゃないか。
 なんとも奇妙な時代になったものだなと思いつつ。ふと、当初のイエ電購入のことを忘れている自分がいた。いや、思い出して、そもそもイエ電って要るのか?と本質的な疑問に囚われた。
 私は電電マンの息子ということもあって、電話機が好きだ。若い頃PBXのマニュアルとかも書いていたので、電話システム自体も好きだし、なにより高機能電話機というのが好きなのだ。そこで当初は、最新の電話機ってどんなに高機能になったんだろと期待していたのだ。で、見ると、たしかにWIFI連動するとかあるのだが、これも改めて考えてみると、そもそもイエ電に高機能が求められていない。
 遠距離通話もスカイプとかライン使っている。イエ電を使うというニーズ自体がほとんどない。
 さて、どうしたものかと、とりあえず、小さいのを買った。じゃまにならないやつ。とりあえず、イエ電にはなるし、留守録音はできるという程度のものである。そして、それは安価でもあった。実に小さくて、なんか、かつてのイエ電の周りが寂しい。
 取り替えて数か月経つが特に不便もない。
 そういえば、私の家には別途FAX機もあったが、それも、事実上迷惑広告がたまにやってくるしか機能がなく、そもそもインクがもうサプライされているのかも疑問に思えてきた。

 

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2019.05.12

実質、高校の「普通科」は3割になるだろう

 自分の考えがまだまとまらないのだが、これは困ったことになるんじゃないかと思ったので、とりあえず少し書いてみよう。自民党による、高校の普通科 大学入試重視の見直し提言についてである。問題の焦点は、必ずしも「自民党」にあるわけでもなく、またどこまでが自民党の考えなのかもわからない。というのも、高校の普通科の見直しについては、政府内の教育再生実行会議でも議論されていて、これと自民党案の対応がよくわからない。
 NHKは今日付けでこう伝えている。

 今の高校の普通科について、自民党の教育再生実行本部は、大学入試に向けた教育が重視され生徒の学習意欲が低下しているとして、政府に見直しを求める提言の案をまとめました。
 提言の案では、今の高校の普通科について、「偏差値で輪切りされ、大学入試に困らない指導をするあまり、生徒の能力や個性を伸ばせず、学習意欲が低下している」と指摘しています。
 そのうえで「普通科の在り方を見直し、学校ごとに特色を出した新たな枠組みを作り、指導方針を明確化することが必要だ」としています。
 具体例として、科学技術分野の教育に特化した「サイエンス・テクノロジー科」や、国際社会で活躍できる人材を育てる「グローバル科」、地域の課題を解決する人材を育てる「地域科」などを挙げています。
 また、文系、理系を横断した教育の充実を図り、それに応じて大学入試の見直しも進めるべきだとしています。

 自民党がどこまで現状を認識しているのだろうか。まず疑問に思えたのは、「偏差値で輪切りされ、大学入試に困らない指導をするあまり、生徒の能力や個性を伸ばせず、学習意欲が低下している」という指摘である。「偏差値で輪切り」というのは現実にあるだろうが、「大学入試に困らない指導をするあまり」というのが、私には不可解に思えた。現状、大半の高校で、大学入試に困らないような指導は、なされていないのではないか。
 私の考えが間違っているかもしれないという留保は当然するが、そもそも現状、大半の大学で大学入試は事実上、存在していないと見てよいのではないか。現状、中堅以下の私大の約7割は一般入試以外で生徒を入学させている。大学が乱立しているのに対して少子化で生徒自体が少ない。
 だいたい偏差値55、だいたい人口比で30%、これ以外の大半の私大ではすでに入試がなくなっているというのが現状だろう。自民党の言う「大学入試に困らない指導をするあまり」は、およそ3割程度しか当てはまらない。この割合の境界は、だいたい通称「日東駒専」と言われてるあたりの意識に重なるだろうか。
 ここで逆を思った。自民党提案は、むしろ、偏差値55以下の7割の部分で、事実上すでに「普通科」が成立していない現状への対応なのではないか?
 時事の6日の報道からはその印象がある。「昭和以来の「普通科」見直し=特色重視で細分化-高校抜本改革が始動」より。

 今の高校教育について自民党の教育再生実行本部・高校の充実に関する特命チームの義家弘介主査は「完全に昭和の体制」と、早急な見直しを訴える。特に普通科は教育内容が画一的で、生徒も「学びたいものではなく、成績や内申点で行ける学校を選んでいる」(義家氏)。
 改革の背景には高校生の学習時間や意欲の低下への危機感がある。2001年に生まれた子どもを対象に文部科学省などが行っている調査で、校外での学習時間を聞いたところ、平日「しない」と答えたのが中学1年では9.3%だったのに対し、高校1年になると25.4%に上った。「学校の勉強は将来とても役に立つと思う」と回答したのは中1の37.7%から、高1は27.4%に下がった。
 自民党特命チームと政府の教育再生実行会議は今月、高校改革の提言をまとめる。同党の議論では普通科廃止も浮上したが、社会で一般的に必要な教育を行う学科の枠組みは残す。その上で「サイエンスを重視する」「地域人材育成を目指す」など特色に応じて類型化し、普通科を細分する。

 
 時事報道からは、自民党内で「普通科廃止」案があったことが伺える。が、この案自体が消えていても、「社会で一般的に必要な教育を行う学科の枠組みは残す」ということは、実質、従来の農業や工業など専門教育を行う専門学科を他産業に拡張し、普通科的なものを付け足して1994年以降の「総合学科」を専門教育側に拡張するだけではないか。名目的な部分を除けば、実質、いわゆる高校の普通科は3割程度しか残らないだろう。
 時事の報道の文脈ではまた、4分の1の高1生が学校外で勉強しない現状を伝えているが、この大半の部分では実質的に高校の教育がすでに崩壊しているだろう。
 以上の文脈で、3割の、実質的に大学入試が残る普通科でも類似の問題は、構造的に横たわっていると思う。端的に言えば、私大文系希望では高校の数学は実質崩壊しているだろう。とりあえず、定期テストがこなされたのちは、数学の学力としては消えているのではないか。理社の知識型の学科も入試科目以外では定期テストの域で消えているだろう。
 こうしてみると、そもそもが私大の存在とその入試の構造に根がありそうだが、これも裏面からすれば国立・公立大学の影響とも言える。公立・国立は、概ね、都市部で偏差値60、地方で50から55。地方では「日東駒専」の線を公立が補うかたちになっているようにも見える。
 さて、考えがまとまらない。まず、言えることは、実質、高校の普通科は3割になってしまうだろう。7割は職能志向の教育になるだろう。それと、普通科でも私大文系志向から、数学と知識型の学科は実質現状の衰退を是認していくことになるだろう。
 高校の学科として実質残るのは、文系では英語と現代国語くらいのものになるのだろうか。そして、おそらく英語は偏差値60程度の大学入試でも、CEFRのB1程度ではないだろうか。高校で学ぶ必要性はたぶんないだろう。そして、理系を学ぶ生徒はおそらく高校入試以前で狭められてしまうのではないか。

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2019.05.11

[映画] 人生、ブラボー!

 勧められる映画を行き当たりばったりに見る。『人生、ブラボー!』。これもそう。2011年の映画なのでそう古いわけでもない。タイトルにちょっと引くものがあるが、フランス映画のコメディらしいくらいの予備知識で見始める。で、面白かった。この設定でそれなりの水準で作れば面白いものができるだろうなという感じはする。着想の利点は大きい。後で知ったのだが、これをリメイクした『人生、サイコー!』という映画もあるらしい。まあ、そっちはたぶん見ないと思う。という理由のようなものも、ここで書きそうな気がする。

 


 この映画、話の設定は、こうだ。精肉の搬送をしている冴えない独身中年男ダヴィドは、20年前、金策から精子提供をしていた。そんなことも忘れて過ごしていたが、ある日、若い日の精子提供の結果で生まれた142人の子供から、身元開示の訴訟を受けて、とまどう。訴訟以外を含めると533人もいるらしい。驚いたが、もう関係ないだろうと、訴状をゴミ箱に捨ててみたものの、ふと気まぐれで一つ取り出して見ると、有名なサッカー選手だった。ダヴィド自身、社会人サッカーをしているので親近感を持ち、その選手が出るゲームを見に行き、自分の子供が大成したような気分になる。そしてそのノリで、他の生物学的な子供に正体を明かさずに会いにいくようになる。そこからは、人生というものの悲喜こもごもがある。現在のダヴィドも振り返れば、最近、恋人からもつれなくされている。
 映画の見どころは、ダヴィドとその生物学的な子どもたちとの悲喜こもごもの関わりで、どことなく、レンタルなんもしない人のような印象もある。そうした関わりのなかで、現在の恋人の関係や彼のファミリーとの関係も変わっていく。まさに、セ・ラ・ヴィという感じで、フランス映画っぽい、とも言えるのだが、たぶん、そこに微妙なズレがある。
 フランス語の、フランス語コミュニティの映画なのだが、カナダの映画なのである。ケベックだ。本土のフランス語と違うかというと、僕程度のフランス語能力では、なるほど違うなと聞き分けられるのは、看護士の黒人女性のフランス語くらいで、他は、本土のフランス語と差はよくわからない。パリ風ではないなくらいな印象。だが、ところどころ、単語に英語が混じっているのはわかる。本土フランス語でも実際は英語がけっこう混ざる時代になったが、そのレベルではない印象はある。このあたり、本土フランス語のネイティブが見たらどういう感じなのだろうか。気になった。
 僕は50代後半からふとフランス語を学んでもう数年立ち、いろいろ思うのだが、フランス人のフランスへの愛国感と、フランコフォンと言われているフランス語話者のコミュニティ意識(francophonie)の帰属感にある、ある微妙なズレがとても興味深い。対立する差があるというのではない。フランコフォン自体には、外的にはL’Organisation internationale de la francophonie (OIF)という組織もあるようだが、そういうものとも微妙に違う感じがする。
 この映画でも、フランス語という言語以外に、フランスのファミリーの情感で、どことなく、レトロというのか、ある郷愁感のようなものがある。イタリア人コミュニティっぽい濃い印象もある。そういえば、ダヴィドもイタリア語かスペイン語をが喋るシーンがあった。このあたりの文化的な意味もよくわからないが、それでも、ケベックらしさというはこういうものなんだろうという感じは伝わってきた。そこが、つまり、フランスではないけどフランス語コミュニティというものの感触が、この映画の一番の魅力だったのではないだろうか。米国風にリメークしたらそこは消えてしまうのではないか。
 そういえば、Netflixで『ガッド大暴走』というトークを見たことがある。フランスのコメディアン、ガッド・エルマレが、モントリオールの聴衆を前に、アメリカで体験した異文化感をネタにしていた。例えば、フランス語のcasquette(帽子)と英語のcasket(棺桶)の違いとか、たぶん、カナダではよく知られているのだろうが、大げさな違和感表現で笑えた。そういえば、ちょっと気になって、casketの語源を調べたが、判然としないことがわかった。なお、フランス語のcasquetteは、casquoだから、現在のcascoで、ヘルメットということだろう。

 

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2019.05.10

[ショートショート] 自動運転車プログラム・シナリオのウォークスルー

「ええと、今日で何回目だっけ? 自動運転車プログラム・シナリオのウォークスルー」
 主任の柳原はいつにもまして眠そうである。やりたくないんだろう。
「36回、ですか、ね」、研究員の佐伯は手元の資料を見て答える。マニキュアの色が前回より濃いような感じだ。
「で、佐伯さん、今日のテーマは……」
「前回のシナリオの続きです」と佐伯は息をつぎ、前回のあらすじよろしく話を進める。「T80で、あれです、交差点の巻き込まれ事故の……」
「あれか。交差点で無理に右折しようとした乗用車Aに、直進してきた軽乗用車Bが接触し、B車が信号待ちをしていた数名のいる歩道へ突っ込んだ、ってやつね」
「そうです。B車は右折するA車をよけようと、とっさにハンドルを左に切りました」
「これさ、うーん、軽自動車ねえ。ああ、そういえば、吉岡くん、前回、なんか言ってたよね」
 振られた吉岡はふと驚いたようにして、記憶をさぐろうと目をキョロキョロとして、思い出したようだ。
「この事例、そもそも今回バージョンの自動運転プログラムに必要なのか、私は疑問なんですよ。原則は明確なんじゃないですか。こういう場合、ハンドル操作で危険回避はそもそも出来ないんですよ。とにかくブレーキを踏め、ですよ。でなければ、自動でブレーキを作動させるというだけのことです」
「まあ、そうだな。それで前回のウォークスルーがぐだぐだになったんだっけ、思い出した。で、事故はどうするんだ?」
「事故ですか? 事故になりますよ。それにこの事例の前提だと乗用車Aの右折にそもそも問題があるんですよ。だから、これ、T80じゃなくてT60モジュールの課題ですよ」
「でも、あれだ、吉岡くん、人間なんてそもそも、こういうときにとっさの判断なんてできないんだから……」
「だから、自動車教習所でこうシナリオのシミュレーションで、ブレーキを踏んで事故るという疑似経験をさせるか、さっさと強制ブレーキ作動にすればいいんですよ。こんなウォークスルーもう意味ないです」
「と、いうことでいいのかな。佐伯さん、これで終わりで?」
「ええと、そもそもT80のモジュールはいわゆる自動運転車プログラムのあり方ではなくて、被害算定といいますか…」
「あ、そうだった。ということだよ、吉岡くん」
「だから、前回と同じじゃないですか。だから、車が事故ればいいんですよ。車のほうにエアバックつけて事故っても大丈夫ってして、歩行者の被害の可能性を極力減らせばいい」
「それを言うなら、歩道にガードレールをつけろっていうか、交通政策の問題かな。そもそも軽自動車っていう設定がなんなの?ってことだけど、佐伯さん、なんでこんなシナリオなの?」
「ですから、主任も吉岡さんもこのシナリオの前提がわかってないんですよ」
「っていうと…」
「ですから、自動運転の問題は別モジュールでやっていて、こっちは、あのですね、ええと、手元のパラメーターの歩行者んとこ見てくださいよ」
「あ? おお、歩行者が選べる? 吉岡くん、これ面白いね、歩行者が選べるって、なんだ? 子供、学生、勤労男性、老人……、同じで事故でも賠償のお値段は変わるってあれか」
「だから、面白くなんかないですよ。僕は、わかってましたよ、だから腹立てているんじゃないですか」
「ようやくわかった。佐伯さん、吉岡くん、すまなかった」
「主任わかりましたか?」
「わかった。これって事故回避のプログラムのアルゴリズムの問題じゃなくて、特定の事故回避プログラムを選択した場合に想定される被害額の問題だな」
「ですよ、主任。こんなのひどいじゃないですか。運転者や歩行者の勤労状態で損害額が変わることで、自動運転車プログラムが変わるっていうことですよ、そもそも」
「だな、これはひどいな」
「で、どうするんですか、主任」
「つまり、軽自動車っていうのも、お値段の問題っていう意味だったか。どうすっかな、これ、吉岡くんどうする?」
「適当に数字作って、どのような場合でも強制自動ブレーキで賠償金差はないという報告書書いときますか」
「そうだな。あ、これ、僕に任せてくれ」
「どうするんですか、主任」
「いや、このモジュールごと削っておこうかと。そもそもこんなウォークスルーやってたなんてバレたらやばいよ」
「ですね、主任に任せるまでもありません」と佐伯は議事録をびりびりと破りだした。

 

 

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2019.05.09

NHKは全放送をオンデマンドにしてくれるといい

 NHKのオンデマンドには、①見逃しと②アーカイブという2つのタイプがあって、これまで②アーカイブのほうを使っていた。月1000円くらいの有料だが古い番組がけっこうたくさん入っているのでそれに見合ったサービスかと思っていた。で、①見逃しというのは使ったことなかった。こっちのサービスは、「おっと、見逃した」というのが後からでも見られるというものだろう、という趣旨は理解できていた。が、実際にこの①見逃しを使ってみたら、微妙に違った感じだった。
 ことは、ちょっとした手違いだった。なぜそんな手違いが起きたのかよくわからないが、一種の操作ミスで①見逃しを支払ってしまったのだった。じゃあ、これを機会に使ってみるかと思ったのだが、そもそもさほど、「おっと、見逃した」ということはない。見たい番組はそもそも予約しているからだ。予約してなくて、後から、見れば良かったなあというのがあっても、1か月も待っていると②アーカイブのほうに入るんで、慌ててなければ特段に困らない。
 が、サービスというのは使ってみると、奇妙な発見があるもので、「朝イチ」という番組が見逃しで見られることがわかった。「朝イチ」というのは、朝ドラのあとにたらたらとやっているバラエティ番組で、なんだろ、昭和的主婦向けという感じなのだろうか。そうつまらない番組でもないので、ぼけっと見ていた時期もあるが、この数年見てなかった。せっかく見逃しが使えるのだから、じゃあ、「朝イチ」を後から見てみるかと見てみた。すると意外に面白いのだった。
 なにが面白いかというと、たらたらとしていることだった。これは意外だった。ネットコンテンツはいろいろ契約しているので、アニメとか映画とかドラマとか、見るものはいっぱいあるが、どれもそれなりに、その時間、じっと見ている必要がある。というのは、重いのである。重いのはなんか疲れるというか。逆に、なんとなくテレビが付いている感じの軽さというのが、そもそもテレビというものだというのを、思い出した。それでいて、うへ、この話つまんねーというのは、サクサクと飛ばせるのもいい。軽いのはいいが退屈が強いられるのは、いやだ。
 「朝イチ」以外にも見逃しを使ってみると、普通こんな番組録画しないよね、という番組が後から見られるのである。そしてそうした番組を後から見ると、それなりに軽くて面白い。
 で、思ったのだが、この見逃し、っていうのは、それなりに時間枠は決まっているんだから、録画機で全部録画しちゃえばいいんじゃないのかと。それで、やってみた。やってみたら、意外と面白い。
 以前から7時のニュースは録画して見ていたが、それ以外にも、特に見るあてのない番組でも高圧縮でとりあえず録画しといて、気が向いたら見ることにした。
 というか、こういう全録画の機能は最新機種には普通に付いているんじゃないかと見ると、まあ、あるような、ないような。それでも次回録画機を買い換えるときは、全録画機能付きを検討するかなと思った。
 話はそれだけなんだが、こうしてみて、あらためて、NHKは全部、オンデマンドでいいんじゃないのとも思った。これは、radikoなんかもそうだなと思う。いわゆる、「放送」という概念は終わったんじゃないか。自分については終わった感じはある。
 で、もうちょっと想像する。
 全番組がオンデマンドなら、どれを見たいかというのは、後から選ぶわけで、選ぶのはめんどくさい。ので、録画済みの番組を自動編集してくれる、一種アグリゲーターのようなものがあれば便利だ。自分の好みを学習させて、まず、10分くらい手短にサマリーを流し、そこから見たい番組を選んで(あるいは音声で答えて)、それから自動的に編集したものだけ、所定時間で見る、と。
 そうなるとますます広告は邪魔になるばかりだが、見たいコンテンツで時間が奪われるのにCMとか、つまんない番組とか見ているのも人生の無駄、と、言ってるわりに、さっきは軽い環境映像みたいな番組も面白いとか自分は書いていたのだった。矛盾は矛盾か。

 

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2019.05.08

[書評] やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(渡航)

 令和の時代とやらになっても特段に変わることなんかあるわけないだろ、ばーか、という気分でいたのだが、いざなってみると、自分が、老人になっていた。思わぬ体調の不全があって死ぬかもと思ったせいもあるが、うひゃあ老人になったちゃったよ俺感が充溢してしまった。2歳下のなるちゃんが天皇になって新時代を頑張るというのに俺のほうが終わりかあみたいな。で、なぜか、アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』2期のエンディングを見て、あれ?という気持ちになった。
 いや、何が言いたいのかこれでは伝わらないだろうと思うが、書いている自分もよくわかっていないのだ。ただ、その「あれ?」のひっかかりから、終わりの2話を見直したら、なおさら「あれ?」だったので、一期から全部見直した。三度目になる。
 呆れた。まったく新しく見る感動とまではいかないが、以前、俺は何を見ていたんだろうくらいの感想はあった。そこで「あれ?」が微妙に繋がった。どう繋がったか、言葉にできないが。
 アニメ3度見直して、ひどい物語だった。いや、最高の賛辞として「ひどい」と思ったのだ。こんなきっつい物語はないなと思う。当初は、ちょっとひねくれたアンチヒーローの物語に見ていたのだが、さすが理解が深まると、緻密な、地獄のような物語であることがわかる。前回見たときは、担任の先生だとか雪乃の姉とか、うぜーキャラを物語の装置のために入れているなと思ったが、今回はさほどそうも思わない。彼らは、単純に大人という意識時間の物語装置でしかないというか、青春が青春で自己完結してしまうロマン的な陶酔のストッパとも言える。
 3度見て、これはこれでまた、漱石問題だなとも思った。『こころ』に一番近いが、『明暗』にも近い。ただ、これは日本の近代自我の類型的な問題とか、ホモソーシャルな問題という呑気な批評的な擬似問題でもない。これは本当にやっかいな問題なんだ。そして、そのやっかなな問題が、人々に生きることの自覚を促してしまうという点でも、極めて悪質でやっかいな問題だなとも思った。こんなめんどくさい物語がなんで人気があるんだとも思うが、まあ、人気はあるだろう。それもわかる。若い人たちも、ぬるいくそみたな現実を生きていることは間違いないだろうから。余談だが、八幡の家のリビングの書架が気になったな。
 今回、アニメを全部見直したいと思った背景はあった。最終巻予定の14巻が4月18日から再延期になったことだ。すでにアニメ3期が確定しているから、残りの12、13、14巻で1クールということになり、たぶん、この難解な物語のより解説的な脚本の書き直しになるのだろうと思うが、という前に、ええ、ラノベのほうも読んでいます。
 アニメをまた通し見したあと、続きのラノベを読んでみて、少し驚いた。特に13巻なのだが、前回読んだときは、この先どうなるんだと最終巻を期待していたのだが、読み直したら、これはここで終わっているという感じがしたのだ。ここから、どうにも動けない。いや、動くとしても、あとは、悲劇を解説するしかないだろ的な悲惨なエンディングしかありえない。由比ヶ浜エンドとか雪ノ下エンドとか、そんな呑気なこと言ってんじゃねーよ的な。
 ただ、どうなんだろ。そんな、なんだろう、見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮みたいな話に持っていっていいわけないだろ、ラノベだぜ、文学じゃないんだぜ、書店ビジネスだぜと言ってみるテスト。作者、書けるのか。延期しているのは、そのせいじゃないのか。
 でもまあ、そう索漠とした終わりにはできないだろうな。雪乃が初めて恋というものを本当の自分のものとして受け取るという物語は描かなくてはならないだろう。露悪的に言えば、このドロドロとした共依存のような世界から、人が一つの性として他者に関わり傷つけたり日常をやりすごしたりという、そういう自立に到達できるものだろうか。ええと、おい、お前はどうだったんだ、お前? 俺だよ。(ああ、ごめんな。大人になってみたら、性や恋の問題はもっと動物的でゆえに文学的な純粋性なんかふっとんでたよ。)
 ただの偶然かもしれないし、意味なんてないのだと思うけど、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』が平成で終わらなくてよかったような気がしている。

 

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2019.05.07

「バレエ(ballet)」という言葉について

 知識にはどこかしら盲点のようなものがつきまとうものだろうと、諦めている。知っているつもりでも、奇妙な抜けがあるのだ。で、「バレエ(ballet)」という言葉について、あれ?と思う抜けがあった。
 日本語では、『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』の、あの「バレエ」を、「バレエ」と表記する。発音としては、「ばれー」のような語尾が音引きになるか、「ば・れ・え」のように分かれるか。日常会話では判然としない。
 似た言葉の「バレーボール」は、「ばれー」と音引きになる。こちらは、英語では、”volleyball”。発音的には、「ゔぁりぼー」のようになる。volleyはテニスの「ボレー」と同じなので、そう考えると、「ボレーボール」としたほうが日本語らしいかもしれない。
 英語の"ballet"の発音は最後の"t"の音を発音しない。そのため語末は、"café”のようになるが、英米人は、日本語の「え」やフランス語の[ɛ]のような安定した音が保てないので、/bˈæleɪ/のように語末は二重母音化してしまう。
 いずれにせよ、"ballet"という言葉は、フランス語ではあるが、私はちょっとうかつだった。イタリア語の勉強をしていて、ballare(踊る)という単語を見て、あれ、これって、balletの語源じゃないのと気がついたのだ。「踊る」は、「ダンスする」のdanzareもあるので、うっかりしていた。あらためて、ballareとdanzareの意味の違いを調べてみると、あまりないようだ。
 こうしてみると、フランス語のballetは、イタリア語のballareと関係しているはずで、もしかして、balloの小さいのとしてのballettoが語源かなと調べてみると、そのとおりで、驚いた。「ちょい踊り」という感じだろうか。
 すると、フランス語の"ballet"がイタリア語起源なら、カトリーヌ・ド・メディシスがフランスに持ち込んだものじゃないかと推測して、調べてみると、これが、どんぴしゃりのようで、またびっくりした。
 というか回りくどくなったが、Wikipediaにも書いてあることだった。
 もともとはイタリア・ルネッサンス時代、詩に合わせて踊った「ちょい踊り」であったものが、ヴァロワ朝からブルボン朝に宮廷舞踊化したのだろう。ルイ14世は自身も踊ったらしい。
 とはいえ、現代のバレエはロシアでまとまったものだというのは、知っていた。が、その間はどうだったかここも知識の抜けがあり、調べてみて、へえと思ったのだが、宮廷舞踊的なバレエはフランス革命の影響に乗ってヨーロッパやロシアに広がったものらしい。実際のところ、市民階級が見て楽しむものになったのだろう。
 ついでに、「ボールルーム」の"ball"も同じ語源だろうと調べてみると、これもそのとおり。イタリア語以前は当然、ラテン語なのだが、ラテン語もギリシア語からの外来語だったようだ。
 ふと、いわゆる「球」の"ball"の起源はどうなんだろうと疑問が浮かぶ。ざっと調べてみると、やはり別系の語源だった。古フランス語から中世英語に入ったというのはいいとして、そのさらなる語源は、ゲルマン語のballazというふうになっていた。この語は、"ballocks"(睾丸)の語源と同じだった。
 "Hitler has only got one ball"というときの「きんたま」をballsというのは、たんなる比喩ではなかったのだなと思う。

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2019.05.06

[映画] 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?

 映画といってもアニメ映画の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を見た。今更という感じではある。おもしろかったかというと、おもしろかった。感動したかというと、感動した。ただ、これ、興行的には失敗したんだろうなと思った。アニメ『グラスリップ』のように、ちょっと人類には早すぎた感はあったというか、『グラスリップ』に似ていた。というか、P.A.WORKSもそうだけど、シャフトもこういう作品を作りたかったのだろうというのがわかった。でも、そうだったら、アニメファンにもっと受けるか、評価されるか、というと、そこは正直よくわからない。コミックス・ウェーブ・フィルムや京アニのようなものが受けるのかというと、僕はそこまでアニメというメディアがよくわからない。
 今更感があるので、この物語の基本的な解説を繰り返す必要はないはずだが、それでも、基本の設定はこうだ。背景は小学六年生の夏のある日。祐介と典道は同級生のなずなが好きだ。なずなも2人を好きだとは思っているが、親の都合で2学期から転校させられことになっている。なずなは、それが嫌だ。プールで競争する2人の男の子うち、どっちか勝った方と「駆け落ち」しようと内心賭けをする。
 そこからの話は、あたかもゲームのように2つに分かれる。祐介となずなの物語と、典道となずなの物語である。
 実は、この2分岐までが1995年に公開の実写映画であり、実写版では、典道の物語は一種の幻想となり、祐介となずなの物語だけで、ある種、収束する。だが、より仔細に見ると、典道となずなにはもう一つの分岐として夜のプールの短い物語が付加されている。ここに、さらなる分岐という欲望が残されていて、そこから彼らを中学一年生にさせたアニメが始まる。映像アングル的にもここまではパロディかと思えるほど似ていながら、そこからは全然似ていないズレ感が発散する。
 いずれにせよ、実写映画のほうは、それほど複雑な物語ではない。が、アニメ映画のほうは、典道となずなの物語を起点に多重に世界が分岐していく。いわゆる、一般的な物語に慣れた人にしてみると支離滅裂で、いったい何がいいたい映画なのかわからないということになるし、エンディングも叙情的な必然なのか、物語を転倒される趣味のトリックなのかわからない。
 おそらく、アニメも実写版をより現代的にリメークして叙情的なエンディングで収束させれば、大衆的な感動を誘う名画になっただろう。というか、そうしておけば、興行成績は上がっただろう。『君の名は』がそうであるように。
 だが、そうではなかった。なんでこのアニメを、つまり、人類には早すぎた的な作品を作ろうとしたのか、シャフトは?
 というか、それがシャフトだからだ、というしかない。
 言うまでもないが、シャフト映画のなずなは、戦場ヶ原ひたぎである。
 いや違うだろう。すごくそっくりだけど違うだろう、ということでごまかされる人が多いだろうが、なずなは戦場ヶ原ひたぎその人なのだ。いやさすがにそれはむちゃくちゃ、というツッコミが入りそうだが、『物語シリーズ』の戦場ヶ原ひたぎの本質は14歳にあったといえば、わかるのではないか。個々のシーンでもきちんと、なずなとひたぎとのリンケージは取れている。とくに、落下シーンだ。14歳の戦場ヶ原ひたぎを描かなければならなかったのだ、誰かが。いや、誰か、ではない、シャフトがである。もちろん、譲歩はする。戦場ヶ原ひたぎの造形となずなの造形は同じではない。だが、それを言うなら、その差は世界というもの多元性に吸収されてしまう。
 ひたぎ=なずな、13歳から14歳の少女、というものを描きたいがため、その少女の内面に入りすぎた。そのため、物語の視点として、アニメでは典道が主人公化というか語り部化してしまった。オリジナルの物語構造でいうなら、なずな自身には、典道への思いは、女になることを選択するときのある恣意性でしかない。極言すればリアルのなずなは、典道が好きだとも言い切れない。むしろ、女がそのように恣意的に複数の男から1人の男を選ぶという事象で、男はその選ばれたものとしての自己を男の性として引き受けなけれならない。その構造が、典道となずなの愛の物語に擬態する。
 この岐路の、女から選ばれる男の物語、というところに、男の子の、なんというのか童貞を脱するよりもきつい痛みというのがある。むしろ、その痛みこそ、オリジナル映画よりもアニメ映画が全的に引き受けることになった。
 さて僕は61歳にもなってわかるのだが、過去というのは、そして過去の恋や性は、一貫した物語ではなく、多元的な後悔から成り立っている。そもそも女からの選択で男であることを受け止めた瞬間から、男は必然的な負け戦が始まる。この敗北感の予見としてアニメではなずなと典道と祐介の身長差が強く表現されている。
 恋なんておよそ成就するもじゃない。が、成就させようとする負け戦がシーシュポスの罰のように続くことを少年は直感するし、私のような老人はすべてを多元的な、祝福された後悔として飲み込む。
 なにも60歳まで待たなくてもいい。もう少女という存在を愛することはないのだ、というある決定的な人生の時刻を超えたとき、30歳あたりからだろうか、かつての少女たちの思いへの後悔と責務は多元化していく。あるいは、死に場を失う。カッパゾンビになる。
 つまり、そういう映像なのである、このアニメ映画は。目をつぶって、俺は少女を愛したとつぶやくとき、こういう後悔というものが花火のように美しく煌めく。典道がガラスの破片のなかで見た未来の、なずなとの恋のシーンは、同時に老いた男の過去の後悔の回想でもある。
 といっても、おそらくなんら説得力もないだろう。だが、そうなのだ。そう思えるから、この作品に感動したんだよ。
 少年の前に、ひたぎ=なずな、が立つ。駆け落ちしましょう、と彼女がつぶやく。あるいはつぶやいた。少年にチョイスはない。あとは、煌めくような負け戦が延々と続くだけなのだ。

  

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2019.05.05

鯉のぼりを見ないこどもの日

 車窓をぼんやりと眺めていると、鯉のぼりを見なくなったものだねと言われ、そうか、こどもの日か、鯉のぼりかと思った。確かに、しばらく外を見ていても鯉のぼりを見かけない。令和とやらの時代になった変化でもない。昨年も、その前もそうだったように思う。なぜだろうかと考えて、理由を考える前に、それを考えることが虚しいような気だるさを感じる。
 そういえば、鯉のぼりは絵文字にもあったかと、携帯に「こいのぼり」と打ち込んでみると、なるほど出て来る(🎏)。その絵を見ながら、吹き流しがないなというのと、子どもの鯉がないなと思う。そういえば、雄の鯉と思われるのが上に来て、雌の鯉と思われる鯉が下に来ている。サイズも夫婦茶碗よろしく雌が小さい。これじゃ現代的ではないな。
 昭和32年生まれの私は家の庭に鯉のぼりを立ててもらった記憶がある。父が穴を掘っている記憶もある。白い5メートルほどの棒だったか。今思うとどこから手にれたものか。昭和37年頃だろうか。私の家の鯉のぼりはなぜか生地が黃がかっていて、ちょっときれいじゃないと子供心に思った。
 思い返すと、あの時代、小学校のクラスの生徒の半数は団地住まいだったから、そもそも庭に鯉のぼりを立てるということができなかった。残り半数の生徒のその半分くらいは、分譲地に家を建てるいわば新興中流層で、そこにはきれいな鯉のぼりがあったように思う。女の子に家にはアップライト・ピアノがあったし、ひな祭りには七段くらいの雛飾りがあった。50人ほどのクラスだったかと思うと、実際のところ鯉のぼりを立てられる家は四軒くらいだったろうか。私もそうして考えると微妙にその新興中流層にいたのだろうか。ただ、家はそうした地域からは離れていて友だちはあまりなかった。
 当時の団地住まいは2DKくらいだった。後に3DKという言葉を聞いて、子供ながらに一部屋増えたのかと思ったことがある。私の家は、平屋で3DKだったが建て増しというか部屋を増設していった。それでも、あの時代、住居は狭く家族は小さい。クラスでも3人兄弟というのはいなかったように思う。一人っ子はいた。すでにその頃から少子化は進んでいた。
 父母が結婚したのは、上皇の二年前くらいというか、私と天皇の差くらいになる。父の結婚は30歳で私は子供ながらに晩婚だなと思ったものだった。母との年齢差もあった。子供も2人だった。まさか自分がそれらすべてを上回るような反時代的なものになろうとは。
 いつからか鯉のぼりは、川やイベントとかで多数見かけることがあるものの、住宅街で見かけなくなり、鯉のぼりの歌も聞かれなくなった。

やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうにおよいでる

 歌ってみて、なるほどなと思う。父がいて子供が2人くらいの情景であり、母は父の下になんとなく隠れているのだろうかと思い、そういえば、この歌の二番に出て来るのだった。

やねよりたかい こいのぼり
おおきいひごいは おかあさん
ちいさいまごいは こどもたち 
おもしろそうにおよいでる

 いつ頃の歌なのか、Wikipediaを見ると、「1931年(昭和6年)12月に刊行された『エホンショウカ ハルノマキ』が初出」とある。国定の唱歌ではなかった。が、いつ頃から歌われたものかよくわからない。戦前からだろうか。
 そういえば、私の子供の時代にすでにこの歌が広まっていたが、別途唱歌の「鯉のぼり」もあった。というか、こっちが国の唱歌なので、いわゆる「こいのぼり」のほうはいわゆる唱歌ではないなとなんとなく思っていたのだった。国定の唱歌のほうはこう。

甍の波と 雲の波
重なる波の 中空を
橘薫る 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり

開ける広き 其の口に
舟をも呑まん 様見えて
ゆたかに振う 尾鰭には
物に動ぜぬ姿あり

百瀬の滝を 登りなば
忽ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子と
空に躍るや 鯉のぼり

 多分、現代の若い人には意味不明な箇所が多いだろうから、いろいろ注釈を付けたくなるが、三番は登竜門の故事に依っている。『後漢書』李膺伝から、登竜門なる門があるような解を見かけるが、本当だろうか。李膺の知己を指すように思えるが。下すと「龍門を登る」である。ここで「龍門」を実体的な門と見るかは僕はわからない。
 故事としては、三秦記「河津、一の名は龍門。水険にして通れず。魚鼈の属、能く上る莫し。江海の大魚、龍門の下に薄り集ふもの数千、上るを得ず。上らば則ち龍と為る」。要は、凡百のなかから秀でるのはわずかということで、日本では武勲から立身出世を願ったものだろう。
 妙にうちんちくめいた話になったどさくさで続けると、こどもの日は、言うまでもなく端午の節句である。端午の節句については、Wikipediaあたりにいろいろ書いてあるかとブラウズするに案の定いろいろ書いてあり、屈原(屈平)の故事も言及があるが、「要出典」がわずらわしい。
 話を端折るが、中華圏では旧暦の端午の節句では屈原の故事から、ドラゴンボートレースをする。真偽不明のトリビアだが、ドラゴンボートレースというのは世界で二番目に普及しているスポーツらしい。
 私は沖縄暮らしが長い。中華圏の文化である沖縄では、端午の節句にドラゴンボートレースである「ハーリー(爬竜)」をする。正確には、ユッカヌヒー(4日)ではあるが。那覇ハーリーは新暦でする。厳密には、これらの行事は本土復帰の影響とも言えるかもしれない。
 沖縄の子供たちにとって、こどもの日は、ハーリーの思い出と重なるものかよくわからないが、復帰前世代の人々は楽しげにハーリーの思い出を語るので、聞いてみると、ハーリーには屋台が出るらしい。その屋台が子供ながらに楽しかったというのだ。屋台の文化がハーリーと結びついているのは、戦後の沖縄だけであろうか。内地の夏祭のような感覚であろうか。

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2019.05.04

紅茶についての些細な話

 私は紅茶好きなのでこのブログにも紅茶の話はなんどか書いているが、紅茶の話とかそれほど詳しいわけではない。が、先日、ちょっと人に紅茶の話をしたおり、結果としてうんちくのような長い話になってしまった。で、こういうのブログにちょっとまとめておいてもいいのかもしれないと思った。とはいえ、思いつくまま。

紅茶をいれるゴールデンルールに疑問
 紅茶の話でよくゴールデンルールというのが出て来る。これはけっこう疑わしい話だなと思っていた。どのあたりが疑わしいかというと、ジャンピングというあたりである。ジャンピングというのは、ゴールデンルールに従って紅茶をいれると、ティーポットの中で茶葉が対流のように上下運動するというのだ。これがあたかもジャンプのようにも見える。これによって、茶葉の一片一片にお湯が混ざり、おいしい紅茶になるという。ガッテンでもやっていた。
 この話がなぜ疑わしいかというと、ダストとか細かく砕いた葉でないとそもそもティーポットのなかで対流しない。で、ダスト(dust)というのは、埃(ほこり)という意味があるように、細かい粉のようになっている。これは紅茶の葉としてはもっとも安価なもので、そもそもそれほどおいしい紅茶にならない。
 ダストのいれかたがゴールデンルールのわけないでしょ、と思っていた。
 ただ、逆にいえば、ダストのようなティーの入れ方としては、ジャンピングはありかもしれない。

ゴールデンルールは意外に凡庸
 この機会にゴールデンルールを調べなおしてみると、意外に凡庸だった。紅茶協会というサイトを見ると、①汲みたての水を使いましょう、②鉄分の含まれたポットは避けましょう、③内側は白が好ましい、というだけだった。普通に考えて、③は味や香りには関係ない。
 実際のところ、紅茶を入れるゴールデンルールというのは、凡庸なものというか、うんちく的ではなくなっていたようだ。ええと、補足だけど、水は軟水がいい。ブリタで濾したのがいいと思う。ペットボトルの水は酸素が抜けているから避けたほうがいい。ティーコージーは必須かな。

紅茶はリーフティーが高級、でも…
 正確には、リーフティーが高級とも言えない。リーフティーというのは、リーフ(leaf)というように葉のこと。葉の形が残っているのがよい。概ね、小さい葉だけど葉一枚が全部入っているのがいい。で、リーフの状態で等級がある。
 リーフティーではないのはなにかというと、調べなおすと意外に定義的にはよくわからない。ダストはリーフティーではないと思うが、CTCがリーフティーではないという人もいる。CTCは、Crush Tear Curlということで、潰してちぎってまるめた紅茶。仁丹みたいに(といって仁丹が通じないよね)ころころと小さく丸まっている。およそ高級茶ではないともいえるが、ミルクティーにはこれのほうが向いている。日本ではチャイと呼ばれることが多いいわゆるスパイスティーにも、CTCが向いている。というわけで、ミルクティならリーフティーよりCTCのほうが、おいしいと思う人が多いのでは。

リーフティーの種類まず、FOPかBOP
 基本は、OP。O:Orange、P:Pekoe。オレンジ・ペコー。奇妙な名前なんであちこちに説明があるからググって調べるといいと思う。ここでは話が長くなるので割愛。
 で、これにBかFを付けて大別する。いわゆるリーフティーはF:Flowery、砕いたのはB:Broken。FOPがいわゆる高級紅茶。でもBOPでも十分においしいし、実際のところ日本人が飲んでいるのは、ダストかBOP。セイロン茶やアッサム茶はBOPが主流と言っていいだろう。BOPFというのもある。これは、F:Fanningsで、ダストに近い。

高級紅茶はFOPより上のグレード
 FOPの頭にT:Tippy、G:GoldenでTGがついて高級紅茶を表す。で、さらにF:Fineが就いて大別される。つまり、TGFOPか、FTGFOPか。
 これは、概ね、紅茶農園ごとの一級か二級だと思っていいだろう。おいしさの規格ではないからだ。
 では、どこで美味しい紅茶を選ぶかというと、農園(または茶園)である。高級紅茶を飲みたいなら、農園の名前を覚えることになる。で、やっかいなのは、キャッスルトンのような有名な農園は安パイだけど面白みがない。定番ということでお高い。なので、新興の農園がどこかな、最近はどこがあたりかなというのが、高級紅茶の楽しみになる。このあたりから高級紅茶の楽しみが始まると思う。農園、有機、ロットの差、中国茶種などの差。

三大紅茶
 三大紅茶と言われている紅茶がある。ダージリン(インド)、ウバ(スリランカ)、 キーマン(中国)。さて、これが三大紅茶なのかという疑問は野暮なんだが、この分類ごとにいろいろ等級が分かれている。どれも、いわゆる高級品を買うと、それなりに紅茶の特徴が際立つ。ただ、この分類は雑過ぎる。しいていうと、キーマンについては、茶葉が小さくてきらきらした感じのほうがいい。
 紅茶の大別としては、これにアッサムを加えて、四大としてもいいかも。

ダージリン
 ダージリンとセイロンティーはかなり味と香りが違う。個人的には、紅茶ってダージリンでしょと思うが、そこは人の好み。ただ、高級紅茶といえば、概ねダージリンと言ってよいのではないか。
 ダージリン紅茶は収穫季節で、大きく三つに分かれる。ファーストフラッシュ、セカンドフラッシュ、オータムナル。日本人がダージリンと思っているのは、セカンドフラッシュ。しかもマスカテル(マスカット香あるいはムスク香?)がいいと思われているようだ。これがまたくせもので、実はなんだかよくわからない。とりあえずというなら、マーガレットホープのマスカテルがいいだろう。
 ただ、そうしたいわゆるダージリンが飲みたいなら、TGBOPのセカンドフラッシュがいいと思う。このレベルだと農園はあまり気にしなくていい。言い忘れたが、BOPにもTGが付く。
 私もそうだが、高級紅茶としてはファーストフラッシュに中心が移っていると思う。このファーストフラッシュの傾向に似たのが、ウーロンというので、ウーロン茶の技法を取り入れたダージリンで花の香水ような香りが出る。ただ、これも好みによる。ファーストフラッシュもダージリンウーロンも茶葉がいろいろ特徴がある。

セイロンティー
 ウバやヌワラエリヤが有名。最近では、MOSのルフナも有名。概ね、産地の緯度で異なると言っていいかと思う。ウバなどに特別的なのもあるが高級品もダージリンに比べると安価。日本人が通常、紅茶として思っているのは、キャンディだろう。
 セイロン紅茶好きはいろいろ意見があると思うが、僕はあまり関心ないんで、よくわからない。個人的には、ヌワラエリヤが好き。

その他
 インドではニルギリが有名だが特徴はよくわからない。農園で差がある。他に、シッキムやネパールもダージリンに似た紅茶を作っている。個人的には、シッキム紅茶が好き。
 あと、紅茶好きなら、というので3点。
 トルコ紅茶がおいしい。ブランド差はよくわからない。渋みはないものが多い。ヌワラエリヤに近い気がする。
 ロシアンキャラバン。正山小種(ラプサンスーチョン)をやわらげた感じ。煙臭いがたまに飲みたくなる。
 東方美人。台湾の紅茶。もしかすると、世界で一番美味しい紅茶はこれかもしれない。銀針といって白い茶葉が混じっているのが概ね高級品。
 アールグレイはいろいろある。私はアールグレイが嫌いで飲まなかかったのだが、数年前から飲むようになった。アールグレイけっこう高級紅茶化しているなあと思う。ハーブや花やスパイスやカカオチップをブレンドしたり、茶葉のブレンドを工夫したりなど。ある意味、一番現代的な紅茶がこうしたアールグレイかもしれない。

 読書ネタとしては、『お茶の世界史』が面白い。新装されたが中身は古いのがちょっと残念。

 

 

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2019.05.03

憲法9条というナショナリズム

 憲法記念日についてはほとんど関心がなく、NHK7時のニュースで野党が9条を守ることで結束しようといった話を聞いて、そういえば今日は憲法記念日だったと思い出した。
 憲法記念日とは何かということを若い人は意外と知らないかもしれない。この祝日は、1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念し、1948年(昭和23年)に施行された祝日法で制定されたものである。憲法自体の公布は施行の前年1946年(昭和21年)11月3日である。つまり、こっちは文化の日になっている。
 施行日の年代を見るとわかるが、憲法の施行日は、日本が1951年(昭和26年)9月8日のサンフランシスコ条約締結で「まがりなりにも」諸外国と平和条約を結び国家承認を得て、1952年(昭和27年)4月28日の発効で主権を回復し独立した以前のこと。つまり、日本に主権のない時代に成立した憲法である。実際ところ、この時点の憲法は憲法の体をなしていない。占領統治を行ったGHQがこの憲法外部の最高権力をもっていて、憲法に規定されない法を出している。とはいえ、占領政府も恣意的に行うわけにもいかない。いちおう日本の敗戦を方向づけたポツダム宣言に基づいたとされる。通称ポツダム政令と呼んでいるがこれがもとで自衛隊の前身である警察予備隊ができた。日本国憲法と自衛隊は起源的な齟齬がある。そもそも憲法が施行された占領下では、主権を支えるはずの国防は国連軍に委託されており、サンフランシスコ条約でもそこは事実上の問題となったため、同日に日米安保条約で補った。つまり、日米安保条約があるために9条と自衛隊の矛盾は放置されたのである。これが現在も続けている。
 さすがに、国家が非憲法的に構成されているのはまずい、というか、そもそも憲法というのは「構成」ということなので、国内法的な建前は存在する。この最たる滑稽な問題は日本国憲法が大日本帝国憲法に依拠しているというネタで、これはネットなど調べれば、長年住んでコンマリを待つ家のゴミのように出て来るだろう。割愛。で、ポツダム政令のほうだが、これが政令と呼ばれるようになったのは憲法施行後。
 わかるのは、ポツダム政令は当初、大日本帝国憲法に依拠していたことである。占領軍であるGHQは大日本帝国憲法に形式上依拠していた。つまり、天皇の権威である勅令がポツダム政令の起源にあることにある。具体的には、当初はポツダム緊急勅令として、大日本帝国憲法第8条第1項「法律に代わる勅令」に基づいている。昭和20年(1945年)9月20日に公布・即日施行された。法理論構成上は、日本国憲法制定で消えたことになったし、そもそ占領の便宜のものなので物価統制令などは意味がなくなった。とはいえ、自衛隊のように憲法と整合がつかないものも残った。
 年代を見てもわかるように、日本に主権のない時代に国民とは無縁にできた日本国憲法である。主権がなければ外交権もない。そもそも日本国は国連の前身である連合国の敵国に規定されることもあって、1945年10月24日に発効した国際連合憲章が批准できない。が、この国連憲章で事実上戦争というもの自体が違法化された。
 意外と国連憲章の前文を読んだことがない人がいるんじゃないか。こんな感じだ。

われら連合国の人民は、 われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、 これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。

 何かにそっくりでしょう。言うまでもなく、日本国憲法の前文がこれのサブセットであることがわかる。
 日本には憲法ができたころ主権がなく、国連憲章が批准できなかった。だから、日本国憲法にこうした内容を書き込む必要があった。憲法9条もそれの名残り。
 よく日本国憲法9条は国際的に素晴らしいという人がいて、言論の自由だから何を言ってもいいが、他の国連加盟国は国連憲章を外交面で実際上憲法の上位に置いているので、国内法として憲法で武力行使否定の文言を再規定する必要がない。
 つまり、主権を回復し、国連憲章を批准した現在の日本国なら、9条そのものが不要である。前文も大きく書き換えても問題がない。
 ところが、歴史の変化というか国連の歴史で変化は起きる。日本を含め、平和主義として国連憲章に依拠したのだが、当の国連が現在は平和維持活動での武力行使を是認しているし、事実上加盟国の支援を前提としている。当然、日本国政府は国連体制のもとにありそれに応えなくてはならない。ということで、日本国政府はいろいろ対応しているが、これに反発もある。9条の精神に反しているということだ。具体的には、まさに具体的な外交上の問題なので、具体的に解決できるいわば政治技術的な問題だが、現下の日本では「9条の精神に反している」という枠組みに転換される。
 では、この「精神」の起源はなにかというと、2017年にBBCが「第二次大戦における役割への”罰”として平和憲法が起草され、主権回復後も日本が軍を持つ事を禁じた」と解説しているが、概ねそうした国際的な了解があった。
 これを冷戦時の日本は防衛費負担軽減の口実として使っていたのだが、その後もいわば罰を受けるという精神は維持された。心理的な機構としては、罰を受け続けることで日本が現在は正義であることを認めてほしい、だから罰を受け続ける、といった一種のマゾヒズム、フロイトのいう道徳的マゾヒズムだろう。また、他面においては、そのマゾヒズム的正義が主張できるのは日本だけだという一種の倒錯的なナショナリズムなのだろう。こう言うとちょっと極端なようだが、「唯一の被爆国として」のような心理ともつながっている。
 現在の日本は国連体制に組み入れられた普通の国である。モブ国と言っていい。ああ、日本って長い年月かけてモブの国になれたんだな、と思えば、こうしたナショナリズムも緩和されていくのではないか。
 そう言えば、天皇の退位や女帝についても、モブ国日本としては、同じくモブ国のスペインなどが参考になるかなと、この間、つらつらとスペイン憲法と退位・女子継承などを見ていた。が、スペインの場合、王家はハプスブルク家になるが、日本は天皇家。そのあたり、日本は全然違うといったナショナリズムの感覚が日本国の一部にはあるんじゃないかと思った。

 

 

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2019.05.02

レンタルなんもしない人としての天皇

 先日、と言っていつだっただろうか、平成31年4月26日放送NHK『ドキュメント72時間』だったな、録画で数日後見たのだが、その番組で「密着!“レンタル なんもしない人”」というテーマを扱っていた。私は、その「レンタル なんもしない人」についてまったく知らなかったのだが、半径5m以内に聞いてみたらけっこう知られているのでいつもながら世間のことの疎さを思った。話を知るに興味深いものだった。私のように世事に疎い人向けに簡単に説明すると、二、三時間レンタルできる人であるが、なにも依頼できない。レンタルしてもなんもしない。ただ、いるだけ。という人である。
 たぶん、これだけでは、まったく知らない人はわからないのではないかと思う。私もわからなかったからだ。補足すると、このレンタルサービスなんだけど、掃除をしてくれたり料理をしてくれたりとかの依頼はなんもできない。労働やシャドー・ワークに当たることはなんもしない。また、ゆえに、労働の対価はとらない。呼び出した交通費はいただく。一緒に食事をすることはあるが、食費は呼び出した人が払う。
 もう一つ補足。サービスなんだが、サービスとは言えない。というのは、「レンタルなんもしない人」は、そのサービスで任意の人が来るわけではない。人も選べない。来るのは「レンタルなんもしない人」さんという、ある1人の男性である。30代半ば。風体はいかにもモブ。しかし、爽やかなモブだ。実際に映像で見た印象では、女性に好かれるタイプではないかと思う。その意味で、『リラックマとかおるさん』の宅配のハヤテ君を連想するし、事実上レンタル彼氏的な意味合いがありそうだ。ただ、そう、彼氏ではない。
 おそらく、そのあたりに、レンタルなんもしない人のある特徴が浮かび上がる。特定の個人だが、人のある欲望が映し出す像である。それは恋人や配偶者のようにただ寄り添っているけど、性的な関係性がない。そのことのある安心感だ。私たちは他者と生きるときエロスの交換をしているが、その濃い交換がしいる祝祭の空間はそれのない日常の空間を必要とする。
 つまり、論理飛躍のようにレンタルなんもしない人を定義するなら、それは非祝祭空間としての私たちが普通に必要とする親密性であり、レンタルなんもしない人が必要とされるのは、そうした日常性が現在、静かに壊れているからだろう。
 さて、ずいぶんと前のめりに書いてしまったが、そののりで続けると、そうしたレンタルなんもしない人というのは、天皇なんだろうと、ふと思った。正確に言えば、平成時代の天皇である。人々、日本国民が、非祝祭的な日常を取り戻すことが難しいという困難な祝祭性のなかで、ただ寄り添う人として、平成時代の天皇は現れた。彼は(実際にはご夫妻は)、来てほしいなというある状況でレンタルされ、そして労働的な意味ではなんもしない。寄り添っているだけだった。そしてそのことを日本人が欲するとき、「天皇」はそこにレンタルできるという精神性のようなものを明仁陛下は達成した。
 大げさな話のようだが、私は若い頃、森有正という思想家に傾倒したのだが、彼の哲学の根幹は「体験と経験の差」ということで成り立っている。そして、それは同時に「経験としての名辞」という概念に呼応する。まあ、簡単にいうと、私たちが他者と交換できる言葉の意味は体験ではなく経験によって成り立っているというものだ。では、そうした意味充足としての経験とはなにかというと、簡単に言えば、人の生涯なのだ。例をあげよう、私たちはソクラテスによって「考える事」という名辞の意味を知る。イエス・キリストによって「愛」という名辞の意味を知る。いや、ちょっと待て、それは変だ。ソクラテスもイエス・キリストも関係ないぞという人がいるだろう。それはそうなのだが、彼らがなんであるかを受け入れていくなかで、名辞の経験が深まるとは言えるだろう。つまり、こうした名辞は辞書的に定義されるのではなく、直感的に開示される意味の原形に人がある人の生涯に寄り添う経験の深みのなかでその新しい意味を表していくのである。
 ふー。
 で、つまり、平成時代の天皇は、レンタルなんもしない人として、国民に寄り添うという確信という意味で、天皇という名辞の意味を深化させたのだ。
 そしてそうした天皇の希求は、欧米や前近代の物語で現れる「王」という意味合いを変えてしまった。彼らは、その御心に問うなら、社会を超えた力によって恩恵をもたらす存在だからだ。しかし、平成時代を通して、天皇はそうした「王」の意味を変え、新しく天皇という名辞の意味を創作し深めた。
 それは、そのままレンタルなんもしない人につながっている。そしてレンタルなんもしない人は、私たちの非祝祭的な日常における連帯の像を表している。それはリラックマでもいいし、ひざ、時々、頭のうえにいる同居人でもいい。
 こうも言える。私たち日本人は、平成の時代を通して、レンタルなんもしない人やひざ、時々、頭のうえにいる同居人を強く切望するようになった。私たちは、そうした非祝祭の日常を求めるようになった。なぜだろうか。現実の世界は嫌になるほど退屈な非祝祭の空間であるかに見える。すべてはぬるく、適当に平穏で、幸せで……と口についてみて、それが微妙な虚しさを持っている。ここに、レンタルなんもしない人はいない、ひざ、時々、頭のうえにいる同居人もいない。天皇もいない……そう思ってみて、ふとばっくりと深淵が開くような不愉快でまだら模様のような祝祭に私たちは覆われる。
 ふと私はここであることを思う。この邪気を発している者が仮にもし、いるなら、誰であろうか。レンタルなんもしない人、ひざ、時々、頭のうえにいる同居人、天皇……そうした人の「真逆な人」。ああ、誰か言うまでもない。ツイッターを覗いてごらん、知識人まで彼への呪いをつぶやいているのだ。
 さて。
 ブログらしく締めてみたものの、ちょっとテンションが違うな、それにレンタルなんもしないの説明が甘いなと思うので、そう思った人は、「レンタルなんもしない人は本当に何もしないの?何かさせようと試みた。」というネットの記事がお勧め。普通にこの人に思うことをうまく答えていた。あと、「同居人はひざ 時々 頭のうえ」は漫画。前期のアニメにもあった。お勧めしておく。

 

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2019.05.01

令和、最初の朝

 今日から、令和の時代が始まる。テレビをつけてみると、昨晩の零時のような馬鹿騒ぎの空気は収まっていた。テレビの音量を下げて、ぼんやりしていると、ニュースに昨日の明仁陛下の映像が映ったのに目がとまり、アナウンサーが「上皇」と呼んでいたのに、ふっと、「ああ、上皇なんて言葉を歴史以外で聞くことがあるんだ」と少し驚いた。
 それから各党党首のお言葉が流れていたが、みな祝辞を延べていた。天皇制を嫌う政党もあるはずだが、そうした思いを素直に表現することはない。この、言わば敬意を強いられる感じこそが、天皇制というものの精神的な強制力なんだろうなと、これもぼんやりと思った。
 窓の外を見る。今日は昼から雨になるというのだが妙に明るく、初夏の新緑がまぶしい。いい朝だと思った。ああ、自分は生きていたとそして思った。自著のほうには書いたが私は難病を抱えていてたまに発作があり、その渦中には、あーこれで死ぬかもと思う。先日もあって、僕は平成を超えて生きることはできないかもなと思った。で、令和、最初の朝である。ああ、生きていたと思えた。こういうとき、私は神に感謝する。そして、そうだな、こうした国家の鎮魂を祈られていた明仁陛下に感謝するかというと、微妙に感謝の念はあるのだった。
 そしてこの朝を生きられない人を思った。あの人もこの人もこの朝を見ることができなかった。漫画家水木しげるの逸話だと聞いたが直接私が聞いたわけではないので、真偽が怪しいが、こんな話だ。水木は戦地を訪れ、「戦友たちは、うまいものも食えずに若くして死んでいった。その戦地に立って、自分はこうして生きていると思うと、愉快になるんですよ。生きとるんですよ」と。戦地でも現地人と仲良く過ごしていた水木らしい感覚だろうとも思う。
 朝の光景を目にして、死者を思う。その上で「愉快」とまで私は思わないが、奇妙に、ああ生きていると思い、生きられなかった人を思う。
 先日亡くなった漫画原作者小池一夫や漫談家ケーシー高峰のことも思った。80歳を超えていたので天寿に近い。が、彼らはこの日近くまで生きても、まさにこの令和の朝を見ることはなかった。それも人の運命というものでもあるだろうし、なにも改元を生き延びることに、さほど意味があるわけでもない。
 評論家江藤淳のことも思い出す。平成11年、66歳で自殺した。彼は、たしか、昭和時代の思想家吉本隆明との対談で、昭和天皇にたいして「あの人が死ぬ前には死ねない」という情感を述べていた。吉本からの切り出しだっただろうか。そうした天皇への情感は、さすがに平成はなくなった。
 そして井上嘉浩を思った。オウム真理教の幹部で昨年7月に処刑された。48歳だった。私は日本も近代国家として死刑が抑制されていくだろうし、改元の慶事のなかで死刑廃止の機運が高まればよいと思っていた。が、そうもいかなかった。彼らの死刑は、明仁上皇の退位の意思が示された前なので、あからさまに平成のうちに始末してしまえということでもないが、それでも平成の最悪ともいえる凶悪事件はこれで祓われたのだろうかと思い、「祓う」という自分の意識に鈍い痛みのような感覚を覚える。
 私は何を思っているのだろう。「祓う」というのは、死と汚れと再生と天皇の文脈にある。これが宗教的な意識というものだ。そんなものを私は抱えている。抱えたまま、私はこれから、この令和という時代を生きていくのだろうか。それでも、とにかく生きていられたらそれは、愉快だと言うべきだろう。国家の宗教性というのには触れたくはないものだという思いも抱えつつ。

 

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