トロッコ問題の大喜利化と倫理のAI化と大喜利的提案
衆知というものも痴呆症の傾向があるのか、毎年ということでもないが、一定の周期で、トロッコ問題が大喜利化する。これはどういうことなんだろうかと考え、その先にけっこう悲観的な未来を思い描き、うっくつした心理の解消に大喜利みたいなことを私も考えてみた。
まず、トロッコ問題とはという話を簡単に説明しておくと、これは、思考実験の一つである。思考実験というのは、現実には存在しないが、仮に存在するとしたらどうか考える、というものだ。そして、その大喜利化の基本原則は、思考実験をしない、あるいは、思考実験をくさして笑いを誘うということだ。
トロッコ問題の基本形はこうだ。暴走するトロッコの軌道上に5人の作業員がいて、そのまま放っておけば5人はトロッコに轢き殺される。が、あなたはその軌道上の分岐器を操作できる。そしてトロッコを他の軌道に切り替えられる。が、そちらの軌道上には、もう1人の作業員がいて、切り替えるとこの作業員を殺すことになる。どうしたらいいか?
大喜利にするまでもなく、おそらく普通の日本人的な考えでは、分岐器の操作をしたくない、ということだろう。そんな責任を持たなければ、5人が死のうが自然災害と同じようなものだ、と。
言う前もなく、これは大喜利なんで、この問題のポイントからずれている。トロッコ問題の要点は、「1人を殺せば、多数が救われるとき、その1人を殺してよいか?」という問題である。
この簡素な提言が、「日本人」という歴史経験の共有者にある嫌悪を投げかけるのは、米国の原爆肯定化の議論がこれをなぞっているからだ。いわく、太平洋戦争で米国兵士の犠牲を減らすためには、さらにいえば、日本でも戦闘による日本人の被害者を減らすには、戦争を早期に終わらせるために、原爆で一定数の人々を殺すことが正当化される、というものだ。
この問題もすぐに大喜利を誘うが、ごく単純な点の批判が可能だ。原爆は非戦闘員の大量虐殺を招くわけで、実際、第二次世界大戦後の世界では、原爆(及び水爆)は、非倫理的な兵器であるとして、規制が方向付けられた。地雷の禁止などもこの方向で禁止された。が、核兵器については、戦術的な意味合いもあり禁止が難しい。
ここでいくつかわかることがある。その一つは、トロッコ問題に対する大喜利も思考実験としてみるなら、それが意味することは、私たちは、他者の生死に関わる倫理的な責任を回避したい存在なのだということだ。ごく簡単にいえば、私たちは、倫理的なヘタレであることが自然状態だと言える。
この倫理的なヘタレが何に帰結するかというと、倫理的な責任者に倫理を委ねることだ。この丸投げ先は、すでに現実的になっているが、2つある。①大統領(国民未来の最終的な決定者)、②AIである。
オバマ米国大統領は、この丸投げを多く受けた。ドローン兵器による殺傷の最終的な認可である。ドローン兵器の操作者は、最終的に人を殺傷する権限を持たない。なので、手続き上は大統領の認可を得る。
すると問題は、殺傷認可の手続きの問題となり、トロッコ問題が現れる。が、すでにこの問題は、殺傷認可手続きの正当化になる。
すでに予想されるように、その殺傷の正当化の手順はしだいに形式化される。ある一定の条件下なら殺傷してよいという判断がほぼ自動的に導かれるようになる。つまり、AI化できる。司法・裁判そのものがAI化できるという大風呂敷にもできるが、そこはここでは控えよう。
こうして見ると、現在問われている「 完全自律型のAI兵器」は、原理的にはすでに出現していることがわかるだろう。
そしてこれは、 完全自律型のAI兵器だけではなく、自動運転車にも当てはまることは理解できるだろう。しかも、自動運転車は、トロッコ問題を考えるまでもなく、瞬時に、1人を殺すだろう。
さて、大喜利化を否定するような記事を書きながら、実際には大喜利化に近いようなオチを私は提示しようと思う。
それは、未来において自動運転車に乗る人はトロッコ問題的状況になるとき、自殺が誘導されるよう契約に署名しておくことだ。あるいは、その署名をカードにして持ち歩き、それなくしてもは自動運転車に乗れないとする。
トロッコ問題的な大喜利化で例えるなら、デブなあなたなら、暴走するトロッコの前に立って轢かれることで、5人も1人も救えるのである。
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