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2019.04.30

平成最後の日

 平成最後の日である。この日にまったく思い入れがないわけではないが、強い思い入れがあるというものでもない。というか、そういう思いというか感情が浮かんでこない。理由ははっきりしている。この日がとても人為的な日であるからだ。私たち日本人は、この日をある運命として受け入れたのではなく、予定を遂行しただけだからだ。そのことを改めて考えれば、それなりに大変なことだなとは思わないでもない。
 昭和から平成への変化までには、数年にわたり、昭和天皇の死としてXデーが常に意識されてきた。最終的なXデーは、結果からすると多分に人為的な面も感じられるが、基本的には、ある種の運命でもあった。天皇の死というものを、運命として日本国民が受け入れ、新しい天皇をたてるという営みであり、そこでは追悼と企図が同時に起きた。
 今回は違った。天皇の死と新天皇の即位とさらにその元号の制定の3つは、ばらばらに切り離された。切り離すことで、すべてが好ましく展開したかのようだが、つまり、私たち日本人は、「王の死が運命である」ということに向き合うことを避けるようになったのである。
 しかも、この3つの分離は、事実上、天皇である明仁陛下お一人の創案であったと言ってもよいくらいだった。天皇は象徴なのだから、そうした大きな決断に介在すべきではないはずだ。が、さらに彼の配慮であたかも彼の創案であることは曖昧に覆われ、それなりに法的な裏付けもできるようになった。万事がうまく進んだ。
 別の言い方をすれば、この3つの切り離しを国民、あるいはその代表であり国権の最高機関である国会が創案することはできなかった。比喩的にではあるが、私たち日本人は、2.26事件そして終戦についで、また御聖断を仰いだわけである。
 いずれにせよ、これで日本は変わった。次の改元まで私は生きていないのだろうが、新天皇も80歳か85歳になれば、引退して上皇になるのであろう。次の元号は概ね、計画的にと言っていいと思うが、25年後にやってくるのだ。
 さて、今日という日、私はテレビをほんど見なかった。いつも見ないのだから変わりないとも言えるが、テレビ番組のほうはいつもの日のそれではない。だから私は意図的に、こんな番組は見たくもないと思ったのだった。もちろん、拒否しているわけではない。NHK7時のニュースで見れば十分だろう。で、そのニュースを見た。十分にうんざりする内容だった。重要なのは、総理大臣の言葉と退位される天皇の言葉だ。実際に確認したが、とりわけ気になる内容はなかった。短く簡素で特に問題もなくということだった。
 それで、天皇退位については終わり。
 と、そのままNHK7時のニュースのあとに、NHKスペシャル『日本人と天皇』というのをやっていた。ダラっと見た。これが意外に面白かった。
 内容は2つに分かれる。前半の大嘗祭についてと後半の皇位継承問題である。水と油とまでは違わないが、かなり異なった話題がくっついたという点では奇妙な番組ではあった。個人的には、皇位継承問題はさほど関心がなかった。三笠宮のお考えはすでに知っていた。この部分だけ、簡素に言うと、そもそもGHQは天皇制が自然消滅するように宮家をなくしたのだから、こういう展開になるのはわかりきったことである。また、側室制がなくなれば、天皇家が続く保証などもない。天皇というのは象徴なのだから、象徴以上の意味合い(血統とか)をもたせようという考えがどうかしている。
 番組で興味深かったのは、前半である。まず大嘗祭の再現映像だった。これは楽しい。この部分だけをきっちり二時間番組ぐらいに拡張してもいいと思う。私はこの儀式に折口信夫や吉野裕子の著作などから関心をもっていた。それと、即位灌頂の話が面白かった。天皇家について日本の伝統が重要だというなら、なにより、即位灌頂の復活を考えてもいいのではないか。
 即位灌頂というのは、仏教の密教による帝位の儀式である。いちおう秘儀とされているのだが、そのあたりが番組で紹介されていた。まさに神仏習合であり、こういうのがまさに日本の伝統なのである。
 それにしても、再現風に大嘗祭や即位灌頂というものを見直すと、これこそが宗教の儀式そのものだと思わずにはいられない。天皇家のご当主というのは、こういう儀式を真面目に執り行わければならないものだ。
 では、その儀式のなかで、執り行う天皇ご自身がその儀礼の神なりの存在を信じているのかというと、まあ、信じもせずに行うわけにもいかないかなあ、というあたりで、久しぶりに、日本という国家の根幹に宗教があるのだ、というのを改めて感じた。

 

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