[書評] 少女たちの明治維新: ふたつの文化を生きた30年(ジャニス・P・イシムラ)
私は五千円札が好きだ。一万円持つなら、五千円札2枚がいい。樋口一葉が好きなのである。彼女が紙幣のデザインになっていることに、喜びというのか誇りというのか、これがあるうちは今の日本も悪いもんじゃないなと思う。そして今日、新札のデザインが発表された。今度は津田梅子の五千円札だ。いい。嬉しいような感じがする。まあ、なにも五千円札のポジションがいいというわけでもないが。他二人は渋沢栄一と北里柴三郎。まあ、それもいい人選じゃないか。
津田梅子について、この機会にもう少しなんか知りたいという人がいたら、『少女たちの明治維新: ふたつの文化を生きた30年』をお勧めしたい。というか、普通におもしろい本だ。
明治4年、岩倉使節団の一行として近代日本の女性のモデルとなるように米国に送られた三人の少女の生涯の物語である。米国に渡る年齢は、11歳の山川捨松、10歳の永井繁子、6歳の津田梅子である。小説ではないが、小説のようにおもしろい。そのままアニメの原作にしてもいいし、大河ドラマにしてもいいだろう。
そのおもしろさの一端には、人間とは何なのだろうという普遍的な問いかけも含まれる。前近代の日本に生まれた少女たちは、米国社会で教育を受けることで、内面は米国人となっていく。著者はこう言う。
これは、ひとつの社会に生まれて、自分たちのあずかり知らない力によってすべてが異質な別の社会に送り出され、成長した三人の少女の物語である。子供が皆そうであるように、少女たちはそこで周囲からさまざまなことを吸収した。それぞれが生粋の侍の娘だったが、養育環境により、少女たちの中でふたつの要素が入り混じった。そして十年後、母国を離れて暮らすうちに異邦人に成長した娘たちが帰国した。
若い人間のもつ驚異の可能性の物語でもあるし、現実の日本社会と理念的な日本社会の相剋をもつ現代日本人の原型、特に現代日本人女性の原型の物語としても捉えることができるだろう。
また、「侍の娘」とは何かという、モラルの問いかけもあるかもしれない。本書のオリジナルタイトルは『Daughters of the Samurai: A Journey from East to West and Back』である。すぐに分かるように、これは、『Daughter of the Samurai』のオマージュである。訳本はちくま文庫から『武士の娘』として出ている名著である。なお、『少女たちの明治維新』という書名では別の子供向けの啓蒙書があるので間違わないように。
岩倉使節団で送られた少女は、5人いた。年長から2人脱落する。そして、捨松と繁子の2人は、梅子と4、5歳の年差があり、人格形成での日本文化の影響が異なることになる。もちろん、彼女たちの固有の個性の差もあるのかもしれない。捨松と繁子は後年、日本社会に組み込まれていくかにも見える。が、梅子は日本社会に対峙した。
その差異は、言語のあり方にも関連する。捨松は英語の能力を維持したが、夫の大山巌との夫婦生活で欧風の家庭文化で保護された形になった。繁子のほうは、程度の問題でもあるが英語の思考を失っていった。二人は年齢が近いことから、米国でも対話しつつ育ち、日本語が維持されていた。他方、梅子はたった1人、英語のなかで自我を確立したことから、帰国時には、日本語がほとんど話せないまでの状態になっていた。
こうした3人の物語ではあるが、その活躍からも捨松と梅子の2人に焦点が当てられていく。捨松は美しく知的な女性であった。が、その絢爛さと対処的な悲劇性の叙述も興味深い。著者はこうつぶくやく。
今日、日本の小学生は、社会回の授業で「津田梅子」について学ぶ。だが、捨松と繁についてはほとんど知られていない。
梅子の帰国後の人生には、2人と異なり、結婚がその選択になかった。明確に独身者として生きる決意があった。そこから後に津田塾大の原型となる私学を生み出すのは、まさに彼女の意志の結果である。渋沢栄一が一橋大学の前進創立に関わったというのとは意味合いがかなり異なる。彼女は国家が求める学校とは異なる学校を明確な意志で創り出そうとしていた。明治33年9月14日にできた梅子の学校は生徒14人。うち3年間学ぶ生徒は10人ほど。教授陣は梅子を含めて3人。学校といっても小さな一室といってもよいものだった。
梅子の意志は日本近代史のなかの奇跡にも思える。1870年代の初め、彼女たちが米国に渡ったころの日本は西洋近代への熱意に溢れていた。天皇家も欧風のいでたちに変えた。ところが10年後、日本には反動の波が襲う。教育勅語はその一環である。これは日本の文化でもなんでもない。近代西欧化に向かう反動分子の活動の成果にすぎない。
本書を読んで学んだことは多い。ここまで私は「梅子」と書いてきたが、米国に渡った少女の名前は「うめ」であった。彼女は後年、父親の戸籍から除籍して単身の戸籍を作った。独身女性が単独の戸籍を作るというのは前例がなく、そのおりに名前を「梅子」とした。先祖との縁を切りたかったわけではないのは、士族の身分の残存も新戸籍に残るようにしたことでわかる。クリスチャンである彼女としては、身分制の郷愁というよりは、武士の娘の内的な自覚に関連していたのだろう。梅子と限らず、捨松も繁子も、侍の娘であったという人格の芯を持ち続けてはいた。
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