杉並区保育士事件と事件の感覚
事件は3月26日の昼過ぎだったようだ。東京都杉並区下井草三のアパート二階の部屋で32歳の保育士が殺害された。犯人はベランダ窓ガラスのロック部分だけ操作できるよう巧妙に穴を開け、ロックを外し侵入した。専用の道具を使ったと考えられる。侵入経路は屋根からであった。と、こうした状況を当初ニュースで聞いたとき、私はその侵入手口の巧妙さからプロ犯罪だろうとまず思った。
が、すぐにそんなはずもないと思い直した。プロなら仕事でやっている。相応の金銭の獲得が予想されないといけないし、殺人は割に合わない。とすれば、痴情による犯罪であり、被害者と面識あるものかもしれないとも連想した。
犯行の様子だけを追うと金銭が狙われたふうはない。被害者はコートを着たまま倒れていて、背中の左側に柄が取れた刃物が刺っていたという。首には圧迫痕があり、激しく抵抗した痕跡もあったという。こうした知識は当時のニュースを振り返って書いているのだが、当初、刃物について、それはどこから来たものか疑問に思っていた。その出所について当時の報道にあっただろうか。いずれにせよ、プロの犯罪ではない。
そしてふと思った。即刻、被害者についてのプライバシー報道はやめろ、と。
だが、私は特にブログにそのことを書くこともしなかった。私はそのころブログを書く気力を失っていた。というか、自分が見た平成時代の本のようなものを書いていてそちらに書く気力が移っていたせいもある。
そして時が流れ、この事件のニュースも途絶えた。そして、私はかすかだが、どうにも居心地が悪い。その居心地の悪さは、ブロガーとしての居心地の悪さもある。というか、このある微妙な居心地の悪さのようなものを表明するために、ブログを書いてきたのではないか。それが私というブロガーではなかったのか。それが無意識に積み重なってくる。やはり、少し書こう。
容疑者はほどなく浮かび上がった。被害者の同僚、松岡佑輔、31歳。職場から彼の様子がおかしいと通報があったとのことだが、おそらく捜査段階で職場への連絡があり、その雰囲気のなかで「おかしい」とされたのだろう。容疑者は事件現場の血痕のDNAが一致した。首に争ったであろう傷もあった。そうした心証からは彼が犯人だろうとは思ったが、その先に別の違和感が現れた。
容疑者は、悪ぶれたふうもなく報道陣に顔を晒し、「私は刺していません」と言っているとのことだ。身が潔白なら当然だろうし、殺意はなかったのかもしれない。そこに違和感はさしてない。違和感の根は、その顔と名前だった。何かがおかしい。
何がおかしいのか自問した。まず、その顔が、犯人だろうとなんとなく思っていた顔ではなかった。なんかこう世間を恨んでいるような鬱屈としたオーラのようなものを期待していた自分がいた。これは自分に潜むなんかの差別意識だろうか。あるいは犯罪を憎むがゆえに悪もそれ相応の相貌であってほしかったか。それが差別意識ってやつだな。
名前のほうの違和感は単純だった。松岡洋右に似ているからだ。そして、ふとしたいたずら気分で、「佑輔」という名前でネットを画像検索してみると、即座にいかにも「佑輔」という感じの30代前半の男性の写真が並んだ。そして、この事件の容疑者の顔をそこに加えても違和感がないだろうと思えた。
「祐輔」って30年前、昭和の終わり頃の流行り名だっただろうか。少しあたってみると、1984年の流行の名前に大輔と祐介があり、祐輔も似たように思えた。どちらかというと、祐輔という名前はそれほど軽薄な名前でもないので、容疑者の家庭環境も悪くはなかったのではないか……と、容疑者への関心がわく。どうせネット民のことだから、ネットから見える部分は根掘り葉掘り調べてあるだろうと覗き込むと、ほぼ情報はない。報道では、彼は神奈川県横須賀市の出身で、地元の高校を卒業後、県内の鶴見大学短期大学部の保育科に進学したとのこと。四年制大学ではなかった。成人後すぐ保育分野での職を求めていたのだろうか。そこからは、ごくふつうの青年が想像される。
容疑者が出てみると、事件は痴情事件のようにも思われるので、容疑者との関係はどうであったかという関心が、自分でも矛盾しているが、抑えがたい。最低限だけの報道をちら見すると、職場でめだった関係はなかったようだ。事件は容疑者の痴情の妄想が膨れたものだろうか。
ここまで書いてみて、当初の違和感のようなものは解消されたかと自問してみる。ノー。
自分がなにかに騙されているような奇妙な感じが残っている。なぜだろうか? 報道された事件の物語と、この事件の本質が異なるからではないか。
この事件の本質は何か?
市民が自宅にくつろいでいても外部から不審者が侵入して殺害されることがあるということだろう。しかも、その侵入はドラマのような手口ではあるが、困難なものではない。そして、そういう犯行を行う者が、犯罪のプロでもない。
普通の人でも怒りにかられて暴力や殺害に及ぶということはあるが、路上や職場といった人が集まる場所であり、無防備でもあるので、防ぎようはない。だが、普通の自宅が強襲された。以前は、そんなことは、その筋のプロではないとできない、とされてきた。それが、この事件で崩れた。
少なからぬ市民はそうした状況のなかで暮らしているが、防御しようもない。であれば、こうした不吉なニュースは痴情のもつれとして忘れるというのも、それはそれで健全な精神なのかもしれない。
私はそう思えないのだが。
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