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2019.04.13

上野千鶴子・東京大学名教授の東大入学式祝辞への違和感

 ネットを漫然と見ていると、上野千鶴子・東京大学名教授の東大入学式祝辞の話題が流れてきた。というか、なにか話題らしいという様子が伺われた。すでに喧々諤々といった雰囲気も感じられた。こういうときは、原文を読んでみるに限る。ということで、該当の祝辞を読んでみた。
 読んでみて思ったことは、論点としては私の関心を引く部分はなかった。ということが、まず最初の違和感だった。なんでこんな話が話題なのか?という違和感である。上野千鶴子さんらが言いそうなことが書いてあっただけに思えた。
 一点、これは違うなということもあった。
 そういうわけで、自分の関心事ではないので、それはそういうものかというふうに過ごしていたのだが、しばらくすると違和感は大きくなっていった。そしてその違和感はネットで共有される視点とも違うように思えたので、ブログのネタに書いてみる。

「これ東大生の印象と違うなあ」ということ

 上野千鶴子さんの祝辞に、東大生への言及があったが、それは自分が見てきた東大生の印象とけっこう違うなと思った。ただ、この点については、最近の若い東大生と直接的な対話はないので、私が時代錯誤になっているんじゃないかとも思う。でもまあ、それはそれとして、この違和感を書いてみる。
 上野さんはこうこう言っていた。

他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。

 私の高校のときの親友というか仲良しグループが私を含めて4人いて、1人は東大に入った。その仲間内では、東大というのはさほど意識されていなかった。学校や模試の成績に差はあるが、対話していて知的な差がないのは当然だったせいもある。いずれにせよ、そのつながりから、東大の話も聞いた。もう40年も昔になる。その後、30年くらい昔になるが、パソコン通信クラブのようなものをアスキーネットのシグオペつながりで年上のかたと立ち上げたとき集まったメンバーが、20人くらいいただろうか。半分とまではいかないが、8人くらい東大生だった。というのをあとから知り、そこから東大の話も聞いた。
 合コンは当時生まれたかくらいのころで、私などはその経験がない。私が見聞きした範囲では、当時、東大生男子がモテるかというと、モテたと思う。特に他大学の女子にである。が、そのことに東大生はあまり関心もってなかった。「東大生だから」というふうに恋愛関係での関心を持たれてもその先、知的な会話が成り立つわけでもないし、それ以外の部分での関心があっても、東大生であることは関係ないようだった。東大生の女子も似たようなものだった。総じて、東大生は「東大生であることの話題」に疲れていて、どうでもいい感じだった。
 そういえば、1人、東大を中退するメンバーがいて(Daturaさんだよ)、「ええ、東大やめちゃうの? もったいないんじゃない、学費安いし」といったら、「別に東大に愛着ないですし、苦労して入ったとかじゃないですし」とか言っていた。
 まあ、私の東大生の印象はそんな感じだが、ああ、東大生ってこういうところが東大生なんだ、と思ったのは、学内の人間関係の話題で盛り上がることだった。でもこれは他の大学でも同じなのかもしれない。私の大学は学生数が少なすぎて、逆に交友とかの話題もあまり広がることがない。

「お前が言うな」反応への違和感

 上野さんのご祝辞についてのネットの話題で、「内容はいいのだが、お前が言うな」という批判のようなものをよく見かけた。今回の祝辞とは別に、彼女の、脱成長路線や自身がお嬢様育ちということへの忌避感のようなものだろう。
 これは今回の上野さんのご祝辞に限らないが、ある特定の要素から「お前が言うな」と否定してかかる人が増えたように思う。いや、昔もそうだっただろうか。
 かく言う私も、「お前がいうな」的な批判はよく受ける。ブログなんかに書くな的な批判も受けるのだが、さて、どうしたものか。
 まあしかし、特定の言説が読まれずに、その言説者に「お前が言うな」という批判は今後も増えていくのだろう。
 とはいえ、今回の上野さんの祝辞については、「お前が言うな」とは思わないが、なんで上野さんなんだろうという違和感はもった。
 ごく単純な話、上野千鶴子さんは、70歳なんで、もうそれまでのキャリアとしての主体は公的な関係では引退したほうがいいだろうと思うからだ。これが、別の私立大学でその創立者家系の学長さんのお婆さんが祝辞を述べるというなら、それはそれで、「ああ、偉い爺さん婆さんがなんか言っているな」というのはあるだろう。が、東大は税で維持されている部分が大きいので、もう少し公的なありかたとして、高齢者にもっと第二の人生を歩む指針があってよかっただろう。
 この点について補足するなら、上野千鶴子さんが入学ご祝辞でなにか語るとしても、そしてそれが東大の名誉教授であるとしても、70歳なんだから、いったんそこから離れ、特定の市民団体の関係者として、大学生全般に言えることを語ればよかった。実際にはご祝辞の大半はそうなんで東大生うんぬんがこじつけとも言えないでもないが、スピーチライターに直してもらえばよかったのではないか。つまり、その言説だけを取り出せば、早稲田大学でも構わないような、そういう祝辞を述べるべきだったとは私は思う。

負い目の倫理への違和感

 上野さんの祝辞が素晴らしいという人が、そのどこを素晴らしと感じているかというと、負い目の倫理のようなものではないかと思えて、そこに私は違和感を感じた。ちょっと引用が長いが、次の部分だ。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

 東大は公費・税金で大きく助成されている大学なので、その公費・税に対する市民社会への倫理のようなものは意識されていいだろうと思う。が、それはそういう負い目のあり方であって、東大に入学できたことの環境へのおかげという不定形な負い目とは異なるものだろう。
 「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます」というのは事実だが、その人たちへの支援は、東大生なら、公費・税への謝意として、そして公を介して行われるべきものだろう。もっと単純なイメージでいうなら、東大生なら公的な関わりによりコミットし、そのことで公平な社会を実現する努力をし、その結果、「報われない」人を支援することもある、といういわば蓋然性に留まるだろう。
 負い目の倫理というのは、公の正義と私的な関係のなかで生じる。当然、それが上野さんのような負い目の倫理となってもよいだろうし、それを公的に述べてもいいだろうが、それを私たち市民はそのままの形で受け取らなくてもよい。私はむしろそのままの形で受け取らないほうがいいと思う。だから、上野さんのご祝辞には違和感を感じる。
 私は、負い目の倫理は、公の公正と自分のあり方の公正性が基準だと思う。衛宮切嗣が言うように、「すべての人を救うことはできず、誰かを救うためには誰かが犠牲になる状況もある」。そこでの倫理の形はアーチャー的絶望に至る。
 私たちの「負い目の倫理」もまた、公正であるべきだろうと私は思う。
 私が私の正義の信念から公へ怒りをもつなら、私はその怒りに、私がベットできるすべてまでで答えられるのであって、オール・インをしてはいけない。そのつけはいずれ他者に回る。
 では人ができることはその人のATフィールドの延長くらいしかないのかといえば、連帯と友愛がそれを超えるだろう。負い目の倫理が個を拡張するのは友愛だろう。
 であるなら、負い目の倫理は公的に語られる限界があり、そこを超えるには、友愛の倫理を先に語るべきなのだろう。
 上野さんのご祝辞でいうなら、東大生に対して、東大とはそうした友愛の倫理が感得できる場なんです、と、負い目の倫理なく語るほうがよかっただろう。

 

 

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