[書評] パスタぎらい(ヤマザキマリ)
食について書かれたエッセイというのは、概ねおもしろいものである。それが本になっているということは、編集者という他者が、これはおもしろいんじゃないかという意識を介していることだ。それなりに見識のある他者の目を介した食の話なら自然に他者の広がりへと共感を産むものだ。そのことは、本書『パスタぎらい』にも当てはまる。食のエッセイとしてとてもおもしろい。だが、この本、なんか、度を越しているぞ。
なんというのだろう、揶揄の含みはないが、イカレている、というのだろうか、昔の言葉でいうなら、ぶっ飛んでいる、のである。読み進めるに、ヤマザキマリという人はこんなにも変な人なんだというのが、ぐいぐい迫ってくる。脳がしびれてくるような感じがする。本書だけにつけられた彼女のイラストの表紙のあるイカレた感じも、じわじわとくる。
カバー絵の女はなんのパスタを食べているのか? ナポリタンである。ヤマザキマリは35年もイタリアに関わって、パスタが嫌いになったと言う。でも、パスタが全部嫌いかというと、そうでもない。ナポリタンは好きだという。ケチャップの、あの。もともと日本食が好きというのもあるが。
いったいどういうことなんだろうか。もちろん、ヤマザキマリという人の魅力でもあるのだろうし、このイカレた魅力は、彼女の、もしかすると代表作となる『プリニウス』にも通じるものだ。プリニウスも、相当に、イカレている。
こうした、なんとも変な人間を見つめていていつも思うのは、こういう人たちは、「他者というもの」の存在感を上手に伝えてくれることだ。私たちの多くは、たいていは心の底で他者に怯えている。自分というものをさらけ出す、というか、さらざんまいするというか、そういう自己開示に怯えている。でも、それをさらっと出す人を見るとき、他者とはなにか、自分とは何かと考えることになる。
おそらく誰でもこういう思いがあるだろう。親友でも恋人でもいい、この人は自分に近い人だという人と一緒に食事をしていると、ふと、その人の食の嗜好が自分と全然違うということに気づいてしまう。あれ、なんでこの人、刺身の醤油皿に一生懸命わさびを溶かしているんだろうか、とか。カレーを食べる前にそんなにも念入りに混ぜ合わせるんだろうとか。『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』的な話でもあるが、その先に、私はこの人と気が合うんだろうか、好きなんだろうか、こんな人とやっていけるんだろうか……おっと、「こんな人?」って思っちゃったよ私、と。
これは、同棲生活や結婚生活でさらに露呈してくる。10年くらい前だったか、ネットで嫁の飯がまずいという話題があった。そんなのどうでもいいじゃないか。嫁さんが作る飯がまずかったら、自分で作ればいいじゃないか、買って食ってもいいじゃないか、と言えそうで、おそらく現在はそう言えて、安定したんだろうが、あの話題で浮かんできたのも、他者というのはなんかおかしいという変な感覚だっただろう。
本書はそれがてんこ盛りである。お前の味覚どうなってるんだというの思いが、マシンガンで全身貫かれるように、来る来る。しかしも、読めばわかるが、実は、ヤマザキマリという人はとんでもない食通である。この人は自身を味覚が鋭くない、雑食だというふうに言っているが、いやいや、相当に美食家だ。これはガチだなと強烈に思ったのは、白子の話だ。私は白子というのが嫌いだが、あるとき偶然、美味しい白子を食べたことがある。これっておいしいものなんじゃないかと思い直すほどだった。が、以降、もっと白子を食べたいとは思わなかった。概ね、まずいし気持ち悪い。
そうなのだ、概ね、まずいしきもち悪いという食べ物が、この世界に、なんとも理解不可能な他者の味覚と一緒に存在論的に存在しているのである。しかも、それらは満ち満ちている。というところで、なんだろう、世界というものの相貌が変わる。博物学の怪しさのように。
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