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2019.04.26

Florence(フローレンス)――ありふれた恋の物語について

 一年くらい前に少し話題だったFlorence(フローレンス)というゲームを、今頃ふとしたきっかけで、やってみた。正確にはゲームというものでもないんだろう。ではなにかというと、若干インタラクティブな絵本といったところか。手書きのきれいなイラストと心地よいBGMが付いている。話は、ありふれた恋の物語である。30分ほどで読み終える。で、私がこの記事で語ろうとしているのは、ありふれた恋の物語についてである。が、まず、そのフローレンスについて。

Florence

 主人公はフローレンスという若い女性である。設定は中華系で25歳、独身。米国の都市に暮らしてて仕事は会計事務のようなことをしている。母親からは中国語で早く結婚しろと電話で問い詰められる日々。そんなある日、インド系のストリート・ミュージシャンの男性に惹かれ、偶然もあって、恋に落ち、同棲を始め、そして、まあ、ネタバレというほどでもないと思うので書くが、同棲はうまくいかず別れる。
 なぜ、恋がうまくいかないか。恋は普通、うまくいかないものだとも思う。この物語では、フローレンスは恋人の男に、ちゃんと音楽を学ばせようとミュージック・スクールに通うように背を押しているのに、彼女自身は絵を描きたいという夢を失っていく、その過程が、失恋に重ねられている。恋のなかで相手に尽くしていくうちに自分を忘れるというありふれた展開でもある。
 失恋のあと、フローレンスは、絵を描くことを取り戻し、自立した生き方に戻る、ということで、この物語はハッピーエンドと言えないこともない。
 ストーリーは概ねそれだけなのだが、作品の優れたところは、フローレンスの心の動きが、動く絵本のなかで上手に表現されていることだ。誰もがありふれた恋をするものだが、そうした恋のなかで味わう経験の質が上手に描かれている。そうしたディテールで、思わず泣きたくなるように胸に迫る部分がある。私はある凡庸なシーンで泣けた。
 恋というのは、そういうものだ。ありきたりなのに、そういうものなのだと思う。そして、恋の物語は、どう凝って描いても、そうしたありきたりなことが繰り返される。そうだなあ、と思い出す。漫画の『ソラニン』もそういう感じだった。あの映画もそういう感じがする。
 ブログを事実上お休みしている間、和ドラマもいくつか見たが、『サバイバル・ウェディング』『獣になれない私たち』も、とりあえず、ハッピーエンドだし、いろいろひねりは入れていて面白いのだが、基本は、ありふれた恋の物語だったと思う。
 私たちはなぜこんなにもありきたりの恋をするんだろうか? と私は考える。考えながら、私は61歳という自分の年齢をなんとなく忘れ、そして、ありきたりの恋というものに、どう始末をつけて生きてきたのかと疑問に思う。「始末」というのはちょっと違うのかもしれないが。
 ありふれた恋の物語は、たぶん、このフローレンスの物語のように、形の上では失恋ということになるだろうし、それは必然なんじゃないだろうか。仮に、めでたしというという結末に見える恋であっても、本質は似たようなものではないだろうか。心のどこかで失恋を飲み込むように生きているだけではないか。
 恋愛というものについて、若い頃の私は、小説家・遠藤周作の考えにだいぶ影響を受けたものだった。彼が伝えたかったことは、私たちはだれもありきたりの恋するが、愛する努力によってかけがえのないものにする、というようなことだ。なるほどなとも思う。「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly One」といった感じに近いのかもしれない。
 でも、恋愛によって、私たちはかけがいのない存在になるのだろうか、というと、おそらくそうではないだろう。ありきたりの人生経験を加えるだけだ。
 ただ、よくわからないが、生きているということは、ありきたりに生きるということが本質なんじゃないか。
 アニメ『輪るピングドラム』で「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」というセリフが印象的だったが、ネットが興隆するにつれ、私たちの生活の質の基調がどこなくそこのところで揺らいでいるようにも感じられる。ツイッターとかでいくらフォロワーがついても、それ自体が「何者にもなれないお前たち」でしかない。それでいて、私たちは、生きるという経験の質をそうしたありふれた恋の物語ような経験のなかでのみ汲み取ることが可能だ。
 さて、オチも教訓もない。ありふれた恋の物語をどう考えても、オチは出てこない。出るべきでもない。教訓もない。恋がなんであるか、あるいは恋の本質がなんであるか、理想の恋は何か、そういうこととはまるで関係なく、ありふれた恋を人はするものだ。しいていうなら、ありふれた物語としての自分の人生を受け取ることが、生きる質なのではないか。というか、フローレンスの、ありふれた恋の物語のなかに、自分がしてきた恋、誰もがする恋という経験の質を重ねることができる。それは驚くべきことなんじゃないか。

 

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