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2019.04.01

新元号決まる

 毎年4月1日のブログには馬鹿話を書くのが恒例だった。今年も結局そんなことになるだろう。
 さて、新元号が決まった。蓋が開いてみれば、なるほどという思いと、意外という思いがあいなかばというところだった。
 予想していたかというと、予想できなかった。新元号名はローマ字でKで始まる音から選ばれるとして絞り込んでしまったのが、敗因というか、失敗だった。明治・大正・昭和・平成としてM・T・S・Hなので、濁音は嫌うだろうし、Nは紛らわしいので、KかRだろうと予想したが、Rは日本語になじまないだろうと思ってしまった。
 まったく予想できなかったかというと、蓋を開けてみればわかるが、出典に万葉集が来ることは予想可能だった。3月19日朝日新聞『新元号、初めて日本の古典由来に? 漢籍とのダブル説も』のような誘導はあった。

 今回の改元で政府は、複数の国書の専門家に内々の考案を依頼。政府が数案に絞り込む前の段階の20案程度の中にも、国書に由来する案が含まれている。13日の参院予算委員会では、内閣官房の担当参事官が「考案者は国文学、漢文学、日本史学、または東洋史学等についての学識を有する方に委嘱する」とした。安倍政権の支持基盤である保守派にも、日本文学など国書に依拠した元号を期待する声がある。
 しかし、国書を典拠にするのは簡単ではない。日本最古の和歌集「万葉集」で有名な万葉仮名は漢字だが、日本語の音を表すために漢字を当てはめた表音文字で、漢字それ自体には意味がない。政府が要件とする漢字2文字で良い意味をもつ元号にするにはむかないとされる。政府内でも「当て字のような仮名からとるのは難しい」(政権幹部)との見方が強い。

 そして、なにより、徳仁親王の誕生日、2月23日の2月は、「令月」である。万葉集と「令」まではリーチできた。が、「和」はさすがにまるっきり想像もつかなかった。そこは予想外としていい。
 もう一つ、予想できなかったのが、『万葉集』巻五「梅花の歌三十二首、并せて序」である。蓋が開いていうなら、『文選』巻十五の張衡『帰田賦』「仲春令月、時和氣淸」としてもよく、新元号の考案者はそこまで考えてのことだろう。が、これは漢籍の専門家というより、契沖を経由しているので、国学者だろう(中西進であろう)。
 ただ、私は、まさかこんな不吉な故事を引くとは思わなかった。
 この序は、天平2年(730年)1月3日、大宰府の大伴旅人邸の宴会によるもの。漢文の執筆はおそらく山上憶良であろう。
 この宴会で、なぜ旅人が九州にいるかだが、関連する旅人の経緯を見ておく。
 旅人が権力中枢に上がるのは、この宴会の6年前、神亀元年(724年)、聖武天皇即位に伴って正三位に叙せらてからとしていいだろう。すでに60歳になろうとしていた。そして、神亀5年(728年)頃、大宰府に赴任にした。
 これが旅人が九州にいる理由だが、なぜこの年齢で赴任かというと、概ね2説ある。一つは九州の治安維持。彼は50代に隼人の反乱鎮圧で九州に赴任したことがある。この説だと、そうした重要性がこの時期にあったかということが問われる。もう一つは、長屋王を謀略に落とし込もうとする藤原不比等の息子たち・藤原四兄弟による左遷あるいは隔離。私はこちらが真相に近いと思うが、四兄弟が一枚板であったかはわからない。
 私の考えでは、旅人と藤原四兄弟には密約があっただろうと思う。つまり、旅人は長屋王が謀略で暗殺されること是認していたのではないかと思う。そう思う理由は2つある。一つは、長屋王暗殺後1年して京都に復帰して大納言という高位に就いていることだ。先の宴は、この間、長王暗殺と京都復帰の間で開かれている。
 もう一つは、太宰府にまだ14歳ほどの息子・大伴家持を連れていることだ。嫡子を赴任先に連れいっても不思議ではないとも言えるが、治安維持の赴任に嫡子を連れてくるのはそう合理的ではない。むしろ、若い嫡子を長屋王暗殺にまつわる政争に巻き込まれないように配慮したものではないかと私は考える。
 長屋王が暗殺されたのは、天平1年(729年)2月。つまり宴会の前年の令月。歴史用語では、長屋王の変とされ、長屋王は自殺ということになっているが、状況からすれば暗殺と理解するほうが正確だろう。
 この宴の主人としての旅人の歌(822番)は、不吉だ。前年の長屋王暗殺に関与せずに逃げ切った裏切り者としての大伴氏の鬱屈と安堵が暗喩されているのでないか。

   わが園に梅の花散る久方の天より雪の流れくるかも

 「梅の花散る」は長屋王の命、「天より雪の流れ」は藤原四兄弟の権力治世ではないか。
 「令和」号について、安倍首相は、「春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した」と述べているが、出典の宴では、少なくとも主人である旅人の目からは、梅の花は散っているのである。桜のように満開の頂点で散るようなイメージを持つ人もいるかもしれなが、梅はそういうふうには散らない。旅人のやるせない心中を汲んで、表向き華麗な序を書いたのは山上憶良の心遣いではなかったか。
 旅人はその翌年死んだ。
 藤原四兄弟は天平9年(737年)みな天然痘で死んだ。世の中は、長屋王の祟りを思ったことだろう。
 さて、歴史の真相はなんであったか。旅人の息子・家持が万葉集を残さなければ、旅人についても知られず、「令和」もなかっただろう。
 それでも確かなことは、権力中枢で謀略事件が起き、そう長く日も隔てぬときに、この「令和」の宴が開かれたことだ。
 私たちは政治権力のぶつかりで何か起きているかを知らず、梅を愛でながら宴を開くことができる。そして、宴に醒めて恐るべき政治権力の惨状を、家持が見たであろうように、見ることもあるだろう。

 

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