[映画] 神様の思し召し
そこそこにいい映画とか。それなりにいい映画とか。お値段通りの映画とか、まあ、悪くないよね的な映画はいろいろ見る。けど、心から、こりゃいい映画だったというのは、それほどはない。そういうもの、なのかもしれない。で、このイタリア映画『神様の思し召し』は、ほんと心の底からいい映画でした。ヒューマンものにありがちな、べったり感もないし、感動をしいるわけでもなかった。個人的には、自分が、神と考えている何かに触れることで奇妙な感動があった。でもそれはたぶん、個人的なことで、この映画のよさは、さまざまな形で誰にでも伝わるんじゃないか。
少しネタバレが入るが許容のうちじゃないかと思う。話は、50代半ばくらいの年齢だろうか、有能で社会的な地位も所得もある心臓外科医が、医大大学生の息子から突然、神父になりたいと言われる。無神論者だが民主主義的な人間を自分に任じている父としては、頭ごなしに否定できないものの、息子がへんてこな宗教にやれてしまった、なんとか息子をまともな医者の道に戻したい、として、息子をカトリックに引きずり込んだ神父を探る。つきまとう。このあたりはかなり笑えるというか、こういうタッチのコメディかあ、そして最後は、信仰とリベラルをつなぐいつものつまんないオチになるのかと思いきや、そうでもない。この間、外科医の美人妻や長女も荒れ始める。どの先進国の家庭にもありがちな生活の空虚感というやつだ。さて、話はどうなるのかというと、ここから外科医と神父の奇妙な交流が始まる。友情とも信仰ともつかないが、まあ、友情であり、そして最後は信仰でもある。そのまま緩和なエンディングかと思いきや、オチがある。オチは、意外に難しい。というか、難しくしなくてもいいが、私はここで神の存在を思った。こういう言い方は、映画を勧めるのによくない修辞であることはわかっている。
でもまあ、私のことだ。私というのは、単純に言えば、神は存在するのかと問い詰めた人生でもあったわけだし、そのあたりで、この映画のまさに標的でもある。ようするに神は存在するのか? これにすっると答えることは滑稽である以前に虚しい。でも、この映画は上手に描いていた。ある意味、奇跡というのは何かということを、きれいに描いていた。
奇跡というのは、科学的に証明されるものはない。偶然事象などについての過剰な解釈に過ぎないとも言える。つまり、ないのだと言っていい。あるのは、お前がそれを信じているからだよと言いたくもなるが、逆だ。人は、あるとき、奇跡に出会ってそれが奇跡だと知ってから信じるのである。そして、それを信じなくてもいい。それでも、奇跡というのは、神というのは、こういうものだったのだと、ある懐かしいように思い出せる映画ではあった。
大丈夫、この映画は、宗教的な映画ではない。奇跡を信じ込ませる映画でもない。オチの意味が今ひとつわからないということでもいいと思う、ので、その解説は不要だろう。
ところで、この映画を見た理由は偶然である。最近、イタリア語を勉強しはじめて、なんかイタリア語の映画はないかと検索したら上位に出てきたので見ただけである。オリジナルのタイトルは、"Se Dio Vuole"、ああ、意味はわかりますよ。「もし神が望むのであれば」そして、映画を見終えて、その意味はよくわかった。
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