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2018.02.24

[書評] 離婚してもいいですか?(野原広子)

 「卵でカンタンおかず」という表紙に惹かれて、雑誌『レタスクラブ』(参照)を手にしたら、『離婚してもいいですか?』という漫画があった。これ、一冊分まるごと入っているのかなとさして考えもせずに読んでて、ぷち鬱くなった。

 簡単にいうと、普通の主婦が離婚しようかなと思う日常がさりげなく淡い線画で描かれているのだが、そのさりげなさがかえって、あまりにも日常的にあるあるな状況なので、なんだろ、とても痛い。まあ、自分の場合は、既婚男性なんで、女からこう見られているのかあ、という痛さもあるのだが、結婚の真相っていうのは、こういうものだよねというリアリティがずさずさくる。なんだこの漫画と思ったら、以前からこの雑誌に連載していたものらしい。そして、4月には単行本になるらしい。という過程で、これ、『離婚してもいいですか? 翔子の場合』というバージョンで、2014年に前作『離婚してもいいですか』があるのを知り、なんだなんだということで、考えもせず、ぽちって読んだ。うああ、こっちのほうがさらに痛い。
 このなんなのだろう、とても些細でどうでもいいことに思える、夫婦間の不快がきちんと描かれている。たとえば、まるまった靴下の洗濯物。丸まったまま洗濯に出すんじゃねえよ、というあれだ。そして、あれ、だけで終わらないのは、「丸まったまま洗濯に出すんじゃねえよ」って言葉で言っても、通じないという「あれ2」だ。きちんと2パターンを抑えている。はいはいと答えられても事態は全然変わらないあれか、逆ギレするというあれだ。実に些細な話に見えるだろうが、これって、実は人間というものの本質に関わる問題にきちんとつながっているところが怖い。
 ほんと怖いのだ。DVはいけない、というのはほぼ自明で、さっさと離婚しなよ、それ以外、答えなんかないよというような、DVがあっても離婚できないというのは、どちらかというとわかりやすい社会問題であったり、共依存的な心理的な病理であったりするのだが、この漫画で描かれているのは、そういうDVではない。直接的な暴力はないが、不機嫌になったり、ものに当たり散らしたりする夫である。つまり、DVの線が微妙。また心理的な暴力とまでも言えない微妙さ。というか、妻の側には、じわじわと首を絞められるようなぬるい絶望感。というのが、書名である『離婚してもいいですか?』につながっていく。しかも、この絶望感を深めているのが、子供という存在である。ひどいこと言うようだけど、子供がなければ、関係は男と女というだけになりそうなものだけど、まあ、これもそう簡単な問題でもないか……。
 こういう状況から無縁な結婚生活というのはおそらくなくて、この漫画と多数の人の結婚の実態はある濃淡の差くらいなものだろう。離婚する踏ん切りもつかずに、子供を育てる家庭をなんとなく支えていくというか。それでも、基本的には、男が稚すぎるというのはあるだろう。
 まいったな。これは痛いな。ということで、新作『離婚してもいいですか? 翔子の場合』に戻ると、前作と基調は同じだけど、見方によっては男の側の視線もあるかな、というか、男の側からも読める距離感のようなものはあるかなと思うし、フィクションの物語性が濃い分、少し救われるぬるさはある。それと、前作より少し夫婦の年齢を深めた感じもする。エンディングも暗いだけではなく、なんというかもっと乾いた諦観が覆っている。しいて明るい面としては、そうした鬱を補うように、女性の内面の問題として、なぜこういう結婚生活に耐える自分になってしまったのかという洞察もあり、そこは心の治癒的な面もあるだろう。
 いずれにしても、二冊、とんでもないもの読んじゃったな感はある。
 既婚女性からの支持は多いようだけど、これ、若い男性は必読だよと思う。神は細部に宿る、ではないけど、結婚生活は細部に宿るよ。

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2018.02.23

[書評] 天使の創造(坂東としえ)

 立花隆『臨死体験』に幽体離脱体験者としてロバート・モンローの話が出て来るが、モンロー自身は神秘家というよりエンジニアであり、その体験を科学的に追求するために自宅に研究所を設置したものだった。そこでの彼の研究におそらくもっとも貢献したもう一人の幽体離脱体験者がロザリンド・マクナイトだが、彼女は後年、自身の神秘体験を深め、自伝的な『魂の旅』という作品を残した。

 本書『天使の創造』を勧められて手にしたとき、その表題や装丁の類似感から同書を連想した。が、読み進めてみると、霊性探求の自伝的な側面では似ているし、また神秘的な真理を開示するという面でも似ているが、日米の文化差という以上に、随分と異なった印象を得た。なにより本書のほうは小説という意味でフィクションになっていたし、直接的に神秘的な世界が扱われているわけでもなかった。その分、違和感なく自然に読めるように書かれている。
 本書が書かれた経緯や背景についても知らずに予断なく読み、読後、書籍の解説を知って得心した。いわく、「生涯をかけて理想の保育を追求した著者が贈る、子供の世界と大人の世界が交差する稀代の小説」ということで、著者は35年間の保育士経験と母親学級講師としての活動実績があり、そこでの強い評判に押されて書かれたものではないだろうか。
 小説としての枠組みは、夏希という若い女性の自伝的な話から始まり、彼女が子供を産み、子供と交流しつつ、病気との遭遇を経て人生の意味を問いかけていくなか、ヨガの講師から精神世界的な真理を学ぶ、ことである。叙述の特徴としては、詩を随所に含みつつ、日常的な生活のなかに、深い意味を暗示するアネクドーツ(逸話)が語られていることだ。平易に書かれていて読みやすいともいえるが、他面、エックハルト・トールの講話書籍のようなハウツー的なスピリチュアル本に親しんでいると、小説という枠組みに読みにくく感じる人もいるだろう。現代的な読者にしてみると、各章冒頭にハウツー的な問いかけがまとまっているなど、編集的な工夫があったほうが読みやすいだろう。
 後半、ヨガ講師に仮託して語られる精神世界の真理には、クリシュナムルティや奇跡講座を連想させる深遠さをもちながらも、誰でも平易に理解できる言葉で解かれていいることに驚きも感じさせる。著者自身の瞑想修練で感受された真理であるかもしれないし、なんらかの宗教的な背景もあるのかもしれないが、直接的な示唆はない。
 本書の要諦を引用したくもなるが、そう思ってみて、部分的には抜き出せないことがわかる。著者が小説として語りたかったのもそうした思いがあったからだろう。

 

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2018.02.22

[書評] ソラニン新装版(浅野いにお)

 『零落』と同時に発売された、11年ぶりの一編を加えた新装版『ソラニン』(参照)を読み返す前に、映画の『ソラニン』を見た。いい映画だった。そして映画としてよくできていた。俳優たちの演技もよかった。が、個人的な思いで言えば、多摩川の風景が美しかった。それは自然の美しさとは違う、ある雑然とした平凡な人に馴染むすこし汚れた生活というものの美しさで、それがこの作品とうまく調和していた。そうして風景が人々の生活のなかに潜む思いに、原作ではとても上手に、11年後に描かれた物語の前挿話としてふれている。そこに静かに感動する。じゃらーん……なんてな。

 旧版のまた映画の『ソラニン』は、人々の青春の物語だろう。凡庸な人々といってもいいかもしれないが、それゆえに意味を深く持つ。逆に言うなら、特別な人々や特別な青春の物語は物語であることの要請に飲み込まれてしまって、私たちの、ただ生きていかなくてはならない生活の質には触れてこない。『ソラニン』が自然に触れている青春の姿は一つの水準とでも言うようなものかもしれない。例えば私は、『ソラニン』に描かれた青春とは表向きには大きく異なる時期を過ごしたが、その時期の恋のなかで煩懊し、押しつぶされていく、ある感覚はよくわかるし、そしてそれを人がどうやり過ごすのかということもわかる。『ソラニン』の上質なところは、その微妙な哀しみを「やり過ごす」ある感覚を描き出していることだ。
 それが年月に重なり合う。いつか青春は終わるかに思える。だが青春の終わりは、それが只中にいて終わったかに見える、見渡せるような晴れの光景にはない。もっと静かにある意味ではつまらないものだ。まるで電車のなかでドアにもたれてふと目をつぶるような。その芽衣子の表情がかぎりなく哀しい。哀しみを失ってしまったような寂しさである。新装版に散らされている、一見ただのイラストのように見えるそれぞれの絵に、遠くから感じる寂しさのようなものが滲んでいる。
 どうすることもできない。人は若い日の死に抗うこともできなければ、流されて生きていくことに抗うこともできない。それを幸せと呼んだり、守るものに自分の弁解を仮託もする。でもそこにはかすかな欺瞞の感覚がつきまとう。守るものを守り、あるいは、夢を叶えるかのうよに精一杯仕事をしたり、しかしそれも、ふと終わるものだ。こう言ってもいいかもしれない、青春が終わるのは、40代。
 そこから先は奇妙なものが始まる。そのなかで、あの寂しさのようなものをどう抱えて生きていくのか、奇妙で滑稽な戦いと敗北が始まる。そうしたもう一つの物語のために、『ソラニン』はきちんと終わらなくてならなかったのだろう。

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2018.02.21

[書評] 零落(浅野いにお)

 『零落』(参照)というコミック作品についてどう切り出していいか戸惑う。文学なら「私小説」にでも分類されそうではある。落ちていく自意識と創作への執念とある聖なるものへのこだわりは、太宰治『人間失格』に似ていないでもない。だが、それと細部は異なるし、その細部から描き出される新しい全体像も異なる。その差異は、他者というものの感覚かもしれない。「私小説」が私を通して他者を見る(神のように審判する)の対して、基本的に視覚芸術の作品の利点を使っていることもあり、『零落』はそう見せておきながらも、逆に他者から自分を捉えようとしている。

 その、複数の他者の延長の、ある絶対的な他者というものの象徴は、猫顔の女性であり、それがこの作品の実生活ではちふゆになる。作品が表面的に暗澹とした雰囲気に覆われ、作者と作品の乖離のなかの苦悩を描きながらも、独自の、奇妙な明るさをもっているのが、ちふゆの快活さとそこに到達できない他者というものの感触の、ある健全さだろう。別の言い方をすれば、猫顔の女性の呪いに集結しているかにも見える作品だが、私小説な実体験のコアの部分で、他者というものへの欲望を明るく描き出している。
 少し勇み足すぎたかもしれない。
 この作品、『零落』は、編集サイドの思いが代表しているように、『ソラニン』から12年という、創作者・浅野いにおへの関心で誘惑している。だが作品は、「私小説」にありがちな、作者の、ここでは浅野の実生活を描き出したとはいえないだろう。離婚に至る夫婦のすれ違いや、風俗、作家の苦悩というものも、ある虚構のなかで構成されたものであるし、それらに実経験の核があるというより、そうしたディーテールのリアリティで表現される何かを欲してこのような素材が集められ、「私小説」のように組み立てられていると理解したほうがよさそうだ。
 なぜなのか。一つには、ここで触れている12年の重み、つまり、男が37歳など、40代を迎えようとしているときの、ある重く、つらい感触である。他者としての女との関係の再統合とも言ってもいいかもしれない。
 これは、奇妙なことにと言うべきか、ある程度、意図的に、『ソラニン』に結びついている。『零落』は、新版の『ソラニン』と同時発売という以上に、増補によって脱・構築された『ソラニン』と組み合わさる、ある感覚を表している。新しく登場したソラニンの芽衣子も同等の年齢で描かれているのもそのためだろう。そして、この連関は、種田成男の死が、かぎりなく自殺に近いことへの脱・構築的な再統合でもある。比喩的な言い方をすれば、音楽で世界を変えようとしていた種田成男は、創作を神聖視していた深澤薫と重なる。深沢の零落は、種田の死の緩慢な表現でもあるだろう。そして、その「死」を弔っているのが、40歳を前にした芽衣子である。そうした、ある優しい視点は、『零落』の町田のぞみの哀しみにも仮託されている。
 中年の、零落した男には、ある優しさが宿る、と思う。その優しさがもういちどエロスに回帰してくるとき、たぶん、もう一つの物語は始まるだろう。

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2018.02.20

[アニメ] BEATLESS その0

 今期アニメ視聴途中で原作未読でなんとなく語ってみるの第三弾、BEATLESS。のっけからどうでもいい話かもしれないけど、このタイトル、最後の一文字のSがないと、 BEATLESで、つまり、「ビートルズ」になる。偶然ではない駄洒落なんだろうと思うけど、その意図はよくわからない。視聴現在地点は、途中総集編のintermission_0で、つまり、実質5回目まで。壮大なテーマがあれば、この時点ではまだわからないともいえるが、逆に言えば、この時点で視聴者を掴んでいないとこの先は難しい。というのが、このintermission_0の意味かもしれない。

 物語について。私がここまで見た範囲だけど。世界の設定は、22世紀の日本。ITC技術とその応用を除くとテクノロジーの基本的な風景は現在の日本と同じ。あまりに同じなんで少しがっかりもする。すでにシンギュラリティを超え、人間の知能を超えた超高度AIが存在する。人口減少を補うため、サービス労働さえもhIEという人型のロボットに任せている。最上位機種はレイシア級と呼ばれる。事件は、hIE行動管理企業「ミームフレーム」の研究所が爆破され、5体のレイシア級美少女hIEが逃亡するなか、事件に巻き込まれた主人公の少年・遠藤アラトはその1体レイシアに出会い(モーイ・ミーツ・ガール物語)、救われ、それをきっかけに彼女のオーナー契約を結ぶ。物語は、その5体とそれを巻き込む勢力の構想と、アラトとレイシアの交流で描かれていく、ようだが、まだ3体が登場したところ。
 当初の感想だが、世界観は難しくない。物語を修飾している用語については、私はどちらかというと人工知能やICT技術に詳しいほうなので、問題なくわかるつもりでいるが、逆にこれはちょっと一般にはレベル高すぎるのではないだろうかとは疑問に思った。
 物語の展開は、ここまではだるい。物語テーマの全体構造が現れていないのでしかたないとは思う。テーマの予感でひっぱるしかないが、現状では、その面ではレイシアと紅霞の2体のhIEに集中している。おそらく、この物語は、レイシアの存在そのものに掛かっているし、レイシアとアラトの関係(信頼、つまり愛)がキーではあるのだろう。が、現状でのその関わりの描写は、やはり既視感溢れて、だるい。美少女戦闘も同。友情シーンも同。お子様作品かなとも思うが、違うだろうという予感はまだある。
 物語の全体テーマは、AIの哲学的な側面よりも、その神話構造的な部分に持ち込んでいくのかなという感じはする。5体がそもそも神話的。

  type-001・紅霞:「人間との競争に勝つため」の道具
  type-002・スノウドロップ:「進化の委託先」としての道具
  type-003・サトゥルヌス:「環境をつくるため」の道具
  type-004・メトーデ:「人間を拡張するもの」としての道具
  type-005・レイシア:「人間に未だ明かされざる」道具

 神話の基本類型のキャラとしては、『ニーベルングの指環』のブリュンヒルデと、『ファウスト』のグレートヒェンとメフィストフェレスあたりが思いつく。基本的には、道具というより、導く者のギリシア的神として、『イリアス』の構造があるだろう。
 こうした神話的構成があれば、物語は必然的な悲劇を要求してくるだろうし、現状のだるい感じがその悲劇の仕込みなのではないかと期待している。
 というか、原作があるんで、読めよ、ではあるなとは思うが、アニメ見てから読むだろうと思う。

 

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2018.02.19

ためらいながらではあるけど

 日本人と限らず多くの人がフィギュアスケートの羽生結弦選手の活躍を賞賛しているなか、こういう意見を述べるのも、悪意のように取られるのではないかと恐れるが、自分としては若い選手の将来を思ってこういう意見もあるという、一つの小さな例として、ためらいながらではあるけど、書いておきたい。繰り返すが、こう思う人もいるというくらいの些細なブログ記事であり、強く望むという大それた主張ではないし、私はたぶん間違っているのだろうという疑念もあるので、そこは理解していただきたいと願う……私は羽生結弦選手は平昌冬季オリンピックに出場しないほうがよかったと考えていた。
 理由は、NHKスペシャル『羽生結弦 五輪連覇への道』を見たおり、昨年11月の怪我が深刻なものに思えたからだ。同番組では「自らの限界を超えて五輪に挑もうとする羽生結弦」というトーンで推していたが、そしてそれ自体はスポーツ選手として素晴らしいことではあるのは当然だが、ここでの「限界」がこの怪我の克服を意味するなら、怪我という身体的な損傷が癒えるまでの十分な時間とその後のリハビリであるはずだと私は思った。仮にではあるが、怪我が十分に治ってなく、痛みを堪える、あるいはさらなる悪化を招く危険のある演技なら、選手の生活全体を考えるなら好ましくはないのではないかと思っていた。これはけして、十分な演技ができない、という勝ち負けの問題ではない。勝ち負けという点でいうなら、オリンピック競技は誰かは必ず勝つ。フィギュアスケートでもその世界の時点でもっとも優れた演技を見ることができる。私のような人にしてみれば、それが日本人であるという重要性は少ない。
 良かったことは、彼の演技を見ると、怪我の影響はそれほどは大きくなく(しかし、それは私のようなものでも影響ははっきりと見て取ることはできた)、オリンピック参加にあたっては、一定水準の怪我の回復があったのだろうと思えたことだ。であれば、怪我を押してでのオリンピック参加はしないほうがいい、というのは懸念だっただろうか。
 あまり良くなかったかもしれないことは、昨日のNHK7時のニュースで本人の次の言葉を聞いたことだ。以下はその産経新聞での書き起こしから引用(参照)。

 「足首次第です。本当に、痛み止め飲んで(演技をした)。注射が打てればよかったんですけど、打てない部位だったので。本当に、痛み止め飲んで飲んで、という感じだったので。はっきり言って、状態が分からない」
 「ただ、はっきり言えることは、痛み止めを飲まない状態では、到底ジャンプが降りられる状態でも、飛べる状態でもない。だから治療の機会がほしい、と思うが、それがどれくらい長引くのか。アイスショーの関連もありますし」
 「せっかく金メダルを取ったので、いろんな方々に伝えたい、笑顔になってもらいたいという気持ちもある。競技として考えると、治療の期間が必要だなとは思う」

 どうやら身体の回復を第一に考えるなら、今回のオリンピックの演技でもまだ治療の期間が必要な段階にあったと見なせそうだ。その意味でという限定ではあるが、選手の身体を第一に考えるなら参加すべきではなかったという当初の私の考えも、私自身としては、変更することもないように思えた。
 しかし、問題は身体だけではない。心の問題がある。オリンピックでの演技は羽生選手の夢でもあった。そして、その夢の実現のためには、怪我の痛みや回復途中のリスクもすべて了解して、本人の意思で夢にチャレンジしたのだ、と。本人だけなく、支援者もそれを認めたのだから、それ以外の人が、参加すべきではないと言うべきではない、とも言えるだろう。私としては、そこは、半分くらいそうだろうと思う。あとの半分は、オリンピックの機関が、選手の怪我の状態を客観的に検査して参加の認可をする過程が必要だったのではないかということだ。
 私の些細な意見は以上だったのだが、少し追加したい。羽生選手から、「ほんとのほんとの気持ちは、嫌われたくない」という言葉を聞いて(参照)、少し痛みのような感覚を覚えたからだ。誰からも好かれたという思うのは、特に若い人なら自然な感情だろうと思う。ただ、人の期待に答えようとすると自分を見失いがちだ。特に、身体的な限界を超えるような他者からの期待には沿わないほうがいいくらいだ。
 ここからはもう怪我を押しての羽生選手のオリンピック参加ということから離れて、特に若い人の、期待に答えようとする真摯な生き方への、ある痛みのような思いに触れたい。
 具体的には若い人の過労死のことを思った。過労死の理由は、劣悪な労働環境にある。それはゆるぎないことだ。だが、以前、外国人記者が関連の記者会見で問うたことが心にひっかかっている。記者はこう疑問を投げた。「なぜ厳しい状況で働く社員が会社を辞めないのか」。これに対してその場では、他社も同じくらい長時間労働であり、日本全体がそういう状況になっている、というような答えがあった。つまり、どこに言っても過労死を強いるような労働環境だから、逃げ場はないのだ、というのである。質問した外国人記者は納得しただろうか。
 これ以上長時間仕事をしたら身体が壊れるというとき、なぜ逃げ出せないのか。逃げ場がないからなのか。私の考えでは、そういう精神状態に陥ったときは、すでにもう逃げることの意識は働かなくなっているだろう、すでにもう精神的に押し詰められている、というもので、であれば、誰か別の人が、やめなさい、逃げなさいと言うべきではないかというものだ。
 私の考えが正しいかどうかはわからない。間違っているんじゃないかとも思う。でも、自分が見て、誰かがそういう状況にあるなら、そしてもし私がそこで小さな声を上げることができるなら、ためらいながらではあるけど、そうするだろうと思う。

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2018.02.18

「お前は安全圏から発言するな」について

 賛否が分かれる社会問題に言及すると、その言及の賛否のスペクトラムに対応して反論が生じるのはしかたないし、それが現在の、表面的に匿名のネット利用者の世界だと、言論の責任が曖昧な罵詈雑言的な状態になるのもしかたないとは思う。となると、何を言ってもこうした問題は敵対関係に置かれるので、そこまでしてブログなんていうものをする意味があるのかということにもなる。これは昨年の休止期間にも考えた。「ないんじゃね」とかなり思っていた。今はどうかというと、よくわからない。でも、僕はブログを書き続けようかとは思いなおしつつある。と、前置きはしたものの。
 こういう状況で、ある、ひとつの典型的な揶揄がある。「お前は安全圏から発言するな」というものだ。まあ、これは共感しないではない。私は1994年から8年ほど沖縄県民であの、少女レイプ事件からの激動の時代を過ごしたが、沖縄県民となってみて、しかもそれなりに沖縄の地域社会の、それなりに深いレベルで生きてみて(シーミーに参加するくらいには)、ああ、本土の住民は沖縄問題がわかっていないな、と感じたことはある。それは、多少ではあるが、「お前は安全圏から発言するな」という感情に近いだろう。それと、自著にも書いたが、私は難病に罹患しているので、そういう経験のない人には、たまに、やはり似たような感情を持つことがある。
 ただ、そういう感情が起きるとき、いやなんか違うなとも思う。例を通していうと、というか、この例が一番、考え続けてきたことだが、日本は原爆の唯一の被害国として発言権がある、というようなことだ。「ような」としたのはいくつかバリエーションがあるという含みだ。「発言権」というのは実際の権利ではなく、比喩という意味でもある。この前提だが、自分なりに考えたのは、そうした「発言権」に近いものは、日本にはないだろうと思うようになった。原爆の問題は人類共通の問題なのだから誰が考えてもいいし、誰の考えにも耳を傾けるべきだと思う。では、実際の被爆者の意見はというと、そこは、より傾聴すべきだとは思う。そうした位置・経験でなければ感受しえないものがあるからだろう。例と比喩から離れていえば、ある問題について安全圏にない人の声はより傾聴しなければならないと思う。
 そんなことを思ったのは、昨日の女性専用車両の問題で、この問題はつまるところ満員電車の問題だから、満員電車を解決すればいいのだ、お前ように満員電車の苦しさをしらない人が安全圏からごたごた言うな、というような揶揄を目にしたことだ。まあ、これはテンプレの誤解なのだけど、少し考えた。
 個別的な問題でいえば、原理的に、痴漢という側面での女性専用車両の意義の問題と満員電車の問題は分離できると思う。というか、分離しなければ、痴漢という側面での女性専用車両の意義は思考できないと私は思う(満員電車がなくても日本の痴漢犯罪の質は変わらないだろう)、が、まあ、そもそもこの時点で通じない人はいる。いわく、実際、満員電車が解消されれば、痴漢は解消されますよ、ということだ。
 実は、そのロジックでいうなら、昨日のブログで私が、自身が「無関心だった」として書いたのは、この問題は自分の範囲で言うなら、自分は満員電車には耐えることにしているし(余談だが、近未来、満員電車の問題は実質解決するだろう)、痴漢として誤解されたら対処する覚悟はある(逃げない)という原則のようなものを盾にしていたからで、そう考えてしまえば、無関心でいられた、という意味で、安全圏から安閑と考えたということでもなかった。似たような盾でいうなら、よく日本政府の言論規制が厳しくブログはやってられないという人がいるが、もしそうなら、政府とぶつかればいいと思う。私は言論で逮捕されるなら、それもしかたないという覚悟で書いている。徴兵が実施されるなら良心的兵役拒否を主張するし、年齢的に兵役ではないなら、私の声の届く範囲で、良心的兵役拒否を説く。そうした意味での水準でいうなら、満員電車が問題だというのを盾とすれば、この問題自体に無関心でいられる、ということと同じである。というか、そういう本質から逸れた無関心さを自分を含めて批判してみたかったのだが、おそらくこれも通じにくいところだろう。
 類似の関連で思ったのは、先日、カトリーヌ・ドヌーヴら百人の女性が署名した声明について、同じように、「お前は安全圏から発言するな」という批判を見かけたことだ。あの声明を自分なりに訳しながら、これは多数の女性の討論の結果、複数の声としてできているという感覚があった。その複数の多様性のなかで、声明として可能なかぎりまとまる部分を無骨ではあるがまとめたという印象があった。別の言葉でいえば、100人のうち何人かは、安全圏にいるわけでもないだろうなと印象があった。そういう人たちの、複数の声と無骨ではあるがまとめられた言葉の、差異を感受していたかった。
 さてと、くだくだ書いたので、わかりやすくまとめておこう。

 ① 「お前は安全圏から発言するな」という批判はやめたほうがいい
 ② 安全圏でない位置にいる本人の声は傾聴しよう

ということかなと思う。

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