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2018.02.10

[書評] 漫画 君たちはどう生きるか(吉野源三郎・著、羽賀翔一・漫画)

 漫画版を読んでみた。あの原作を現代でもウケるように上手に漫画化するものだなあと感心した。同時に、読みやすくよく練られた漫画ではあるが、たとえば『ヒストリエ』で「天下の大将軍」といったギャグを諧謔に含めるような、漫画特有の自己相対化の精神は見られない。そうした点で漫画の精神としてずいぶんと痩せた作品だなとも思った。
 なぜ今売れているのかということでは、一つには、次期ジブリ作品との連想と、私より上の世代、団塊世代のノスタルジーはあるだろう。後者については、NHKでも取り上げられていた。
 原作の内容については、現在の時点で批判しても意味はないようには思えた。すでによく知られているように岩波文庫版では、それ自体が歴史的な価値を持つ丸山眞男の解説があり、そこできちんと「生産関係」の説明から同書が資本論の入門書になっていることが示されている。丸山はそこに評価のポイントを置いているが、ようするに入門書というのが、倫理的な情念と学習的な関係に結びついたとき、それは必然的に啓蒙書となり、それがさらに漫画ともなれば一種の洗脳のための冊子になっていくのは避けがたい。「絶対に逃げずに、みんなで戦う…。約束だ…!!」というわけである。反戦の文脈が自明のときは反戦だが、その情念は逆にもぶれるものだ。
 これもよく知られているように時代的な意味はあった。出版されたのは盧溝橋事件の起きた1937年。すでに30年には治安維持法で小林多喜二が逮捕、翌年、原作著者の吉野源三郎も逮捕。小林は33年に獄死、翌年は日本共産党創始の一人野呂榮太郎が獄死。35年は天皇機関説事件と、時代が「ファシズム」に寄せられ思想が弾圧されるなかで、原作は、簡単にいえば、児童書の形式を借りて「資本論入門書」として出版されたものだった。
 吉野源三郎について、戦後、日本に主権のない時代、1946年、岩波書店から雑誌『世界』が創刊がされ、その初代編集長となった。そこを起点に、1950年には「平和問題談話会」を立ち上げ、51年(昭和26年)のサンフランシスコ講和条約では、中ソを含めた全面講和論で対峙した。単独講和後、日本が独立した後は1959年には「安保批判の会」を立ち上げ、60年安保闘争では反安保の姿勢を貫いた。現在に至る、親ソのリベラル派の源流の一つである。
 こうした歴史も、現在では、学問的な意味はあるが、もはや政治的な意味は薄いだろう。であれば、本書を含めて対抗したはずの勢力ももはや意味はないようにも思えるが、この漫画を読みながら思ったのは、そうした左翼リベラルの源流という懐古趣味よりも、また、ナポレオン評価のような微笑ましい旧時代的説明よりも(とはいえ民法についての指摘は重要)、今なお、なんらかの倫理的な真摯さを訴えようとする、奇妙な感じだった。それは漫画であることでむしろ強調され、「資本論入門」はさらに隠れた。
 その呪縛的とも言えそうな倫理性は表紙のコペル君の眼差しが象徴しているだろう。それはあたかも漱石の『こころ』のKの相貌だと言ってもいい。コペル君は、『恋は雨上がりのように』のアキラを思いつつ、オナニーするような余裕はなさそうなのだ。真摯さと正義が微妙に共同体に結びつき、Kのような死の影を帯びていく。
 コペル君が「雨粒くらいに人が小さく見えるね…」として、その矮小さを自分に重なるなら、それが大きな流れを形成するときに、「人間の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多い」と考えることより、その空しさを自由の空間として、小ささを愚行権の行使の根拠としてもいいはずだ。
 「君たちはどう生きるか」と問われるなら、できるかぎり、他人のことなど気にしないで自分勝手に、自分の快楽を主に生きていけばいい。それだけではないのか。迷惑はかけるだろうし、文句も言われるだろう。愚行権は行使の限界がある。そうして社会にぶつかって、普通に社会と対立して個を貫いていけばいい。それだけでいい、と思う……というような、私のような考えは、本書がベストセラーになる世の中とは調和できないだろう。
 そうした時代で、「君たちはどう生きるか」と更に問われるなら、原作の暗い時代から戦後の親ソ時代知識人時代まで生きた永井荷風のような人のほうが新しい「反戦」のモデルになるのではないか。

 

 

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2018.02.09

[書評] モンプチ 嫁はフランス人③ (じゃんぽーる西)

 奥付を見ると2018年2月15日とあるので、ちょっと未来を先取りしたような気がするが、ツイッターでカレンさんの、『モンプチ 嫁はフランス人③』(参照)が発売された、という話のツイートを見て、そのままポチったら今日届いた。早速、読んだ。面白かった。というか、書籍としてのオチというか、エンディングというか、知らないでいたので、すごいびっくりした。「完」と書かれたページを見ると、ぐぉぉんと感動するものがある。ネタバレはしない。

 「嫁はフランス人」の既刊も読んでいるので思うのだけど、なんというのか、こうして時系列で読んでいくと、そこにはたくまざるドラマがあるものだと思う。事実は小説より奇なり、というのか。もちろん本書の話も大半は、作者・じゃんぽーる西さんの普通の日常であり、日常の断片でしかないとも言える。主に育児と主夫の、普通の日常である。だが、それが面白い。作者の漫画の才能のなせるところでもあるのだろうけど。
 今回の作品ついては以前によりも、その「普通さ」が強く出ているように思えた。これまでの、日仏の文化差やそのなかでの育児の珍しい話題、というよりも、普通に国際結婚して普通に生活し、普通に子供を持つという、普通さがきちんと描かれている。
 日本人男性とフランス人女性の結婚というのは、それほどは多くもないだろうし、今後増えるとも思わないが、多様な文化背景の結婚それ自体は増えていくだろうなか、みんなそれぞれの普通になっていく。そうして日本の新しい普通ができていく。漫画を笑いながら読み、それが日本の社会の新しい「希望」というものだなと、静かに感動できる。
 取り上げられている小さなネタもそれぞれ面白い。鋭い面白さというより、深みが増してきたように思えた。話題の焦点は、今回タイトルに「モンプチ」が強調されている(「2」の表紙にも付いているが)ように、彼らの子供ではあるだろう。母親とはフランス語で会話し、父親や友達の多くの日本人とは日本語で話す、幼い子供。その保育園児の成長。バイリンガルのドキュメンタリーという印象もある。私は言語学を学び、その習得過程の理論なども少し学んだが、なるほどと頷く。笑える。一例としては、幼い子供のほうが、父親である西さんより、きちんとフランス語の「R」の発音ができるというネタ。それもさもありなん。
 話が少しずれるが、当初、いや今でもこの漫画のコンセプトとしては、フラン人の嫁さんは日本人から見ると変わっているなあ、ということはあったのだろう、が、今回の作品を読んでみて思うのは、カレンさんのような日本人女性もそう少なくもないということだ。もちろん日本語ネイティブであれば、子供に日本語以外の言葉を使う母親はほとんどいないだろうけど、趣味や仕事のこだわり、パートナーへの愛情表現など、現代の日本人もカレンさんと、それほど変わらないのではないか。フランス人として描かれている人々の行動も、言語の壁というものがなければ、日本人とほとんど同じなっていくだろう。
 そのことを別の接近で言うなら、主夫・育児のじゃんぽーるさんは、いわゆる旧来の日本人男性のイメージではなく、あるグローバルな現代的な男性である。漫画では、自身をド・日本人、というふうに誇張しているし、実際本人としてはそう思っているのだろうが、結果的には、これも普通に現代的なグローバルな家庭の男性の像である。そして、そういう男性は新しい日本人男性のスタンダードでもある。漫画のなかでは、未婚の多い日本人男性について、じゃんぽーるさんの自虐も含めてだが「結婚したくても単にモテないんだよ!」としていて、それはそうかもしれないが、そうした日本人男性への女性の接し方も静かに、しかし気がつけば大きな変化になっていくだろう。
 つまり、ここに描かれているのは、異文化の国際結婚という話題ではなく、新しいタイプの愛と家庭のありかたの、普通のモデルだと思える。
 とはいえ、この作品でも、日本文化は男性同士の付き合いと女性同士の付き合いが多くあり、フランスのような男女同伴の文化ではない、という状態はしばしは続くかもしれない。
 次巻からはタイトルが変わるらしい。「完」の続きは気になる。バイリンガルの子供がどういう成長をするかも気になる。ドラマそのものの続きが待ち遠しい。

 

 

 

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2018.02.08

[アニメ] ヴァイオレット・エヴァーガーデン その0

 今季のアニメ『恋は雨上がりのように』が面白く、そして予備知識なしに数回見ただけでブログに書いてみるというも面白かったのりで、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も4回見ただけでちょっと書いてみるテスト(という表現をネットで見かけなくなって久しい気がする)。

 これはもうなんの予備知識もなくいきなり見た。先入観としては、『終末のイゼッタ』を連想し、あれ、数回見て、だめだわこりゃ、と脱落したことを思い出し、まあ、これもそうなるであろうか、という感じでいた。しかし、先入観に反し、今んとこすごい面白い。放映が待ちどうしいぞ。今日か?
 とはいえ、世界観の設定に少し、れれれ感はあった。これ歴史物、それともファンタジー? いやそのレベルからなんも知らないで見たのだった。「ライデンシャフトリヒ(leidenschaftlich)」とか言う地名から普通に考えると、第一次世界大戦でドイツ語圏あたりだろうか。意味は「情熱」だが、地名ライデンはオランダの(Leiden)の連想か。
 これに関連して思ったのは、この世界の原語の想定は何? ドイツ語文化圏か? そのわりに、ドイツ語で"Violet Evergarden"はありえないので、英語だろうし、英語圏で主人公がヴァイオレットというと、シェークスピア『十二夜』のヴィオラを連想するが、そういう含みはあるのだろうか、とか見ていくと、他登場人物は花の名前で、そのうち、軽食で箱入り焼きそばを食べるシーンが出てきて、ああ、俺はなんて野暮なんだろうと気がついた。
 しかし、ここまで野暮を暴走させたのだから、もう少し。田舎の少女が都会のタイピストの仕事に憧れて都市に出て来るという設定は、先日書いたけど、2012年のフランス映画『タイピスト!』( Populaire)に似ている。時系列的に考えてこの映画からの着想はありそうにも思えるが、全体ストーリーへの影響はなさそう。他にもオマージュはありそうには思えるがよくわからない。
 物語は、若干ネタバレが入るかもだが、兵器として育てられ、人間としての情感を持たない少女が、兵役を解かれ、その所有者である兵士が最後に残した「愛している」という言葉の意味を探るべく、代筆業を行い、人々が手紙によせる思いを学ぶ、という人情話。
 おそらくオチは、その意味を知って……というあたりだろうなというテンプレ的安心感でたらーっとヒューマンな情感とてけとーに美しい風景や美少女設定、声優の妙味とかいう感じで、たらたら見られるし、まあ、これは、あれ、よくあるAIロボットが人間との交流を通して人の心を知る系の派生というか(「自動書記人号」だし)、現代日本の若者アスペ傾向との重ねとか、そのあたりも思う。それでも、面白い。
 私が面白い理由は簡単で、自分がこの手のアスペ傾向な人間だからだ。ただ、正確には文学的な情感はわかるが、世俗的な現実的な対人関係の情感で歪みが出るというもので、ヴァイオレットのそれではないが。それと。「愛しています」の意味は、まさにこのように発せられてから深い探索を要する存在論的な言明なんで、その深みが、物語的に丁寧に展開されているのは好ましい。っていうか、自分のような人間には、語学の勉強しているような「学び」の感覚もあってうれしい。
 原作は読んでないのでなんともだが、アニメから思うのは、世界に対する人々の思いの言葉はそれぞれのポリフォニーとしてできているので、いわゆる神の視点と、各人の思いが言葉で素直に交錯するようすが、視聴者の内面のポリフォニーに対応していくようだ。
 原作は現状アマゾンで売り切れているみたいなので、書店で見かけたら買って読んでみよう。どの棚にあるのかわからないので、「あのぉ、ヴァイオレット・エヴァーガーデンっていうラノベ、どこにありますかあ?」と、俺が、やることになるのだろう。


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2018.02.07

プルーム・テックを吸ってみた 番外編 郷愁の匂い

 村上春樹の小説『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』の題名にある「巡礼の年」は、その物語のなかでも説明されているが、フランツ・リストのピアノ独奏曲集《Années de pèlerinage》の題名である。この小説を読んだ当時の私は、まだフランス語の勉強を開始していなかったし、往々にしてフランス語の単語は対応する英語の単語から意味が類推できるものだが、"pelerinage"という英単語は知らなかった。英英辞書を引いても項目はない。フランス語の単語なのだから、当たり前のことだ。その後、フランス語になじむようにはなったが、この語は語学の初心者が率先して増やす語彙にはない。それでも仏語というのに慣れてくるとその言葉への接し方も変わる。派生の関係で捉えるようになる。《pèlerinage》については、まず《pèlerin》がある。それは「巡礼者」である。ドラクエの主人公も杖を持っているが、まず杖(bourdon de pèlerin)を持ち、そしてわずかな旅の持ち物を巾着袋に入れてぶら下げている、あの姿であり、そこから一本の道から風景が広がり、「巡礼(pèlerinage)」になる。「お遍路」も《pèlerinage》だし、メッカ巡礼(ハッジ)は《Pèlerinage à la Mecque》である。比喩もそこにあり、《pèlerinage littéraire》は「文学散歩」とでもいうか、文豪や文学作品ゆかりの地を旅することだ。そうして、聖地を旅した年月が《Années de pèlerinage》で、このリスト作品も「年月」の含みだが、村上春樹作品では一年という含みになっている。
 そのリスト曲集に《Le mal du pays》がある。村上の作品でもその曲名が引かれ、灰田によってこう語られる。

 Le mal du pays フランス語です。一般的にはホームシックとかメランコリーといった意味で使われますが、もっと詳しく言えば『田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ』。正確に翻訳するのはむずかしい言葉です。

 村上が小説に記すこの説明でいいのか、私にはわからない。ただ、フランス語の初心者でもこの言葉は理解しやすい。似た形の《mal de mer》なら、「海の病」。英語ならそのまま"seasick"である。《Le mal du pays》もそのまま訳せば、「国の病」で、英語の"homesick"でいい。日頃使う辞書『Le Dico』にも「ホームシック」とある。《pays》には「田舎」の含みがあり、《"le paysage de pays"》という言い方もあるので、「田園風景」も間違いではないのかもしれないが、それほど翻訳に難しい言葉でもないように思われる。
 また、リスト作品の文脈でいうなら、この曲に付されたセナンクールの小説『オーベルマン(Orberman)』の言葉に対応し、次の引用の情感を示している。

je crois que j’hésiterais peu ; mais je me hâte moins, parce que dans quelques mois je le pourrai comme aujourd’hui, et que les Alpes sont le seul lieu qui convienne à la manière dont je voudrais m’éteindre.

(仮訳:すべての絆を振り切るかあるいは40余年もそこにしかたなく留まるか、どちから今選ぶべきなら、私は少しためらうでしょう。ですが、慌ててもいません。というのも、この数か月、私は今日のようにすごせます。そしてこう思うのです、アルプスしか私が消え去るに適した場所はないのだと。)

 セナンクールのその小説では、この部分はパリから友人に送った手紙の一部で、オーベルマンはむしろ、都会であるパリの異邦人として、ホームシックを覚えている。つまり、田園風景が喚起する哀しみといったようなものでもない。
 とはいえ、「田園風景が喚起する哀しみ」という表現は興味深い。フランス語で《la tristesse que le paysage de pays est évoqué》とでもなるだろうか。
 いずれにせよ、田園風景を思うと、ある郷愁のような感覚は惹起させられる。遠くで枯れ草を焼くような、ほのかな臭いを伴って。
 と、プルーム・テックに、"Flax"というリキッド入りのアトマイザーを装着して使っていると、そうしたほのかな臭いを感じた。遠い農村、懐かしい畑の広がり……さみしいような悲しいような……。

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2018.02.06

プルームテックを吸ってみた その4

 こんな話を続けるのもどうかと思うし、さすがにこのあたりで一連の話も終わりかなとは思う。今回はどうか。
 前段的な話になるが、先日の朝、とある街の駅近くの陸橋を渡ったとき、陸橋交差がある町というのも昭和っぽいものだなと見慣れぬ風景を見て思い、ふとその階段の足元を見るとたばこの吸い殻があった。いつもなら、歩きたばこをここでポイ捨てとかマナーの悪い人がいるなあ、街の品格が現れるなあとか思うのだが、そのときまず思ったのは、前時代のたばこを吸っている人がこの街にはいるのか、ということだった。もちろん、電子たばこはまだ普及してないし、電子たばこで歩きたばこをする人も僕は見かけたことがない。それでも、自分のなかで、たばこというのはとても古い時代の文化になっている感じがしていた。
 さて前回からいくつか変化がある。まず、比較的本格的なヴェイプを購入した。そして比較的ではあるが、たばこっぽいリキッドを試してみた。で、一服。うっはぁこんなに煙もどきが出るのかという驚き、そして、クリーミーな蒸気のたばこのフレーバーは、うまーだった。なかなかリキッドも選ぶと深みがあるなあ。
 これだと、ずっと以前、パイプたばこを吸ったことがあるが、それに近い感触がある。さすがはヴェイプだなとは思った。蒸気の量や質を変えるために、出力調整やコイルの入れ替えというのができるので、最弱ではあるがこってりした蒸気に調整しなおすと、なお、うまー。これでヴェイプにはまってしまうのだろうか、自分。
 ヴェイプ使ってみて少し困るかなと思うこともあった。蒸気が濃いので、室内で吸うとプルーム・テックに比べて臭いは出る。もちろん、たばこほどではないし、近くでラーメン食っているほどは臭わないので、大したことないとも言えるのだが、まあ、室内に臭いが残るかもしれないのはやだな、と。
 もう一つは、ヴェイプの扱いはめんどくさそうに思えた。加熱用のコイルはそれほど高価ではないが、リキッドを入れるタンクごと入れ替えるにはタンクが高価。気楽にほいほいと多様なリキッドを楽しむとなるとそれりのお値段になる。その上、コイルやリキッドのメンテナンスもそう簡単というわけでもない。このあたり、パイプのメンテナンスとかのめんどくささを思い出した。もちろん、こうした手入れが楽しいんだよという感覚もあるのだろう。
 たばこ風味のリキッドを、プルーム・テック用のアトマイザーに入れて吸ってみた。なるほど、味の深みは落ちる。そもそも蒸気が薄い。が、それほどまずいというほどの変化でもない。あと、こちらのアトマイザーだと一パフが薄い分、リキッドの減りは少ない。これはこれで、いいんじゃね。
 ここでの暫定的な結論は、ヴァイパー専用機はけっこうすごい、というのと、プルーム・テック用のアトマイザーもそこそこ使える。
 というわけで、こちらのアトマイザーで、青りんごのリキッドとコーヒーのリキッドを入れてパフしてみると、うっ、まず。
 ヴェーパーだともう少し濃くなるんで、もう少しおいしくはなりそうだが、そもそも加熱した時点で、こうしたお子様フレーバー系は味が変わるなあ。そこで気がついたのだが、プルーム・テックがカプセルになっているのも、リキッドで加熱後のフレーバーはそれほどおいしくはないということの対応もあるのだろう。どうやら、この手のフレッシュなリキッドは、そのままアトマイザーに入れて使うより、プルーム・テックのカプセルの味足しに使ったほうがおいしい。そもそもこの2つのフレーバーはそれ用に買ったのだけど。
 というわけで、普段使いに気軽に電子たばこというなら、プルーム・テックのほうが楽だし、リキッドによってはこのタイプのアトマイザーでもそれなりに使える。
 あとヴェイプ使って気がついたのだが、プルーム・テックでもドローの空気混ぜのための空気穴があり、そこを指で塞ぐとドロー感が変わるのな。
 アトマイザーを使うようになり、確かにリキッドの面白さというのはあるなとも思った。フルーツ系、お菓子系、たばこ系などいろいろあるが、自分の好みとしてはそれほどミントは好きではない。フルーツやお菓子もそれほど好きでもない。
 ところで購入したヴェイパーはEleaf Istick Trim(参照)という装置だが、手に握って、何か思い出すなと思ったら、ジッポーライターだった。ある程度意識してデザインされているのではないだろうか。季節が暖かくなったら、これもって散策に行って、人の気配のない自然で、ふはっとやったら楽しいようにも思えた。

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2018.02.05

2018年、名護市長選で思ったこと

 昨日、同日開票された名護市長選挙だが、投票率は76・9%、現職・稲嶺進(いなみね・すすむ)氏は1万6931票、無所属新人の渡具知武豊氏が2万389票。結果、渡具知氏が3458票差で当選した。
 率直なところ、自分には意外だった。というのは、1月21日、南城市の市長選挙、現職の古謝景春氏が、翁長雄志県知事が推す無所属新人瑞・慶覧長敏氏に65票差で敗れたことから、翁長知事支持の動向が強くなっているのだろうと想定していたからだ。余談だが、古謝氏は沖縄生活で懇意にしていだいたこともあり、個人的にだけだが、落選は残念には思った。
 名護市長選をどう見るかだが、まず、非常に単純で明瞭なことがある。現職が落選したということは、前任期の施政が評価されなかったということだ。これは、どのような選挙でも言い得る原則であり、名護市長選挙でもまずその線が明瞭になった。
 辺野古の新米軍基地造成の問題を抱えているとして、そこが注視されやすい名護市長選挙だが、住民にしてみると、稲嶺氏の行政は落第だったことは揺るがない。他方、僅差という以上の差が開いたものの、圧倒的な差ではないことから、逆に、稲嶺氏の行政を是としていた住民も多数いた。過去の名護市長選からもこうした、いわば基地問題を軸にしたかのような拮抗の経緯はある。
 名護市ができたのは、復帰後の町村合併によるもので、当初は、革新系の渡具知裕徳氏が安定的に市政を維持し、1986年に保守系の比嘉鉄也氏となり、1995年の沖縄米兵少女暴行事件に端を発した沖縄の激動のなか、普天間飛行場辺野古移設の賛否を問うことになる97年12月の市民投票で反対票が上回ったにもかかわらず、翌年、比嘉市長は六諭衍義の言葉を添えて新米基地受け入れを表明。その代償のように辞任し、実質、当時の市助役の岸本建男氏に禅譲した。
 以降、岸本体制となるが、2006年2月健康上の理由で退任(翌月62歳で死去)。後任は事実上の禅譲でもある島袋吉和氏となるが、この選挙では革新系の分裂もあった。そして、2010年の選挙で島袋氏は、基地移設反対を掲げた稲嶺進氏に、1588票差で破れ、今回の選挙まで稲嶺体制が続く。前回は、稲嶺氏1万9839票、前県議・新人・末松文信氏1万5684票で、稲嶺氏が票差4155票差で勝った。
 前回の選挙の流れで見れば、稲嶺陣営が優勢だったように思えるし、他面、名護市では過去の経緯からも保守系基盤も強いこともわかる。
 今回の名護市長選挙に関するデータで率直に驚いたことがある(ここでは引用できないがOTV報道で知った)。渡具知支持と稲嶺支持の比率が、10代から50代までは概ね6対4で、60代以降が3対7となることだった。単純に言えば、今回選挙権を持った10代を含め、勤労世代に渡具知支持が多く、稲嶺支持は60代以降が多かった(年金世代とも言えるだろう)。
 この世代の亀裂は非常に興味深い。ナイチ(沖縄以外)でも革新系の高齢化が顕著だが、沖縄でも同様の傾向はあるだろう。また、この亀裂はちょうど沖縄の本土復帰時に思春期だった世代に重なるので、日本世(やまとゆ)の傾向とも言えるのではないかと思った。
 

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2018.02.04

[アニメ] 恋は雨上がりのように その0

 ノイタミナは比較的見ることが多いのだけど、今季については関心もっていなかった。が、それなりに話題を聞くので釣られて関心をもった。物語は、17歳の少女が45歳の冴えない中年オッサンに恋する話らしい。あ、パス。きんも。ということだったのだが、まあ、見た。アマゾンで追っかけで見ているので、四話まで。1クールの三分の一、しかも原作はまったく読んでいないという時点でなんかブログに書くということは、これまではしなかったのだけど、なんとなく、この時点だから書いてみたい。先の話はほとんど知らない。
 あらすじ、といっても自分がわかる程度だが、人付き合いが苦手な主人公の17歳女子高生・橘あきらは陸上部のホープ(昭和語)だったが、アキレス腱を切り走れなくなり、落ち込んで佇んでいたガスト風ファミレスで店長・近藤正己バツイチ子持ち45歳に出会い、惚れる。あきらは同店でバイトをはじめ近藤にコクるが、年差もあってまともに扱ってもらえない。近藤としても、自分は終わった中年で少女との恋というのはただ、過去のフラッシュバックを想起させるだけでむしろつらい。というところで、さらに他の登場人物も恋を巡って絡みあう物語、というあたり。
 普通に考えたら、17歳の女の子と45歳うだつ上がらぬ中年おっさんの恋はないというか、普通、援交っしょ、それ、となりそうだが、たまたま作者のインタビューを読んだのだけど、そういう恋もそう不思議でもない。それもそうだなとは思う。きんも、でもないだろう。
 ここであえて視点として自分を持ち出すのだが、今年は俺61歳になるのでもう中年というより爺さん(腰痛え)で、娘があきらと同じという状況に陥っているわけで、そこからすると、さすがに、自分を近藤に重ねるのは、むりぃとなりそうだが、このブログを始めたころは45歳で、もちろん、そのころJKと恋愛などもしてないのだが、45歳はそんなに老いてもいない青春の尻尾を持っていることを思い出せる。し、そういう中年男の情感というか、45歳を中継にして、今でもわからないでもないというのはある。
 そういう男……こないだまで若者だったけどなあ、結婚もしないけどJKとの恋の思いに憧れるぅ、というかそれに近いようなもの抱える40代の男……は、そう不自然なものでもない、と理解はする。他方、繰り返しになるが、17歳の少女がそういう男と恋愛するのも、そう不自然でもない。というあたりでこの作品、とりあえず、ハイティーンの女性と40代入門系の男が、胸キュン的な読者層として想定されているのだろうかとは思った。
 そういう幻想で、先日「[書評] 職業としての地下アイドル(姫乃たま)」(参照)でも触れたが、JKよりやや上でもいいが、30代から40代の男がそうした若いアイドル女性に心を寄せる幻想を持っていてもいい。むしろそういう幻想が一つの、社会受容されるべきエロス幻想となって定着してもいいのだろうと思う。
 ただ、自分なりにそうした幻想への共感の接点があるにしても、その恋情の共感の内部でこの作品を味わうのかというと、そこはどうなんだろうかとは思ったし、奇妙な、悩みのような感覚がある。なんだろうか。
 人は老いても、そう恋愛の幻想から離れられないものだ、と仮に言ってみたい。だから、老いても、過去の恋愛の幻影を若い人に重ねらる、あるいは若くなくてもいいが誰かにそれを重ねる心情というのは、ある。そこがこの作品で自分にとても胸に突き刺さってくる。
 そんなあたりでうろうろ思いを膨らませながら、物語にある、「恋に理由はいらない」、というテーゼのに心が引っかかる。
 「恋に理由はいらない」というのは、それはそのとおりなのだけど、実際には身体的というか無意識的には理由はちゃんとある。この物語で言えば、あきらは一瞬で近藤という男の本質を見抜いていたし、それは恋と同じことだった。だから、むしろ物語は、恋の理由を述べるように、近藤を語るように物語は展開するしかない。
 もう一つ、理由がある。テンプレではあるけど、あきらは近藤の匂いに引き寄せられている。それが恋そのものに近い。恋だけが告げるエロスの匂いというのがある。その匂いのなかで恋が開示されるような何かだ。恋は愛しい匂いから始まるとまでは言えないが、それに近い。
 当然、その匂いのエロスは性交を誘導していくものだけど、この物語では、そこはあえてだろうが、形式的に禁じ手のようになっている。あきらと近藤の思いは双方で内面描写されながら、しかし直接的な性の幻想が物語化されることはない、だろう。
 というあたりで、実はこの物語があやうく成立し、かつ叙情性を持っている仕組みなのだろう。この叙情性が、読者という、恋が失われた人々をやさしく招き入れる戸口でもあるのだろう。歌のように。
 そしてその戸口に人は老いても、幼くても引寄させられる。考えてみればというか、考えるまでもなく、そうして人が恋をするのは、ものすごいことだ。そのすごさの直感はどのような時代でも状況でも作品的に現れうる。


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