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2018.02.03

[ドラマ] このサイテーな世界の終わり

 この二年くらいよくドラマを見ていた。面白さにはいろいろある。ゲースロ(ゲーム・オブ・スローンズ)のように壮大でエロ・グロ・バイオレンスというのもあるし、たらっとしたヒューマンな作品もある(といったもののさてどれだろ)。
 たいてい、いつものことだけど、最近見た作品というのが心に残る。そうした一作として、なんとなく、ふと語ってみたい気がするのは、『このサイテーな世界の終わり』である。原作はアメリカのコミックだが、ドラマ映像作品はイギリスのチャネル4なので、こてこての英国英語が多く、情感の作り方も英国っぽい。
 英語のタイトルは『THE END OF Fxxxing WORLD』で、このENDは「終わり」ということもだけど、"He sat at the opposite end of the table."のように、端っことか、どんづまりという語感がある。物語は、17歳(男の子は18になろうとしている)の男の子と女の子が家でして逃げまって世界のどんづまりまで来た、という含みがあるのだろう。と、いうのがエンディングのシーンでもあるのだろう。
 この物語は、ジャンル的には、ブラック・コメディである。動物とか殺することに関心があることからサイコパスだと自覚している男の子ジェイムスが、なんとなく自暴自棄で自分に関心のある女の子アリッサと一緒に家出し、彼はその渦中に彼女を殺したいと思っている、という設定で始まる。
 二人は学校や社会というシステムに適合できず、アリッサが主導的にヤケクソに逃避行を始める。あれだなあ、『旅の重さ』(参照)を少し連想させるが、それよりは過激だし、情感も違う。
 見ていて、英国風映像のブラック・コメディらしい笑いの作りが心地よいなか、ところどころ、胸にぐさぐさくる。すげー痛い。自分が17歳だったころや、とがった女の子を好きになってめちゃくちゃになっていったころとか、いろいろ思い出して、痛い。とくにジェームスが守られていたのは自分だったとか気づくところとか、うぁ、号泣スイッチ入ってしまう。

 自分は60歳だぜ、爺だよと思いつつ、自分が17歳になる日の午前0時の時計を見つめていたあのころが、がんがん思い出される。がんがん。今の自分がまるでタイムスリップかあるいは異世界に転げてしまったんじゃないかという感じがする。というか、このドラマ見ていると、ほんと、自分のなかに17歳の自分が生々しく生きていて、やりきれないというか、痛い。というわけで、エンディングはノンストップで号泣しちゃいましたよ。ネタバレをする気はないが、これで本当に物語がエンディングなのか、シーズン2があるんじゃないかって、いろいろ期待もできるけど、僕的には終わったと思う。自分も17歳の自分はどこかで死んでしまったんじゃないかって気がする。
 という反面、末子も17歳になるという親としての情感も自分にはある(あるにはあるくらいか)。このドラマ、原作は読んでないが、『HUM∀NS』や『女刑事マーチェラ』とかでもそうだけど、英国的な親の情感がよく出ていて、親として17歳の子供を思う気持ちもまた、痛い。物語は当初、少年や少女の視点に立って、親は糞、とか思っているのだけど、映像の視点はそうした彼らの嫌悪を上手に異化し、そして、物語も上手に親のつらさや愛情の痛みを引き出している。このあたりの、作り込みがうまい。映像もすげーきれい。もちろん、親ならだれも親心があるなんてもんじゃない、リアル糞、というもちゃんと出てきて、これもつらい。総じていえば、親なんていないほうが人生楽じゃないかという気が僕にはする。
 物語は各話30分なので、シットコムに近い。というか、チャンネル4的にはシットコム的な放送枠で作ったのではないか。Netflixとしてもこの30分尺は今後増えそうだし、どうやらその半分の尺もできそうだ。スマホでサクッと見るというニーズが高いらしい。
 そういう意味で、各話はさくさくと進むし、基本のストーリーはアイロニーがあっても単調なんだけど、途中、殺人事件がからみ、これに女刑事二人組がからんでくる。この二人、この一人、ユーニス役のジェンマ・ウィーラン(ゲースロのヤーラですね)の演技が絶妙にうまい。彼女、ベースはコメディエンヌなんですね。というか、彼女の要素がないとこの作品の軸は抜けてしまったんじゃないか。子供の世界と大人の世界の上手な橋渡しという以上に、子供のつらい気持ちをそのまま抱えて理不尽に大人になるっていうことはこういう、なんかねじれた優しさなんだよなと思う。
 音楽もいい。グレアム・コクソンのシンプルで歪んだ感じのギターとヴォイスが作品の映像とよくあっている。

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2018.02.02

プルームテックを吸ってみた その3

 こんな話を続けるのもなんだが、自分にとっても意外だったのだが、思うこともそれなりにあるので、ちょっと書いてみたい。
 で、どうなったか。いくつか変化があった。自分の嗜好が変わったということかもしれないが、ようするにそういう変化がどうして自分に起こるのかが、自分にとって面白いという感じでもある。
 まず、純正プルームテックのカプセルのフレーバーについてだけど、意外にも一番のお気にい入りがアップルミントになった。これには自分でも、あれれという感じ。ただ、少し前段がある。この前段が説明はややこしい。プルームテックの構造に関係する。
 プルームテックは一本のスティックのように見えて、ねじったりひっぱったりすると3つの部分に分かれる①バッテリー、②アトマイザー、③カプセル。
 バッテリーというのはようするに電源。これは規格化されているのかわからないけど、プルームテック互換機でも同じ。つまり、プルームテック互換機というのはバッテリーの互換だととりあえず言っていい(厳密にはわからん)。
 アトマイザーというのは、香水を小分けにして使うときのアトマイザーのように、ミストを発生する装置の部分。ミストの素はベジタブルグリセリン(VG)とプロピレングリコール(PG)の混合液。プルームテックだとこれが綿に染み込ませてあり、これに電熱線を当て、加熱してミストが発生するようになっている。プルームテックではないアトマイザーというか通常のヴェイプだとリキッドに電熱線コイルが接触して加熱するようになっている。余談だが、電熱線加熱ではないが、IQOSやgloのミストも同じらしい。
 カプセルは、これがJTの飯の種で細かいお粉が入っている。たぶん、香料とニコチンをまぜたものだろう。
 3パーツの連携だけど、吸うという空気の動きで電源がオンになりアトマイザーに電気が送られ、電熱線で液を浸した綿をじゅわっと熱して(多分に焦がして)ミストを出し、このミストをカプセルにくぐらせると、ミストにカプセルで香料やニコチンが付着して、うまー、ということになる。
 さて、プルームテックだと、アトマイザーの液はVG/PGだけのようで無味無臭。私が当初購入した互換機だと、アトマイザーの液自体にミントやエナジードリンクの香料が含まれている。つまり、綿に香料液(リキッド)が染ませてある。
 ふう(ためいき)。話がうざかったい。
 JTがなぜリキッドを使わないのかは、カプセルで売りたいからでしょとか、アトマイザーを量産化するためでしょとか、推測は付くが、この間、厚労省の議事録とか読んでみると、審査会ではリキッドの加熱が問題となっていた。VG/PGの加熱でも有害物質が出るが、さらに他の未知のリキッドが加熱されるとどうか不安というものである。特に、アトマイザーが加熱しすぎたり劣化すると有害物質が増えそうだというのがある。
 いまさらながらなのだが、アトマイザーは綿であろうがヴェイプであろうが、電熱線で焦げが発生し劣化するから、消耗品なので、JTとしてもカプセル単位にアトマイザーを売っているわけだ。
 さて、私の場合、互換機のミントアトマイザーのカートリッジの味に飽きてきたので、その綿に、アップルミントのリキッドを足してみた。アマゾンとか見ると、一番売れているリキッドでもあるので、どんな味かなとも思った。で、パフパフ。
 ベースのミントがあるから少しミントが強いが、リンゴ風味はある。このリンゴは青りんご。味は? これが、飴ちゃんですね。リンゴの飴の感じ。まあ、悪くはないし、これはこれで面白いかとも思うけど単純なフレーバー。というのがよくわかったのは、JTのアップルミントと比べたときだ。うはあ、JTやるなあとわかった。こっちのアップルミントは豊潤という感じ。りんご酒とたばこの深みというか、こりゃ、JTの断然勝ち。このリキッド売ってねーのという感じ。ニコチンでその深みが出るというものでもないだろうし(キックはあるだろうけど)。
 で、JTで、うまーがアップルミントになり、オリジナルはうーん、まあ、悪くないけどとなり、コーヒーはちょっとうるさいか、ブルーベリーはコーヒーとかないと要らないなということになってきた。ミントはまだ試していない。
 ついでに、味の抜けたJTのアップルミントのカプセルに青りんごのリキッドを垂らしてみたら、それなりに使えた。プルームテックのカートリッジの味が抜けたら、同系のリキッドを吸口側ら染み込ませ、ちょっとぷふっと吹いて中に送ると、カプセル風味復活。ニコチンは抜けているだろうけど。
 話続く。
 互換機カートリッジのエナジードリンクは飽きた。嗜好って変わるのか、自分が飽きやすいからか。そうこうしているうちに、液に対応するアトマイザーも購入していたので、大麻風味というのをこのアトマイザーでもう一度試してみた。あれ? うまいかも? ほのかというか。どうやら加熱具合によって風味が変わる。
 ちょっと強めのクリーミーなミストだとそれなりに微妙な風味が出て来る。どういうのかというと、あれです、「田園風景が人の心に呼び起こす郷愁」みたいな。なんじゃこれ。遠くで誰かが落葉焚みたいな。とても懐かしい田園風景のような。
 そもそも「大麻風味」ってなんかの間違いだろとラベルを見ると"Flax"なので、ようするに「亜麻仁油」なのでその「麻」で誤解したんじゃないかと思ったのだが、米国のリキッドのサイトを見ると広告に葉っぱがあるので、かならずしもそうでもないのかもしれない。まあ、大麻って吸ったことないし、人の吸ったの見た感じではすっぺーな匂いしかしなかったのでよくわからないが、違うんじゃね。でこれ、テレピンにまぜるリンシードなんじゃねというか、テレピンではないけど、それっぽい感じもする。
 このなんか煙のようなほのかな感じは、たばこのそれとは違うけど、遠くで燃えている感のようなものは似ているかもしれない。そのしみじみ感がわるくない。アトマイザー内の焦げかもしれないけど。
 こうしてニコチン要らねというヴェイプの道を歩んでいるのかどうかわからないけど、だんたん、プルームテックのカプセルはちょっとおしゃれな喫煙もどきという感じで、またフルーツやミントの爽やか香料系のリキッドもそれに似て、まあ、悪くはないけど、心にしんみりというくるなんかじゃないよなあと、現状こんなかんじですか。


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2018.02.01

洋ドラの見方

 洋ドラの見方についてちょっと思うことがあるので、この機会に書いておこうかなと思った矢先に、Netflixに『ER』が15シリーズまで入りました。僕、見てないんだよね。『グレイズ・アナトミー』も一話見たくらいだし、『Lost』も『ウォーキング・デッド』も見てない。『フレンズ』も見てない(というか一話見て萎えたけど)。というわけで、そんなのが洋ドラの見方とかこいても、全然意味ないんじゃないか。まあ、それはそれとして、書いてみますか。


自分に合ったのを見る
 馬鹿みたいに当たり前だけど、洋ドラも自分に合ったのを見たほうがいい。当然、どれが自分に合うかなんだが、つまり、そこを知るが意外に難しい。一般的に言えるのは、人気番組だったら誰が見ても面白いとは言えるけど、そこがなんとも微妙なところ。洋ドラにハマるというのは、人気番組おもすれーというより、ああ、これが見たかったんだよという、微妙にマイナーなところにある、と思う。というのは、というか、ニッチの焼畑農業はどうやらNetflixとかのコンセプトみたいなんで、Netflixが面白いわけです。SF的なのでいうと、メジャーであっほうなNBC『ヒローズ』と、局所的にすごい人気だったけどシーズン2打ち切りとなったNetflix『センス8』の差というか。
 なので、「へ、私を面白がらせるドラマがあるっていうの」という高ビな態度でいつか出会えるといいですね感。

第1話を2回見る
 ドラマはたいてい第1回にいろんな思いを込めて作る。少なくとも12回シリーズの2回分くらいの伏線が潜んでいることもある。そうした細かい部分を理解しようとしなくても、登場人物や世界観に馴染むのにも、第1話を2回見るといい。『THE BLACKLIST/ブラックリスト』とかもけっこうご都合主義でできているように見えながら、さりげなく、レディントンに"It must be good to be home again, sir."とか言わせているが、FBIは彼のhomeとになっている。

シットコムはセンスがあえば
 厳密に洋ドラといっていいかわからないけど、シットコム、つまりシチュエーション・コメディという分野があって、奇妙な状況(シチュエーション)に登場人物が置かれることで笑いを取る、加えて、見ている人の笑いの声が入るみたいなのがある。『フレンズ』とかが典型で、で、これ、見る人の笑いの壺がずれると、うへぇになる。
 シットコムはだいたい30分という時間枠があるらしい。というか、現状だと、いわゆるリビングのお笑いというより、なんだこれ、笑える?みたいな30分ものが増えてきそう。そうした点で最近の一押しはNetflixの『このサイテーな世界の終わり』が良かった。ローティーンからハイティーンに移るときの感覚がびしびし来る。エンディングなんか、号泣しましたよ。っていうか、慢性中二病患者、見るといいよ。
 『アンブレイカブル・キミー・シュミット』も個人的に好み。スゲーおバカドラマなんだけど、これインテリの自虐ネタ満載。

水戸黄門的なのもまだある
 洋ドラってスゲーなあ、変わったなあと思ったのは、村上春樹も絶賛(?)していた『ブレイキング・バッド』で、まあ、僕もこれが洋ドラに地すべりしていったきっかけなんだけど、昔ながらも洋ドラみたいのもけっこうある。マンネリ? というかダラダラ毎週見る系のようなやつ。探偵物とかも。この手のは実に大衆的。悪いかよ。いえいえ。面白いのか面白くないのかわかんないけど、『アンフォゲッタブル 完全記憶捜査』は全部見ましたよ。ポピー・モンゴメリー (Poppy Montgomery)が好きっていうのもあるけど、まあ、めちゃくちゃな作品で、めちゃくちゃななエンディングでした。ま、いいんじゃね。
 個人的にこの手の面白かったのは『メンタリスト』ですかね。レッド・ジョンが捕まってからは面白くないという人がいるけど、私としては、そのあとの長いマンネリ的エピローグがこの物語の核だと思う。愛をなくして、愛を見つける物語なんです。
 メーガン・マークル (Meghan Markle)で、ほえええとなったビジネス系『SUITS/スーツ』も、まあ、お色気ありのマンネリ系でしょうか。たらたら見ていて面白い。ただ、この物語が面白いのは、主人公のハーヴィーやマイクより、リック・ホフマン (Rick Hoffman)演じるルイスでしょう。もうこれはビジネスマンの自虐を究極まで押し詰めた最高の演技です。

字幕か吹き替え
 私は当初、吹き替えで見ていたんですよね。英語聴きたくねぇと思って。なましっか英語聞けるのに、それで十分じゃない、字幕を見ると、あ、意訳だあとか、もう面倒くさくてたまららん。『ブレイキング・バッド』も吹き替え付きDVDで見ていたせいもあるけど、吹き替えで見ていた。『メンタリスト』もそう。まあ、これらの作品だと声優がいいんで、吹き替えでもいいんじゃねという感じはする。つまり、吹き替えをどんだけ真剣にやっているかということ。
 Netflixが独自に吹き替えに頑張っていて、よくやっているなあと思うけど、『ジプシー』のナオミ・ワッツ(Naomi Watts)とか、最初から吹き替えの聴きたくねえ、と思った。そういえば、『ボディ・オブ・プルーフ 死体の証言』も当初、弘中くみ子吹き替えのミーガン・ハントで見ていたのだけど(吹き替え悪くないです)、途中、字幕に切り替えた。ダナ・デラニー(Dana Welles Delany)の低音がイケヴォすぎてたまらん。まあ、これも物語は進展するにつれめちゃくちゃになっていったけど。
 そういえば、WOWOWのとかだと吹き替えで録っても、後で字幕に切り替えできますよ。

すっげー作品がある
 『ゲーム・オブ・スローンズ』とか、すっげー、としかいいようがないんだけど、あのすごさというのは、ある意味、従来的な作品の総合や映像撮影技術の総まとめみたいな感じだけど、そういうのじゃなくて、え?、こんな作品ありなのか?的なのがある。
 その筆頭がNetflix『The OA』。まあ、ストーリーはあるんだけど、語られるすべてがなんというか、入れ子のメタ状態で、真実はなんだかさっぱりわからないし、結局のところいったい何の話なのかわからないけど、とにかくすごい。原案は主演のブリット・マーリング(Brit Marling)自身らしいのだけど、もう天才っていうのだろうな。で、わけもわかんないのに感動もしたし、ムーヴメンツも真似てみた。
 すっげーといえば、『ブレイキング・バッド』が筆頭だけど、Netflix『13の理由』も『またの名をグレイス』もすごかった。『アンという名の少女』もすごかった。『アフェア 情事の行方』もそう。なんだろ、まず、映像と脚本がすごいとしかいいようがない。そしてそれが、存在のぐわわんと奥に突き刺さって、それ見ない人生なんてありえないというくらい。

スマホでも見られる
 洋ドラに限ったことではないけど、アマゾン・プライムとNetflixの作品のいくつかは(けっこうある)スマホにダウンロードしていて、電車のなかとかでも見ることができる。うへー暇ぁというとき、小さい画面で洋ドラとか見ると楽しい。電池食うけど。
 

 ま、そんな感じすかね。私が見た作品のベストランキングとかも思ったけど、『Weeds ~ママの秘密』とか、感動しましたぁとか言っても、そんな日本人少ないと思うんで。

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2018.01.31

[ドラマ] ゲーム・オブ・スローンズ

 ああ、アマゾン・プライムにもファンタジー・ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』(GOT、ゲースロ)入っているなあ。プライムで無料で見られるのはどこまでだろうかと調べると、シーズン6までのようだ。
 私は先日、シーズン7(第7章)を見終えた。シーズン6まで1シーズンは1時間程度の回が10話だったのが、今季は7話と少なかったのが不思議には思えたが、じっくりとペースの変化もなく、大きな括りはあったので、これはこれでよいのだろう。原作が追いつかないという話も聞いたが、それが関係あるにせよである。
 次季のシーズン8で完結するらしい。全話は6話程度だと聞いているが、2時間以上の回もあるらしいので、全体として少ないということはないのだろう。問題は、その次季がいつかだが、来年になるらしい。下手すると次に見ることができるのは、1年半後になるかもしれない。おぉぉぉ、これ見るまで死ねないぞぉ、という感じである。悪い冗談で言うのだけど、自殺防止にいいんじゃないか。ということで、これからすげー待たされるので、このあたりで感想書いておきたい。
 感想。とにかく、すごい。
 人類史始まってこのかた、こんな壮大なドラマってないんじゃないのと思う。もちろん、『指輪物語』も壮大だし、『聖書』だって壮大なドラマだと言えないことはない。ファンタジーではないがトルストイの『戦争と平和』も壮大だし、ヴァーグナーの歌劇『ニーベルングの指環』も壮大である。ただ、なんというのか、そういう古典的な壮大さとゲースロは異質なのである。『聖書』が人類が持ちえたもっとも壮大な物語であるとしても、その壮大さは想像して見ることを迂回しているが、ゲースロはまず見える。そして見えたものが、凡人の想像力のヴィジョンをはるかに超えている。これは、『指輪物語』の映画が三部作で多くても10時間という尺の制限によるのかもしれないが。
 ゲースロの何が面白いのか。率直にいうと、エロ、グロ、暴力がてんこ盛りであること。最初は面食らう。こんなの面白いなんていって見ていたら、なにか感覚が麻痺してしまうんじゃないかという恐れもあったが、ダメだ、圧倒されてしまった(サーセイの処罰シーンとか、よくあんなの撮ったなあ)。そしてその挙句、このエロ、グロ、暴力というリアリティなくしてファンタジーってないんじゃないかとすら思うようになった。ただし、それらがゲースロの面白さの核ではない。
 ストーリーは面白い。シーズン1のエンディングなど、えええっ!という驚きがあるし、その後も、ええええっ!は何度もある。とくにシーズン最終回に。当然、ご都合主義もあるけれど、行き当たりばったり、少年ジャンプの連載続けてくださいよ先生というタイプのご都合主義じゃなくて、ストーリーが進んだあとから考えると、なるほどねえということになっている。まあ、それでもご都合主義はあるのだけど、面白ければいいじゃん。
 世界観もすごい。最初はよくあるファンタジーじゃんかと高をくくってしまいがちだが、いやいや深い。これはあとでもう一度触れる。
 そして、ようやく自分が思う面白さの核だが、愛憎である。人が愛し、憎しみ合う。見ている視聴者もそれぞれのキャラを愛し、憎む、のだけど、この愛しきれない、憎みきれない、このなんともいえない人間性の重みが、すごい。人間って単純な生き物じゃないんだよというのがじんじんと伝わってくる。この側面で言うなら、ゲースロは普通に文学的だし、19世紀文学の正統のようですらある。
 さて、このすっげーゲースロなのだが、これから見る人は、3つの点で敷居が高いかもしれない。ちょっと上から目線的だが、愛好者が増えてほしい意味で、言っておきたい。
 1つは、人物がやたらと多いこと。しかも人物関係、家系図を理解していないと話がわからない。ネットにはいろいろ顔写真付きの家系図や、シーズンごとの相関図などもあるので、シーズン2ぐらいまでは、あれ、これ誰?というときは、参照するといい。それにしてもこれだけ人物がいてしかも関係が錯綜しているのだけど、各シーンごとの人物はきちんと整理されているので、見てて、うぁああ混乱した、というのは意外に少ない、のでご安心を。
 次に、登場人物が多いということの結果でもあるけど、物語を構成するパーツがつねに4、5個同時進行する。これを理解しやすくするには、ゲースロ世界のマップが頭に入っているといい。このマップは、オープニングにも出て来るので、最初はオープニングをなんどか見ておくといいかもしれない。
 そして3点め。ゲースロの世界は、前史がある。この前史について完璧に理解していなければ楽しめないということはないけど、前史は知っておいたほうがいい。幸い、YouTubeとか探れば、紙芝居みたいのがあるから、それを2、3度見ておくといいと思う。
 というわけで、ゲースロ入門書みたいのがあればいいのだけど、というか僕自身欲しくて探したのだけど、見つからなかった。アマゾン・プライムで一気にファン層が広がると、そういう書籍も出て来るかもしれない。原作の翻訳も増えるんじゃないだろうか。
 まあ、くどいけど、すごいよ、ゲースロ。

 

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2018.01.30

[書評] 死生論(西部邁)

 思想家と言うべきなのか評論家というべきなのか、考えてみると少し困惑するが、そうした形容が当てはまるだろう西部邁が1月21日に死去した。78歳であった。天寿に近いだろうとも思うが、その死が自死であったことは、少し重く心に残った。

 西部邁の評論はいくつか読んだことがあるというか、文春系の評論誌などを読むと必ずといってその名前が添えられている。思うに、そうしたポプリを編む編集者はほいと西部の名を挙げ、呼ばれた西部もほいほいと書いていったのだろう。そうした文章はしかし、教養の裏付けと修辞をもってそれなりの散文の体をなしているので、まさにポプリを鮮やかにする。というくらいが、私の西部の印象で、その思想と呼べるものを受け取ったことはなかった。彼の主著も知らなければ、保守と言われるわりにその主義も理解できないし、なにより、その感覚が合わない人であった。対して、私が好む著作家はまずもって自分の感覚が合う。そしてこの感覚の核は何だろうかと、西部の自死に異化されたように思うのは、あるエロスの感覚ではないか。西部の文章のなかに、エロスを感じたことはない。
 その自死でもう一つ奇妙に心に引っかかったことがあった。メディアやネットで西部の自死を深刻に思う人や、追悼する人の多いことだった。では、その思いの核にあるものはなんだろうかというと、私にはわからないというか、空疎であるように思えたのである。多くは、西部と歓談したり、酒を飲んだりという思い出で、せいぜいは保守という趣味を一にできた感興のように感じられた。
 皮肉なトーンで私が書くのは、私のような些細な迂遠な読者でも、それでは西部に少し寂しかろうというような追悼の思いがわいたからである。
 西部の思想や西部の自死を理解したいともさほど思わないし、形ばかりの追悼ということでもないが、おそらく正気で多摩川の橋梁から飛び降りたのだろうその思いを少し察したい。同じく78歳でおそらく同じ場所で投身した牧伸二とは違い、絶望感に追われただけというのでもないだろう。もちろん、西部なりの絶望感の表明ではあっただろうが。
 私はぽつんと取り残される。いや、私などこうした文脈でなんの意味もないのである。少なくとも、私が西部をどう考えるかと期待する人すらいないだろう。だが、それと私のこの感覚の向き合い方の問題は別であり、私は私の思惟がどこかしら求められているのを感じているのだからそれで十分だろう。そこで彼の『死生観』(参照)を読んでみた。
 西部が55歳で書いた作品のようだ。滑稽だが、私もその年齢で拙い本を書いた。誤解される向きもあるが、自意識を表明したくて書いたというより、そのまったく逆で自分の凡庸さを書いてみたかった。そのため、凡庸さに合わせた文体で書いたが、もし別の水準であればもう少し、インテリぶったというか、まさに自分らしい、いかがわしい偽インテリ文体を使ったかもしれない。今それに近いような文体で書いているように。そうした愚にもつかない思いで切り出したのは、西部の同書は、まるでそうした少し気取った自分が書いたような文章によく似ているように、微笑ましく思えたのである。文章というのは、つまり、思念の練り方でもある。ああ、この人は、意外と自分に似た人であったのだなという共感の感覚であり(特に死に必然的にまつわる超越への批判的な視線には共感した)、素直に西部という人が少し好きになり、その好きの対象であるからなのか、この西部君は若いなと思えた。
 それはある意味、ぞっとすることだった。60歳になった私は、55歳で死生を論じる西部邁を若造のように感じられるのである。そのことは、たぶん、これを書いた西部本人でも、その後はそうだったのではないだろうか。
 西部はこのあどけない死生論をその後20年以上も育てていたのだろう。そしてその開花があの自殺でもあったのだろう。本書には、西部のあの自殺が20年も前からきちんと書かれている。道化回しの私などどうでもよいのだが、私はそうした死生論をこの5年育ていることはなく、西部とは違う老いを辿って、死に向かっている。
 普通に書籍として読んで、どうだろうか。おもしろかった。西部も本書で述べているが、自分の死というものを見つめることができるのは、50歳を超えたあたりなので、そうした年齢に近いと思った人は、この本を紐解くと、なるほどね、西部君そう考えるかねという親近感を抱くだろう。多少、そうした親近感から違和となるかもしれないのは、戦争というものへの思いだろう。西部にしてみれば、戦後という時代がその人生に重く影を落としていたが、現在50歳の人間の知る戦後もそして戦争も、ある正しく語られた物語にすぎない。戦争や戦後が人に強いる死のリアリティはないだろう。私も生前、伯父がインパールで死んだことを父のなかに見ることでしか、そうしたリアリティにつながる道はなかった。そういうリアリティへの道はもう今の50代には少ないだろう。
 本書は、以前の私なら、ただの保守趣味の修辞にしか感受しなかっただろう、共同体への思索が興味深かった。彼はこれを「共同作業」「共同の企て(コモン・エンタプライズ)」として深めている。死というのは、唯我論的に厳密な認識論としてだけ捉えられるものではなく、ジャン=リュック・ナンシーが説くように共同体の精神を規定するものである。私の視点から雑駁に言えば、ナンシーを読むようになって、まさにナンシーが批評している轍にある西部の思惟が本書から見えてきた面もある。とはいえ、ナンシーが正しく、西部が間違っているというものでもない。いずれ生死の問題は、共同体との関わり、共同の作業の中で問われるしかない面をどう私たちが受け取るかということである。
 読み終えて、意外にいい本であり、西部邁というのは、モンテーニュのように思索それ自体の意味を知る人でもあったなという評価とともに、当初、読み始めた原点である寂しさのようなものも、もう一度見つめた。彼はこう言う。「人生でいちばんの楽しさは、腹からの笑い、明朗な笑い、つまり哄笑にあるといってよい。しかし私の五十五年の人生で、哄笑にありついたことが何度あるか、まことに覚束ない話だ」 そしてそれが叶わなければ人生は牢獄なのだから、その牢獄を出るべく「無理やりにでも生の哲学を創出すべきなのであって」とつなぐ。
 私はだから間違っていた。西部は自死を自然に老年の生のなかに設置し、共同の企てのなかで多くの人々と談笑していたのだろう。彼の死をそうした面で懐かしむ人がいたのなら、それはまさに彼の達成であろう。
 それでも彼のこの死生論とその自死から伝わる、ある痩せた生の感覚は何かと思う。それは哄笑のなかの忘我ではなかったか。彼のある精神の核は理性的でありながらも、忘我の歓喜をも抑制し続けたのではないか。彼はいつもモラルの感覚を持っていた。そこには、痩せたエロスしかない。もっとエロスがあってよかったのではないか。背徳があってもよかったのではないか。というか、そこにモラルとは異なる忘我の死の受容はありうる。自死というような形を持たないない、惨めな死でもそこで私たちは受け取ることができる。


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2018.01.29

[書評] 男が痴漢になる理由(斉藤章佳)

 書名に惹かれて読むというタイプの本がある。この『男が痴漢になる理由(斉藤章佳)』(参照)もそれである。私は男性だが、なぜ男性の一部が痴漢になるのか、正直なところまったくわからない。こう言うとしらばっくれたように受け取る向きもあるだろうが、痴漢というものにまったく共感的な了解ができない。ついでに言うと、下着泥棒というのもまったくわからない。ただ、これら二種について言うなら、どうやら下着泥棒というのは、日本に特有と言ってよいらしく、基本的に市場価値のないものを盗むというのは国際的にはなさそうだ。そして痴漢もそれに類する日本特有の現象のようでもある。つまり、痴漢も下着泥棒も日本文化的な現象かもしれない。とはいえ、本書を読んでみて、そういう部分の説明として照合するものは明示的にはなかったように思う。

 著者は「精神保健福祉士」で、本書もその経験によって書かれているので、客観的な全体的な分析とは言えない。だが、逆にそうした経験によって裏付けられた部分や、著者の直感などにはリアリティがあり、興味深く読んだ。なにより、痴漢というものへの理解は、部分的にでは深められた。
 そうした部分をいくつか上げてみる。まず、痴漢は「性欲が強いけどモテない男性」ではないというのがある。性衝動が強くて痴漢になったというのではないらしい。また、それゆえにというべきか、痴漢行為中に勃起するというのも半数程度であり、いわゆる性的な興奮を求めるとも言い難いようだ。衝動的であるが、直接的な性衝動とも違うようだ。
 では、痴漢とはどのようなタイプの男性かというと、本書は、「四大卒で会社勤めする、働きざかりの既婚男性」であるとしている。もちろん、くどいが、そうした対象が「精神保健福祉士」としての著者に接しやすいというのはあるだろう。それにしても、本書の説明を追ってみて、概ね、著者のその見立ては正しいように思われた。
 そうした部分をつなげてみる。なぜ痴漢行為が行われたかという点だが、最初に偶然的な事態があり(たまたま女性の尻に手が触れたなど)、それを意図的に繰り返したが罰せられることがないことを学習し習慣化したということのようだ。そのため、当然だが、痴漢であることが発覚しないように彼らは注意を払っているらしい。
 そもそもなぜ痴漢になったのか。このあたりの説明も興味深い。確信として指摘されているとも言えないが、著者は、痴漢は中高生時に始まると見ている。おそらく思春期の性のめざめと同期しているだろう。また、痴漢行為のきっかけは、痴漢からの証言の多くは「スイッチが入る」ということのようだ。身体的な不調の発作が痴漢行為で収まるという事例もある。性衝動とは違うにせよ、抑えがたい、中毒の禁断症状のようなものではあるようだ。
 いずれにせよ、こうした事例から私などに想像されるのは、痴漢というのは、性の意識の目覚めと同時にほぼ決定されていることだ。
 となれば、本書後半で言及されていく、いわゆる認知学習的な更生のアプローチは前提的な限界があるように私などは思える。が、著者はそのような枠組みではなく、痴漢の認識の歪みやそれを助長する日本社会に問題があるとし、あくまでそこに焦点を当てている。(もっとも更生の難しさは含まれてはいるが。)
 率直なところ、それはどうなんだろうかという感想はもった。認識的なアプローチの有効性についてである。本書に挙げられている事例からの私の印象では、痴漢はむしろサイコパスに近いようなものである。その認識の歪みなどもサイコパスが持ちがちな人間観にも近いように思える。ここでは原因と結果は逆のように思えたのである。
 必ずしも著者の意見に納得したわけではないにせよ、本書を読んで、学ぶ点はいろいろあった。なかでも、なるほどと思えたのは、痴漢のティピカルな像が「四大卒で会社勤めする、働きざかりの既婚男性」であるなら、それはつまり、普通の家庭の「お父さん」だと言ってもいいだろうということだ。そのため、痴漢という問題は、対象となる女性の被害の問題は当然だが、加えて、「夫」「父」が痴漢であることを家族がどう受け止めるかという問題にもなる。これは、「家庭」という枠組みのなかではなかなか受容しづらい課題でもあるだろう。
 さらに延長して言うなら、個人の認識の歪みや、社会通念の歪みというよりも、日本の家族というある種の強制力のなかに、痴漢や下着泥棒を生み出す構造的な誘因があるのではないか。

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2018.01.28

[映画] モアナと伝説の海

 見ようと思って見落としていた映画は何かなと候補を見ていて、『モアナと伝説の海』(参照)が気になった。これもなんとなく機会を逸して見ていなかったのだった。『アナ雪』のほうはかれこれ4、5回は見たというのに。

 『モアナ』はどうだったか。見終えて何より、ああ、これは非の打ち所がない作品だなと思った。ポリネシア世界をよく研究している。ハワイのダンスの動きやメンタリティもよく考慮されている。なにより美しい映画だった。水のきらめきや南方の植物のリアリティなど驚嘆すべき仕上がりである。主人公のモアナの肉体表現、肌の質感などもすばらしく、自然なエロスが十分に表現されていた。笑いもよい。マウイの滑稽さもよいが、ヴィランズとしてタマトアの話芸と歌は最高だった。肝心のプロットも悪くない。ひねりは効いているし、メッセージ性はある。
 が、奇妙なものだ、これだけ完成度が高い作品だとそれ自体が、微妙に欠点のようにも思えてくる。『アナ雪』のもっていた奇妙さ、ズレ、本当は何が言いたいんだろう?これ制作過程でなんか紆余曲折変わっていったんじゃないの感あるよな、といった奇妙な違和感が『モアナ』にはないように思えた。そのことは、ヒロインである「モアナ」の魅力を少し弱くしているようにも思えた。もちろん、モアナは優等生でも潔癖でもないし、ラプンツェルのようにくだくだ内省もする。ヴィジュアルのキャラクターはすばらしいが、その内面性の魅力は私にはむしろラプンツェルより弱く感じられた。こうした完成度の代償は、悪が悪として残る毎度のデズニーらしさを意図的抑えたことにもあるのかもしれないとも思えた。
 まあ、いい作品だけど、歌もよかったけど、なにがなんでももう一度見たいという強い情感は自分には残さない。もにょんというわけでもないけど、薄いかなと。
 で、一晩経った。自分だけかもしれなが、映像作品というのは、一晩寝ると感覚が変わる。夢とかで無意識がなんかやっているのだろう。で、今朝どうだったか。昨日の感覚と変わって、『モアナ』、いいんじゃね、という感じが濃くなっていた。
 プロットはひねりはあるものの、ドラマティックというほどではないし、『指輪物語』のパロディのようにも思えるし、ゆえにメッセージ性も深みもそれほどはないかなと思ったのだが、朝残る、一番のシーンは、マウイが死を意識してそれでも踊るところだった。モアナにほだされて死んでもいいかというところで、その意識の頂点でただ踊る、そういう精神というものがある。そしてその精神の純化は、「ほだされる」というアイロニカルなものではなく、モアナの愛なのであろう。
 この物語、モアナ自身が、なぜ私が海に選ばれたのかという自問があり、その答えは、それほどは明示的には打ち出されていないのではないか。しかし、一晩寝てみると、わかった。モアナは、マウイを愛することができるからだった。なぜモアナがマウイを愛せるかというと、マウイの原罪ともいえる、人間への愛に、人間が答えなくてはならない、その答えそのものの象徴だったからだろう。
 そして、マウイを愛せることが、テ・カァを愛せることであり、テ・フィティの心とはモアナ自身であるからだろう。そして、テ・フィティが蘇ることは、海の民の再生であり、マウイなるものを再びそのなかに循環させることでもあっただろう。そうしてみると、原罪は、マウイが人によって捨てられた悲しみにあるとしてもよいだろう。
 こうした原罪と愛と許しの関係は、キリスト教的でありながら、キリスト教とは違ったポリネシア的な神聖のダイナミズムだろう。意外に難しい作品かもしれないし、作品自体の難しさというより、ポリネシアの精神性それ自体の深淵でもあるだろう。
 ポリネシアに繰り出す船は、台湾を起点としていたらしい。それは一部は沖縄にたどり着き、沖縄から黒潮にのって日本列島にも来た。しかし、日本の王朝はおそらく、それとは別に、越から山東半島、済州島という経路でやってきたものではないかと思う。他方、日本人のミトコンドリアDNAに残るのはバイカル湖あたりからやってきたものだ。日本人という民族の多層性とその無意識的な精神性の多層性は、書き留められた歴史や権力の制度によって覆われている。しかし、私たち日本人の無意識の、内在的な多層性は生きている。
 その感覚は、自分にとってはモアナへの愛情や沖縄への愛情につながっている。

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