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2018.01.27

「ポプリ」って何? 

 何かを知って驚くというのは、知ることの楽しさの一つで、最近そういう経験をしたのは、非常に些細な話題なのだが、「ポプリ」って何?ということだった。自明だと思っていたのだ。ポプリってポプリでしょ。あの、ドライフラワーをガラスの器に入れてその芳香を楽しむというあれで、IKEAとかにも売っているから、世界中にあるんじゃないのと思っていた。もちろん、フランスにもあると思っていた。NHKの『旅するフランス語』でセーヌ川沿いのポプリ調合専門店があった。なにより、「ポプリ」って「ポトフ」じゃないけど、もとはフランス語でしょ?
 「ポトフ」は、pot-au-feuで、つまり「火にかけた鍋」、火鍋というベタな意味で、「ポプリ」の「ポ」もpot、つまり鍋。え?鍋?
 というあたりで、あれれ、「プリ」って、もしかして、pourriじゃないの。原形は、pourrir、だから、finirと同じ第2群規則動詞。pourriは過去分詞。ええっ? つまり、例えば、L'argent l'a pourri.のように使う。「金があいつをダメにした」、というわけで、「ダメになった 」とか、「腐った」という意味で、すると、pot-pourriって、「ダメ鍋」「腐れ鍋」むしろ「闇鍋」。は?
 この関心の発端は、フランス語の授業。フランスでチョコを買うというとき、箱入りもあるし、包に入ったのもあるし。という話で、パケ(paquet)の他に、「包」があって、それsac(カバン)より小さくて、sachet(サシェ)ですね、とフランス人先生の説明。
 それ聞いて、ああ、「サシェ」だよなと私は思ったのだけど、日本人が「サシェ」という言葉を聞くと、あの、ポプリのサシェだよね、匂袋というか。そこで、フランスでも、サシェってポプリのことかなと質問すると、あれま、ワンダーランド。
 フランス人の先生がそういう限定的な意味は知らないという。サシェは小さい袋だけど、特定のものではないらしい。そっから、ポプリの話になったら、どうも話が通じない。私のフランス語がつたないせいかなと、綴り書く。なんだか理解して貰えるのだが、その言葉の意味は、どうやら、バラエティ音楽というか、日本語でいうところの「メドレー」のことらしい。サーカスとかでもあるし、文学でもいろいろな文章を集めた雑文集とか、それから、いろんなもの入れる料理もあるらしい。
 うーむ、なんじゃ? それは、「闇鍋」じゃないのか。
 いずれにしても、どうやら、日本人が「ポプリ」って想像しているものと、フランス語のそれは、一般的には、かなり違うようだ。もちろん、NHKの番組でポプリ店があったけど、あるにはあるんだろう。
 授業のあとで少し調べてみた。

 辞書(Le Dico)でこの言葉を引くと、①メドレー、②ポプリとある。いちおう、日本語のポプリの意味もあるにはある。ヴィジュアル辞書を見ると、いわゆるポプリの写真にPot-pourriと書いてはある。
 Wikipediaにもフランス語の項目でいちおうPot-pourri (botanique)はあるので、フランス人でも知っている人は知っているのだろう。が、辞書でも二番目の意味だったし、あまり一般的ではなさそうだ。
 フランス語の該当項目を読んでみると、もとはスペイン料理のごった煮である"olla podrida" (olla=pot, podrida=pourri)によるらしい。そしてこの言葉は英語圏で意味が再利用されたふうに書いてある。英語圏でも寄せ集めの意味らしい。はて?
 英語の項目を読むと、別の話になっている。それによると,17世紀フランスで、花を壺につめて香りが出るように発酵させたとある。それって、つまり、まじで、「腐れ鍋」だからpot-pourriってことか?
 どうもポプリの歴史がわからない。「匂袋」というなら、古代からあったのだろうが、なんで、ポプリがpot-pourriなのかがよくわからない。ただ、なんとなくだが、日本語の「ポプリ」は英国から入ったっぽい感じがする。
 ここで、あれ? それって、pomanderじゃないの?と思う。で、それってフランス語?と思うが、発音がそれっぽいのにスペリングがそれっぽくない。フランス語なら、pommandeurか?って思って、いや、これ二語でしょと調べると、語源は、pomme d'ambreである。「琥珀のりんご」。調べると、どうもこれも瓶詰め。調べていくと、pomanderとポプリは同じものだったとしか思えない。ちなみに、pomadeはフランス語でpommadeで、軟膏の意味。どうもpommeが関係しているなと調べてみると、もとはイタリア語で、リンゴを軟膏状にすりつぶして作ったらしい。
 まあ、話はそれだけ。結論、フランスにもポプリはあるけど、一般的な意味は、音楽のメドレーらしい、ということか。


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2018.01.26

プルームテックを吸ってみた その2

 前回の続き。プルームテック互換機でニコチンなしで香り(フレーバー)のついた煙もどきを吸っていが、たまたま知ったのだが、もうプルームテックのカプセルがどこでも買えるので、アップルミントとコーヒーのフレーバーのプルームテックを吸ってみた。そこまでが前回。
 その後、2種類足した。レギュラーの「メビウス レギュラー フォー・プルームテック」とブルーベリー・フレーバーの「メビウス パープル・クーラー フォー・プルーム・テック」も吸ってみた。ミントはまだ吸っていない。
 どうだったか。基本のブラウンだが、ネットなどでは、物を燃やした臭いとか言われていたが、自分で吸ってみると、「あ、これ、たばこだよ」と思った。奇妙に懐かしいのである。もう30年くらい前になるが、パイプたばこを吸っていたときを思い出した。たばこって、クールスモーキング(パイプたばことかでできるだけ低い温度で蒸して吸うこと)にすると、葉っぱの味わいが深くなる。その味というかフレーバーを思い出した。つまり、これ、たばこ本来の味わいに近づけようとしているだなあ、ということ。なので、「ああ、これ、うまー」とか思った。
 あかん、これで立派な喫煙者じゃないか。このブラウンの味、どのくらいの人に受けるのか。現在、メビウス、つまり昔のマイルド・セブンだが、その愛好者にどれだけ好まれるか。どうなんだろう。自分自身、マイルド・セブンを吸って、うまいとも思わなかったので、そのあたりのズレはどうなんだろうか。とま、いろいろ思った。いずれにせよ、私にはこのブラウンのカプセルは、お気に入り。フレーバーの抜けは早い印象。たぶん、リピートするだろう。
 ブルーベリー味はどうか。最初、「うへぇ、これ、ガムじゃん」とか思った。「ブルーベリー味のガム噛んたほうがマシじゃねえ、これはないわー」と思ったのである。というわけで、買ったものの、これ吸わないだろう、ということにしていたのだが、コーヒー、ブラックだけど、飲んでたとき、「あ、これにあのブルーベリーのプルームテック合うんじゃね」と思いたち、試してみると、ばっちり合いましたね。コーヒー飲みながら、ブルーベリー味のプルームテックは、うまーです。ただ、そんなには吸わないでしょ、この味は
 その後のアップルミントだけど、慣れると、普通においしい。紅茶に合う感じ。最初のアンモニア感は弱くなってきたせいもある。リピートするかは、まだ微妙だけど。
 コーヒーフレーバーは、普通にうまい。ブラウンの基本を吸ってみてわかったけど、このコーヒーというかチョコっぽいのは、基本の味の延長にある。そして、これもあれだなあ、パイプたばこの味を思い出す。フランス料理とか肉料理とか食ったあと、ぷはーとすると一段とうまーな感じがある。気に入ったのでこれもリピートするかも。
 ということで、すっかりプルームテックにはまって、喫煙者になってしまった感はある。実際プルームテック吸ってから、ニコチンなしのミントやエナジードリンク味に戻ると、なんか足りない感がある、そこはニコチンかな、よくわからない。ニコチン、体に入っているという実感はない。(肺に吸い込んでないせいもあるが、口内である程度は吸収されるだろう。)
 中毒性のあるニコチンなんかわざわざ摂取することもないように思うが、人間の愚行権というか、そのくらいのおバカも許容ではあるだろう。コーヒーのカフェインや塩(日本人の塩摂取はたぶん中毒)など比べて、プルームテックでのニコチン摂取がどのくらい健康に悪いか、よくわからない。
 今のところ、禁断症状はない。比較としてだが、IQOSの一回が、6分または14パフと決められているが、それに比較してプルームテックが多くなりがちかというと、まだペースはつかめないものも、そんなでもない。プルームテックのいいところだが、吸い始めていつやめても、まったく変わらない。2パフして終わりでも問題ない。
 これも、今のところではあるが、外に持ち歩きたいということもない。もし外出して吸うとなると、現状から想像して喫煙所ということになるが、これを言うと苦笑されるだろうが、喫煙所のたばこの臭いに私は耐えられない。喫茶店の喫煙コーナーにこもってプルームテックを吸いたいとは微塵も思わない。なにより、たばこの臭いが、衣服に付くのが嫌だ。たばこの臭いのする人とエレベーターご一緒するのも、嫌だなと思うほど。なので、考えてみると、プルームテックを外で吸う場所がそもそもない。歩きたばこみたいなみっともないこともしたくない。
 JTとしては、プルームテックは通常の喫煙とは別ということで、吸ってもいいよの喫茶店を増やしたい方針だろうが、広がるものだろうか。プルームテックを吸っているところを見ると、まだそれほど普及してないせいもあるが、普通の喫煙と同じに見える。
 話が前後するが、プルームテックと、ニコチンなしの煙もどきのヴェイパーの場合と比べると、プルームテックのカプセルの構造状、吸い込み(ドロー)がきつくなり、意外と吸うコツが難しい。そして、煙もどきもヴェイパーに比べて少なくなる。
 さて。この間、それらとは別にというか、各種プルームテックのフレーバーを吸うようになっていちいちカートリッジとバッテリーを付け替えるのも面倒くさくなったので、バッテリーを2器追加購入した。複数フレーバーを楽しむならバッテリーが複数あったほうが便利。現状、純正プルームテック器を使っている人も、互換機バッテリーを増やすと便利じゃないかな。
 そしてわかったのだが、バッテリー自体よりもバッテリの通空スイッチ構造の差だと思うが、バッテリーごとに使い勝手に差がある。純正プルームテックのバッテリーだとどうかよくわからないが、意外とこうした差があるものだなと驚いた。また、これに合わせて吸口を20個追加した、こんなの要らねと思ったが、カートリッジが複数になったので、吸口も多いと便利なものだ。
 それと。そもそも煙もどきヴェイパーの機能はどうだろうかというか、リキッドで楽しむほうはどうだろうかと、リキッド用のアトマイザーも買って試した。フレーバーはすでに買っておいたFlaxのリキッドを試してみた。これ、ほぼ、無味乾燥。つまらんと思ったが、逆に無味乾燥なら、これを基軸にして、プルームテックでカプセルが余ったとき用のカードリッジの代替に使えるなと思った。このあたりの構造の説明は読んだだけではわかりづらいかとは思う。別の切り口でいうと、プルームテックやヴェイパーはいろいろ使い込みの道具の扱いに慣れる必要がある。解説本でもあるといいかも。もっとも、単純にプルームテックだけ楽しんでいるなら、簡単だが。
 今後、別フレーバーのリキッドを試してみるかというと、まだそんな気分でもない。ミントとエナジードリンク味のヴェイパー・カートリッジは十分あるし、プルームテックも気分でリピートするくらいだろう。どこでも買えるし。それにそもそも、このおもちゃに飽きてしまうかもしれないし。
 話がくどいが、プルームテックの利用者は喫煙者なのかというと、プルームテックのカプセルにニコチンが入っている以上、喫煙者というほかはない。だが、おそらく副流煙の被害とかも、タールもないし、近くで誰かが吸っててもほとんど臭いもない。これで公的に喫煙者と言えるかというとどうなんだろ。健康被害についても、いちおうニコチンの中毒性からたばこの警告を継いでいるが、医学的な根拠があるわけでもない。案外、たばこよりも健康に悪いのかもしれないが、数年先を行っている欧米でも深刻な報告もなさそう。あるいはさらに案外だが、健康に良い可能性もまったくゼロでもないかもしれない(なわけないだろと言われそうだが)。
 それはそれとして、タバコのような煙をふぱーっとやって、フレーバーを楽しむというのは、ふつうに楽しいものだなと思う。


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2018.01.25

失敗している「ナッジ」がなぜそのまま放置されているのか?

 「ナッジ」についてはあとで触れるけど、冒頭はまず簡単な話から。
 電車に乗っていると、妊婦に席を譲りましょう的な絵を見かける。対象は妊婦ばかりではないけど、ここではその妊婦を表したシンボル絵について思うのだけど、こうした図画はたいてい、お腹がぽってとしている状態を表している。つまり、妊婦=お腹が張った人、という認識によっている。ところが、席を譲ってほしい妊婦というのは、必ずしもお腹がぽってっとした妊婦ばかりではない。『嫁はフランス人 2』(参照)で著者の西さんのパートナーであるプペさんが言っていたが、お腹が目立たない時期のほうが立っていてつらいということがある。
 話を簡単にすると、妊婦に席を譲らせるということを市民に促したいなら、この図は、間違っているとまではいわないけど、失敗している。
 ちなみに、こうした、社会的に好ましい行為を強いるのではなくそれとなく促すことを「ナッジ」という、と仮にここで理解しておいてほしい。
 つまり、電車内で妊婦に席を譲るということをナッジするには、あの、お腹が張った図は失敗していると言っていい。
 ではなんで、失敗したナッジが放置されているのだろうか? これにどう対応したらよいのだろうか。
 一つには、あれは失敗していない、という意見もあるかもしれないけど、まあ間違いでしょう。普通に考えると、ナッジの効果より交通機関として配慮したような口実ができちゃうメリットがあるからではないかな。「免罪符」みたいな(歴史的な免罪符の意味ではないけど)。
 ちなみに、あのナッジが失敗していることの代替案として、Lineで伝えるという仕組みも考案されているけど、そこまでLineは公共インフラとは言い難い。また、マタニティー・マークも考案されているけど、どうやら実態はとんでもない状態になっていそうだ。マタニティー・マークというナッジも失敗していると見てよさそう。
 さて、こうした問題、どうナッジしたらよいのだろうか。
 「私は妊婦なので座りたいです」と、先の書籍にあったプペさんのように明言するとよいとはいえそうだけど、そのハードルを低くしかも円滑にするためのナッジなので、やはりナッジをどうするかという問題は残る。
 この問題は、僕には未解決。
 もう一つ、このナッジは失敗しているなあというのではないけど、いったいこのナッジはなんの意味があるんだろうかと、そもそもナッジなのか、困惑したのが、先日、政府が中長期的な指針として打ち出した『高齢社会対策大綱』見直し案で、公的年金の受給開始時期を70歳を超える選択肢も可能とする方針についての報道だ。
 NHKの報道では、70歳を超えて貰うとこれだけ貰う金額が増えますよと、他の選択と比較して図で示していたが、はて、これだけど、市民は何をどうしたらいいの? もちろん、それは各人が決めなさいということで、NHKはその決断のためにわかりやすい説明を提供しています、ということなんだろうけど、まあ、無理だよね
 こういうのこそナッジが必要になるはずなんだけど、この件についてのナッジは見かけなかった。
 自分も60歳になって年金どうするのという時期になったからよくわかるんだけど、僕なんかも一応申請すれば、この年齢で公的年金(まあ、笑うというくらいの額なんで深刻な問題でもないけど)貰おうとすれば貰える。で、もちろん、早くから貰うと、例えば80歳まで生きたとき、トータルで貰う額は少なくなるらしい。そうした図みたいのも解説資料として送付されていた。
 で、じゃあ、僕はどうしたらいいの?
 ここでもそんなの自分で決めろよといことだろうけど、これ、おそらく各種の条件下を整理すると、有利なパターンが存在するはずで、それにそったナッジが設計できるはずだと思う。
 たとえば、一つすぐに思うのは、80歳まで生きると総額が増えるとはいえ、健康寿命を終えて貰えるお金にどれだけの意味があるのかというと、たぶん、少ない。そう考えると、今のうちに楽しく散歩して一杯のコーヒーが飲めるお金を補助してもらったほうがましとかになりかねない。そのほうがよいかも。あるいは、早期に年金を支給して後期高齢者になったら年金ではない補助に切り替えられるようにするとか。
 他方、某氏のように公的年金なんて要らねえ、という人は年金を実質キャンセルするようにして、その分、「あんたは偉い」って褒めてあげる制度を作って、そこにナッジするとよいはず。
 はて、とまあ、こんなことを考えて思ったのだけど。
 これ、つまり、「あなたが選びなさい」ってやると、「うーん、私は80歳まで生きたいからその願いを込めて、支給を遅らせてもいいや、貰う分も全体で増えるし」というのを結果的にナッジしていることになっているのではないか?
 つまり、ナッジとして考えると、各種の解説報道は、結果的にだけど、政府を助けて、国民を困らせる、マイナスのナッジ、ナッジの逆になってんじゃないの?
 そして加えると、「自分たちで考えなさい」ってやると、ろくでもない人たちが、「よっしゃ、わいが考えて愚民に正解を与えてやる」とか「安倍政権の言ってることは全部嘘だ、年金制度なんかそもそも信じてはいけない」とかで、さらに、ロクでもないナッジが巷にあふれることになる、というか、すでにそんなのばっかだよな。まあ、例をあげるとぶっそうなんで控えるけど。
 こういう阿呆で間違ったナッジを抑制するためにも、妥当なナッジを政策として打ち出したほうがいい。
 もちろん、そのなかには「あなたのうちこれこれの何人は70歳まで生きられる確率は少ないです」というのを、上手にナッジ的に理解させる必要があるだろう。
 難しいか。
 そのあたりに、ナッジの限界というのがあるのだろうか。
 困ったねえ。
 さて、このナッジだが、昨年のノーベル経済学賞(銀行賞)を授与されたリチャード・セイラーが考案したもので、賞の理由としては、従来の経済学の基底にある合理人ではない想定から行動経済学を築いたということなんだが、これ、そういう学問的な文脈がニュースで話題になったけど、いちおうノーベル賞っていうのは、人類に役立つという含みがあるんで、そういう点で強調すれば行動経済学というより、不合理な人間が阿呆で社会的な損をしないようにかつ、その人の自由を侵すことないようにナッジするにはどうしたらいいかという問題提起が重要だった。すごく簡単にいうと、ノーベル賞の意味は、為政者や官僚はまともなナッジを市民に与えろ、ということだ。
 というわけで、リチャード・セイラー(共著)の『実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択』(参照)を2009年にも紹介したけど(参照)、10年くらい経った今でもあいかわらず重要な書籍なんで、こうした失敗したナッジが溢れてきた現在、できるだけ多くの人が再読するとよいと思う。少なくとも、よいナッジを政策に含める異議はよく理解できるようになる。

 

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2018.01.24

[映画] LOGAN/ローガン

 X-MENの映画は全部見ているし、ウルヴァリンのファンなので、『LOGAN/ローガン』(参照)を見ないわけにはいかないはずが、ほとんどちょっとした手違いで見る機会を逸していた。そしてDVDになったとき見るはずが、なんとなくだらっていた。というところでこれもアマゾンからの推しがあって見た。面白かった。

 もう単純に面白かったと言いたいところだし、とりわけ、もにょん感もなかった。痛快・爽快というのでもない。なんだろう。心に引っかかったことはいくつかあった。まず、ああ、ウルヴァリン死んじゃったなあ、悲しい。ということである。そして、プロフェッサー(チャールズ・エグゼビア)も死んでしまった。これもしみじみ悲しい。……このくらいはネタバレというものでもないだろうし、この映画、シンプルにできているので、さしてネタバレという要素もなさそうに思える。というわけで、話を続ける。
 ウルヴァリンの死は、いや、ほんと悲しかった。エグゼビアの死も悲しかった。どうしてこんなに悲しいのかというと、これまでX-MEN、全部見てきたからというのもあるけど、あの耄碌感が、よいのである。なんせ、X-MENを見ながら、俺も年取ったわけだよ。最初のは2000年だよ。みんな年取るよなあ。そして、年取るとそれなりに耄碌するわけで、ローガンがほんと駄洒落じゃなくて老眼鏡しているシーンとか、よいなあと思った(ちなみに自分は老眼ないが)。かつてのヒーローが老いぼれてダメになってくたばっていく。これだよなあ。
 子役のローラ(ダフネ・キーン)もよかった。まあ、この少女パターンは『レオン』『キック・アス』もそうなんだけど、そういうパターンを超えて、ダフネはぐっとくる。素でワイルドな感じがしてたまらん。当然、アメリカ映画やドラマの呪いともいえる父と娘のパターンもあるのだけど、さすがにウルヴァリンが自分の娘かあと心打たれるところは、泣く。娘を持った男は泣くよな。
 と、だらだらと書いているのだが、なにがこの映画を際立たせいるのだろうかと考えて、X-MENシーリズでこれ唯一のR指定(R15+)だからというのは大きいなと思った。「こういう作品を作りたいんだ」という制作の意図とレーティングというのは、当たり前だが、強い関係がある。
 というか、個人的には、『ゲーム・オブ・スローンズ』(GOT)を見てから、もしかするといかんのかもしれないけど、感覚が変わってしまって、なにかといろいろ見ながら、「ああ、ぬるい」「エロくない」「ゆるい」とかぶつぶつ言うようになってしまった。そういえば、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンが亡くなったが、『ゲド戦記』も、ぬるいアニメじゃなくて、GOTなみに作るとどうなんだろうと思うのだけど、ゲドだとエロはないだろうなあ。
 エロや暴力や、PC(政治的正しさ)なんか気にしない作品が見たいのかというと、なんかどっかでぶっちぎれてしまって、当然だろ、それ、見たいよ、という感じがする。このことは、他面でいうと、民放テレビのように広告で成り立つコンテンツの限界でもあるだろうし、公共放送でも同じだろう。というわけで、テレビ? はあ?要らねーという感じ。
 くどいが暴力やエロのメディアに掻き立てられている自分というのは、どうなんだろうかと思うが、実際に、この映画とか見ると、そこでしか伝わってこない何かはある。

 

 

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2018.01.23

[書評] フランス現代史 隠された記憶(宮川裕章)

 56歳過ぎて始めたフランス語だが、フランス語はラテン語とは異なり、現在でもフランスを中心に話されている言葉である。そうした生きている言語を学ぶのであれば、書籍やオーディオ教材ばかりを使っているのではなく、ちゃんとネイティブのフランス人から直接学ぶべきだろう。ということで、昨年から語学校や大学が提供している語学の講座に通ってネイティブのフランス人からで学ぶようにしている。フランス語の授業というより、全部フランス語で行われる授業なので、それなりにタフではある。

 いくつか講座を取った。基本は会話が中心だが、購読的な授業もあったほうがいいと思い、「A la page 2017」という読解中心教材を使う講座も受講した。文章のレベルは仏検準2級程度なので、それほど難しい文章ではない。内容は、現代フランスを知るための多面的な題材を扱っている。授業ではさらに関連事項の説明や補足説明、時事の関連、ディスカッション、またネイティブとしての感覚を伺うといった、教本からは学べない部分も多く学べた。結果として非常に興味深い授業で、フランス語だけではなく現代フランスを知る上でとても勉強になった。いっそう、フランスという国や文化に関心を深めた。
 そうした一面にあるのがフランスの現代史である。自分ではそれなりにフランスの歴史は知っているつもりでいたが、そうでもないなあと反省することになった。しかたがない面もある。フランスの現代史も、日本の現代史同様、時代ともに刻々と受け止め方が変わってきているからだ。特に、戦争にまつわる傷跡のようなものは、意外と1990年代以降になってようやく形を整え、フランス政府も後追い的に対応するという展開になっている。日本だと、歴史の反省はドイツやフランスのような先進国にはるかに劣るという論調が目立つが、実際そうである側面が多いには違いないが、そう単純なものでもない。フランス現代史にも、暗部という言い方は正しくないが、以下言及する本書副題に「戦争のタブーを追跡する」とあるように、一種、タブーのような部分がある。
 フランスのそうした側面について、ある程度まとまって知りたいと思って手にしたのが、この『フランス現代史 隠された記憶(宮川裕章)』(参照)である。読後の印象からすると、取り上げられた話題については、非常にバランスよく記述されているし、なにより新聞記者である筆者が足で稼いだ話題も多く、充実した書籍になっている。もちろん、「戦争のタブー」としながら、ベトナム戦争関連など取り上げられていない話題もある。
 全体は、第一部の第一次世界大戦と第二部の第二次世界大戦に分かれている。が、1960年代の話題になるアルジェリア問題についても第二次世界大戦のドゴール将軍の文脈で語られている。
 この構成についてだが、レマルクの『西部戦線異状なし』など考慮すれば意外なということでもないが、フランスにとって「大戦」というのはなにより第一次世界大戦を指すらしい。この本書の起点の認識は重要に思えた。そこが現在のフランス人にとって、現代という区分の始まりでもあるのだろう。その点、日本を対比すると、日本では第一次世界大戦の意義は弱いだろう。
 そしてフランス人にとっての第一次世界大戦という時代のシンボリックな人物が「ジャン・ジョレス」というのも、興味深い指摘というより、的確な指摘に思えた。私たち戦後の日本人は、できるだけナショナルな視点を避け、世界をつい公平な視点から見ようとしがちだが、むしろ世界的に公平な視点というのは神の目のような視点ではなく、各問題の連鎖のなかで民族がどのようにナショナルな視点を形成していくかという、ある種、ネットワークのような構造をしているはずだ。
 第二部の第二次世界大戦の話題になると、戦後世代の日本人にとっても同時代性の感覚が生じてくる。特に、戦後、連合国が生み出した日本にしてみると、枢軸国への忌避はその国家原理にも近く、これに微妙に日本人の戦争被害的な感性が核問題で交差する。フランスも枢軸国ナチス・ドイツの被害者的な感性を持つし、なかでもユダヤ人迫害については、その悪の部分をすべてナチス側だとしたくなる。本書第四章「ユダヤ人移送の十字架」も基本的に従来からのそうした感覚の文脈で書き出されていくのだが、この章の終わりで、フランスはナチスに反対し抵抗してきたという「レジスタンス」が神話であることの言及が含まれる。史実を丹念に追っていくと、第二次世界大戦時のユダヤ人迫害は、フランスがナチスに占領されて余技なくされたものではなく、フランスの歴史に内在する文脈があることが見えてくる。ただし、この点について本書の説明はあまり多くはない。
 それでも、この、第二次世界大戦時のフランスの分裂的な状況は、それが象徴するヴィシー政権とフィリップ・ペタンに関連した文脈かなり充実して書かれていて読み応えがある。
 他方、このフランスの分裂的な状況は、マージナルな部分で、特にアルザスで問題になる。本書では第六章「悲劇からの出発 オラドゥール村の葛藤」でも少し扱われているが、この不可解な虐殺の文脈が表立って、アルザスというマージナルな部分の歴史的な意義が本書ではややわかりにくい印象はあった。
 個人的な関心にもなるが、本書終章「ドゴール・フランス・アルジェリア 残った遺恨」での「アルキ」についての記述も読み応えがあり、興味深かった。ごく簡単にいえば、アルジェリアという植民地でフランス側に立った人をフランスが見捨ててきた問題である。
 アルキに似たような問題は日本も抱えていると言ってよいように思うが、それら顧みられるのは現代日本ではいわゆる「右翼」の文脈になりがちだし、現状ではおよそそうした点に触れるだけで「右翼」のレッテルを貼られがちである。
 歴史をアイロニカルに見たいわけではないが、歴史のなかにある「正義」の視点が注入されたとき、かならず零れ落ちるものがあり、そこをのぞき込むと、しばしば深い傷が秘められている。それは、日本と限らず、フランスにおいても同じであり、おそらく、どの国でも同じだろう。


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2018.01.22

[映画] この世界の片隅に

 見よう見ようとしつつ逸していた映画『この世界の片隅に』(参照)だが、アマゾンから見ろという推しがあって、見た。評判どおりの傑作だった。感動もした。が、違和感というのでもない微妙に、もにょーんという感じが残った。不満というのではない。これはなんなのだろう。受容の不協和音というものでもなく、また深い理解を促すというものでもない。ある意味で奇妙な体験でもあったので、そのあとしばらく考え込み、それからその違和感の感触を静かに無意識に沈ませて時を過ごした。そしてなんとなく浮かんできたものがあるので、書いておきたい。

 まず前提として、この映画作品が優れたものであることは微動だにしないだろうというのは理解できる。能年玲奈あらためのんの声優も最適だったし、この声なくしてすずは描けないようにも思った(正確にいうとそれ以外の解釈があってもよいだろうとも思ったが)。そしてこの優れたということの同義であるが、どのような解釈も理解もあるだろうとも当然了解できる。私の以下の理解が優れているとも正しいとも思わない。以下、スポイラー(ネタバレ)は含まざるを得ないので、読む人がいるなら、ご了承を。
 さて。
 もにょんとした感覚に最初に突き当たったのは、この映画を、戦争映画あるいは反戦映画あるいは反核映画という構図で見てもしかたないだろうということだった。それらに落とし込まれる構図で語られる言説は、私からすれば、どれほどディテールで修飾されてもAIで生成できるようなものだろう。
 では、戦争という要素を作品から意図的に外してよいのかというとそうもいかない。すると、戦争は暗喩ということになるのだが、その場合、「あの戦争(加害だのいろいろな解釈がされるあの戦争)」なのか、戦争というものなのか、そもそも一般的に戦争として暗喩される限界的な状況・非日常の生活なのかということになる。
 私はまずこれを最後の理解で考えた。あの戦争でもなく、戦争なるものの言い換えでもなく、限界状況あるいは非日常、あるいは祝祭的な状況である。そして、ここで祝祭的という言葉で触れたのは、単に限界状況や非日常という単相ではないように思えたことだ。つまり、単に、戦争という非日常に対峙するすずの日常生活ということではないだろう、と。もちろん、基本的にその対峙の構図はある。しかし戦争の非日常性を忌避的なあるいはイデオロギー的に排除する前提的かつ神学的な構図を取るのではなく、むしろ、人間本性を肯定的に明らめる祝祭的世界だと見たい。祝祭の含みには、エロス的なということがある。
 そう感覚できるのは、この映画は高度にエロス的であるということがある。この側面についてはほとんど否定したがたいだろう。しかも、それらが日常の延長にある健全なエロス性というより、戦争として暗喩される祝祭の世界がもたらしたエロスである。非常に物騒な言い方に近接するが、この物語は、戦争という祝祭世界によって、すずがエロス化するイニシエーションの構図をもち、そのエロスのなかで、生の再循環(孤児の家族化)が起きるという大きな、無意識的な枠組みを持っている。そのことはもしかすると原作者、映画製作者、あるいは大半の受容者には意識化されていないかもしれないし、であれば、こういう私の構図も忌避されやすいだろうとも了解できる。
 そうした祝祭世界のなかでこの物語のエロスの転機、いわば、秘儀の中心となるのは、周作が彼の女(sa femme)を(おお、ライナーの声で!)、水原に渡すシーンである。これはエロスの構図としては、『Oの物語』でルネがOをステファンに渡すシーンにも少し似ている、あるいはOがジャクリーヌを誘惑するシーンに。
 このシーンは映画では、最終的には、エロス的であるけれど周作のほのかな嫉妬や水原の健全な男気と純無垢なすずに還元されて微笑ましい逸話になってしまう。しかしそれだけであれば、ここで周作が鍵をかける仕掛けは不要であり、本質的に性交の交換の構図が仕組まれていることは避けられない。すると、これをエロス的ではあるが悪魔的な誘惑を避ける試練と見ることもできる。
 この秘儀シーンの暗喩は多層的であることは間違いない。私がまず思ったのは、こういう民間人の女を軍人に貸与するというのは、当時珍しい風習でもなかったか、あるいは、含みとしてだが、水原軍人であり、周作が軍務にあって兵役を免れている負い目からの権力行使も考えられるだろう。これをもっと美談的に、死に行く水原と、水原を思うすずの本心を察して、性交の機会を与えてやろうという、おえぇぇな解釈も成り立つだろう(おえぇついでいうと、すずに子を持たせたい配慮とかも言いうる)。
 ただ、それらの理解であればこのシーンは物語的な枠組みのなかでは、逸話的な外挿になる。このシーンが祝祭的な物語のクライマックス的な秘儀である意味を排除することになる。では、この秘儀を中心に据えたとき、そこでの全体の物語の構図はどのようになるか?
 基本的に、悪魔的な誘惑の構図はあるだろうが、問われているのは、エロス的であるが、そのエロスの祝祭性が、戦争的なエロスの祝祭性に吸収されることへの、大きな拒否だろう。簡単にいえば、すずや周作やそして水原の「発情」は戦争という祝祭空間によって惹起されたものであり、そこではエロスの神が三者を快楽的な犠牲にしいている。しかし、その祝祭が彼らの内在的な生をどのように支えるかというぎりぎりのとこで、死の側に傾く微妙なゆらぎへの拒否が生じる。補助線的に言えば、仮にここでエロスの祝祭(水原とすずの性交とそのあとの周作とすずの狂おしい性交)が顕現すれば、水原は、物語の力としては死に定められる。その死にすずが同意したことですずも死に定められ、そして周作もすずのエロスの本性に充足して死ぬことになる。すべてを死が支配することになる。
 何がこの死へのあやうい転機を避けさせたのか、また、周作をそこまで嫉妬というか『Oの物語』のようなエロスの交換に促したかは、映画では、あえてだろうが明示的ではない。そこが表面的にはもにょーんの核でもある。
 これについて原作では、この転機の遠因が、周作とリン、またリンとすずの関係に根をもつことが暗示される。映画では、リンが完全ではないが、構図から排除できるまでには削除されているのでわかりづらいとも言える。いずれにせよ、その転機には、リンの犠牲が先駆的に織り込まれているとしてよいだろう。
 この秘儀は水原の回心である、「すずが普通で安心した」「この世界で普通で…まともで居てくれ」という成就になる。つまり、この世界は、単純には戦争が大きく暗喩するエロス的な祝祭の世界であり、さらにそれを含む両義的な世界で、その両義性の他面である「まとも」に回帰する。
 この回帰が暫定的に三者の生を支え、さらに戦禍で死に定められた孤児を生の側の世界に受けるように、すずと周作をみちびいていく。
 しかし、ここで水原の祝祭的な死のエロスを抑えたのは、吉本隆明が『共同幻想論』で示した師弟の幻想性(ここでは兄妹ではあるが)であり、親密ながらもインセストが禁忌される家族幻想から国家幻想の幻想の力である。
 ここには循環的な両義性がある。普通でまともな世界は、『共同幻想論』的な国家からゆえに戦争の幻想を導く。そして、戦争の祝祭的な幻想は個人のエロス性を惹起して死の恐怖を超えさることで死たらしめようとする。
 おそらく私たちの生の構造というのは、避けがたくそういうものだろう。その構造のまさに秘儀的な情念をこの作品は上手に人々に掻き立てる。それは、私たちを「この両義的な世界」へと「世界の片隅」から引き出し、またその「世界の片隅」に戻す。その循環のなかで、大きな悲劇を祝祭のエロスで飲み込むように私たちは生きつつも、啓示的とも言える転機があれば、新しい命を小さい片隅の共同性のなかでつなぎ続ける。
 

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2018.01.21

プルームテック吸ってみた

 年末銀座に行ったおり、そういうえばこのあたりにプルームテックの専門店があるはずと、中国人観光客をかき分けて行ったら閉まっていた。残念。
 銀座店に専用ショップがあるのは、プルームテックがまだ都会文化だからなのだろうか。そんなには普及はしてないのだろうなと思っていたら、年明け、普通にJRの駅のホームでプルームテックのカートリッジが売っていたのを見かけた。けっこう簡単に買えるようになった。コンビニでも見かけた。
 ちょっと興味がわいてきた。カウンターの店員に「プルームテックの赤ください」とだけ言ってみた。意外とそのまま通じた。ので、買ってきて、自分のヴェイパーにつなげて吸ってみた。うーむ。まずい? 思ってたよりうまくない。アップルミントの香りはするけど、微妙にこれアンモニア臭ない? うへぇ。
 JTの技術をけっこう信じていたのに、これはないなあ。まずいな。自分に合わないというだけかもしれないのだけど、キックというのか、存外に辛いな。もうタバコやめて30年以上なので、ニコチンってこんなに辛かったけ。どうだったか。思い出そうとしてもわからない。そのために煙の出るタバコを買うのもなんだしな。まあ、これは失敗ということで、なかったことにしよう………(シーン変わる)
 話は1か月前くらいに遡る(なんだかドラマのオープニングみたいだぞ)。興味本位でヴェイパーのキットを買ったのだった。
 どれにするか迷ったのだが、「プルームテック互換」というのにしといた。その時点で、どういうふうに互換なのかよくわからなかったがまあ、とにかく互換なのだろうと思っていた。というか、そのあたりのようすも知りたくて銀座店に行ったのだった。
 互換機といっても、見たところそっくりである。鉛筆の太いような感じ。ダーマトグラフみたいな感じか。ああ、タバコを二本分つなげた感じだな。外観は、黒くて15センチほどの細めの筒というのか。吸口が一方にあって、そこをちゅーっという感じで吸う(なんかその表現はいやらしいぞ)。
 いやいや、この吸い方に微妙なコツがあるんだが、やってればそのうち慣れます(吸口を使うといい)。吸うと、すると、口にいっぱい煙のようなものが吸い込まれる。そしてプハーッと吐き出す。煙みたいに見える。つまり、タバコ吸っているようにしか見えない。
 実際は煙ではない。煙くもない。プロピレングリコール(PG)と植物性グリセリン(VG)という液体を加熱してジェット化したもの。気体化とも言われるし、ヴェイパーというから気体化ということなんだが、本当に気体なら見えないよね。蒸気化と言えばいえるけど。
 これ、よく知らないのだが、舞台で煙が出るときの小道具などにも使っているらしい。ようするに、この溶液を綿にしませたのを電熱線で加熱すると煙のようなものが出るということで、この細い筒にそういう仕掛けが入っている。正確にいうと、それが筒の半分のカートリッジ部分。この部分がプルームテックのカートリッジとしてコンビニとかでタバコのパッケージよろしく売られているのだ。正確にはカートリッジとその中に押し込む小さなフレーバーカプセル5個のセット。
 この筒のもう半分は充電器になっている。カートリッジ内の電熱線に電気を送るためだ。USB経由で充電する。かくして充電器の部分とPG/VG液入りカートリッジの部分をネジ式につなげる。
 さーてだ。そんなもの吸って面白いのかというと、面白い。いや、煙のようなものをぷはーっとやるのは意外に楽しい。おもちゃだね。
 「プルームテック互換」ヴェイパーのカートリッジの場合、この煙もどきのもとの液自体にフレーバーが付いている。液体にフレーバーが含有されているわけだ。ありがちなフレーバーは、ミント。めんそーれ、ちがう、メンソールというやつだ。けっこうメンソールだばこっぽい味はする。それともう一つのフレーバーでありがちなのが、エナジードリンク味というやつ。リポビタンDみたいなやつ(レッドブルは飲んだことない)。最初、何、これ、変なフレーバー、おっさん臭っさ、とか思っていたのだが、数パフパフしてみると、なんとなく煙のような感じがするっていうか、タバコの味のような感じがしてくる。こんな感じのタバコあっていいんじゃねみたいな。けっこう気に入った。パフパフ。
 この煙のようなもの、現状では概ね無害と見られているが、詳細に調べていくと有害となるかもしれない。まあ、それほど害もないでしょ。と、パフパフ。当初、ええいどうでもいいやあ、と肺にまで吸い込んでいたら、うっげー、気持ち悪りい。死ぬかもとまで思わないけど、これ肺に吸い込んだら体に悪いわ。難病抱えていて体に悪いって何だとか思うけど、あかん。というわけで、肺にまで吸わないようにして、パフパフしている。
 それほど外部に臭いは出ない。身近にいる鼻のいいやつが、何じゃこの甘い臭いは、と聞くので、逆に臭いする?と問い返すと、するという。タバコだ、というと、もにゃんという表情が返る。たばこには思えなかったらしいので、パフパフやって見せる。ここで微軽蔑の眼差し。いい年こいてまたおもちゃかよであろう。悪いかよ。
 さてこの先、ミントとエナジー味以外にフレーバーをつけてみるかということで、大麻フレーバーのリキッド(フレーバー液)という笑えそうなのを買ってみた。大麻は入っていない。むかし知人の家で人が大麻吸ってるのを見かけて、酢臭っさと思ったものだったが、私は吸わなかった。恥ずかしながら、薬(やく)の類はいっさいやったことない。その後、洋ドラ見るようになって、とくに『Weeds』だな、あれ見て、簡単に買える大麻なんか買うもんじゃないなと思うようにもなった。なんの話だっけ、フレーバーだな。いずれにせよ、他フレーバーもまだ試していない。やらないかもしれない。
 さて話戻して、純正プルームテックなのだが、当初、構造がイマイチわからなかったのだが、実際に使ってみて納得。これ、プルームテック互換機のカートリッジと違って、煙もどきが出るカートリッジ部分と、タバコの粉の小カプセルが分離できる。カプセルをそのカートリッジの先に押し込む。見た目は、プルームテック互換機のそれとそっくり。ああ、プルームテック互換機がプルームテックに似せてあるわけだけが。
 ようするに、純正プルームテックの場合、無味無臭の煙もどきをタバコの粉カプセルを通すことで、フレーバーが付くし、めでたくニコチンも吸収できるという仕組みらしい。
 うーん、こんなものを販売するくらいなら、ニコチン液吸入器というか、あるいはニコチン入りフレーバーの煙液でも売ればいいのにと思うが、実際、米国では売っているようだ。いずれにせよプルームテックがこういう仕組みなのはわかったのだが、このカプセルに別のフレーバー詰めてもいいんじゃないかとは思った。いずれやるかも。
 それしても、プルームテックって、どうしてこういう構造にしたかなあ。と考えてみると、この面倒くさいプルームテックの仕組みは、①タバコのパッケージっぽくカートリッジセットを売りたい(儲けたい)、②ニコチン液だと薬機法がめんどくさ、ということの妥協ではないだろうか。
 まあ、自分にしてみると、試してみて、まずかったので、これでニコチンを吸うという生活にはならなさそう。
 ということだったが、その後、未開封カプセルのまま捨てちゃうのもなんだから、充電し直したついでに吸ってみるかと、吸ってみた。あれ? 悪くないんじゃない。最初ほどアンモニア臭みたいのはない。ピリ辛キック感もこのくらいあってもいいかも。フレーバーもまあ、楽しい。あれ、俺、喫煙者? カートリッジは50回パフするとフレーバー抜けになる。吸うたびに弱くなるから、最初のパフがきつかったのかもしれない。他のフレーバーはどうかなと、コーヒ・フレーバーのも買ってみた。これもキック感が強いが、フレーバーはけっこう好み。というか、おいしい。
 そして意外にも、ニコチンなしのカートリッジに戻して、パフパフしたら(ちなみに純正プルームテックほうが煙もどきは少ない)、あれまあ、刺激感が足りません。プルームテックくらいキック感あったほうがええのか? あちゃ、これじゃ喫煙者じゃありませんか。どうなる、俺。(シーズン2に続くか)
 いずれにせよ、ニコチン自体には害はない。プルームテックも通常のヴェイパーもタールはない。フレーバーが有毒なものである可能性あるが、まあ、日本で認可されている分にはなさそう。あとは、熱したPGが有害かというくらいかな。
 外部に漏れる臭いは、まったくないわけではないが、ほとんどないというくらい。社会的に問題になるわけはないのだが、パフパフしている状態はどう見ても喫煙。なので社会的には、無根拠に規制するしかないでしょう。マナーとかなんとかで。
 ヴェイパーについて米国の状況を見ると、もっと過激なヴェイパーがすでに盛んだ。カフェインとか吸っている人もいる。そういえば、ドラマで大麻を機械のようなものも見たがあれはなんだろうか。いろんなものがありそう。
 こうしたろくでもないものが、今年から日本でも流行るんでしょうね。未成年への法的な規制も難しいだろうし、どうなるのかな。パフパフ。

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