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2018.07.27

やまもといちろう氏のツイッターアカウント凍結で思ったこと

 ブログの話題でもないかもしれないし、私が取り上げる話題でもないだろう、そもそもそれほどたいした話題でもないんじゃないかか、と思い数日過ごしていたが、日本のブログのブログの歴史を振り返ってみると、というのも大げさだが(アルファブロガーなんちゃら)、案外私もコメントしておいてもいいかもしれないと思い直し、わずかだが、やまもといちろう氏のツイッターアカウント凍結で思ったことを簡単に書いておく。凍結というのは、発言禁止ということ、「おまえここでこれ以上、つぶやくなよ」ということ。なお、気取るわけでもないが、この話、あくまで日本のブログ史の資料程度ものであって、同氏への関心というものでもないので、そこはそういうことで。
 そもそもこれがニュースなのか、つまり、ツイッターのいちアカウント凍結がニュースなのかというと、普通は、その凍結された人の重要性が問われるだろう。そうした意味で、やまもといちろう氏が、過去凍結された、例えば、ノイホイこと菅野完氏の凍結より重要なのかという議論はあるだろう。私自身はノイホイ氏に関心ないので、へえ凍結ねえと思った程度ではあった。その後同氏については、いくどの凍結措置にもめげずに、スタッフアカウントや別アカウントで対応し、たぶん現在のアカウントは、凍結されていないのではないか(最近の活動は知らない。私がブロックされているのかもしれない。余談だが、私は敬愛する内田樹先生などけっこうな著名人からなぜかブロックされている)。つまり、凍結されてもアカウント作り直せばいいんじゃんということを同氏は証明したとも言える。ちなみにその関連で言えば、やまもと氏はツイッターにゲーム批評用の別アカウントを持っているが、そちらは凍結されていないにもかかわらず、24日以降のツイートはない。氏としての、ツイッター社への意識の現れかもしれない。
 さて、やまもといちろう氏はというと、まあ、個人的に懇意にしているということもないが、結果として日本のブログの歩みの古参兵として知るくらいはあり、それもこの年月となると積み重なるものがあるので、同氏の凍結を聞いたときは、ほぉという以上の感想を持った。情報化統括責任者補佐官の楠正憲氏もツイッターで24日「なんか @kirik のアカウントが凍結されているみたいですが、何が原因なのかTwitter社が伝えるのか気になりますね。アレとコレを消せとかいわれるのでしょうか?フェイクニュースと同じくらいプラットフォーマーの中立性に興味があるので、Twitterに透明性があるのかwkwkしますね」とつぶやいていたが、私も同感で、つまりそういうことだ。どうでもいいが、楠さん、すっげー肩書だなあ。やまもとさんもなんか偉そうな肩書があったかと思うが忘れた。
 話の概要は、ITmedia Newsの24日の記事「山本一郎さんのTwitterアカウント、凍結される」にすでに書かれている。凍結理由についても、やまもと氏のフェースブックでのつぶやきを引いて推測している。それは、「なんかTwitterのメイン垢が乗っ取られたとか通報があったが、何だか良く分からんw」「『ぶち殺すぞ』と書いたら凍結されました。暑いからなあ」というものだ。
 ツイッター社は今年の3月15日のアナウンスのツイート「Twitterルールに違反したことでアカウントが凍結になった場合、どのツイートがどのルールに違反しているのかを、メールにて、より具体的にご連絡するようにいたします。なお、メールには異議申立てを行われる際のリンクもご案内しています」としているので、すでにやまもと氏へは、凍結理由と違反ツイートの情報があると思われる。その上での先のフェースブックの発言があるのだから、端的に言えば、冗談であれ「ぶち殺すぞ」とツイートしちゃだめですよ、ということだろう。
 つまるところ、ことはそんだけと言えば、そんだけとも言える。小学校で、廊下を走るのはやめましょう的な何かだ。なので、今日あたり、ノイホイ氏とは異なり、味噌汁で顔洗ってきました的に愉快にアカウントが復活しているんじゃないかとも期待する。
 で、そうでないなら、なんだろうか?
 そうでない理由を考えるまでもないことだし、それを考えるなら凍結が継続してから考えるべきだろうが、先の楠氏のツイートにも戻る。
 どういうことかというと、ごく簡単にその線だけ言うなら、冗談であれ「ぶち殺す」と言えない場のような言論プラットフォームをやまもと氏は受け入れるのだろうか?という問題が今ある。
 個人的には、受け入れればいいんじゃないのと思う。私なんか、今では欺瞞臭がするくらいネットでの言葉遣いは丁寧にしているぞ、というか、私はニフティのシグオペでもあり、当時のネットのお約束くらいには飲み込んでいるつもりだ。もう少し延長すると、この欺瞞臭から察せられるように、私みたいなクズ野郎に暴言御免ってなれば、何言い出すかわからなあくらいのダークサイドの自覚はあり、ゆえにいわゆる意図された暴言・工作系の裏アカウントはしないことにしている。されらにいわゆる匿名発言(はてなの増田とかな)もしない。自分ルールである。こうした自分ルールは私みたいに自己信頼性のないふにゃけ野郎にとってはけっこう大切なことでもある。話が説教にそれたな。
 別の言い方をすると、現在のツイッターはけっこう「ぶち殺す」的な発言にあふれており、かつ、冗談ですらそうも言えないという言論空間になった。
 昨今のツイッターをどう評価するかというと、例えば、ポリタス運営の津田大介氏が、やまもと氏アカウント凍結の文脈ではないが同日のツイートにあった「いまのツイッターは嫌いです。クリエイターの人から「ツイッターやろうか迷ってるんだけど」と相談されたときには「絶対にやめた方がいい」と伝えてます」というように、価値のない言論空間になったという印象に共感する。もっとも、津田氏としては、関連ツイートに「本当に生産性を問題にするのなら、日本人4500万人の時間と関心をムダに奪っているツイッターを禁止すべきだと思う」とあるように、ツイッターの「生産性」での文脈で語ったものではあるが。
 論点が曖昧になってしまったので、強引にまとめるなら、ツイッターが言論プラットフォームとしてのある価値をもった時代は終わったし、やまもと氏の凍結はそうしたネット言論史を象徴する挿話になるんじゃないかということだ。
 というあたりで一息つく。
 実は、この記事を書き出したときの思いに触れておきたい。3つのことを思っていた。この世界の用語を使って言うなら、①ツイッターが滅菌されたなあ(これはつまり上述)、②垢バン攻撃くらったかな、③やまもといちろう砲がやらかしたんじゃないか、である。後者2つに簡単に言及したい。
 垢バン攻撃は、ツイッターでこいつのツイートは気に食わなねえというのを、いろいろなんくせつけて、「先生にいいつけてやる」的にツイッター社に報告して凍結に追い込むことである。この傾向は、いわゆるネットウヨとネットサヨの間でグループ的に活発に行われている。私なども著名人からブロックくらいまくってます系の人も垢バン攻撃があるしょと考えてよいだろう。というか、そういう傾向自体、ツイッターってくだらないなあというものに成り果てつつあるが、ツイッター先生そこはがんばってください。どうがんばるかよくわかんないけど。ちなみ、私も垢バンくらったら、「ざまあ」のご声援に反して一応は弁解はするかもしれないし、頭下げるの無料的にさらっとこなす欺瞞力を発揮するかもしれないが、たぶん、ツイッターはやめます。
 脱線すると、ツイッターで垢バンくらっても、まだこうしてブログで自由に書くことはできるんだし、ブログに戻る時期なんかもしれん。
 「やまもと砲」については、文春砲のもじりで、同氏の活動を見ている人にはわかるが、同氏の投資系・政治家系・IT経営者系のコネから得たネットにはない情報で、個人ジャーナリズム的に社会不正者に挑んでいくというのがある。かつて切込隊長と呼称していたころからの面目であるが(余談だが彼が切込隊長なのは元は野球好きから)、ビジネス的にも訴訟的にも恐れ知らずの印象はある。金づるで金玉縮こまらない強みであろうか羨ましいのお的な僻みがあるが、常人のできることではないという点で、文春砲個人バージョン化してもいる。それってブログじゃねーんじゃないというか、それがブログなのかよくわからない。米国的にはブログは日本のブログのように、「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」というものでもないようだし。
 いずれにせよ、個人ジャーナリズムとしてブログを考えるなら、やまもと氏のそれは、日本の風土では、ブログと文春みたいなプロとの境界でもあるのだろう。また、ブロガーがジャーナリズム的に振る舞えるとしても専門分野に限定されるであろう。し、そういう専門分野があれば、通常のジャーナリズムの専門分野とも変わらないかもしれない。
 もとの文脈に少し戻るなら、「やまもといちろう」氏はもう、ブロガーではなかったのかもしれない。

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2018.07.25

LGBTが子供を育てられる社会を

 杉田水脈衆院議員が『新潮45』8月号(新潮社)に掲載した「『LGBT』支援の度が過ぎる」という少コラムが、LGBTを差別しているということで非難する話題をネットでよく見かけた。すでに話題はネットを超えて議員への脅迫もあり、社会問題にもなってきている。
 LGBTの頭文字の解釈と定義は必ずしも明確ではないし、この4点に絞られるかも議論の余地があるが、ここでは以下のように理解したい。

L: レズビアン(女性同性愛者)
G: ゲイ(男性同性愛者)
B: バイセクシュアル(両性愛者)
T: トランスジェンダー(出生時診断性と自認性の不一致)

 LGBT差別は好ましくないことは自明と言ってもよいので、杉田議員への非難という話題としてはわかりやすい反面、少し踏み込むと、わかりにくい面がある。そもそも何が問題なのか。
 まず、該当コラムでもっとも非難されているのは次の部分と言ってよいだろう。


例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女たちは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 特徴的なのは、「生産性」という言葉がカッコ付けされていて、通常の生産性という意味からずらして使っているという含みがある。通常、生産性といえば、企業の生産性などを指すと理解してよいので、労働が惹起される。実際、今回の批判では、そうした理解で批判している人も見受けられた。
 しかし括弧された含みは、不妊治療や「彼ら彼女たちは子供を作らない」といった文脈化すると、Reproductive rightsのReproductiveに近いと理解してよいだろう。通常、同用語は「性と生殖に関する権利」が定訳語とされるように、生殖のもつ生産性の含みをあえて避ける形で理解されている。具体的には、中絶や受胎調節など女性の権利を指す。その点からすると、杉田議員の「生産性」が、Reproductive rightsのReproductiveとして理解されているかは必ずしも判然とはしない。
 とはいえ杉田議員の主張は、LGBTは生殖する能力がないのだから、子育て支援に関わる税金は好ましくないという主張のように見えながら、税による生活支援全体が不要であるかのような誘導も感じられる。前者の主張であれば、現実、LGBTに子育て支援されていることはほぼないだろうし、誘導された部分は、端的に市民差別であり、論外としてよいだろう。なお、他面、子育て家庭への税の支援は相対的には、非婚者からの税を再配分している現実もある。
 いずれにせよ、今回の話題について言えば、自明な批判で足りるのかというと、今回の話題のスコープではそれで十分であるようには思われるが、背景にある大きな問題は、むしろ、LGBTが子供を育てられる社会を私たちが形成していくことであり、それに積極な政策が重要になることだろう。つまり、杉田議員の、愚論といっていいだろう主張への批判は、LGBTが子供を育てられる社会への希求へと重心を移したほうがよいだろう。
 ドラマ『13の理由』や『スキャンダル』などでも見られるが、米国では、LGBTが子供を育てられる社会がすでに実現されているので、そこから日本の市民社会が学ぶことも多いだろう。
 あと一点、杉田議員のコラムを巡る話題では、冒頭触れたように、彼女への脅迫が起きている。どのような言論であり、脅迫が社会に表面化する状態は、言論の自由への危機を意味している。
 こうした正義の暴走は現在に限ったことではないが、嫌悪感が正義感に結びつき、その嫌悪対象を排除のための脅迫が実施される心理機構は、正義の自己満足があれ、差別意識と同質の心理機構を形成している。

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