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2018.01.20

[書評] ユーミンとフランスの秘密の関係(松任谷由実)

 時の経つのは速いなと思うのは悲しいかな老化の一種。しかたないけど、ユーミンがアルバム『宇宙図書館』(参照)を出したのは年号だけ見ると2016年。一年半は経っていないのだけど。そして、書籍『ユーミンとフランスの秘密の関係(松任谷由実)』(参照)が出たのが2017年2月。ということで1年位前の本。元は『フィガロジャポン』の連載をまとめたもので、最初の連載は2015年。今頃、読む。

 書籍の形をしているけど、実際にユーミン(松任谷由実)が書いた原稿は三分の一くらいだろうか。それもたぶん口述の編集ではないかな。最初に簡単な紹介的な記事があって、そこから三分の二くらいはインタビュー。ユーミンとフランスになんとなく焦点を合わせた、おフランスっぽい対談。つまらないわけではないけど、うまく仕上げてしまったため、ありがちな雑誌記事という感じ。そのあとはユーミンのフランスのアートを巡る旅で、なぜかその半分はフランスではなく、金沢。ここもユーミンらしい感性で書かれていて楽しいには楽しい。
 まあ、こういう感じかな。と私は思う。昨日がユーミンの誕生日なので彼女は64歳になった。フランス語的には64年を持った。私のほうは今年の夏61歳。こうなるともう同世代のように見えるかもしれないけど、思春期のころの三年半の年差はすごく大きかった。ユーミンはすっごい年上のお姉さんに思えたものだった。
 そして本書でユーミン自身が触れているけれど、彼女はおませっ子さんなので三年くらい年上のカルチャーに憧れていた。あの時代、1970年代前半ころである。彼女の歌に、72年10月9日、というのがあるが、ほんと今でもあの日を思い出せる。
 そのおませっ子ユーミンが中学生から高校生のころ憧れていた文化が、基本はアメリカなのだけど、あの当時のアメリカ経由のおフランス文化。あれです、『X-MEN: フューチャー&パスト』で笑える仕上がりになっているけど、アメリカがおフランスに憧れた時代だ。ユーミンとか私とかもアメリカ経由でおフランス文化に憧れて、そのままなんとか若者文化になった時代だった。もうちょっと言うと、ベ平連とか全学連とか、だっせーわきたねーわの若者文化がいやだなという感じでもあった。ただ正確に言うと、『二十歳の原点』とかでも伺えるけど、その二者に交わる部分はある。そしてこれがもうちょっと大衆化してくると、布施明の『カルチェラタンの雪』みたいになる。話がずれまくるけど、あの布施明の、今から見ると、うへぇだっせーみたいのは意外にもおフランス的で、ミシェル・サルドゥとかあんな感じなのな。
 話をちょっとまとめると、70年代から80年代の、アメリカや日本を覆っていたおフランスなカルチャーへのノスタルジーに、年食ったユーミンとか私とか向き合うわけで、この本とかのフランス文化というのは、そういう部分がこってこってに出ている。ちょっと意地悪に言うみたいだけど、これ、幻想のフランス文化で、現実のフランス文化ってこういうもんじゃないとは思う。
 このあたりの自覚はユーミンにはきっちりあって、この本でも語られている。その上で、なかでも彼女が影響を受けたというか、そんな4人のフランス女性があって、イザベル・ユペール、フランスワーズ・サガン、エディット・ピアフ、ココ・シャネル。まあ、推して知るべしな感じはある。あと、後半の絵画を巡る旅では印象派が中心。
 ふと思ったが、こうしたファッションや大衆文化のなかでのおフランス的なものは、70年代のサルトルやカミュの実存主義(これにはマルクス主義の行き詰まりとフランス帝国主義の行き詰まりの反動もある)と並走していて、これが80年代になってニューアカの、おフランス現代哲学になってきた。遅れたおフランス志向ではあるのだろう。少し時代を前に戻すと、森有正とか辻邦生なんかもそうしたおフランス趣味からそう逸脱するものでもないだろう。
 自分に寄せてみると、この齢こいて僕なんかもフランス語を学びに行くと、少なからず、このユーミンとかその上くらいのおば様を見かける。若い頃おフランス文化に憧れたり、実際フランスで暮らしたりして、今でもフランス文化を日常生活で維持していて、フランス語を学びつ続けるのも楽しいという感じのおば様たちである。
 それもいいんじゃないかと自分も思うようになった。この本もそういう傾向とはあっているだろうけど、読者対象はいわゆるユーミン世代、つまり、0年代にユーミンソングを聞いていたファンあたりかもしれない。そうした世代が「おフランス」を再発見するには意外といい本になっている。
 とま、「おフランス」という言葉を連発してしまったが、こうしたフランス像はまさにパリ中心の「おフランス」としか言いようがないなという思いを込めてだ。実際のフランスはそれとはけっこう違うとも言えるのだけど、さらに総合した感じで言うなら、「おフランス」もフランス文化のうちでいいんだろうし、日本人のフランス好きがそこに特化していてもそれはそれで、かまわないように思う。
 どの国の文化も少し踏み込むとちょっと変わった面白さが見つかるものだが、米国や中国の多様性、韓国やアジアの擬古性(戦後創作された伝統文化的なもの)、そうしたものとフランスは微妙に違う。どこかにある中心性が、その言語の統制も含めて微妙に意識されている。それはナショナリズムとも言えるだろうけど、市民革命を経て市民国家を築き上げるときにはそうした中心性は重要になる。市民社会にナショナリズムは欠かせないのかもしれない。逆にそこで脱骨したような日本だがフランスと似ている面もある。日本の場合、市民社会はナショナリズムに対立しているようでいながら、リベラル派の反米感情などはナショナリズムでしかない。ただ、日本だとそのナショナリズムが市民社会を形成するものとしての統合性を促す力はない。そもそも日本には基本的に社会契約の観念がないから、日本国憲法は不磨の大典になってしまったのだろう。


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2018.01.19

引退を幸せな第二の人生の始まりに

 小室哲哉さんが引退するという話題をツイッターで見かけて、いくつか複数のニュース・ソースで確認した。「不倫騒動のけじめ」と題したものもあり、また引退の契機がいわゆる「文春砲」ということもわかった。で、まあ、なんというのか、もにょんとした感情に襲われた。
 ツイッターでの関連話題を追っていくと、私のタイムラインでは概ね、人の不倫を暴いて追い込むのなんかもうやめろよ、という意見が多い。私もどちらかというと、そういう思いがする。関連して、コラムニストの小田嶋隆氏は「文春砲」について、「仕置人気取りなわけか?」とまず述べ、「不倫をしている人間より、他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています」とツイートしていた。それもそうだろうとは思うが、彼は該当の記事を読んでからそう述べたのか、「文春砲」なるツイートに反射的にそう思ったのかはわからない。
 私は週刊文春のデジタル版を購読しているので該当記事を読んでみた。読んだ印象をいうと、どうもこのネタは文春が独自に発掘したというより、すでに関係者で知られていたように思えた。もっとも、ぐうの根も出ないように現場を抑えたのはまいどながら文春ではあるだろうし、そこは、そこまでするかなあ感はある。で、その時点での小室さんの話が記事に引用されているのだが、そこで彼自身「引き時」を強調しれているし、そのことは「文春砲」も注目していた。小室さんも文春も、小室さんの引退が突然というものでもない含みがそこにはあった。
 文春を擁護するつもりはさらさらないが、文春がやらなくてもどこかのメディアがやったか、あるいは文春がいつかやるなあと関係者が思っていたか。小室さん自身もそんなわけである程度覚悟していたような印象はもった。
 さて、私自身のこの件についての感想だが、経緯はなんであれ、引退してよかったとは言えないにせよ、小室さんはこれからの第二の人生を心機一転進めるきっかけになればいいのではないかとは思った。そう思う理由の一つが、彼と私がほとんど同じ世代(彼が一歳下)で、60歳という年齢を迎えようとしているからで、世代的な共感があるからだ。高齢化が進む現在、人はできるだけ早い時期に引退したほうがいいと私は思う。
 私がそう思うようになったのは、ドラッカーの影響である。ドラッカーは先進国では現在、組織より人間の寿命が長くなったという前提認識を示した。長寿企業というのもあるにせよ、概ね企業には人間のように寿命がある。そしてその寿命が人間より長いとなるとどうなるか。端的にいえば、老害になる。組織を自身のために使うようになる。あるいは、高齢時まで企業は存在していない、ということになる。ドラッカーはなにより、一つの仕事をするのに飽きてくるだろうとも述べていた。
 ドラッカーはさらに、60歳で突然引退するのでは遅すぎるともしていた。40歳くらいに、第二の人生の基礎を作るべきだというのである。ここで説教臭いことを自分が言うのもなんだが、このブログを始めたころ私はまだ45歳だったが、あっという間の15年間である。40歳から先は速い速い。
 ここまではドラッカーの考えは彼らしい楽観論的なポジティブな示唆に富むのだが、その先にはずばりと冷酷な真実を告げている。「知的労働者にとって、第二の人生をもつことが重要であることには、もう一つ理由がある。誰でも、仕事や人生で挫折することがあるからである。」と。人はみな老いて挫折するのである。
 世の中にあふれる啓発書の類は、成功が基本になっている。そもそも出版される本というのが文学(あるいは私が書いた本)でもなければ、成功に飾られているものだ。しかし、実際の人生成功する人がごくまれなのである。パーセントはわからないが、9割がたは失敗するか、ぼちぼちでんなというあたりを自分なりの成功に換算しなおすかくらいではないだろうか。
 ドラッカーはそうした失敗の人生を補うものとして、社会貢献可能な第二の人生を描くが、私は社会的な価値や承認より、もっと自分を大切にした第二の人生を構想してもいいように思う。特に、子離れの時期からは。
 第二の人生がどうあるべきかについて、それ以上は自分はわからないが、難病とかが背を押してくれたこともあって、私についてはそうした人生を歩み出すしかなかった。
 しかし、第二の人生では、なにより、第一の人生とは大きく価値観を変えてよいのだと思う。


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2018.01.18

[書評] キリスト教は役に立つか(来住英俊)

 教会に通うこと絶えて久しいという年月を重ねていたが、昨年は何度か教会に通った。自分が通い慣れた教会以外へも行った。なかでもカトリックのカテドラル関口教会と聖イグナチオ教会が印象深い。正直に言えば、キリスト教的な関心よりも、パイプオルガンの音に魅せられたためである。が、結果としてごミサに参加したのも深く心に残った。

 若いころ聖書やキリスト教を学んで、それなりにキリスト教には詳しいつもりでいたし、そのころは教会にも通い讃美歌などもいくつか自然に覚えたものだが、振り返ってみるとその讃美歌からして日本基督教団的であり、関連する神学も基本的にプロテスタント神学だった。海外でも教会を見て回ったりしたが、多くは正教の教会で、カトリックの教会も見学したりごミサを傍観したりもしたが、実際に参加すると随分と印象が違った。まず私はカトリックの信者ではないので、聖体を受けることはできない。でも、祝福を受けることはできますよと、教会で案内を受けた。とはいえ気恥ずかしく木に登って遠く見るように見ていた。するとそのおり、さりげなく近くに座っていたかたら、ご祝福を受けてはどうですかと誘われ、知らずその気になった。漁りの網を持つ手を放したかのようだった。カトリックの信仰の情感と静かではあるが力に触れた思いがした。
 私は少年期から遠藤周作文学の愛読者でもあり、そこから覗き見るような形でしかないが、カトリックの信仰にはある種の共感を持っていた。しかし文学という緊張の場を経た信仰の情感と実際のカトリックの信仰者の日常の情感は異なるものだろう。そしてそれは自分には、なんというのか縁のないものであり続けるだろうと思っていた。が、ふと遭遇した祝福の力の体験はそこに少し近づいたようにも思えた。そうした思いが本書『キリスト教は役に立つか(来住英俊)』(参照)を読みながらなんども去来した。
 この書名はなかなかチャレンジングであるようにも受け取れる。基本的に来世信仰を原理とするキリスト教の信仰に現世の利益を連想させるような、お役立ちはありえないだろう。あるとすれば、この人生という仮の旅路の苦しみを少しでも和らげてくれる慰めでしかないだろう、とそういう思いにアイロニカルではあるが鈍い毒のような感覚が伴う。だが、それでよいのではないだろうか。私たちの人生にどうしてもまとわりつく苦しみ、つらさ、絶望感、孤独感、そうしたものを和らげてくれるなにかがあってもよいのではないか。祈りすがってよいのではないだろうか。自分なりに受け止めたにすぎないのだが、まさにそういう部分に本書はきちんと触れていた。
 著者は現在では司祭様であるが、信仰の道に入られたのは30歳であったという。灘高から東大という学歴を見ると普通とも言い難いが、それでも大卒後就職し企業人となって過ごしていたのは普通の日本人の生き方だろう。その彼が、生きたキリスト教を見たのが28歳のイタリア旅行。それからキリスト教への関心もあって教会には通うものの転機は30歳の初冬、駿河台下の交差点だったという。ふと「自分の底が抜けるような淋しさに貫かれた」という。「あなたが何よりも誰よりも大事だよ」と言ってくれる人はこの世には一人もいないのだと思ったという。
 それは転機であったが、神秘的な啓示ようなものでもなく、強烈な回心の体験でもなかったという。私は、ああ、それわかるなと思う。そういうさみしさの受け止め方なら自分も受け止められる。あえて別の言い方をすれば、キリスト教者とそうではない人をあたかも隔ているような「信仰」の壁のようなものはない。ただ、今のさみしさやつらさの思いがそのまま慰めの信仰につながるような自然さがある。それがこの本をとても大切なものにしている。
 キリスト教入門やキリスト教の知識や信仰を教えてくれる書籍は多数あるけれど、読者の現在の正直なあり方にそのまま信仰のドアを開けてくれるような書籍は少ないのではないだろうか。そうしてみると、失礼な言い方になるかもしれないが、司祭様は、本書のなかであちこちとそうした小さなドアを開けてくれている。多くの人の普通の人生のさまざまな場面にそのドアがつながるように。
 そうしたさりげない平穏な書籍でありながら、ふと刮目するような言葉にも出会う。ここだけ引用ふうに述べると逆に誤解を招くのではないかと思うので、簡単に示唆するにとどめたいが、「神は全能者・全権者である」の理解には少し驚いた。逆におごった言い方になるのを恐れるけれど、私もそう考えていたからだ。でも、そう考えることにあるためらいも持っていた。私はその理解の手前で止まっているけれど司祭様はその向こうに立たれているのだとわかった。
 自分と司祭様は違うなと思う。あえてだが、こんなことここで言う意味もないのかもしれないけど、自分との信仰的な受け止め方の違いも触れておきたい。
 本書は、イエス・キリストを、自分と人との関係のなかで、信仰の深みの変化のなかでとらえている。他者と関わりでただ孤独しかなかった自分が、イエスによって他者とつながっていく信仰の形である。教会(ἐκκλησία)の本義というものはそういうものだし、私が慣れ親しんだ森有正の著作にも唯一の二人称としてのキリストが説かれていた。
 私はそれに意を唱えるものではない。ただ私は少し違うことを感じている。私がイエスに見たものは、私の死でありそこにイエスの復活を重ねたとき、自分のなかにイエスが生き返る感覚である。私は死んだのに私のなかでイエスが生きているという感覚である。私はパウロの教説のパロディを言いたいのでも、正しいキリスト教を説きたいわけでもない。ただ、ある時からその奇妙な感覚がずっとあるというだけだ。そして他者も同じく潜在的な死者でありイエスに復活する者だと理解する。こうした感覚はそれほど病理的なものでないだろうが、奇妙ではあるだろう。たぶん信仰でもないだろう。
 余談の余談。本書の帯の表に大澤真幸氏の「神を信じない人にこそ役立つ本」、森本あんり氏の「神は最強のカウンセラーである」とある。帯の裏にはその元の発言がある。ほんのちょっとだけだが困惑した。大澤氏については、よからぬ話を聞いたのがいけないのだろう、偏見からそれはどうなんだろうと否定的に思ったのだった。森本氏については、大学でキリスト者学生として過ごした先輩であるので懐かしく思った。


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2018.01.17

[書評] オリバー・ストーン オン プーチン (オリバー・ストーン)

 現代の世界を考える上でもっとも重要なことは何か、という問いかけには複数の答えが存在するのだろう。地政学、エネルギーシフト、新しい孤立主義、あるいは技術においては、人工知能技術、ビットコインを転機とするブロックチェーン技術など。しかし、こう問いかけると答えは単純になる。現代の世界を考える上でもっとも重要な人物は誰か?

 端的に、プーチンである。他に誰がいるというのだろう。トランプ? ご冗談でしょう。金正恩? 重要人物じゃなくて危険物でしょ、あれは。習近平? それは幻影。彼の意思が世界にどういう影響を持っているか明確に言える人がいるのかすらわからない。その点、僕らのウラジミール・プーチンは、すでに10年以上にもわたって、確実に現代世界のキーマンであり続けたし、まだまだ今後もあり続ける。となれば、私たちは彼を知らなくてはいけないし、彼を知るという点でもっとも簡単な手法は、どっしりと手間をかけた彼への、組織的なインタビューであり、つまりそれが本書『オリバー・ストーン オン プーチン (オリバー・ストーン)』(参照)なのだ。と言えば、まあ納得するしかない。しかも、インタビュアーはあのオリバー・ストーンである。書名に最初にストーンが出て来るのもしかがたないくらいなので、そこの説明も不要だろう。
 実際に読んでみるとどうか。それなりに国際政治に関心を持つ人がプーチンに問いかけたいことは全部書いてある。そして、国際政治についてある程度突っ込んで関心を持つ人にしてみると、プーチンならこう答えるだろうなということも、全部書いてある。びっくりする話題は、特にはないと言ってもいいかもしれない。本書帯に「ウラジミール・プーチンかく語りき!」としていくつか本書の目玉項目が箇条書きされているが、率直に言って、そうだよねと頷きはするが驚きはないだろう。トルコの一部がイスラム国を支援していたことに驚くこともないだろう。ゆえに本書が米国で出版されたおり、識者は本書を酷評したようだが、それもむべなるかな。と、いうことは、もしかしてこれって、退屈なインタビューなのではないだろうかと思うかもしれない。その逆なのである。
 本書で何が重要なのか。一貫性だと私は思う。プーチンという卓越した現役の政治家であり非西欧的な、それでいて抜群の知識人が、世界をこう見てきた、こう見ている、そして実力ある政治家として未来をこう考えるということが、首尾一貫して語られているのである。意外と知識人というのは、そうはいかない。特に日本のリベラル派が典型的だが、反米といった公理を一貫して使うかに見えて、党派・政局に依存しているため、意見や態度がダブルスタンダードになってしまう。プーチンにはそうした矛盾がない。逆に悪玉にも仕立てやすい。
 そのためプーチンの視点からは、特に米国の政治についてだが、大統領や議員が表面的に民主主義的な言動を装っていても官僚機構に結びついた排外主義であることが際立つ。
 そして、本書でプーチンが語ることは、そのままにして現代史でもあるし、読んでいて、私たち日本人にじわじわくるだろうことは、まさに私たち現代日本人が米国に抱いているアンビバレンツな情感と思想の交点について彼がきちんと述べていることに他ならない。特に、軍事面でである。あえて悪い言い方をすれば、このプーチンの語りのなかの「ロシア」を「日本」に置き換えるだけで、それっぽい反米トーンのリベラル派の主張のようなものができてしまう(もちろん、具体的にロシアが関連した地政学などは単純置換はできないが)。
 つまり、どういうことなのか。非米国的で非EU的な、もっともまともな世界観を民族国家の視点で構築するなら、プーチンになっちゃうのである。そして、私たち日本人がそういう明確なプーチンに向き合うと、逆に、私たちが米国的な部分とプーチン的な部分のアンビバレンツな状態であることが暴露され、結果まともな日露外交も難しくなる。
 本書には、メディアを考える上でも非常に興味深いことがある。そもそもオリバー・ストーンのこのインタビューは、"Putin Interviews"としてナショナル・ジオグラフィックで1時間4回シリーズとなる番組の素材として作られたものだ。その完成品である同番組は、現在日本のナショナル・ジオグラフィックで放映されている他、Huluの同チャネルでも放映されている。同じ番組は、NHK BSでも3月に放送されるらしい。
 番組と本書との違いはどうか? ボリュームから普通に考えると、本書のインタビューが基本にあって、それをわかりやすく削って番組ができたように想像されるだろうし、私もそう思っていた。これが、なんというのだろう、印象としてはまるで違うのである。
 もちろん、話題の対応はあるし、プーチンの言葉そのものの対応もあるのだが、なにより語られるシーンのシークエンスからしてさほど同一性が感じられない。番組のほうで掘り下げられている部分すらある。同じ素材からどうしてこういう異なる2つのものが出来てきたのか、考え込まされる。書籍のほうが、一見、インタビュー状況のシーンを織り込んでいるため、映像が想像されるが、実際の映像とは違和感がある。また映像のほうは解説画面として他の映像を多数コラージュのように差し込むので、CMかプロパガンダのような印象も出て来る。それでいて、映像作品ではメイキング映像もメタ的に織り込まれてもいる。
 はっきりと言えることは、プーチンの考えが知りたいなら本書を読むしかないということだ。予想通りのお答えとはいえ、これだけまとまった書籍はない。読みやすい。他方、プーチンという人はどういう人なのか、合わせてオリバー・ストーンとはどういう人か、というのを知るには映像がわかりやすい。そのわかりやすさは、それ自体に奇妙な違和感を伴う。余談だが、あれれ、ストーンさんの奥さんは日本人かなと思って調べたら、韓国人らしい。

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2018.01.16

[書評] またの名をグレイス(マーガレット・アトウッド)

 原作のある映画化作品はほとんど場合、原作が優れている。これは映画が長くても3時間で終わるという尺の限界を持つ形式上、仕方がないとはいえるし、その補いとして映画的手法によって映像作品ならでは魅力を出すこともできる。役者の素晴らしさというのも映画にはある。それでも映画化作品が原作を超えることは難しい。そしてこうした、ある一方通行的な限界を踏まえた上で逆に、映像作品で作り込めなかった部分のノベライゼーションというものもある。しかしそういう、超えることができないかに見える制約が、ストリーミングのドラマで打開されたと思える映像ドラマ作品がしだいに増えてきた。なぜか。
 まず、ドラマなので尺の制限はない。特にNetflixがそうだが、映画4、5本分くらいの尺で一気に見せる大作も可能になっている。またドラマとはいえ一般的なテレビ・ドラマとは違い、スポンサーや直接的な視聴率を気にしなくてもいい。興行としての映画ような製作段階での気兼ねも要らない。
 そうした、あるメディアの一線を超えたと思える作品がまた一つ、まさにNetflixでドラマ化された。『またの名をグレイス』である(カナダではテレビ放映もされた)。これが圧倒的に優れた映像作品なので、最初に映像から見た私などは、逆に、いったいこの原作はどうなっているのだろうかとかなり気になり、原作も読んでみた。映像でしかできない表現部分や、微妙な解釈に関わる部分が文字による原作だとどうなっているか、とても気になっていた。

 どうだったか。原作『またの名をグレイス(マーガレット・アトウッド)』(参照「上巻」参照「下巻」)はもちろん、すぐれた文学作品だった。文学ならでは文体的多様性あるいは視点の多様性などポストモダンとも近い手法も駆使されている。これはこれで完結して傑作であることは間違いない。なによりスリリングで面白い。それなのにこの原作がドラマ化作品に圧倒的にまさっているというわけでもなかった。この関係が、考えようにもよるが、とても難しく思えた。
 ドラマが秀逸すぎるのである。監督サラ・ポーリーがこの作品にかけた情熱も尋常ではない。はっきり言ってなにからなにまですごい。それは原作を異化するすごさではなく、原作のもっている本来のパワーを全開したようなすごさである。その意味で、映像作品とこの原作がその受容においてうまく分離できない。しかもその不分離が自然であるようにすら思えてくる。ただし一言加えれば、この映像作品は万人向けではないし、おそらくある種の人々からは理解不可能かもしれない。
 その物語だが、史実の事件を題材にしている。簡単に紹介しよう。題材となるのは、カナダで1843年に起きた殺人事件である。メイドである16歳の美少女グレイスが下男と組んで、主人とその愛人を殺害したとされる。しかし彼女は直接自らの手を汚してはいない。彼女はこの殺人事件にどのように関わっていたのかが、よくわからない。冤罪なのかもしれない。当時もそのことを決することが難しく、グレイスは結果的には30年近くも服役することになる。ただし、その間も彼女には凶暴性はないとして牢獄に込められたわけではなく、かなりの自由は認めらていた。
 物語の端緒は、刑期中、彼女を冤罪として釈放を求める団体が精神科医サイモン・ジョーダンに依頼して、グレイスの精神状態や事件の真相を探ろうとすることである。このため物語の形式は、サイモンがグレイスと対話するという形になり、グレイスの語りのなかにグレイスの過去や、当時のカナダの状況(実はこの史実がかなり面白い)が入れ子的に描きこまれる。このため、グレイスの語りは真実そうに見えても真実とは限らない。かくして物語は、なにが真相かを探る推理小説のようにも受け止められるし、サイモンはそこであたかもグレイスの脇役のようにすら見える。
 少しスポイラー(ネタバレ)が入るが、この物語の枠組み自体がまさに純文学ならではの文学的なたくらみと言ってよい。女性差別や女性への暴力の悲惨にあるグレイスだが、この物語ではその深層心理的な構造とそれがもたらす身近な人間の権力のゲームが抜群に面白く、単純な勧善懲悪の構図には収まらない。こうした内実はかなり複雑でかつ衝撃的なので、ブログにさらっと書くと単純な誤解を招くので控えたい。ネタバレにもなるし。
 とはいえ、表面的に見える問題としては、グレイスの殺人が、現代でいうところの人格分離で行われたのかということがある。ドラマ化作品では全体として、いわゆる精神病理的な人格分離はなかったかのようにも受け取れるが、原作のほうでは、決定的ではないにせよ、病理性のほのめかしはある。しかし明示的ではない。
 物語の核は、先にも触れたように一見、グレイスという謎の女性に焦点が当てられているかのようだが、ここで読者の多くは気づくことなく、対話者のサイモンに共感してサイモンの心性に巻き込まれていく。このサイモンを通して読者を誘惑することこそが、おそらくこの作品の眼目である。
 この様子は逆にドラマのほうでは巧みな映像の畳み掛けで暗示されるが、原作のほうでは、例えば、次のような奇妙な描写となって現れる。ここでグレイスは死刑判決を受けたことと、その死刑判決が見せしめだと語った後、サイモンの心理はこう動くように、著者に語られる。

 でもその後、見せしめが何の役に立つのだ? とサイモンは思う。グレイスの話は終わった。話の本筋は、つまり彼女らしさを語った部分は。彼女は残りの時間をどう埋めるつもりなのだろうか? 「不当な扱いを受けてきたとは思わないのかい?」彼は訊ねた。
 「おっしゃる意味がわかりません、先生」彼女は今針に糸を通していた。通しやすくするために、口の中で糸の端をぬらした。サイモンには突然のこの動作が全く自然で、耐えられないほど親密なものに思えた。まるで壁の割れ目から彼女が着物を脱ぐのを見つめているように思えた。猫のように、まるで彼女が自分の舌で身を洗っているようだ。

 原作ではあたかもナレーターである著者が、作中人物のサイモンの心理を第三者的に描写しているようでありながら、実際には、サイモンの心理のなかにグレイスの無意識の誘惑やあるいは、そもそもの、この書かれた物語というものの誘惑の構図(ここで「壁の割れ目」は表面的なグレイスの言動)を示そうとしている。
 物語では、最終的にはサイモンに悲劇のような事態を引き起こされる。これを読者は、あたかも、フローベルの言う「ボヴァリー夫人は私だ」の逆転のように、「サイモンは私だ」と受け止めざるをえなくなる。かくして私たちは、グレイスという女性との関係に主体的に問われるようになる。しかもそのグレイスは、ただ、女性として虐げられて来たグレイスとは異なる、もう一人のグレイスである。
 

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2018.01.15

[書評] 米中もし戦わば(ピーター・ナヴァロ)

 ブログに物騒な国際情勢について書かなくなって久しい。いろいろ思うことはあるが、ためらってしまうことも多い。一つ例を上げると、暴動にも見える年明けのイラン大規模デモがある。イランで反政府的な機運が醸成されていることは識者の共通認識だが(後述のユーラシア・グループのレポートでも同じ)、関連の国際情報を当たってみると、この時期にこのような形で勃発するということは、意外にも識者にも想定外であったと言ってよさそうだ。もちろん、起きてしまってから、あるいは収まってしまったかに見える状態ではいろいろな説明が可能だが、この予測不能という状態の本質とそれ自体の重要性がよくわからない。この部分に補助線を引くと、多数の死者を出した先日のナイジェリア、ベヌエの衝突が今後何を引き起こすかもよくわからない。
 こうした基本的なところで不明瞭な事態と、一見説明可能かに見える世界構図と、逆に事後であればいろいろ付く説明との乖離に、ある一定の構造のようなものが感じられる。そうした例で顕著なのは、1月11日の中国海軍の威嚇である。
 同日午前、中国海軍の潜没潜水艦と同海軍フリゲート艦が尖閣諸島周辺の日本の接続水域に入り、同日午後に離れた。同種の出来事は過去もあるが、今回は中国国旗が明瞭に示され、また中国からもこの海域が中国領域であるというアナウンスが出された。すでに日本政府が中国政府に厳重に抗議したように、偶発的な事件を引き起こしかねない挑発行動である。日中平和友好条約締結40周年という節目でもあるのに関わらず、なぜ中国はこのような非平和的な行為をエスカレートさせるのか?
 実は、この疑問の構造自体がすでに問題なのである。批判の意図はないが、つい生じるこうした問いに「答えよう」とする動向が生まれる。もちろん、それ自体は間違いではない。今回の例では、まずこれが中国中央政府の意思であるか、その統制を離れた行為だったかが、一見問題になる。そして前者であれば、その意図を解読しなければならなくなるし、後者であることがわかれば、別の次元でも危機対応が必要になる。
 しかし、すでにこうした二分自体には議論の決着手法が存在していない。特に、前者のメッセージ性についてはつねに曖昧な状態に置かれる。ある意味、識者の無能を明らかにする状況であり、逆に識者は対応的な説明に追われる。
 こうした構造とは別の枠組みはないだろうか。つまり、中国の好戦的に見える行動は単にスケジュールをこなしているだけなのではないかということだ。
 実際のところ、個別の事件としての性質やメッセージ性がわからないとしても、大局的な中国の軍事動向は明確に存在し、着実に進行している。最近の出版物では、『米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』(参照)があるが、「トゥキディデスの罠」(新興国と覇権国の競争がもたらす構造的ストレス下では双方が強く意図せずとも破滅的な戦争が起こりうること)など、特に「第2部 歴史の教訓」で顕著だが、本書は応用歴史学的ではあるが、それゆえにやや抽象的な議論になっている。

 同種の枠組みではあるが、この手の具体的な動向を手っ取り早く理解したいなら、一年ほど前になるが、2016年11月に日本で出版された『米中もし戦わば(ピーター・ナヴァロ)』(参照)が役に立つのではないか。内容は邦題が示すように、米中線のシナリオとそれに向けての状況整理である。本書は、あたかもクイズ番組のように各章冒頭にクイズが示されているので、そのクイズを考えることで理解が進む点、とても読みやすい。
 ちなみにそう古い本でもないので、この機会に読み返してみた。すでに韓国の朴政権が崩壊した点では、その政権の潜在的な危険性の議論は終えているが、逆に現在の文政権の問題が重要になる。が、当然その言及はない。反面、北朝鮮の状況については未だに本書の線のまま重要である。
 読み返しながら、昨年とみに北朝鮮の核とミサイルの脅威が増大していることを踏まえてみると、北朝鮮の究極的な対応は短期の圧倒的な空爆しかなさそうだなと思えてくるのが、自分でも気落ちした。つまるところ、地上戦はできないということでもあるだろう。物騒な話題ではあるが。
 話を中国の海洋侵出に戻すと、本書が明瞭に示しているように、今回の日本への威嚇に見える海洋侵出も、単に、予定された海洋軍事侵攻を推し進めているだけという可能性がわかる。あえていうと、今回の尖閣諸島での中国の挑発行為には時事的メッセージはなく、単にスケジュールをこなしているという面もあるだろう。
 ということは、本書で示されるシナリオが今後も展開していくというだけのことも意味する。本書を読まれると、そのことにゾッとするような含みがあるのがわかるが、目をそらすわけにもいかない。
 具体的な点でいうなら、本書巻末の短い寄稿であるが、飯田将史・防衛省防衛研究所主任研究官による「日本の安全をどう守るのか」が、現在では、よりいっそう重要になってきている。簡素に書かれているが、含意を読むには、本書の理解が前提になるだろう。具体的に言えば、今回の事態とも関連するのは、「オフショア・コントロール」だろう。
 また日本のいわゆるリベラルが主張しそうな関連議論としては、本書で言及されている「大取引」がある。「大取引」は大国に同士のさしでの大胆な取り決めである。本書では、「台湾を中国に譲る代わりに、米国のアジアでのプレザンスを認める」というものだ。その他の大取引もありうるだろう。こうした議論パターンとして本書で整理しておいてもよいだろう。
 もう一点本書に関連して加えると、中国のソフト戦略のもつ威力についての言及は重要だ。昨年夏に日本でも話題になったが、英国ケンブリッジ大学の出版局に対する中国の影響がある。こうした影響はかなり広範囲に自由主義国家に浸透してきている。さらに踏み込むと、こうした影響は「大取引」に向かうように仕向けられているだろう。芸能人の不用意に見せかけた発言や、公平を装った国語辞典とかにも、構図からすると浸透が伺われるように思える事例が増えた。
 ここで話題の階層が前後するようだが、定評あるユーラシア・グループが掲げた今年のリスク(参照)の筆頭は、「中国は力の空白を好む」である。単純にいえば、軍事的な対抗力が消えた地域に、中国は自動的に入り込む。尖閣諸島についても、それが力の空白地帯であると中国に認識されれば、中国は自動的に入り込むだろう。
 大局的に見れば、北朝鮮危機は、米中戦の暗喩という意味合いも持つだろうし、端的に言えば、危険な時間伸ばしでもあるだろう。



 

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2018.01.14

[書評] 歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん(田辺聖子)

 「神」という言葉に人はいろいろな意味を与える。日本人の場合は、西洋キリスト教あるいはイスラム教のような絶対神は、随分と欧風化したはずの若い世代にもなじまない。というか、戦後70年以上も欧風化を続けているはずの日本なのに、それが日本にはなじまないという歴史を築いて来た。それがいいことか悪いことかわからないし、そもそもそういう問題でもないのかもしれない。他方、日本人にとって「神」というのは、八百万の神のように、あるいはギリシア神のように基本的に多神教的な神である。さらにネットでの用法では(これは現代米国などでも同じ面があるけど)、「ありえないほど優れた人や、自分にとって奇跡的にベネフィシャルな人」という意味もある。いずれも絶対神的な観点からは、聖人に近いだろうが、「人」にすぎない。それでも、と、私は日本人として歳を取ってきて思うのは、そういう日本的な神になじむわけでもないが、ある種の人生の知恵のようなものを極めて百歳にも近くなった人の言葉は、そこに神を見てよいんじゃないかと思うようになってきた。そうした意味での神の言葉が、てんこ盛りに詰まっているのが、この田辺聖子『歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん』(参照)だった。生きることの究極の真理がごくさり気なくそして惜しげもなく語られている。しかも、それが老いてみてわかるといった含蓄でなく、おそらく若い人にそのまま、すっと心に入るような言葉である。こんな言葉がどうして紡げるものだろうか。

 作家・田辺聖子(おせいさん)は現在89歳。今年、90歳になる。昨年10月にはその文学のほぼ最終的な書誌のまとめとなりそうな『田辺聖子文学事典 ゆめいろ万華鏡』(参照)も出た。また昨年、集大成・聖子語録とも言える『老いてこそ上機嫌』(参照)の文庫本も出た。が、この語録自体は2010年刊。『歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん』は2013年刊。内容は、2011年から2012年のインタビュー聞き書きである。おせいさんには長生きしてほしいが、ほぼ最後の言葉に近くなるし、その声を聞くように読むと、まさに日本人的な神の声というはこういうものかと思えてくる。
 若い女性向け雑誌での連載が基本なので、若い女性向けの話にはなっている。が、60歳の男性の私が読んでも、心にぐっとつまって感動し、しばし呆然とした。
 いろいろと引用してみたくもなる。が、そこはあえて控えたい。
 それでも、たった一つだけ選ぶとすれば、「好きなものには溺れなさい」というのがある。若いときに、好きだと思えるものが見つかったらとことん、好きになって、溺れてしまいなさいというのだ。
 それをおせいさんは、戦争の時代の背景で語っている。彼女は、ハイティーンで実際の戦争を体験し、ドラマ『芋たこなんきん』(参照)はユーモラスに描いていたが、厳しい戦後を生き抜いた。本当に戦争を知る彼女は、昨今の戦争の語り部たちが悲惨を様式的に語るのは正反対だ。戦後はさっと新しい時代を向いて、好きな吉屋信子の小説に溺れていったという。
 どんな時代でも、好きなものを見つめて、溺れていけばいい。私もそう思う。そんなことじゃいけないという大人たちは、溺れてしか見えないものを、たぶん、見たことはないだろう。

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