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2018.07.13

「平成30年7月豪雨」災害で思ったこと

 平成30年7月豪雨は現状200人近い死者を出す大災害となった。渦中から現在に至るまでいろいろと思うことはあるが、とりあえず3点だけ記しておきたいい。
 まず政府の責任は重いと思った。これはネットでよく言われていた、安倍政権の対応の出遅れや渦中での宴会のことではない。確かに官邸の対応は存外にぶいとは思った。私なども比較的初期の時点で100人の死者を超える大惨事になる予想がつき、さほど間を置かず200人を超えるのではないかと推測した。そう推測できたのは、前回の広島水害とそのおりに再確認したハザードマップからである。つまり、その程度には官邸でも予測可能だったはずだ。
 しかし、現実問題としてあの状況下で官邸ができたことはあまりなかったかもしれないし、広域に渡ることもあり大筋では対策は各県に任されているはずで、なんでも官邸が出てくればいいものでもないだろう。まして、事後、政局的な政権批判のための文脈で語ってもあまり意味はないだろう。

1 長期政権ゆえの責任性
 私が政府の責任は重いと思ったのは安倍政権が長期政権であり、なかでも4年前の平成26年8月豪雨による広島市土砂災害を経験しているからである。責めるべきことはこの4年間ほどの間にもっと政府主導の対策はできなかったかということだ。すでにハザードマップは公開されているし、今回の災害ははそこから予想外のことではなかった。
 言うまでもなく、この問題は専門的なので、4年間で何が可能だったかが検討されなければならない。が、非専門であるブロガーではその概要を推測することは可能ではない。実際のところ、4年間では政府主導では何もできなかったということもあるかもしれない。
 その場合、政府としても最善の政策をしてきたが、今回の被害は対応できませんでしたということになる。そうなのだろうか。そうであれば、近未来でもこうした絶望的な状況が継続することになる。

2 被害はもっと酷かったかもしれない
 10年前の試算だが、中央防災会議「大規模水害対策に関する専門調査会」(2008年9月8日)は、首都圏で200年に一度と推定される洪水が首都圏を襲った場合、死者は1万人を超えるとしていた。そのほか、各種の試算がされていたが、あまりの被害の大きさに現実感が伴わないでいた。
 だが、さすがに今回の水害では、少し想像してぞっとした。
 潜在的に巨大な水害が首都圏に及ぶ可能性は否定できない。そうした可能性にどう向き合ったらいいのだろうか。
 今回の災害でそうした潜在的な巨大被害に思いあぐねた。

3 自然災害は高齢者をより犠牲にする
 朝日新聞が行った試算だが、12日時点の141人の死者のうち、60歳以上が100人で7割を超えたらしい。おそらく死者数が確定しても、高齢者がより多犠牲となる構図は変わらないだろう。この事実に直面したとき、「淘汰」という言葉が不適切に脳裏をよぎった。
 一般的に高齢者は弱者であり、ゆえに災害に弱いということはいえるだろう。他方、統計的に裏付けられたわけではなく印象にすぎないが、ハザードマップで危険な地域に高齢者が住む傾向もあるのではないだろうか。
 この問題は、雑駁にいえば、地方の高齢者の居住をどうするかという課題のなかに含めることができるようにも思う。

 ネットで話題となる政局の文脈では、権力ある政権の過誤によって、国が滅ぶというパターンが多い。だが、国が実質的に滅ぶのは、巨大災害の負担で弱化したことの結果になるのではないか。


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2018.07.11

文部科学省前局長佐野太容疑者は無罪だろうか?

 東京地検特捜部が4日、文部科学省の前局長佐野太容疑者(58)を逮捕した。容疑は「受託収賄」。世間的には息子を私大に裏口入学させたことはけしからんと、なべおさみの裏口入学を叱るような雰囲気もあるが、私大がどの学生を入学させるかは原則的には私的な領域なので、公的な問題はない。私大側には逮捕者も出ていない。
 報道を見ると、事件は「私立大支援事業をめぐる汚職事件」としているように、文科省の私立大支援事業が、同局長の意向で捻じ曲げられたかという点が問題になる、かのようでもある。
 が、ことは二段構えのようだ。まず、①文科省プロセスの問題:文科省の私立大支援事業が同局長の意向で捻じ曲げられたか、②官吏の便宜依頼:同局長は息子の入学について便宜依頼をしたか、である。
 当初この事件を私が知ったとき疑問に思ったのは、①文科省プロセスの問題が事実上不可能なら、②官吏の便宜依頼があったとしても問題ないんじゃないか、ということだった。だが調べてみると、受託収賄容疑は②だけで成立するようだ。
 国民としては、①文科省プロセスが重要な関心であり、ジャーナリズムもそこを注視してほしいと思う。現状、印象としてだが、報道を見る限りプロセスや機構上には欠陥はないようだ。
 汚職事件としては、しかし、②官吏の便宜依頼が話題に上るのはしかたない。どうか。まず、はっきりしているのは、私大側としては、高級官吏の子供を入学させるメリットを十分意識していたことだ。加えて、私大側が官吏の便宜依頼と認識していたかだ。それこそ「忖度」のようにも思えるが、東京地検特捜部が動けた点を考慮すると、私大側としては便宜依頼と認識していた、ということだろう。
 すると問題は、佐野太容疑者自身は、そこをどう認識していたか、どのように私大側に対して振る舞っていたかということになる。
 ここではっきりしているのは、佐野容疑者としては便宜依頼をしていないと現状では述べていることだ。おそらく彼自身としてはそう認識してなかったのではないかという印象を私はもつ。
 問題はしかし、他者の印象はどうでもよく、また当人がどう意識していても、「そりゃ便宜依頼でしょ」と解される言動があったか、ということだ。この点、外堀は埋まっている。特捜側からの情報だろう、時事の報道では、昨年5月、佐野容疑者と東京医科大の臼井正彦前理事長は会食をしている。特捜としては、この会食で事実上の便宜依頼があったと見たいのではないだろう。
 同会食は、同事件の幇助容疑で逮捕されている医療コンサルタント会社元役員・谷口浩司容疑者(47)が手配したということで、枠組みとしては、これは便宜依頼のための会食だったのだのだろうとしか思えない。
 他にも、佐野容疑者は私大側に申請書の書き方指導などもしていて、それらも一連の便宜依頼の文脈に織り込まれるだろう。
 外堀の埋まり具合を見ると、東京地検特捜部も勝ち目を踏んで動いているなという印象が強い。
 で、私の印象のまとめ。
 こんな明白な構図の会食に、のこのこ出てきた佐野容疑者は最初から便宜依頼のためだったのだろうか。あるいは、「えー、フレンチならいいすね」みたいな間抜けな対応だったのか。
 仮に本人の現状の言い分を真に受けて前者ではないとすると、じゃあ、後者の間抜け、ということになるが、そこまで局長クラスが間抜けなんだろうか? 
 それもないとすると、こういうのは慣例であり、しかも慣例ゆえにどこが犯罪のフロントラインになるかを彼自身が理解していたのではないか。
 そう考えると、今回の事件、フロントラインが動いたのかもしれないなあという感じがする。
 このアーティクルを書く際、どうもこの事件もやもやするし、整理すると、結局、同局長は無罪なんじゃなねとなるかもしれないと思っていた。だが、本人がどう思おうと、これは有罪ということもありそうに思えてきた。つまり、フロントラインが動いたということだ。
 むしろ、その影響のほうが各省庁に甚大だろうな。

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2018.07.10

旧大口病院事件の印象あるいはダリー殺人事件の可能性

 その事件の名前はまだジャーナリズム的にも定まっていないように見える。NHKでは、点滴異物混入事件としてる。フジでは大口病院連続不審死事件としている。時事では大口病院連続中毒死として事件という言葉を避けている印象がある。民放番組では点滴殺人事件としているものもあった。
 社会が当初この事件として知ったのは、2016年9月、横浜市神奈川区の大口病院(現・横浜はじめ病院)で同室入院中の男性患者2名が相次いで中毒死したことだ。殺人が疑われた。そして殺人を実行できる可能性として内部の人間が疑われたが物証もなく、2年近い日が過ぎようとした矢先、この7日、不祥事で知られる神奈川県警が当時病院で勤務していた看護師・久保木愛弓(あゆみ)容疑者(31)を逮捕した。物証がないことから慎重な操作を進め、任意同行から自白を引き出したようだったが、9日のニュースでは、彼女の看護服のポケット内側から、被害者を中毒死させた消毒液に含まれる界面活性剤と同じ成分が検出されたらしい。物証とまで言えるものかはわからない。
 現状では、冤罪の可能性もあり、容疑者が殺人を行ったと決めつける報道の暴走も懸念される。松本サリン事件でジャーナリズムが犯した罪と同じようなものになりかねない。当然、こうした状況でブログで何か書くとしても、その暴走の手助けにしかならないだろう。しかし、しばらくすれば自分でも忘れるだろうが現時点で少し気になることがある。まあ、忘れてもいいのことなのかもしれないが。
 この事件は、2014年の川崎老人ホーム連続殺人事件に似た印象を与える。この事件は当初川崎市の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で入居者3人が転落死したことだ。神奈川県警らしい印象の初動捜査では変死として処理された。だが、さすがに神奈川県警も殺人事件の可能性を疑い、逮捕にこぎつけた。殺害者は3人である。これに対して、今回の事件は、推測としては、もし同容疑者の殺人事件であるとしても、何人殺害されたかもわからない。二桁に及ぶ可能性もあり、そこがこの事件に恐ろしい印象を与えている。
 久保木容疑者は現状、殺人をしたと話をしている。犯行の動機について現状報道されているのは、「終末期医療の職場にストレスを感じていた」ということと「夜勤中に患者が亡くなると遺族に説明しなければならないのが嫌で、自分の担当時間になる前に殺害しようと思った」ということだ。
 世間の空気としては、それが犯行の動機なのか、平然と連続殺人ができるのはサイコパスなのではないかといった話題から、社会問題としての終末期医療の職場が語られたりもしている。つまり、世間は、物語を欲している。
 私がここで少し気になったことは、この世間のリアクションにも関係している。もちろん、私もそうした世間の一部である自覚はある。違和感は2つある。1つは、犯行の動機はそれだけではないのかということ。もう1つは、彼女が殺人をしたとしてサイコパスでもなんでもない普通の人だったのではないかということだ。別の言い方で2つをまとめると、世間の空気がなんとなく欲しているドラマの展開のような物語はなんにもないのではないか。
 もしそうだとすると、「サイコパスでもなく仕事だりーから人殺しましたあ」ということになる。そのほうが違和感ありまくりだろうというツッコミが聞こえそうだ。が、仮にそうだとすると、むしろその意味はなんだろうか。
 この違和感の根は、「そんな簡単な理由で人殺す」という点だろ。ありえないだろ、というものだろう。でもありえたら、どうなんだろか。「挽肉手でこねるんすか、ハンバーグ作りたくないっすよ」と似たようなものだったら。対人関係が関連しているから、「仕事だから電話取れっていっても知らない人と話したくなーい」に近いかもしれない。
 これが異常でないなら、レイシアが私は道具ですから的な感じとは違うものの、終末医療の患者は人間じゃないですから的な状況があって、そこに人が置かれると普通の人でもそうなっちゃうということかもしれない。とはいえ、これを直接終末期医療の現状の問題に連結して物語を紡ぐというのは別のことだろう。
 むしろ、このねじれたような違和感、少なくとも、私の心のなかでこの違和感が告げているのは、「オマエモナー」である。「お前は殺人はしないかもしれないけど、無関心を盾にある人をもう人間とも見てないだろ」という心の中のかわいい悪魔のつぶやきである。
 他人事から、「人の死に無関心だけどそういうのがばれると気まずいから殺人は許せないし、災害被害者の死は悼むふりしないといけないだろうなあ」に移行し、そのあたりの偽善のバランスと殺人がほいほいっとできそうでもない厚遇にあることが、私と久保木容疑者との僅かな差異だろうか。久保木容疑者は案外普通の人で、その普通さのそれほど遠くないところに自分がいるんじゃないだろうか。
 それはネットにあふれる「死ねばいいのに」や「日本死ね」の日本というタームの後ろに人という言葉がかろうじて回避されている、ある種の殺意に近い正義で覆っている心情とは異なったものではないかなとも思う。


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2018.07.08

死刑をなくすということ

 私が死刑廃止論者になったのは、21世紀に入ってからである。というのも、2001年の附属池田小事件がきっかけだったからだ。この事件で無防備な小学生8人を殺害した宅間守に彼の望みである死刑を与えてはいけないと思った。この人間を自然に命尽きるまで生かせて、その口から自らの意思で悔恨の言葉を公にするのを聞きたい、そして、その命が尽きるまでその罪に苦しんでほしいと思ったからだ。
 こう言ってもいい。死を決意するならなんでもできるというときでも、人を殺すこともできる、ということはない。人が自死を決意することはその人の自由だろうが、その自分の死に他者の命を釣り合わせてはいけないと。
 そうして死刑廃止論者としての自分というものを受け止めて、21世紀を生きててはや、十数年。おりおりに思うことがある。最近では、3つ思った。
 1つは、死刑廃止論をリベラル思想だから嫌悪するという考え方に違和感を覚えたことだ。オウム真理教事件での死刑についてネットでなんどか見かけたのだが、死刑廃止論者を欧州のリベラル思想にかられただけで、日本人には日本人の考えがあって死刑を存続してよいという思想の表明があった。別段、人がどのような思想を持ってもいいだろうし、確かに日本の現状を見れば、日本国民の大半は死刑存続を望んでいるというのは事実だろう。そしてそれを上から目線のリベラル思想で批判するというのも正しいとは思えない。私の違和感は、リベラル思想なるものがあって、死刑廃止論があるという連結である。私は、これは逆だと思う。リベラルな思想、つまり、人間を自由にするという思想は常に開かれている。ある公理のようなものから導かれる同義反復のような命題ではない。市民一人ひとりが、多様な理由から自分は死刑を望まないのだと考えるようになる状態が結果的にリベラルというものだろういうくらいだ。「リベラル思想が」という主語に支配された思想は不要だろう。
 2つめは、私もさすがに自分のトラウマのスイッチを押しそうで想像の限界を超えている松戸女児殺害事件などで、こうした犯罪には死刑で望むしかないといった考え方を見かけたときの違和感だった。こう一般化できる。「私は死刑廃止論者だが、この事件については死刑で臨むしかない」という考え方だ。死刑廃止に留保をつける考え方である。ものごと極端すぎる考えはそれ自体が間違いであることが多いが、この考え方については、「それぜんぜん死刑廃止論じゃないから」と私は思った。つまるところ、極刑としての死刑の効力を維持したいという思想に変わらない。これに関連して決まりきったお題として、「死刑廃止というがお前の家族が殺されても死刑を望まないのか」というのがある。それもまた死刑存続の思想の一つの基盤だろうし、そう考える人もいるだろう。だが、現実の事件を見ていけば、家族が殺された人でも犯人の死刑を望まない人はいる。その人の思いに、「それでも死刑を望まないのか」と、上から目線というようか、土足でずかずか入り込むようなというか、そういう思想は、好ましいものではない。「それでも死刑を望まないのか」という問い詰めについては、そう問える立場の人からその状況で聞きたいと思う。
 3つめは、きっかけとしては低能先生事件で思ったことだ。上述にも関連しているし、犯罪抑止力についての議論などのように、実はシンプルな死刑廃止論の考え方でもある。と言いつつ、自分の思いとして表現すると奇妙なものになる。それは、自分には死刑という迂回した方法であっても他者を殺害することなんかできないんじゃないかという深い安堵感である。そう言ってしまえば、うまく通じないだろうと先取りして思うのでまさにためらうことだ。一般的に考えれば、死刑存続の心情と逆だからだ。どぎまぎと別の言葉をつむいでみる。自分が法を介してであれ他者の死を支配できるような正義というもの認めることができない。自分を究極のところで、自ら義としてはいけない。そんな感じだろうか。これは、すぐに連想するが、キリスト教な考えでもあるだろうが、自分としては、ああ、イエスはこういうことを言いたかったんだなという、理解の補助のように思えた。
 ま、最近思ったのはそんなところ。
 おまけといってはなんだが、ネットを見ていたら、死刑を廃止した欧州の国では、死刑は廃止しているのに、犯罪事件で犯人を射殺しているじゃないかというネタも見かけた。これについては、銃をもって臨む者には、銃で臨むのが公平だと私は考えている。そこはキリスト教的には考えない。パーで打たれたらパーで打ち返してよいだろうと思う。グーはないな。

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