« 2018年4月1日 - 2018年4月7日 | トップページ | 2018年7月8日 - 2018年7月14日 »

2018.07.07

歴史が忘れていくもの

 昨日、朝の時間帯ということもあって天気予報と時計の代わりに流しているNHKで、オウム真理教の教祖・麻原彰晃(本名松本智津夫、63)の死刑執行の速報を知った。「ああ、やっちまったな」なと思った。ああ、やっちまった。
 意外感は、まったくなかったわけではなかったが、なるようになったなという思いが勝った。以前、オウム事件の死刑囚の執行は、天皇家の行事で忌まれるから延期されるだろうと書いたものの、どちらかといえば願望だった。日本が死刑廃止の国になってほしいという願望だった。この事件を凶悪な国民の敵による事件であるとするより、その凶悪さと悲惨を運命の果実として分かち合う経験の内側にとどめるべく死刑廃止に結びつけられたらと。死刑の最終的な決断は法相に委ねられるのだから、ここでかつての法相がリラクタントであったように少しうそぶいてでも、改元や五輪の熱気に覆って隠してもよかっただろうと。そうはいかなかった。そういかないだろうという予感もあった。数日前天皇が体調を崩されたことだった。ここで突然の崩御になるとか、昭和帝のようなコーマに陥ったとかしたら、この事件を平成後まで持ち越すことになりかねないと、そう法相が思うこともあるだろう。
 なぜ昨日だったのか。なぜ麻原死刑囚が筆頭だったのか。朝のこの奇妙な内的な喧騒はその後3人の処刑報道、さらに3人の処刑報道と続いた。その名前はよく知っている。井上嘉浩(48)、早川紀代秀(68)、中川智正(55)、遠藤誠一(58)、土谷正実(53)、新実智光(54)。そっといく人かには思いを告げている自分がいた。井上にはきちんと出家させたかった。早川はこれを寿命と思っていいだろう。中川には『ラモント』のような死刑囚としあえて活かし、獄内の研究者であってほしかった。
 その後、喧騒感の増すNHKを消音し、同日の執行はもうなさそうな空気のなかで雨交じる風の音を聴きながら、「ああ、終わった」と感じた。
 終わりのある小さな安堵感に弱いしびれのように襲われている自分がいた。脳内思考小人が二歳児のようにまだあと泣きじゃくるが、私は地下鉄の車両のどこか離れたところそれを見ていたように感じた。
 歴史の中に私が置かれた。それはこうしたある奇妙な生の感覚である。私は日本人が昭和16年12月8日に何を思ったのか気になって気まぐれにだが調べたことがある。残された文書からは、鬱屈を晴らす開放感と特段に戦争でもない日常感がない混ざっていた。そしてその2つは太宰治の小説『十二月八日』にアイロニカルに表現されていた。昨日の朝感じていたのはその小説の感覚とは似ていない。小説はむしろ歴史に置かれた普通の生活者の違和感として表現されている。が、それを書く太宰には、ある歴史のなかに置かれるという奇妙の生の感覚があったことがわかる。それは小説に表現されることで、あるいはまた多数の些細な証言記録のなかで、ある残滓となる。それが本当の歴史の触感なのだとでもいうように。
 いずれこのこともブログに書いておこうとそのとき思ったが、なぜこの7人かということと、なぜこの日なのかということを、法相の言葉で聞いてからにしようと思い直した。が、待ったかいあって法相の言葉は空しいものだった。その空しさを待っていたのだ。そして、どうせだからこの思いが一晩明けたらどうなるのだろうかと待った。明けた。最初のやっちまった感は薄れていた。終わった感は、もう少しバツ悪く収まった。
 それはなんだろうか。子供がするような小さな罪が大人になってもうばれることもなく生きていけるんだといった感覚に近いだろうか。オウム事件が残した国民としての歴史の奇妙な感覚を、生活の場ではもう誰に告げなくてもいいんだという居心地の悪い安心感になった。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.05

非モテとインセルの違いについて

 ブログを書いていると、知りもしない話題をブログ記事なんかに書くなという罵倒をもらうことがある。しばしばある。というか、この手のナイス・マウンティングは実際にはもう制度化していて、まさか罵倒している本人もそうした思想制度に絡め取られているんじゃねーのといったメタ・マウンティング返しをしていると、ほらぁ、はてな的世界の螺旋地獄はとまらなくなるし、あー、ここは、はてなじゃねーよ。
 と切り出したのは、この螺旋マウント地獄のノリがはてなっぽいんじゃないかと思えたこともあるが、こうした一種の対話的な機能が、はたからは地獄に見えても、他面では低能先生の実効をそれまで抑止していた対話機能なんじゃないかと思うからで、そこの点が、非モテとインセルの大きな違いなんじゃないかというのが、この記事の結論で、それだけでわかった人は以下読む必要はないんだけど。あと、この記事が何言っているのか、まるでわからないという人も読む必要ありません。
 で。
 話をするには、非モテとはなにか、インセルとはなにか、なんでここではてなが絡んでくんだを書く必要があるのだけど、面倒くさいので粗雑に端折ると、とりあえず、非モテというのは、異性にモテないという自意識さん、インセルというのは主に男性で女性にモテないことから女性バッシングをしちゃう人。このインセルが欧米社会というか、特に米国社会で問題になり、かなりよらかぬ事件を起こしている。事件のリストとかは、Wikipedeia(US)にあるので気になる人がいたら見ておくといい。そこには、暫定的な定義も含まれている。が、現状、インセルについて、きちんと社会学的に考察され評価の高い研究はなさげなので、ジャーナリズム的な揺れはあるし、こうした揺れがあると昨今のなんでも政局におとしこんだれフレームワークではトランプがどうたらアベがどうたらというトンチンカンなフレームワークが用意されたりもするが、ここでは概ねということで。
 こうした揺れのなかに、非モテ=インセル、的な視点もいくつか見かけるようになったし、通底する部分はあると思うし、その違いはありがちな日米文化論に吸着されもするだろうが、ええと、簡単に言うと、拠点的なネットのコミュニュティ機能によってその差は大きくなってきたんじゃね、培養されてきたというか。
 インセルでも非モテでも実際に社会問題として表出された影に、自己の内面とさらにネット・コミュニティの機能がある。インセルの場合は、すでに報道されているように、アルカイダのテロ・コミュニティーのようにアンダーグラウンドで差別しまくり発言による友愛連携が取られ、これがそのコミュニティ内部のノルムで舞い上がったのが社会に押し出されてしまい、酸鼻なインシデントということになった、ように見える。
 他方、非モテは、形態は似ていている。やはりネット・コミュニティーが大きな意味をもっているようだ。簡単にいうと、「自分が非モテ意識をもっているのは正当であり、社会や他者が間違っている」という思想の確認である。そんなアホなことが思想なのかというと、私はそれはそれほどアホでもないぞ、とは思う。実際に、自分に可視な部分だった非モテ思想は国際的なフェミニズムの議論とその矛盾にそれなりに精通していて、ゆえに、対抗はフェミニズムに向けられがちであり、その対応は諸フェミニズムに内在した問題でもあった。簡単に言うと、日本の非モテの核は知的であり、インセルが女性全般への憎悪に向かうのとは異なり、フェミニズムを仮想敵とする傾向があると思えた。
 もう少し延長すると、反フェミニズムで非モテの問題が解決されるのだろうかという根本的な疑問も湧くが、悪意で言うのではないが、傍観していると、ある種のフェミニストやリベラリストに言論でマウントするのが楽しくて、根幹問題には触れない印象がある。まあ、そこはよくわからんが。
 で、この非モテなんだが、これも印象論で雑駁に言うと(それなりに十年以上もヲチはしているが)、はてなが一つの拠点っぽい。もちろん、はてな全体は議論的に衰退していて、議論の場ではなくなり、小粒なブクマーの罵倒シナプス交換が主流で、その小粒さに適合したツイッターのほうが思想的な表出は多く、思想的な片鱗はそうしたもののtogetterになる。それでも歴史経緯・傾向としてのはてなはあるだろうし、むしろ、はてなの15年間が醸成したものだろう。自分もそうだが、17年くらい前、はてなを使っていたアーリーアダプターは技術造詣もあり、読書家も多く、ぶいぶい物をかけるくらいのインテリが多く、ニフティの思想、経済、歴史、文化論的なフォーラムなど知的フォーラムの継承的な若者、といっても20代後半に差し掛かる層がある理想型をなしていた。社会に出たが失われた時代で苦しめられるやアカデミズムに残ったが地獄が見えるといった若者。それが、おっさんになった。低能先生事件で一つの局面で重要なのははてな的というより、彼らがほぼ同年の40歳超えという点だった。かつては知的で希望のある若者だったのである。で、はてなはこうした層を対話的なコミュニティとして収容してはいた。つまり、インセルらの闇掲示板コミュニティ化はしなかったのである。
 とはいえ、はてなとはいえ、技術者は目立ったし、多数は凡庸な人々であり、そのあらゆる凡庸性の思想の成就として、「保育園落ちた日本死ね」と言えるように結婚して子供を持ち、社会憎悪のはてなから支援を受けるくらいのマジョリティとなった。さらにコミュニケーション機能としてのはてのキモさに耐えない人々はnote方面に逃げ出した。さらに他方の凡庸の中核部は、自己啓発系とかだが、それなりの理想型としての著名ネット言論人のサロン的なコミュニティに移行した。
 ま、そう見ました。
 社会的な問題水準でいうなら、非モテはインセル化するかというと、通底はしていても、基本的にはしないんじゃないの。非モテは解消されるかというと、これもしなさそう。はてな的な収容プラットフォームは社会的に機能するかというと、これも実は今が断末魔的な状況じゃんじゃないの。
 じゃあ、どうなるの? しいて言えば、思想化するだろうと思う。アート化してほしいとは願うけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.04

ブログで語るということ

 事実上ブログを休止していた前の出来事になるのか、目黒での女児虐待死事件はあまりに痛ましく、というか、自分のトラウマのスイッチを押してパニックになりそうなくらいだった。ブロガーとしておよそ何か言及できるもんじゃないなと思っていた。ちょっと誇張するけど、ブログ休んでいるとこの問題について書かなくて楽、という感じもしていた。あれから、三ヶ月ほどたち、世相の話題からもあらかた消えたかにも見えるが、自分の心はというと、あまり変わらない。ただ、少し間接的に触れてみたいことがある。
 そういう思いがしたのは、イミダスというサイトの「女児虐待死事件から感じた危険な空気」(参照)というコラムを読んだことからだった。冒頭、ああ、それな、と思ったのだった。


 2018年3月に東京・目黒で起きた女児虐待死事件。児童相談所が関与していたにも関わらず、5歳の少女の命を守れなかったこの事件を受けて、児童相談所の虐待情報を警察と全件共有することを求める声が大きくなった。しかし、私はそのことに危機感を抱く。例えばハイティーンの子どもたち――特に虐待や困窮から生き延びるために万引きや性売買、犯罪に関わった少年少女は、警察による取り締まりやけん責を恐れて、ますます助けを求められなくなるからだ。

 背景はこういこと。

 保護のニーズが高まる夜間や土日祝日、年末年始に駆け込める公的機関は警察だけなので、「長期休暇の時や土日、夜間には『危険を感じたら警察に駆け込むんだよ』と子どもに言うしかない」といった学校教員などの声も聞く。実際には明らかな虐待があり、本人も保護を求めていて、学校から児童相談所に何度も虐待通告しても保護してもらえない中高生のケースはよくあるのだ。しかし警察は福祉施設ではなく、不適切な対応をされることが多い。
 例えば、父親に殴られて交番に駆け込んだ中高生に、警察官が「お巡りさんがお父さんに言ってあげるから」と言って親を呼んで叱り、親子とも家に帰すようなケースに私は何件も関わっている。そのことで虐待が更に悪化し、子どもはそれ以来、他人に相談ができなくなり警察も恐れるようになった。

 誰が悪いというわけではなく、警察というのは福祉施設ではない、ということだ。
 警察に福祉機能を持たせろという意見もあるかもしれないが、そのあたりで、どことなく論点が斜め上に走り出しているように思う。
 理路として考えるなら、虐待や苦境にある子どもたちを夜間や土日祝日、年末年始に対応できる専門の福祉設備が必要であるということになる。これは、公が負担にすることになるから、地表行政か国が対応せよ、ということになるだろう。それで正解のようにも思えるし、複雑に考えるまでもなく、正解なのかもしれない。同コラムでは、「「児童相談所の弁護士」ではなくて、「子どもの代理人」として活動できる専門家が必要だろう。」という結語にしていたが、それを制度にもっていくのは難しいだろう。
 そして、なんとなくという程度だが、それでも、そううまくはいかないんじゃないかという思いが残る。なんだろうか。
 ある事件があった事後の対応として、法的な「子供の代理人」は必要だが、問題の根は、むしろ事前にあり、それは、かなり根の深いものなんじゃないか。
 これで連想するのは、昨年秋の座間連続殺人事件である。これも痛ましい事件で、自分のトラウマスイッチではないが、ブログで触れられそうにもないなと思っていた。
 事件にはいろいろな側面がある。重要なのはこのような残虐な事件を再発させないような仕組みを作ることであり、この事件はどちらかというとサイコパス事件なので、Netflix『マインドハンター』のような対応が必要だろう。日本の警察にもすでにあるのかもしれないが。
 この文脈で連想されるのは、容疑者に面会していった人たちの内面である。単純化すれば、「一緒に死にたい」という他者を欲していたいうことだった。ちょっと変な表現になるようだが、それがその人たちの欲望だった。抑えがたいほどの欲望だっただろうか。あるいは、軽い気持ちであったかもしれない。が、その軽い気持ちには死に裏付けられた重さが潜んでいただろう。
 文脈というか関心点を整理すると、「自分の置かれた苦しい状況を誰にも語ることができない」「死を担保にして語る人が欲しい」ということだった。「運命の果実を分かち合いたい」ということかもしれない。
 別の言い方をすれば、見渡す範囲に人はいても誰にも語れない何かを抱えてしまったら、どうしたらいいのだろうか、ということだ。
 語ればいいじゃん、というには、誰にも通じはしないだろうということがわかっている。身の回りの声の届くところは狭いものだ。が、ネットなら拡大できるから、座間の事件のようなことも起こる。
 この「語れない」という感じをあえて語るとどんなものになるかという比喩的な存在が、かつては匿名掲示板であり、匿名掲示板がゴミメッセージの天敵で機能しなくなったのと対照的な、はてなの匿名ダイアリー(通称増田)だったと思う。大半は「釣り」であり、フィクションなのだが、そのフィクションの基本テーマも、一応おもてでは「語れない」である。そして、その天敵が、はてなブックマークという罵倒のネットワークシステムであり、これは、語れないことを語るのを結果的に禁じるための、メタ的なマウンティングの螺旋を描いている。それはどこまでも終わりがないかに見える、現実世界を強制的に介入させるのでもなければ。
 ネットも語れない世界になってきている。この語れなさは、天敵としての炎上が対応しているかもしれない。
 連想ゲームのようだがその関連で心に残ったのは、GQというサイトのコラム「なぜ津田大介は炎上するのか?」(参照)というコラムだった。同記事では「炎上」しかも政治的な文脈での政治工作的な炎上が取り上げられているが、なんであれ異論的な意見を叩きのめしたい思い渦巻く世界が現在のネットだろう。コラムでは対応をこう述べている。

 炎上も日常化して慣れてしまえば、サウナみたいなものだ。いま言論人に求められているのは、日常的に接している「ネット世論」が組織的もしくは金銭的に著しく歪められているという事実を認識した上で、炎上を気にせず淡々と自身の意見を表明し続ける鈍感力を持つことであろう。その意味で、本誌のような紙媒体の役割も今後は重要になってくる。炎上が怖くてネットでは意見表明できない繊細な表現者たちをサポートできるのは、紙媒体だけだからだ。

 あくまで感覚的なものにすぎないので矛盾するが、「炎上を気にせず淡々と自身の意見を表明し続ける鈍感力」などというものは持てはしないだろうし、そうした、炎上に無敵な人の意見は、ブログにあるべきある種の繊細さ、つまり、それこそなんとかして伝えたい思いとは正反対のところにあるだろう。紙媒体は守ってはくれるだろうが、同様にその繊細は加工されてしまう。
 誰にも伝えられない思い、伝えようなものら袋叩きに合うだろうなと言う思い、匿名ブログに逃げ込みたくなるような思い、でも、それもまたためらうかすかな均衡でブロガーは何を語るだろうか。というか、そのようなわずかな空間だけでしか、ブログの意味はもうないんじゃないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.03

『ごんぎつね』が嫌い

 たぶん、世の中、新美南吉作『ごんぎつね』という物語が嫌いだという人は、私に限らず少なくないんじゃないかと思う。もちろん、多数は、その逆で、あの物語が好きだとか、感動したとか、あるんじゃないかとも思う。
 どこが嫌いかというと、いろいろ嫌いポイントがある。自分勝手に押し付けるいじけた愛情を自己正当化してしかも悲劇に持ち込むあたりも、うー、たまんなくなく嫌だ。が、それはさておき、今回も、嫌だなあとしばし思っていたことがある。
 すごくおばかなことをあえて言うのだが、ごんぎつねなんていないのである。どのようにいないかというと、まずもって二足歩行する狐はいない。
 いやいや、僕が読んだあるヴァージョンの挿絵がそうだったというだけで、ごんぎつねがかならずしも二足歩行であるとはかぎらないし、そこは、まあ、どうでもいいや。どうでもいいついでに言うと、ピーターラビットの二足歩行もちょっとどうかと思うぞ。
 ってか、このおばかな指摘をしたのは、そういう指摘って、おばかでしょ、という意味であえてしたのだが、では、人間並みというか、ある種高度AIのように人間的な感情と意識を持ったきつねが実在するのかというと、いるわけないじゃん。なのに、そういう指摘は、二足歩行のきつねありえねーというほどには、おばかな指摘とは思われていない。つまり、童話というか寓話というのはそういうお約束で成り立っているのだ、人間の社会を比喩しているのだ、よって、そういうお約束がおばかじゃないと仮定してだ、いやあ、ゆえに、この物語、ないっしょ、と思うのだ。
 このお約束では、兵十は、ごんが人間のような意識と感情をもった存在だと理解しているという虚構がある。まあ、その仮定は正しいよね。そうでなければ、ごんが射殺されたとき、人間が死んだかような感情移入するわけないんだから。まあ、犬が死んでも感情移入するのが普通だとも言えるには言えるだろうけど、ごんぎつねのシーンはペットの犬を愛したというより、対人的な情感でしょ。
 で、つまり、そこなのだ。今回、考えあぐねていた嫌いポイントがそこだ。兵十は、最初から家に忍び込んだ何者かをマスケット銃で射殺する気まんまんでいたということだ。そしてそれは成功するべく成功した。
 まるで、現代のアメリカ社会じゃん。
 日本人の心情って、銃はよくないじゃないかったのか。
 なのになんで、こんな銃社会みたいな話が感動の物語で、しかもあろうことか教科書にも載っているのだろうか。
 しかも、アメリカ社会の場合は一応、家庭は城なりだったか、英語で、"An Englishman's home (or occasionally, house) is his castle."というやつ。おっと、これアメリカじゃなくてイギリスか。
 ま、いずれ、アメリカ社会では、未知の不審者だから射殺OKという建前だが、ごんぎつねの世界だと、「こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。ようし。」って、最初からあきらかに人間意識をもったごんぎつねを射殺する気まんまんなのな。気に入らないやつは私的制裁で殺しちゃえっていうこと。
 これ、異民族の比喩と見るなら、民族虐殺の心理、まんまだよ。
 ひでーんじゃないの。
 なんであれ、相手に人間心理があり、コミュニケーション可能なら、まず、対話しろよ。後ろからナイフ刺すんじゃねーよ、あ、ナイフじゃないや、物語ではマスケット銃だったな。
 とま、手の込んだネタ、それほどでもないか、ネタ話であるのだが、昔の物語だし、日本でも猟師は銃を普通に持っていたということだから、子供の教育にいいかあ、というのはあるだろう。なにも、ローラ・インガルス・ワイルダーの名前を児童文学賞の名称から外すように新美南吉記の作品を教科書から除けとは思わない。
 それにしても、なんだろか、この、読み返すたびに、思い返すたびに、所々に嫌いポイントが浮かび上がってくる作品というのは。しかも、これ、嫌いだよ、で、すまされない、なんだろ、この嫌い感でマジョリティの日本人を微妙に敵に回している感っていうのは。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.02

たぶんそれはこういうことでテロだった

 ブログを書かないでいることにあまり違和感もなく過ごしていて、まあ、自分にとってそういう時代になったのかなとも思う。そうした感慨はさておき、それでも心のどかで自分はただのブロガーであるべきだ、つまり、たかがブロガーであるべきだという奇妙な使命感のようなものがあり、それは、市民として複数の声が社会に必要なときには、声をあげようということだった。さて、その時だっただろうか、と思い悩んだのは、インターネットセキュリティー関連会社「スプラウト」の社員、岡本顕一郎さん(41)の殺害事件を知った時だった。
 彼はネットの世界ではHagexさんとして知られていたらしい。実は僕は彼のことを知らなかった。名前は聞いたことがあるし、話題の炎上案件とかでブログを読んだこともあるが、そのHagexさんという名前での認識はほとんどなかった。たぶん、彼もまた、「finalventさん」は知らなかっただろう。まったく関心がすれ違うことがなかったのだろう。
 そういう対象について自分がどう接してよいかはわからない。事後、岡本さんの知己からの追悼がネットに多く出回り、リアルに交友関係の広い人であったのだなとわかるものの、その事自体が自分との関係の薄さを意味している。まして、Hagexさんとしての活動は私の関心外であった。が、今回の事件のネット面である「はてな」の世界は、自分のブロガーとしての活動の根でもあり、ある意味よく知ってはいた。とても雑駁に言えば、ああ、はてならしい事件だなとは思ったのだった。
 このはてならしさという側面については、それほどメディアでは取り上げられなかった。が、それなりに幾人かのブロガーというか論者によってその後ぽつぽつと取り上げられており、真相とまで言えるかどうかわからないが、かなりあのはてなという世界の様相をうまくえぐりだしていた。ということは、僕がその面でなんか書く必要もないだろうということでもあった。
 まあ、だから、そこはかなり端折って書いてみる。
 岡本さんを殺害したのは、松本英光容疑者(42)である。現在となってはかなり確実にはてなで「低能先生」と呼ばれていたブロガーである。ブロガーといっても、匿名ブログに書いていただけだが、その最後の犯行声明もかなり確実に彼のものだと言える。
 僕は、まずそれを読んでみた。三島由紀夫の激を読むように、どのように非常識に見える声明でも余談なく読んでみたのである。


おいネット弁慶卒業してきたぞ
改めて言おう
これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな)
俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ
「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな?
「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?
ただほぼ引きこもりの42歳はここで体力が尽きてしもうた
事前の予定では東京までいってはてな本社にこんにちはするつもりだったが、もう無理
足つってるし
なんだかんだ言ってはてなというか増田が俺をネット弁慶のままで食い止めていた面もあるしなあ
逆に言うと散々ガス抜きさせてもらった恩がある
はてブと通報厨には恩など欠片もないが
てことでこれから近所の交番に自首して俺自身の責任をとってくるわ
足つってるから着くまで30分くらいかかるかも

 自分のなりに理解したことを書いてみよう。
 低能先生(悪意をこめてはてな利用者がつけたあだ名である。簡単に言えば、それ自体がいじめであろう)は、著名ブロガーであるはあちゅうさんを罵倒するはてなブロガーたち(複数)の活動が彼にはネットリンチに思えた。そういうネットリンチに対して、彼なりの正義感を持って、「戦って」いた。そしてその「戦い」に彼らも「通報&封殺」で応戦してきた。低能先生はこれに負けるわけにはいけないと、ある種の正義感から使命感を持ったのだろう。が、当然、その戦いも実際は、他のネットリンチと同質ものでもあった。この同質性がこの事件の重要性だと僕は思う。
 Hagexさんは、そうした低能先生の活動を批判し、はてなのサービスにそうした彼の活動を禁じるように示唆した。「通報&封殺」の旗をお気軽にではあっただろうが双頭鷲旗のように高く掲げたことだろう。Hagexさんと低能先生との繋がりは、どうやらそれだけである。犯行後声明を見ても、Hagexさん個人への怨恨はなかった。
 ではなぜ、Hagexさんが選ばれたのか?
 ネットでは怨恨感のないことから、一種の通り魔的殺人事件であり、防ぎようもないものだし、はてなにも落ち度なく、しいていえば運が悪かったというような意見もいくつか見た。
 僕は違うと思う。なので、このエントリーを書くのだ。
 これは、まっとうにテロであったと思う。
 低能先生は自身の正義思想に歯向かってくるものと戦うために、その優位(ネット弁慶ではない)を実証するために、象徴的な殺人を要したのである。つまり、思想のためにのみ(怨恨もなく)殺害者を選ぶというのは、911でもそうだし、オウム事件でもそうだし、三井物産爆破事件でも同じである。これこそがテロというものである。
 そして、これが本当にテロなのだということを、僕の目からすれば、社会は理解していない。どうしたものかなあ、まあ、ブロガーとして、複数の声となるべく小さな声を挙げておくかというのが、この記事の趣旨である。
 なので、この記事の主眼は以上で終わり。
 あとは、余談である。事件後、声明を読んでずっと考えていたことがある。そしてそのことに触れたメディアも僕の見た範囲でもブログにもなかったので、触れておきたい。
 低能先生の最初の行動プランにあるはてな訪問についてである。彼ははてなで何がしたかったのだろうか?ということだ。
 はてなでテロを行う可能性があっただろうか。
 たぶん、ない。
 それどころか、何がしたかったかは、きちんと声明に書いてある。「はてな本社にこんにちはするつもりだった」と。
 なぜ、はてなに、こんにちはしたかったのだろうか? その理由もきちんと書いてある。「なんだかんだ言ってはてなというか増田が俺をネット弁慶のままで食い止めていた面もあるしなあ 逆に言うと散々ガス抜きさせてもらった恩がある」と。
 僕はそれから低能先生がはてなを訪問する様子をなんどか想像してみた。ドラマのように。それは意外とほのぼのとした情景でもあった。
 今回の事件で、どうやったらこの手の犯罪を防げるのか、という課題を立てて議論したブログもあったが、概ね、解答はなさそうだった。が、低能先生自身が、その解答の一つを述べていることに言及しているのは見かけなかった。
 彼は内面にテロのような強度な正義の情熱を抱えて、それにアンビバレントな意識と理性ももっていた。そのアンビバレンツをその状態で支えていたのが、はてなだった。
 では、はてなのそうしたサービスはすばらしいのか。今後も続けるべきなのか。おもてからは見えないところで、十年近くも試験運用として放置されているかに見える匿名ブログのサービスや、はてな利用者同士で簡易に罵倒が交換できるIDコールや、ネットいじめにしか見えない、はてなブックマークの一覧ページとか、それを放置しておくべきなのか。
 僕なりに考えてみたが、そこはわからない。
 カナダでインセルと呼ばれる、結婚できない男のテロ事件があった。話を端折るがインセルは低能先生に近い面があるだろう。そして、はてなの華々しいダークサイドはこの年代に支えられてもいるように見える。
 彼らの上げる声もまたこの社会のなかの複数の声であるには違いない。そしてその声を聞き届けるはてなの奇妙なサービスはそれなりの社会的な機能を持っていた。
 そこには、なにかしら未来への鍵があるのだろうと思う。どれほど、僕がはてなというサービスにうんざりしていても。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年4月1日 - 2018年4月7日 | トップページ | 2018年7月8日 - 2018年7月14日 »