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2018.01.13

[書評] 経済は「競争」では繁栄しない(ポール・J・ザック)

 年明けのショッピングで気分転換用の香水を見ていて、そういえば10年前の映画だが『パフューム ある人殺しの物語』(参照)を見てなかったなと思い出した。当時話題作でもあったし、遅々ではあるが今からでも見ておこうかなと思い立ち、見た。

 なるほど話題になるだけあって、なかなかに面白い作品だった。人によって受け止め方はまちまちだろうが、心根のねじくれた私などにしてみると、この悪趣味はたまらない。ただ、映像的には裸体なども出てくるので、表面的にはエロい作品とも言えるのだけど、エロさの点はこってりとしたコクがないというか物足りない感は残るし、肝心の、というほどのことでもないだろうが、香水についてはもうちょっと蘊蓄を展開してくれてもよかったようには思った。
 この映画見ながら、「あれ、これって、あれだよね」という、もどかしい感じもした。あれ、というのは、この、殺人を犯してまで主人公が作りたかった香水というのは、ドニゼッティ『愛の妙薬』でもなく(おっとこいつは飲み薬)、フェロモンということなんだろうなと思いつつ、いやそうじゃなくて、これ、「オキシトシン」の暗喩なんじゃねと思ったのだった。
 そしてそういえば、と芋づる式に思い出したのが、この本『経済は「競争」では繁栄しない(ポール・J・ザック)』(参照)である。原書は2012年の書籍でこの訳書はその翌年。思い出すに、いろいろメディアで「オキシトシン」ブームが起こったころのことだ。当時、この本を読んで、還元主義にありがちな単純な発想だなあと思った。それと、邦題の方向性がちょっと違うようにも思っていた。本書はあくまでオキシトシン研究者による一般向け解説書といった軽い読み物である。
 読み返してみた。あの悪趣味な映画の影響のせいか、以前より肯定的にオキシトシンというものを考えられるようになった。本書の言う、「共感的なつながりこそが、私たちの追い求める『善』なのだ」というのは、たくまずして、あの映画のテーマにもなっている。
 読み直してみたいと思った、もう一つの理由もあった。当時は、「オキシトシン」自体に関心があったが、現在では、なんというのだろう、何かとネットで魔女狩りみたいな風潮が激しいが、こうした風潮に対して、この本の延長で解けるものがあるんじゃないかと思ったのだった。
 「オキシトシン」については、改めて解説することもないだろうが、簡単に言うと、本書にもあるように「信頼のホルモン」である。人々の関係がスムーズに親和的になるような感情を促すホルモンである。このホルモンは分泌している本人にとっても快感につながる。当時はもう一つの母性ホルモンのようにも言われていた(男の乳首をいじると分泌がよくなるといった話もあったように思うが都市伝説か)。
 そこで、循環論法のようだが、オキシトシンの分泌が多いと人は信頼関係を結びやすくなるし、さらに信頼関係に置かれるとさらにオキシトシンの分泌がよくなるということだ。本書の基調はそうした好循環をうまくやっていきましょう的なものである。
 当たり前だが、世の中、そうした好循環がそうやすやすとあるわけはない。オキシトシンがうまく分泌されなかったり、機能しなかったりするような実態がある。そのほうが多いだろう。なぜなのか。本書では、そうした親和的なオキシトシンに対置して、攻撃的なテストステロンがあるからだとしている。ごく単純に図式化すれば、オキシトシンとテストステロンで信頼と攻撃のフィードバックシステムができている。
 本書の主張は、細かい点に突っ込むといろいろ問題もありそうな、還元主義的な議論の枠組みだが、本書出版後、世の中は急速にSNS化してきていた。この動向も、オキシトシンの分泌が関係ありそうに思える。つまり、ハグしあえるような身体的な信頼の関係がなくなったから、SNS的なつながりで身体が触れ合うことのない想念上の信頼関係を作り、なんとかオキシトシン分泌も維持するというような仕組みである。
 逆に言えば、当時この本を読んで、なんかノー天気な主張だなと思っていたのだが、現在にしてみると、オキシトシンの分泌具合でネット社会の状態を考えるというのは、意外に正確な視点かもしれない。それに世の中をもう少しましにする技術にもつながるかもしれない。
 つまり、上手に社会レベルで人々のオキシトシン制御ができるような仕組みがあってもいいのかもしれないと思う。比喩とかじゃなくて具体的に人と人が出会って触れ合える仕組みというのは必要なんじゃないないだろうか。「具体的に」と言ったわりに、その具体的な案は浮かばないのだけれど。そうだなあ。地下アイドルとファンの共生なんかもそうしたオキシトシン安定化装置かな。


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2018.01.12

[書評] 最強の女(鹿島茂)

 先日、成人の日で、たまたまツイッターで「二回目成人式」という洒落を見かけた。その人は40歳になったというわけである。それを見て私が思ったのは、「ああ、俺は三回目」ということだった。二十歳のときに出席した成人式からもう三倍も生きたのかあと落胆した。
 もの心がついたのは4歳ころ。そこから20歳までの時間はけっこう長く思えたものだが、それ以降、人生の相対性理論というか、人生意識時間の進行がどんどん急速になる。実感としては先日ぽっと40歳になって、ああ自分も40歳かと嘆いていたのだった、なあ。いや、そんな話がしたいのではない。むしろ逆だろうか。
 自分語りになるが、cakesの「黒田三郎」(参照)でも書いたが、私は十代のころ詩を書いていた。14歳くらいから書き始めただろうか。ノートに普通に書いていた。1970年代前半。まあ、ちょっと文学的な青年なら誰も詩を書くような時代でもあり、私もそうした凡庸な一例なのだが、雑誌に詩などを投稿するとよく掲載された。選者の詩人・山本太郎や詩人・吉野弘からも、常連さんとして覚えてもらえるくらいにはなった。選に落ちたときは、今月はさえなかったな、というふうに慰めてももらった。
 そんなことも嬉しくて、また感性が爆発しているような思春期だったから、詩の文学にものめり込んだ。若いっていうのはすごいもので、もうめっちゃくっちゃにやたらめったら膨大な詩を読みまくった。フランス語もドイツ語もできないのに、エリュアールやリルケにも傾倒したりもした。というわけで、彼らの恋愛話なども好んで読んだし、そこに出て来る女、ガラやサロメについても知っていた。

 そんなわけで彼女たちの評伝ともいえる『最強の女(鹿島茂)』(参照)は楽しく読んだ。というか、面白かった。読みふけっていると、自分が10代に戻ったような気がする。もう40年以上も昔のことなのに、こうした話がびんびん蘇ってくる。若い日に吸収しちゃったものって一生残るものなんだろう。とはいえ、当時自分が読んだ話より、本書の話のほうがはるかに詳しい。記憶に歪みもありそうだ。自分では「サロメ」と記憶していたが、ニーチェやフロイトにも関係する彼女、同書では「ザロメ」となっていた。かつてもそうだっただろうか。
 全五章。出て来る「女」は5人。まず第1章はルイーズ・ド・ヴィルモラン……自分とっては、なによりもサン=テグジュペリ『星の王子さま』のバラだよ。そしてアンドレ・マルロー。そのあたりは知っていたのだが、彼女を含めた当時のサロン文化の話なども面白かった。『失われた時を求めて』の冒頭の子供の頃の思い出とか、なるほど母がサロンにいるわけか。
 第2章は、リー・ミラー。彼女については、マン・レイとの関係でなんとなく知っていたが、マン・レイとなるとキキに関心がいく。とはいえ、描かれたリーの人生は興味深いものだった。著者鹿島が彼女を現代女性の雛形のように捉えているけど、確かにそんな感じがする。そうえば、オドレイ・トトゥの『ココ・アヴァン・シャネル』もまだ見てなかったな。
 ルー・ザロメが第3章。いや、まいった。何が参ったかというと、十代のころはオナニストよろしくしていたわりに精神志向だったのか、ここで描かれた絶倫リルケ像はちょっと驚いた。考えてみたら、リルケ、そうだよなあ、というのと、このザロメも二十代半ばまで処女だったとはな。ああ、我ながら鹿島先生の本を読むときのお下劣満足感がたまりません。
 第4章のマリ・ド・エレディアについては、ピエール・ルイスの恋人だったというくらいしか知らなかった。普通に読んで、恋多き女の一生というか、映像的で映画にでもなりそうな感じ。
 そして、終章のガラ。ガラについてはけっこう知っていたつもりだったし、ここに書かれている出来事とかでびっくりというものでもなかったが、いやはや読んでて笑い転げたのはダリの描き方だった。ようするにダリというがガラの作品だったわけだ。しっかし、このダリ像の意地悪さは笑える。
 さて、本書には「前口上」はあるが、雑誌連載のせいなのか、「あとがき」のようなものはない。なんだろうか。なんというのか、こうした「最強の女」について、総括というのでもないけれど、何かまとめみたいのが、最後にあってほしい感じがした。残尿感というか。
 私はいつのまにか60歳にもなった。私は、自分の世代では36歳というと晩婚ではあったが、若い頃手酷い失恋をしたものの、あるいはそのせいか、恋多き人生でもなく、ゆえに多くの女性に出会って恋をするというものでもなかったが、それでも、本書の「最強の女」は、「これ、普通の女だよ」と思う。本書としては、特異な女を取り上げているのだけど、私の実感としては、どの女も本質的には最強なんじゃないだろうか。普通に生きているかに見える女も、本質は「最強の女」であると思う。
 公平に言えば、女にとって男は不思議な生き物だろうが、男にとって女は謎極まる最強の生き物である。とてもいとしく、そしてその強さゆえに戦場のようにつらくもあり。

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2018.01.11

カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したこと

ル・モンドで発表された(参照)、カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したことを、自分でも考えてみたいと思い、仮訳してみました。誤訳があるかもしれません。というか誤訳が多いかもなので、あくまでご参考までに。


《私たちは、性的自由に不可欠な、迷惑をかける自由を擁護します。》

レイプは犯罪です。しかし、しつこかったり下手くそだったりしても女の気をひこうとする行為は違反ではありませんし、女をくどくことは男性優位主義の攻勢でもありません。

ワインスタインの事件後、特に権力を乱用する男性のいる職場において、女性に対する性的暴力が法的に認識されるようになりました。それは必然的なことでした。しかし、その言論の自由は今日逆の方向を向いています。こうすべきだという口調や、むっとくる人を黙らせることを私たちに命じています。そして、そうした押し付けを拒む女性は、裏切り者だ、同罪だと見なされます!

魔女狩りが盛んな時代のような、女性保護論や、永遠に犠牲者の地位に縛り付けるほうがましだとする彼らの解放論や、邪悪な男性主義者に掌握された貧しく弱いものについての議論があります。こうした議論を一般的に良いものだと偽って借用するのが、ピューリタニズム(粛清主義)の特性です。

密告し糾弾すること

実際、#metooのタグは、報道とソーシャル・ネットワークで、密告と個人への公開糾弾のキャンペーンを導いています。こうしてその個人は、応答もできず自分を擁護する機会もないまま、性犯罪者とまったく同じ場所に置かれているのです。この拙速な判決ですでに犠牲者がいます。職場で制裁を受けた男性や、辞職を強いられた男性などです。彼らがしたことといえば、膝に触れたり、不意にキスしようとしたり、職場の会食で個人の恋愛話をしたりしたことくらい、あるいは、片思いの女性に性的な含みのメッセージを送ったりしたことくらいです。

こうした「豚野郎」を屠殺場に送り込めとする熱病は、女性の自己決定を援助することからかけ離れ、性解放の敵や過激な宗教者や最悪な反動主義者、さらには実体的な善概念とそれに見合ったビクトリア朝時代の倫理観のもとに女性とは「特別な」存在つまり大人の顔をした子供だから保護が必要なのだと信じている者たちの便宜に役立っているのです。

他方男性が召喚されるのは、その過ちを罰するために、過去を省みて心の底から、10年前、20年前、あるいは30年前に犯していたかもしれない、そして悔い改めねばならない「誤った振る舞い」を見出すためです。衆人が見るなかでの告白や、検閲者を自認する者がプライベートな部分まで侵している様子をごらんなさい。これが全体主義の社会を作り出しているのです。

粛清の波は留まることを知らないかのようです。あれをごらんなさい。ポスターに描かれたエゴン・シーレの裸像は検閲されています。こちらをごらんなさい。変態的小児愛者の弁護になるかもしれないということでバルチュスの絵画を美術館から引っ込めろと言われています。作家と作品が混乱され、ローマン・ポランスキー回顧のシネマテーク・フランスでの上映禁止が要求されていますし、ジャン=クロード・ブリソーに捧げた作品は延期になりました。ある大学教員は、ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「ミソジニー(女性蔑視)」で「許容できない」と判定しました。こうした修正主義のもとでは、ジョン・フォード(『捜索者』)や、ニコラ・プッサン(『サビニの女たちの略奪』)も同様に危ういでしょう。

すでに、編集者によっては、私たちのいく人かに対して、私たちが描く男性人物について「差別主義」が薄まるように、また性や愛について話すときは過度にならないようにと求めています。あるいは、「女性キャラで苦しむトラウマ」をもっとあからさまにしろと求めます! この手のバカバカしいことといえば、スウェーデンの法案は、性交渉の候補者に対して明示的に通知された同意を強要したいのです! あともうひとふんばりで、一緒に寝たい大人二人は、事前にスマホの「アプリ」で、受け入れ方法と拒否の方法が正式に記載された文書にチェックするのです。

他者を不快にする自由は欠かせないものだ

哲学者リューヴェン・オジアンは、芸術的創造に欠かせない、他人を不快にする自由を擁護しました。同じように、私たちは性的自由に不可欠な、迷惑をかける自由を擁護します。

現代の私たちは、性的衝動が侵犯的で野蛮な本性に由来すると認めて十分に警戒していますが、他方不器用に女をくどくことと性的攻撃を混同しないほどには十分に明晰です。とりわけ、私たちは、人間というのは、一枚岩ではないことを意識しています。女性というものは、同じ一日の間でも、職場のチームリーダーを務めることと、男性の性的対象であることを享受することができるのです。しかも「やりまん」にも家父長制の卑劣な共犯者にもならないでいられるのです。女性は自分の給料が男性の給与と同じであるように心を配ることができる反面、たとえそれが犯罪であれ、地下鉄の痴漢にまったく心を傷つけられずにいることもできます。女性はそれを大げさな性的悲惨の表現、または大したことじゃないと見なすこともできます。

権力乱用の告発を逸脱して、男性と性的であることへの憎悪の顔を持つフェミニズムのもとに女性として私たちがいるとは認識しません。性的に誘う提案にノーと言う自由は、迷惑をかける自由なくしてはうまくいかないと私たちは考えます。 そして私たちは、この迷惑をかける自由にどのように対応するかを知るべきだと考えます。そうでなければ、自分自身を彼らの餌食の役割に閉ざしてしまいます。

子供を持つことを選んだ女性のために、私たちは、その娘が十分に情報を得て、怯えもなく非難されることもなく、生活を満喫して育つことが賢明だと思っています。

女性の身体に影響を与える可能性のある出来事でも、必ずしもその尊厳にまで達しているわけではなく、時としてつらくても、その女性をけして永続的な犠牲者にしてはいけません。なぜなら、 私たちの本質は私たちの肉体に矮小化できないからです。私たちの内なる自由は不可侵です。そして、私たちが大切にしているこの自由には、リスクや責任なくして享受できるもでもありません。

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2018.01.10

[書評] 踊る裸体生活(森貴史)

 あれは確かバットマンの映画のシーンだったと思う。パーティーでばか騒ぎをするところで、水槽で裸のやつがいるがヨーロッパ人だろう、というのである。米国人から見ると、ヨーロッパ人というのは、騒ぎ出すと裸になる人々という偏見があるのだろうなと思った。

 しかしそれは偏見には違いない。だけど、私もそんな偏った印象を持っているし、それに関連してか、どうも戦前のドイツというとナチス台頭の暗黒時代というわりには、同時代資料を見ていくと、映像的には大自然のなかでの裸体賛美みたいのが多い印象があった。そもそもオリンピックというのも、現代のそれは依然ナチズム的な裸体賛美と結びついているし、健康から裸体賛美というのもなんだかナチズムっぽい。あれはどういうことなんだろと思っていたので、『踊る裸体生活(森貴史)』(参照)には興味をもった。副題はまさに「ドイツ健康身体論とナチスの文化史」である。
 読んでみると、なんとも奇妙に面白い。ライターさんが巧妙な文章で読者の関心をつないでいくというタイプの書籍ではなく、きちんと学問的な整理がされているのだが、まず、テーマ提示の序章からして、なんだろうかこれは、というあふれる奇妙な裸体写真に目を奪われる。エロではない。むしろ芸術とでもいうのだろうか。本書では裸体文化の日本への影響について体系的には言及されていないが、昭和時代に入って都市的な公共空間にあふれるヨーロッパ的な裸体像の源泉もこれにあるだろう。長崎の平和記念像も風呂上がりよろしく裸体であるのも、ヨーロッパの裸体主義の影響なのだろう。
 それから序章では、健康主義とでもいうべき健康志向の歴史的動向から関連して、ルドルフ・シュタイナーの神秘主義も出てくる。一見学問というより雑多な博物学的でもあるかのようだが、序章にも書かれているが、この一見奇妙なドイツ中心的な裸体主義の文化運動は、現代の思想から文学、さらには自然科学にも関連していることがわかる。私が高校生のころ読んだフックスの『風俗の歴史』ではないが、いわゆる表面的に語られる歴史から奇妙に抜け落ちてしまうのに、そこに体系的な連携がある何か、そういうものがこの裸体文化運動にもはある。
 第一章は裸体文化の前史。ゴディバのロゴにもなっているゴダイヴァ夫人の伝説や啓蒙主義の反面にある自然主義の延長としての裸体賛美。そこから体操の重視、日光浴、温泉(クイナプも出てくる)などがナショナリズム的に変化する様子が描かれている。続く第二章では、自然と身体の関わりから登山の文化が出てくる。ここで感想を挟むのもなんだが、この文化は東欧の社会主義運動と並走して日本にも影響を与えていたと思う。また、日本では「アルプスの少女ハイジ」として知られている『ハイジ』やトーマス・マンの『魔の山』もこうした大自然による治療・健康文化の延長にあり、宮﨑駿映画『風立ちぬ』もそれの延長にある。
 第三章では運動する肉体ということで舞踏が出てくる。ここでは私が若いころ学んでいたオイリュトミーも少し出てくる。第四章では裸体文化と思想の関連。菜食主義やエコロジーなどとの接点もある。第五章では主にそのドイツ的な展開を経て、第六章でまさに「ナチスと共存する裸体文化」が論じられる。
 ナチズムというと、日本ではイデオロギー重視で理念的に捉えられがちだが、こうして裸体文化の文脈においてみるとまた違った相貌が現れるし、むしろ現代日本人はナチズムをイデオロギー的に切断することでむしろナチズムに親和的な、健康志向の裏面に無自覚になってしまっている。
 本書はナチズム、とくにヒトラーが持っていたユダヤ人像をこう描く。「すなわち、『わが闘争』で描写されたユダヤ人とは、不潔、疾病、不健康、毒性のシンボルであると同時に、身体的な美とも乖離した存在である」と。ユダヤ人差別はポグログムの歴史を見ればわかるように、ナチズムに局限されない西欧全域にわたる問題だが、ナチズムのそれは、健康賛美や古代ギリシア像的な裸体賛美の裏面のシンボルとして現れた側面が強くあった。あるいは、そうした健康美思想によって、従来からある差別が正当化されてきてしまった。
 自然や健康、人間的な美というものの志向は、自動的にその反対物を生み出す。イデオロギーはあたかも教条的に機能するかに見えて、実際には私たちの感覚のなかで運動するものだろう。
 この本は、奇妙な歴史のトリビアをつなぎ合わせたようにも見えながら、実際のところ、そうしたものの継承者であり、さらに商業主義と結託した新しい裸体文化を生み出している現代人に、間接的な批評の意識を呼び覚ますものになっているだろう。

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2018.01.09

[書評] アイ・アム・レジェンド(リチャード・マシスン)

 昨年の晩秋ころだったろうか、まだ冬ではなかったと思うが、積読山が何かの偶然で崩れたおりに、『アイ・アム・レジェンド(リチャード・マシスン)』(参照)がぽろっと出てきた。読もうと思って購入したものの、随分長いこと積読状態になっていて、たまに思い出すときには見つからず、そのうちほとんど忘れてしまった。同タイトルの映画が出たときに購入したのか、パンデミック騒ぎのときか、改変ウイルスの医療利用関係だったか、何か関連する話題で買ったはずだが、その動機も思い出せない。文庫本の奥付を見ると2007年の11月出版。その12月の3版である。10年ほど前になる。当時は映画の関連で売れたのだろう。ところで、その映画については別途記事を起こすことにしたい。

 言うまでもないと言いたいところだが、本書はSFの古典中の古典と言ってもよく、SFファンならすでに既読ではあるだろう。そのあたり未読の自分を恥じるものがあったが、他方、私のような初読者には、本書の訳者によって記された巻末の、著者に関連する書誌的な解説と主要な映画化の経緯の説明が役立つ。
原作が書かれたのは1954年。本書が日本で最初に訳されたのは、1958年(余談だが私が生まれる前年)で、訳者は田中小実昌であった。そのおりの邦題は『吸血鬼』である。その後、1971年に『地球最後の男/人類SOS』と改題され、さらに1977年に『地球最後の男』となり、長くその書名で、日本で知られていたが、2007年、映画名に合わせて現在のものとなり、新訳となった。
 シチュエーションはシンプルと言えばシンプルである。人間を「吸血鬼」に変える感染症のパンデミックによって、「吸血鬼」は多数夜間跋扈するものの、健常な人類が死に絶えたかに見えるなか、主人公のネルヴィルがあたかもただ一人生き残り、彼らと戦いつつサバイバルを空しく試み続ける。なお、「吸血鬼」という呼称はない。むしろ描写はゾンビであり、本書がむしろ『ウォーキング・デッド』など現在に至るゾンビ作品ブームの原点になっている。
 物語はこうした状況での生存の空しさや意義への問いかけ、状況把握の努力、状況変化への対応などで展開していく。執筆時の1950年代の米国文化は背景にうかがえるが、それゆえにこの小説が古びるという印象はまるでない。
 さてこの本の読書なのだが、率直なところ、遅々として進まなかった。少し読んでは、中断した。読み終えるまでにけっこう日を要した。単純な話、面白いのかというと、個人的には微妙な印象もある。つまらないわけではないし、人にもよるのだろうが、物語が読者の興味をつかんでぐいぐいと引っ張っていくようには思えない。むしろこれはカミュ『ペスト』のような純文学なのだろうかという疑問もわいてくる。しかし、純文学っぽい仕立てというわけでもない。
 しいていうと、これもごく個人的な印象に過ぎないのだが、パズルを解いているような感触があった。いろいろと難問が関連して次々として発生する。一つ一つ謎は解けていくが、何か根本的な解法にいたらない。その間、読者が推測するこの物語の全貌のような印象がぼんやりと生まれては消えていく。なかでも大きな難問というかエピソードは、もう一人の健常な生存者かに見えるルーシーの登場だが、その扱いもすぐに入り組んだパズルであるよう感じられる。
 かくして結果というか、エンディングだが、ここでは当然スポイラーは記さないが、価値観の大逆転がある。見事といえば見事な仕上がりだった。このパズルをこう解くのかという微妙な解放感や主題の提示がある。しかし、優れたパズルが示す爽快感のようなものは私には少ない。ある種、バッドエンドということもあるが、この物語はやはりパズル性よりも、ある延々と続くヤスパース的限界状況の叙述性にこそこの作品の価値はあるからだろう。
 暗喩性は強い。私たちの少なからずは、学校や社会のなかで孤立する。あたかもゾンビに囲まれて、「ああいうふうに自分は生きることができない」という孤絶感のなかでサヴァイブしている。
 いろいろと読者に問いかけることの多い作品であることは確かで、一面ではそれは繰り返される映画化もある。読者が抱えている生の感触によってこの物語の暗喩の強さは変わるだろう。


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2018.01.08

年明けてニュースで感慨深く思ったこと

 まだ松の内、それは実に正月らしい目出度い話だなと思った。元宮崎県知事の東国原英夫氏(60)に男子が生まれたという話である。生まれたのは昨年10月とのこと。そして首がすわる3か月ほどは公にはしてなかったとのことだ。東さんは9月の生まれなので、60歳で子供を持つことになる。
 東さんには4人目の子供になるらしい。少子化日本に随分と貢献したようにも思うが、かく言う私も自著には書いたが4人子供がいる。私たちのような子沢山の姿が日本にもっと広まればいいようにも思うが、実際はむずかしいかもしれない。
 と、彼に関心深く思ったのは、私と彼の誕生日が一か月も離れていないせいもある。私も昨年の夏、60歳になった。が、これから新しく子供を持つとかは想像もつかない(生物学的に無理でもなさそうではあるが)。東さんは今回は子供をもつために不妊治療もしたそうだ。たいしたものだと率直に思う。
 それどころか、私の場合は、末子がようやく16歳になり、それが感慨深かった。これも自著にも書いたが、子供が生まれたおり、なんとか子供は15歳までは育てよう、そしてその姿を見ることができたら、と願ったものだった。難病を発したのが末子の生まれた頃だったので、とりわけ強くそう願った。その願いは叶い、自分の人生は幸せだったと感じられた。
 60歳で子供が生まれるとなると、その子が15歳になるころは、親は75歳である。後期高齢者になる。元気で活躍されている後期高齢者の人も多い。が、私はというと、父が62歳で死んだこともあって自分などは75歳なんていう歳まで生きていられる自信はまるでない。東さんはそういう心情はどうだろうかとも少し思った。しかし、そこも考えようで、子供は産んだ親が育てなければならないというものでもないだろう。彼には彼の家族を支援する人の輪もあるだろう。
 子離れしつつある私ですら、今からでも、もし何かの縁があって新生児を預かって育てる運命でもあれば、それを肯定的に受け止めてもいいんじゃないかとも考えている。まあ、実際はできるかなあとは悩むだろうけど、志向としてははっきりとある。
 話が飛ぶようだが、米ドラマ『スキャンダル』で、60歳は近いだろう、大統領首席補佐官のサイラスが同性愛の恋人(40代だろう)の要望で幼児(黒人)を養子にする話がある。ドラマとしてのごたごたは別として、60歳近い男性が同性愛者との家庭で養子に迎えるというのは、社会の方向としては好ましいものだとドラマを見ていた。もちろんそうした家庭では、これも米ドラマ『13の理由』のコートニーのように微妙な問題もあるだろう。しかし、問題のない家庭というものもないだろう。多様な家族は多様な問題を抱えるだろうが、それも自然なことだ。
 そんなことを考えつつ、ぼんやり夜7時のNHKニュースを見ていると、今日は成人式の地域が多いせいか、「東京23区の新成人 8人に1人が外国人」というニュースがあった。随分外国人の新成人が多いものだなと思ったが、地域的にはさらに多い。新宿区に限定すれば、新成人の外国人は45.7%とのことだ。
 現状、新成人の外国人比率が高いのは、ニュースでも言及していたが、留学生や技能実習生の増加があるようだ(はっきりはしてない)。この技能実習生にはいろいろと問題があるが、それでも新成人となる外国人が増えていくというのは長期的なトレンドとなるのではないか。これもまた、少子高齢化の一つの影響とも言えるが、日本がこれから多様な人々の社会になっていく兆しでもあるだろう。
 日本でも、人々の生き方、家族の持ち方はどんどんと多様化していく。日本はどうあるべきかという議論も盛んだが、現実はどんどんと変化していく。変化が形式化した議論を追い越していくようにも見える。
 自分もいよいろ老人になりつつある。どこまで生きていられるかわからない。でも、日本がどんどんと多様化し、家族の姿が人々の多様な連帯で支えられていく姿は、できるだけ見つめていたい。


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2018.01.07

Google Homeと、それと似たようなBluetoothスピーカー

 それほどハードルが高くない新技術はほいほい使ってみる人なので自分は、Google Homeも早々に設置していた。こんなスパイ装置みたいなのいやだなというのと、まあ、いいんじゃないのというの、曖昧な気分ではあった。
 使ってみてどうかというと、意外に便利。とても便利という感じだ。すでに、Google Home(Assistant)はこんなふうに使えますといった記事はネットにうんざりあるし私なぞが付け足すこともないのだけど、少し書いてみたい。
 まず何が便利かというと、これは私が老人になってしまったということかもしれないが、時刻を聞くのが好き。今何時ぃ?というあれだ。あー、違う。老人とかじゃなくて、以前からトーキング・ウォッチはよく使っていたのだった。音声で時刻を確認すること自体が好きなのだ。
 他に、天気や気温などもよく聞く。フランス語でなんて言うんだっけと思ったときも聞いてみる。計算もよくさせる。二桁の暗算とかは聞いてみることが多くなった。換算も便利。英語のレシピの華氏表示のオーブン温度なども摂氏でわかる。
 タイマーもよく使う。紅茶のスティープとか。なお、アラームとタイマーは別の機能らしいが、同じように使える。が、音色が異なる。アラームのほうが好きだ。翌朝の指定時間にアラームをセットすることもできる。で、なんのアラームかはわからない。どうするか。
 「覚えておいて」という機能があるので、アラームの理由を覚えさせておくといい。この「覚えておいて」機能の使い方のコツは、できるだけ、覚えさせないこと。つまり、できるだけさっさと実施してしまうかメモに書き写すかして、クリア状態にしておくといい。同じことは、ショッピングリストについても言える。いつか買おうみたいなのは、メモに移してショッピングリストから消しておく。当然だけど、ショッピングリストは他のメモにも使える。
 一度メモ機能が拡張できればいいなと思い、IFTTTというのとGoogleドキュメントでプログラムを組んだ。メモが時刻付きで表に記録できるようになった。ただ、実際はそれほどは使わなかった。
 音楽は便利に使っている。Google Play Musicとの連携なのだが、これは、有料オプションでなくても利用できる。コツはよく聴きそうな曲をショートカットにしておくこと。そしてショートカット名で呼び出せばいい。音楽を流している最中に、時間とかきいても答えてくれる。答え終わると、音楽に戻る。
 ラジオが使えるのもけっこう便利だ。もともとラジオ好きなので、聞きたいときにクリアな音声でラジオが聞けるのは嬉しい。Radiko対応になっている。
 そのままBluetoothスピーカーにもなる。すでにSIMを外した古いアンドロ機があるので、これをGoogle Home専用のコントローラーにしている。これでアマゾン・ミュージックとか制御して、Google Homeでアマゾンにある曲が聞ける。Audibleなども聞けるようになる。専用のアンドロ機があると便利なものだ。音量制御も音声指定で簡単だし。
 YouTubeなどもテレビスクリーンも制御できて便利だが、Netflixとかには使っていない。
 まあこんな感じで便利なんだけど、Google Homeはリビングに置いてあるので、というか専用の入れ物で吊るしてある。が、お風呂とかでは使えない。すでにお風呂用に壺型のBluetoothスピーカーはあるのだけど、似たような吊るしがあるといいかと思い、防水のTronsmart Bluetooth4.2というのを買った。2000円ちょっとというお値段。大丈夫かなと不安だったが大丈夫。使ってみてわかったのだけど、4.2はかなりいい。先のアンドロ機で制御する。かなり飛ぶし、音も良さげ。というか、この小さいGoogle Home Miniなみのサイズでけっこう音がでる。そういえば、Google Home Miniもけっこう音がいい。それと電池のもちがいい。尻尾がないのもよい。とま、まるでアフィリエイトの宣伝だが(実際そうでもあるが)、これも結果的によい買い物でした。


 
 

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